ヴァシリ・ザイツェフ(1915年3月23日 - 1991年12月15日)
映画「スターリングラード」でも描かれた
ソビエト連邦の英雄、狙撃兵。
1942年9月から1943年1月に目を負傷するまで
スターリングラード攻防戦で活躍した。
257人の敵兵を殺害しヴォルゴグラード名誉市民などの称号を受章。
モシン・ナガンM1891/30 ボルトアクションライフルを使用。
以下Wikipediaより引用
チェリャビンスク州エリノ町(現アガポフスキー地区)出身。ロシア人。もともとはウラル山脈の狩猟の名手であった。 マグニトゴルスクの建築専門学校を卒業。1936年から海軍に入隊し、軍事経済学校を卒業。第二次世界大戦当初は、ロシア太平洋艦隊の会計班長だった。
1942年9月から第1047狙撃連隊に配属され、スターリングラード攻防戦に参加した。彼は1942年11月10日から12月17日までの間に225人のドイツ軍将兵を倒している。この中には中尉を含んだ11人の狙撃兵も含まれる。彼は11月10日以前にも、特別仕様でないモシン・ナガン・ライフルで32人のドイツ兵を倒した。
彼の評判は口伝えに全ソビエト軍に広まっていった。これによって不十分な装備しか与えられず、疲れ切って、空腹に苦しむ前線の兵士達は勇気付けられたのである[1]。彼以外にこのような最高の記録を残しえたのは12月20日までに224人のドイツ兵を倒したザイカンのみであった。ザイツェフは教官として28人の狙撃手を育て上げ、結果として3,000人以上の敵兵が戦場の露と消えたと考えられている。
1943年1月彼は目を負傷したがフィラトフ教授の治療によって視力を回復することが出来た。その後前線に復帰し、大尉に昇進しドニエプル川近郊で終戦を迎えた。戦時中、狙撃手のための教範2冊を執筆しており、それによれば、彼の狙撃手法は2人1組のペア3組で同一地帯をカバーする6人組(シェスチョールカ、шестерка)であったことが示されている。
戦後はキエフの工場の管理職を歴任した。1991年12月15日死去。彼は生前ヴォルゴグラードに埋葬されることを希望していたが、キエフに埋葬された。
2006年1月31日、ザイツェフの遺骸はヴォルゴグラードのママエフ墓地に改葬された。
困ったときには