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ラフマニノフが好き♪

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詳細 2024年7月15日 20:10更新

音楽コミュ
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ラフマニノフがお好きな人。
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私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうといったことについて、意識的な努力をしたことはありません。
私はただ、自分の中で聴こえている音楽を出来る限り自然に、紙の上に書きつけるだけです。
   /ラフマニノフ(1941年の『The Etude』誌インタビュー)


セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
Сергей Васильевич Рахманинов
Sergei Vasil'evich Rachmaninov(ラテン文字転換例)

セルゲイの母方の祖父は著名な軍人で、父親も貴族です。
父親は音楽の素養のある人物でしたが、経営の資質には欠けていたようで、受け継いだ領地を維持できず、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたようです。

生まれ育ったノヴゴロド州(ロシア)の豊かで情緒ある自然と没落していく家庭、多感な子供時代を過ごしたことが、セルゲイの音楽には影響を与えたと思うのは私だけではないでしょう。

4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けたようです。

9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去ります。

セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができましたが、彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12才の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥ります。
悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになります。

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込みます。
ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特にセルゲイはピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられます。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学びます!!
後にジロティにもピアノを学んだそうです。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いています。
ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたため、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになります。
それでもズヴェーレフとの出会いや母親の指導がなければセルゲイの開花はなかったのかもしれません。

1891年にモスクワ音楽院ピアノ科を卒業すると同時にピアノ協奏曲第1番を完成させ、1892年には同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、同年モスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演。熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になります。1893年にチャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲します。

その後、交響曲第1番を完成させ、アレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されますが、これが記録的な大失敗に終わり、この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることがありませんでした。
失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されていますが、とにかくこの失敗でラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥ります。

彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」(後に作品21の1として出版)を披露した。しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになります。

再び「彼を心配する周囲の人たち」の紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリが、セルゲイの救世主となります(ダーリはアマチュアのヴィオラ奏者でもありました)。ダーリの「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法によってラフマニノフは徐々に自信を取り戻し、1900年から翌年にかけて「2台のピアノのための組曲第2番」と「ピアノ協奏曲第2番」という二つの大作を完成させたます。
1909年春にはスイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲しています。

この間(1902)に従妹のナターリヤ・サーチナと結婚します。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要でしたが、伯母の奔走により無事許可を得ることができました。

1917年、ラフマニノフは十月革命が成就してボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、そのまま二度とロシアの地を踏むことはなありませんでした。

セルゲイがチャイコフスキーを熱烈に崇拝していたことはよく知られています。チャイコフスキーから『アレコ』や幻想曲『岩』作品7を称賛されたことを生涯誇りとしていました。

当時のロシアを代表するピアニストで作曲家だったメトネルとも、親しい間柄でした。ラフマニノフはピアノ協奏曲第4番をメトネルに、メトネルも自身のピアノ協奏曲第2番をラフマニノフに、それぞれ献呈しています。セルゲイはメトネルのおとぎ話ホ短調作品14の2「騎士の行進」を「奇跡」と評しています。

第二次世界大戦中の1943年、癌のため、ビバリーヒルズの自宅で69才で死去します。

作品番号で45作品が残されていますが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれていて、調性としては短調が非常に多く、特にニ短調を好んで用いました。
全ての作品はイギリスの楽譜出版社、ブージー・アンド・ホークスが版権を持っています。

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2010年9月7日

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カテゴリ
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