ジョコンダ・デ・ヴィート(Gioconda de Vito、1907年6月22日 - 1994年10月14日)はイタリアのヴァイオリニストである。
1907年に北イタリアのマルティーナ・フランカに、中流の葡萄園主の娘として生まれ、1914年から地回り楽団のマスターについてヴァイオリンを学び、数年後には近くのペサロ音楽院でレミー・プリンチペに師事したが、2年間であらゆる賞を総なめにしたため、中途でパリ音楽院に移る。1921年、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番の第1楽章を弾いて同院を卒業、1921年に16歳でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾いてデビューしたが、演奏活動を本格化せず、パリ音楽院に留学して更なる研鑽を積んだ。同年、パリ音楽院のヴァイオリン科助手となるも、まもなく辞任。1932年にウィーン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝したが(25歳)、その後も余り演奏会には出演しなかった。1934年ローマ聖チェチーリア音楽院のヴァイオリン科教授に就任して後進の指導に当たり、1942年に35歳でブラームスのヴァイオリン協奏曲でローマにデビュー(同曲には11年間もの研鑽を積んだという)、一躍イタリアヴァイオリン界の女王として楽壇の寵児となり、1944年37歳にして聖チェチーリア音楽院のヴァイオリン科終身教授に任命された。1946年訪英してEMIの重役であるビックネルと知り合ったことが契機となり、1948年から同社で録音を始め、1951年にビックネルと結婚する。1962年4月に突然楽界から引退し、その後は二度と楽器を手にすることはなかったという[1]。引退後はイギリスのハートフォードシャーで生活したが、1994年10月にローマで死去した[2]。
愛器 [編集]
1953年以前はガリアーノの「エックス・カルマン・ロネイ」(1762年作)を使用し[3]、それ以後はクレモナ産の名器「トスカーナ」(1690年、ストラディヴァリ作)を使用、これで演奏されたフィッシャーとのブラームスの第1番と第3番のソナタは同曲録音中の圧巻と称され[4]、また、1957年4月にヴァチカンの謁見室でピオ12世の前でメンデルスゾーンの協奏曲を演奏した折も、この名器を弾いたと推測されている。ちなみに「トスカーナ」はメディチ家のトスカーナ大公コージモ3世のために作られたもので、同家廃絶後、競売にかけられ幾度か転売され、ムッソリーニがデ・ヴィートのために購買しようとする計画もあったが実現せず、第二次世界大戦後、イタリア政府が聖チェチーリア音楽院のために12,000ポンドで購入して同院へ貸与したため、終身教授であるデ・ヴィートが使用するものともなった[5]。
芸風 [編集]
バロックから近代までが演奏範囲であるが、しかもごく一部の曲に限られ、中でもバッハとブラームスを最も得意としたらしく、1931年にパリへ遊学中、トスカニーニの前でバッハを弾いて絶賛されたといい、後者では上述のように一夜にして名声を確立させた協奏曲やソナタがあり、彼女の代表的な演奏ともなっている。大らかにして力強く、伸びやかであるが、パリ音楽院派の洗礼を浴びたためか、イタリアの演奏家にしては珍しく内省的で精緻なものでもあるという。[2]。
困ったときには