天保6年(1835年)もしくは天保7年(1836年) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。名を義比、号は「隈山」。
武市半平太の右腕的な存在で活躍する。
土佐勤王党に参加し、自ら京で土佐勤王党加盟者を増やす働きをする。
武市半平太が勤王運動のために藩主を京都に上洛させた文久2年(1862年)には、共に京に入り、他藩応接役を任命される。
京での土佐勤王党の暗殺(天誅)にも関わっている。
勅使が江戸を出発する直前に山内容堂から、「関東と京師の情勢、山内容堂の苦心ぶりを土佐の役人に徹底させ、人材抜擢を行え」と間崎哲馬、弘瀬健太に重大任務を与えられる。また、「土佐へ行く途中、京に立ちよって、青蓮院宮や公卿に会って関東でのことを知らせておけ」とも命令されるが、その使命を超え、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太は勤王運動を行う藩政改革を計画し、青蓮院宮に令旨を請い、藩政改革を迫った。
その後、山内容堂は、土佐勤王党の行動の過激さを考慮し、「他藩士との政治交渉は分際をわきまえ、できすぎた行動をするな」という命令を出したが、命令に背き、長州藩主導の志士の会合や姉小路卿や関白鷹司に会っていることが、山内容堂に知れ、怒りをかい、他藩応接役を退けらる。
帰国命令が出たために、土佐へと帰国した後、しばらくして出頭命令がだされ入牢となった。武市半平太は必死に平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の忠義を山内容堂に言上したが、
「京都に於て御令旨等拝戴致候仕業、上下を欺き奉り不届至極之儀、御隠居様委細青蓮院様よりご直聴遊ばれ候」(保古飛呂比)
という判決文により、平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太と共に切腹。土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となった。
「隈山春秋」と「帰南日記」を著す。「隈山春秋」は、薩長だけではなく、当時、どのような人々と会ったか、朝廷ではどのような議論が起こっているのか、など多くの事柄が書きとめられており、重要な文献となっている。
妹の加尾は坂本龍馬の初恋の人であることが有名。