板垣 信方の個人が無かったので作りました。
自由にやって下さい。
★最高指揮官「職」で活躍。
武田信虎、武田信玄の2代に仕える。
別名を信形。
受領名は駿河守。
武田二十四将、武田四天王の一人。
板垣氏は本姓源氏で、甲斐源氏宗家の武田氏の祖の源信義(武田信義)の三男の板垣兼信にはじまる。
板垣信方は勇将の誉れ高い武田氏の宿将として信虎の代から活躍、傅役として若き信玄の行状を度々諌め、後年に甲斐の虎と呼ばれる信玄の基礎を作った。
天文10年(1541年)の信虎追放後は甘利虎泰とともに両職として武田軍の指揮を取り、信玄が出陣できない時は名代として軍団の総指揮を執るなど信濃国制圧に尽力した。
天文14年(1545年)には高遠城を攻略、天文15年(1546年)10月には笛吹峠で上杉憲政の軍を破るなど、軍略家としての名に恥じぬ戦巧者ぶりを見せるが、同時にこの頃から増長気味の行いが目に付くようになった。
戦勝の折に信玄の許可なく勝鬨式や首実検等を行うようになり、信玄からやんわりと『誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ穴や、人の世の中』と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになり、また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)には村上氏との戦いであわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。
天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦いで、緒戦の勝利に気を緩めたか、勝鬨をあげ首実検をしている最中に体勢を立て直した村上軍に急襲され戦死する。
息子が関ヶ原の戦いに際し、山内一豊家臣の乾彦作に陣狩りをし、その後彼の養子となったため直系に当たる板垣退助は子孫と称する。
☆徳川十六将
榊原康政http://
酒井忠次http://
井伊直政http://
本多忠勝http://
松平家忠http://
大久保忠世http://
平岩親吉http://
松平信一http://
大久保忠佐http://
内藤正成http://
高木清秀http://
渡辺守綱http://
服部正成http://
米津藤蔵http://
蜂屋貞次http://
鳥居元忠http://
☆武田二十四将(山本勘助、山県昌景 以外)
馬場信春http://
飯富 虎昌http://
高坂 昌信http://
武田信繁http://
武田 信廉http://
穴山 信君http://
甘利 虎泰http://
横田高松http://
原 虎胤http://
内藤 昌豊http://
土屋昌次http://
真田 信綱http://
小幡虎盛http://
秋山信友http://
真田幸隆http://
三枝守友http://
原昌胤http://
小幡昌盛http://
一条信龍http://
多田満頼http://
小山田信茂http://
☆上杉家臣団(村上義清、柿崎景家、直江兼続 以外)
直江景綱http://
色部勝長http://
小島弥太郎http://
斉藤朝信http://
本庄実乃http://
安田長秀http://
河田長親http://
山吉豊守http://
上条政繁http://
千坂景親http://
安田景元http://
安田顕元http://
長尾政景http://
本庄繁長http://
上杉景信http://
新発田長敦http://
甘粕景持http://
中条藤資http://
北条高広http://
大熊朝秀http://
高梨政頼http://
宇佐美定満http://
竹俣慶綱http://
水原親憲http://
松本景繁http://
☆その他の武将
木村重成http://
佐竹義重http://
可児才蔵http://
伊達成実http://
朝倉宗滴http://
大原雪斎http://
佐久間盛政http://
本多正信http://
三浦義意http://
長野氏http://
毛受氏http://
武田勝頼http://
仁科盛信http://
崇伝http://
石川数正http://
角隅石宗http://
上井覚兼http://
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北条早雲http://
ムカデの旗印
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懸り乱れ龍の旗印
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