ルネサンスの鬼才ジョルダーノ・ブルーノを中心に、ルネサンス文化やイタリア哲学などについて意見交換をしたいと思います。
生涯と著作
ジョルダーノ・ブルーノは、一五四八年に南イタリア、ナポリの近郊の村ノラに生まれた 。ノラ、そしてナポリで教育を受けた後に、一五六五年にドメニコ会に入会し、ナポリの聖ドメニコ・マジョーレ教会の修道僧となった。しかし、当時禁書となっていたエラスムスの書籍を所持していることを発見されたり、三位一体論などキリスト教の根本教義に関する懐疑的な言葉を聞きとがめられるなどして、異端の疑いを受けることになった。ついに、一五七六年にナポリを逃亡。イタリア各地を放浪した後に、一五七九年にスイスのジュネーブに到着。当地を支配するカルヴァン派に一時接近するが、結局彼らと対立し、裁判沙汰になった挙句、再び逃亡生活に入った。その後展開されるブルーノのキリスト教批判はとりわけカルヴィニズムに向けられている。同年、フランス西南部のトゥールーズに着き、二年間哲学講師としてアリストテレスの講義を行った。ブルーノは、生涯を通じてアリストテレス哲学に対して批判的であり、ときにはそれを痛烈に揶揄したが、彼のアリストテレスに関する知識はけっして生半可なものではなかった。
トゥールーズでの平穏な時期は、内戦によって閉じられ、一五八一年にブルーノはパリへと移動した。パリで、ブルーノは、記憶術の達人として国王アンリ三世の知遇を得た。ここに言う記憶術とは、単なる記憶を助ける術ではない。イェイツが示したように、古代ギリシャ以来西洋に伝わっていた記憶術は、その伝承の過程でルネサンスにおいて魔術論と混交した。それをある意味で完成させたのがブルーノである。ブルーノの記憶術は、自然の世界の諸原理と人間の世界の諸原理とを図像化し、それらを体系的に配置する百科全書的な知であった。記憶術の達人は、これらの図像が織りなす一種の曼荼羅を記憶することによって、宇宙から特別な力を引き出そうとしたのである。ブルーノは、パリにて、『イデアの影』のような記憶術の諸著作を刊行している。パリにて刊行されたもうひとつの注目すべき著作は、『カンデライオ』である。この著作は、ナポリの下町を舞台にした喜劇であるが、そこには衒学者批判や運命の有為転変を強調する思想のように彼の哲学的著作にその後現れることになるテーマがすでに見出される。しかし、『カンデライオ』の重要性は、その中に散見される哲学的な言葉にのみ求められるべきではない。一六世紀を代表するイタリア語喜劇と評価されているこの著作は、きわめて豊かなポリフォニックな言語表現に満ちている。この言語は、ブルーノの哲学的な著作、とりわけイギリスにて書かれたイタリア語著作の内部にも持ち込まれ、それらを肉づけている。後に示すことになる、無限と多様性の重視するブルーノの哲学は、喜劇の豊穣な文体という格好の器を見出したのである。喜劇と哲学とがこれほどまでに融合した例は、哲学の歴史において他には見出されないだろう。
一五八三年、ブルーノは、アンリ三世の紹介状を持ってロンドンのフランス駐英大使ミシェル・ド・カステルノーのもとに赴いた。おそらく、フランスにおける新教と旧教との宗教的・政治的対立の劇化の中で、ブルーノは出立を余儀なくされたと考えられる。イギリスでは、オックスフォード大学に赴き、当地の学者たちとコペルニクスの理論を巡って激越な論争を行った。この論争は、その直後に、イタリア語著作『聖灰日の晩餐』において辛辣な口調で描写され、それがコペルニクス説の擁護者という、後世のブルーノ理解につながることになる。ロンドンに戻ってからは、イタリア語の諸著作の執筆に専心した。一五八五年、ロンドンを去り、パリを経て、ドイツへ向かった。ルターと縁が深いウィッテンベルク、ルドルフ二世のプラハ、ヘルムシュタットやフランクフルトなどを歴訪した。とりわけヴィッテンベルクにおいて、ルター派の人々に一時的に厚遇されたが、カルヴァン派がこの地で勢力を伸ばしたために、出立を余儀なくされた。一五九一年、ドイツとスイスでの放浪を終えて、イタリアに帰国し、ヴェネチアの貴族モチェニーゴ邸に彼の記憶術の教師として滞留するが、一五九二年、モチェニーゴに異端者として告発され、入獄。翌年ローマに移送され、異端審判を受け、一六〇〇年ついに処刑された。
ブルーノの人生は、初期の比較的平和な学びの時期と最後の陰惨な投獄生活を除いて、ほとんど放浪に明け暮れたといっても過言ではない。彼の思想は、キリスト教さえをも批判する、当時としてはまれに見るラジカルなものであった。それだけならまだしも、彼の筆は、時代の矛盾を告発し、嘲笑する、喜劇作家の筆致を誇っていた。結果として、彼は迫害を逃れて、イタリアからスイス、フランス、イギリス、ドイツとヨーロッパ世界を転々とした。カルヴァン主義の拠点であるジュネーブ、アンリ三世のパリ、エリザベス朝のロンドン、ルドルフのプラハ、ルター派の牙城ウィッテンベルク、これらの土地すべてに彼は足跡を残し、彼の思想の種を蒔き、一部の信奉者とおそらくそれ以上に多くの敵を作った。一六〇〇年に異端者として火刑に処せられて後、彼の思想が再評価されるのに、じつに二〇〇年あまりの歳月を要したのである。
彼の著作はイタリア語とラテン語で書かれている。イタリア語著作としては、一五八二年にフランスにて刊行された喜劇『カンデライオ』、そして一五八三年から八五年にかけてイギリスで書かれた一連の哲学的著作、『聖灰日の晩餐』、『原因・原理・一者について』、『無限・宇宙・諸世界について』、『驕れる野獣の追放』、『天馬のカバラ』、『英雄的狂気』が存在する。当時ロンドンにおいてはエリザベス女王の宮廷を中心に文化が興隆していた。そこには、フィリップ・シドニーのようなイタリア語に通じた文人が多くおり、ブルーノは彼らの間でイタリア語の文才を開花させることができたのである 。イギリスを出立した後には、ブルーノは二度とイタリア語の作品を刊行することがなかった。ブルーノのラテン語著作は、彼の執筆活動の全時期において書かれた。フランス時代に刊行された『イデアの影』、イギリス滞在中に刊行された『キルケの歌』といった記憶術に関する初期の著作から、宇宙に関する壮大な哲学詩の三部作『三つの最小者について』、『モナド、数、形姿について』、『測られざるもの、無窮なるもの、形姿なきもの』といったドイツ時代の著作に至るまで、多様なテーマに関する多くの著作がラテン語で執筆されている。ラテン語著作に関する信頼すべき校訂版や翻訳は数少なく、ラテン語著作の解明は、二一世紀のブルーノ研究の大きな課題である。
なお、画像はウィキメディア・コモンズからのものです。
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