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フランス好きですが、なにか?コミュのフランスの文献翻訳ーー『ルモンド』『ルモンド・ディプロ』の記事を中心に

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フランス関係の文献の翻訳はこれまでさまざまな関係トピに配置してきましたが、原則としてこちらに置くようにしたいと思います。

あとで、読みやすいようにするためです。

「ハーグ条約」の再録から始めますので、ご了解ください。

コメント(98)


(「極右政党、国民戦線にみるアクロバット的教義」は、『ルモンド・ディプロマティック』2012年5月号の記事の翻訳です。なお『ルモンド・ディプロマティック』日本語版(電子版)は、現在残念ながら休止しています。
aquarius さん、こんにちはー
コメントをありがとうございます。

このトピックはぜんぜんコメントがこないので、そろそろやめようかと思っていたところでした。
また、なにかとちゃちゃをいれてくださいな。

なお、日本語版の《ルモンド・ディプロマティック》は近々陣容を改めて再開するそうなので、そちらもご覧ください。

http://www.diplo.jp/
aquarius さん、おはようございます。

はげましのお言葉、ありがとうございます。
はげましの言葉をいただくと、コロッと元気になる方です(笑)。

それでは、気合を入れて頑張るようにいたしましょう。

>(つらい)留学経験

これぞ、立派なコメント。そうです。留学はツライものです。ぼくもそうだった(よいところもあったが)。
よく、「フランスよかったー」などと、それだけ言う方がいらっしゃいますが、あれは自己欺瞞が過ぎるか、あるいはトゥーリスト的にしか現実を見ていないんだと思いますね。


>両国の植民地政策の違いで現在の世界が出来上がってると私は信じるのです。

大変立派な現状認識。大拍手。
そうです。その線にそって、フランスの世界認識をご紹介するようにいたしましょう。

では。
極右政党、国民戦線にみるアクロバット的教義ーーその4


ミケアの『アダム・スミスの袋小路』を読んで、なにゆえ左派が自らの政治理念を裏切り、「庶民や労働者の支援から、いつの間にか社会的落伍者や不法滞在者の支援に回ってしまった」のか、腑に落ちたというのだ。

 ル・ペン氏はここぞとばかり、およそ極右のリーダーらしからぬ賛辞を敵陣営へおくる。彼女がもちあげたのは、古き良き時代の左派である。「左翼はその発祥以来、常に壮大な自由への解放闘争を牽引してきた。彼らの政治活動の原点は、“理性”の名において“神の啓示”と闘うことであった。啓蒙思想家たち、百科全書派は、教会と卑劣な迷信が人々の良心の自由を抑圧しているとして糾弾したのである」。

極右機関誌『リヴァロル』『ミニュット』『プレザン』――3誌とも、すでに彼女を快く思っていない――も、この点ば評価するだろう。

 移民問題の告発は、彼女の「グローバル化」批判の要である。この問題についても女史は、社会の場を利用して抜かりなく持論を展開するようにしている。彼女は「他国労働者との競争」が「わが国の賃金労働者を悲惨な境遇に追いやっている」ことを強調する。そして「ホーム・ショアリング[在宅ワーク]」問題にも言及し、人件費競争が「“現代の奴隷”というおぞましいしい姿」を生むという主張を振りかざす。

(続く)
極右政党、国民戦線にみるアクロバット的教義ーーその5

そこで彼女は、またもちゃっかりと左翼側の発言を拝借する。1957年1月19日のピエール・マンデス・フランス元首相の言葉を引っ張りだすのだ。その言葉とは、わが国は「とりわけ経済情勢によって必要とされる場合には、移民の流入を規制し、外的要因による失業や生活水準低下のリスクから身を守る」権利を保持する、というものである。

 彼女はさらに、1981年1月6日にフランス共産党書記長のジョルジュ・マルシェがパリの大モスク院長に宛てた書簡を援用する。マルシェはその中で「移民の流入を阻止しなければ、若い労働者が失業に追いやられる」理由を説明し、「社会的緊張」と「ゲットー」化現象が起こることを示唆している。

だが、左翼党幹部のアレクシス・コルビエールが指摘するとおり、彼女はマルシェのもうひとつの言葉を引用することは都合よく忘れている。マルシェは「私たちの導きの星は、移民と利益を共有し、彼らと連帯することです。憎しみや断絶とは真逆のものであります」と、補っているのだ。

(続く)
極右政党、国民戦線にみるアクロバット的教義ーーその6


自由貿易批判と移民攻撃を合わせたル・ペン女史の「グローバル化」批判は、国民戦線の要石となっている。彼女は「唯一、真のエコロジーにかなう」政策であるとして、「産業再建政策および経済活動の地域再配置政策」に訴え、保護貿易を擁護し、ユーロ離脱を唱える。こうした戦略は、社会的余波の大きい問題からテーマを拝借して国民戦線の政策決定に利用するというものだ。この戦略は一貫しているので、よくよく練られたものであるはずだ。

彼女の著書には「もはや左派と右派の間に溝はない、などと言う気は毛頭ない」とある。しかしながら、治安悪化と移民問題に対する彼女の姿勢は依然として、あくまでも極右に立脚している。そうはいっても、彼女の綱領は、父親であるジャン=マリー・ル・ペン氏の5年前の綱領との間にはいささかの緩和が行われているのだが。

 移民問題における彼女の方針は、相変わらず徹底したものである。このことは、特に「5年後に、合法的な移民の年20万人から年1万人への縮小」、さらには「国籍の出生地主義の廃止」といった持論に顕著である。ジャン=マリー・ル・ペン氏が重視した「国民第一主義」が「国民優先主義」に座を譲ったのだ。

2007年の大統領選に出馬した彼女の父は「諸々の生活保護と家族手当をフランス国民にのみ交付する」ことを提案した。今回、娘は、企業は「能力が等しい場合、フランス国籍保有者のほう」を採用すべきと考えている。同じ論理が公共住宅にも適用される。家族手当については「少なくとも片親がフランス人かヨーロッパ人である世帯に交付する」という。
極右政党、国民戦線にみるアクロバット的教義ーーその7


●教師の囲い込み

 この父娘の違いがもっとも顕著なのは、経済政策である。国民戦線の創設者である父ル・ペン氏は、米国のロナルド・レーガン大統領(任期は1981-89)(注1)への傾倒を隠さなかった。元プジャード党(注2)代議士であるル・ペン氏は、自由経済の庇護者たることを自認し、絶えず「国家による経済統制」と「課税」に反対した。。

2012年になって娘のマリーヌが推奨するのは「金融業界と投機マネーをコントロールできる強いフランス」である。彼女は「危機的状況にある一部貯蓄銀行の暫定的な国有化」の検討をも辞さない。父親が高所得者の課税率を最大20%に引き下げることを提唱したのに対し、彼女は46%に引き上げるという。


 ジャン=マリー・ル・ペン氏のときは「一律65歳からの年金支給」に賛成だった。しかしマリーヌは、年金支給年齢の「段階的な60歳への引き下げ」を公約に掲げる。そして「なるべく早急に支払い期間を原則40年に定めることを目ざし、満額受給を可能にする」とも述べている。


 国民戦線幹部らはこうした方針転換について、世の中の変化に対応するものであると正当化している。マリーヌ・ル・ペンの言葉には、第二次世界大戦後に高度成長を遂げた、いわゆる“栄光の30年”へのある種のノスタルジーが滲んでいる。

「当時のフランスの混合経済、大資本の介入を許さないその国力、手厚い福祉法に最低賃金、“値の張る”公共事業、採算度外視の教育機関と公共機関、“至れり尽せり”の医療機関、一括独占のガス・電気・交通機関・郵政事業。これらは、新自由主義経済の描く理想とはまったく別のものなのだ」。彼女は「国策としての計画経済」を復活させると断言し、ド・ゴール将軍がモットーとした「猛烈な義務感」をよすがとする。


1,新自由主義の最初の提唱者
2,フランスの中小企業主などを結集した右派政党

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の三つの闘いーーその1

アウグスタ・コンチリア 2012年6月号



1951年以来、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は世界各地に展開し、地道に無数の難民、無国籍者や国内難民といった戦争や天災の被害者の救援活動を行っている。

最近では、リビア内戦やアフリカの角地帯(エリトリア、ジブチ、ソマリア)での政治的緊張による多くの難民達に対して救援活動を行った。UNHCRはこのような緊急援助策だけではなく、中長期的な解決策を模索しているが、先進国は難民達に無関心であるため進展しないのが現状だ。


世界には5,000万人の故郷喪失者がいる。この数字は政治的理由もしくは自然災害が原因で住処を捨てざるを得なかった人々の数で、地球上にいかに緊張が広がっているかを示すものである。

2011年には、3,500万人以上がUNHCR(難民高等弁務官事務所)の援助を受けた。その中でとりわけ目立つのは難民の約1,040万人で、うち700万人以上が解決の見通しのないまま長期の国外避難を強いられている。国内避難者については、2011年に、25ヶ国1,470万人がUNHCRの援助を受けた。最後に、避難を申請した人の数だが、これは837,500人だった。

1950年12月14日に設立されたUNHCRの最初の任務、つまり難民の保護と援助は、今日ではなお一層重要になってきている。というのは、避難者の8割が開発途上国で発生し、彼らに必要な支援を提供できなくなっているからだ。第二次世界大戦直後は、UNHCRは特にヨーロッパで活動し、当事者である欧州の工業諸国から支援を受けていた。

UNHCR予算の大部分をまかなっているのは諸国からの毎年の寄付であり、それはUNHCRの要請に応える形で行なわれてきたが、その要請は年々強まり、数字で綿密に要求されるようになった。1951年に30万ドルだった年間予算は、2011年に18億ドルにまで推移した。18億ドルが過去60年間の最高額であっても、増大する要求に応えるにはこれでもまだ不十分なのだ。

(続く)

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の三つの闘いーーその2


UNHCRは、経済的要因と環境的要因の入り混じった「複合難民」の問題にもいっそう現実的に対応しなければならなくなった。

しかし、環境的要因による難民の認定基準に関しては、最高に柔軟な定義が行われている。「可能であれば、協力します」とUNHCRフランス代表フィリップ・ルクレール氏は説明する、「われわれはパキスタン地震やフィリピン洪水のあと援助に駆けつけましたが、この二つのケースに共通しているのは、過去に難民を受け入れてくれた国々とへの恩返しということです」


1992年に、国連は「クラスター」(「連結した」の意)と呼ばれる手段を思いつき、「機関間常設委員会」(IASC)を設立した。この委員会によって、いくつものUNHCR事務所が共同で活動できるようになった。たとえば、人導問題調整部(OCHA)の監督のもと、UNHCR事務所から非政府組織(NGO)へ呼びかけができるようになった。2011年にUNHCRがこの枠組みで開始したのが、難民への21の援助活動だった。その中でも最も重要な活動が、コンゴ共和国(RDC)、ソマリア、イエメンで実践された。


1994年のルワンダを繰り返さない

現地に6,500名の常駐職員を擁するUNHCRがやるべきことは、ただ目先の事態に対処するのみならず、長期的解決方法を見出ださねばならないことだ。UNHCRは、たとえばパキスタンとイランに在留している270万人のアフガニスタン人の援助を行なっているが、そこは30年以上にわたって大規模な紛争が繰り返されている。

しかし2012年になって、世界の注目を集めているのはサヘルだ。5月初旬、マリでは13万人が国内で難民となり、14万人がモーリタニア、ブルキナファソ、ニジェールに分散して国外難民(注4)となった。自らも貧しい国々が、悲嘆にくれる隣国人たちを「寛大にも迎え入れ」たのだと、UNHCRでは力説する。


(4) Philippe Leymarie, 《Comment le Sahel est devenu une poudrière》, Le Monde diplomatique, avril 2012.
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の三つの闘いーーその3


スーダンと南スーダンに分裂した2国間の緊張、そしてスーダン南部のコルドファン州とブルー・ナイル州から南スーダンに押し寄せた10万人の難民の身柄についても、UNHCRは忙殺されている。スーダン在住の南スーダン人の居住調査をおこない、ことに新たに独立国となった南スーダンに帰ることを望む10万7000人についての身元確認がその任務である。また、エチオピアは、すでに流入したソマリア人で溢れているが、スーダン発の新たな難民3万2.000人も受け入れている。

 2011年には、人道上の惨事が続発した。

コートジヴォワールでは大統領選挙の結果を巡って混乱が生じた(リベリアおよびガーナへ流出した難民20万人、コートジヴォワール国内の避難民50万人)。

また、リビアの内戦では多くの人々が路上に放り出された。彼らの大多数は外国人労働者であり、1994年のルワンダの虐殺以降最大となる120万人の難民流出を引き起こすこととなった。2011年9月21日以降、UNHCRは直ちに、アフリカ人労働者約74万人の本国帰還に必要な物資を集めるプロジェクトに着手した。壮大なプロジェクトは、国際移住機関(IOM)と移民送り出し国の協力によって実現した。たとえば、チュニジアおよびエジプトに逃れた13万3千人を超えるリビア人のために難民受け入れ地域が設けられた。

また、故国への帰還が不可能なサブサハラ・アフリカ人(特にソマリア人やエリトリア人)数十億人についても同様である。UNHCRは、彼ら難民のため「包括的再定住のための連携」イニシアティヴをとった。海を越えてヨーロッパにたどり着こうとしたリビア難民はたった2万人であり、――120万人というリビアを後にした人の総数からすれば――この数はごく一部なのである。


●ソマリア人集団避難の異常事態

 一方、「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ大陸東端部の国々は、2011年に約25万人のソマリア難民を受け入れた。彼らの流入は、飢饉、あるいは2004年12月の津波といった自然災害で既に苦しんでいた地域にきわめて深刻な人道危機をもたらしてしまった。約30年にわたり、ソマリアは武装民兵が先導する内戦により荒廃状態にある。彼らは2000年代にイスラム勢力シャバブと合流。この内紛は、隣国のエチオピア軍の介入と国連平和維持部隊の関与によって国際問題的な様相を呈している。

さらには、シャバブはケニアでもテロ行為に及んでおり、それに対し、2011年10月16日にナイロビからシャバブ制圧のためのケニア軍がソマリア領内に送り込まれた。これはケニア軍創設以来初めてのことである。

数ヶ月間にわたって、 何週間も歩き続け疲れきった着の身着のままのソマリア人が毎日約1300人、飢餓や暴力から逃れて国境を越えている。彼らが逃れるのは隣国、とくにエチオピアである。

 2011年10月には、総計91万7000人がUNHCRの難民認定を受けている。一部の人々は、20年間難民状態のままであり、あるいは国連の難民キャンプ――特にケニアのキャンプ――で生まれた者もいる。「推定で140万人のソマリア国民が祖国を追われており、これはソマリア人の4分の1が帰る場所を失っているということなのです」と、UNHCR国際保護委員長のヴォルカー・ターク氏は嘆く。

(続く)
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の三つの闘いーーその4

「想像を絶する最悪の状況でした。戦争に加えて、干ばつ、気候変動、飢饉が次々と襲ってきて…。」とりわけ、エチオピアのキャンプは農業にほとんど適さない地域に設営されていたため、自給自足の生活が期待できなかった。自給自足は、難民が外部の援助にあまり頼らず、少しでもましなテント生活を送れるよう、UNHCRが絶えず求めている目標なのだが…。

 ケニアには、かくも多くの難民(60万。うち50万がソマリア人)が流入し、現地住民の外国人嫌いを助長した。中にはキャンプの閉鎖や難民の強制退去を要請して憚らない政治家もいた。UNHCRはこういった緊張に配慮しながら最大限に努力し、難民と同じ援助、たとえば、水場へのアクセス、医療、初等教育の提供を近隣住民にも拡大した。

「難民を受け入れる地域社会への支援は、最近、優先課題になっています」とUNHCRアフリカ地域事務所所長のジョージ・オコト=オボ氏は説明する。「国際的連帯が実りをもたらすということがわかれば、受け入れ国は国境を開放するのです」


●受け入れ国へも支援を

 2011年にアフリカ大陸で起きた緊急事態で、HCRは確保していた財源の大部分を使ってしまい、平和が回復した国々の約30万人のアフリカ人(特にアンゴラ人13万1,000人、リベリア人6万人、ルワンダ人10万人)の自主帰国が遅れることになった。

 地元社会にどうにか溶け込み、なかでも、労働許可証を取得できるのは平均して全体のわずか1割である。ただ、タンザニアは例外とみなされている。ダル・エ=サラアムのタンザニア政府は、実際に2011年11月、史上3度目となるが、国内に住む難民の帰化を認めた。とりわけ、民族的迫害を受けて五大湖沼地域から逃げて来ていた16万2,000人のブルンジ人が帰化できることになった。

しかし、この寛大な措置には条件がついていた。すなわち、当該難民は当局によって国内の様々な場所に再配置されるというもので、それは「ブルンジの飛び地」がタンザニアにできないようにするためだった。適切な説明活動と準備が足りなかったために、帰化難民を受け入れることになった地元では、扇動政治家たちに唆されて受け入れに反対した。難民たちの一部は経済的に自立し現地農業の発展に貢献もしていたが、それ以来、全ての活動をやめて運命のなりゆきを待つことにした。



次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその1

ルモンド・ディプロマティック特派員 アナ・ジャベール*
*コレージュ・ド・フランス客員研究員(アラブ現代史講座)

アンマンにも言論の自由が咲いた。ウェブデ地区で簡易食堂を営んでいるナデールは、ありきたりの店主ではない。よく知られた舞台俳優だ。「この国の文化レベルもこのくらいになった。店でコシャリー(エジプトの大衆料理)を出しながら、芝居がやれるようになった。」店内が活気づく。出し物の対話劇に『やっとあなたたちのことがわかるようになった!』というのがあるが、それはチュニジアの前大統領ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーの演説をパロディー化したものだ。

ヨルダンの国王アブドゥッラー2世はこの芝居を別の劇場で見たことがある。「コシャリーをご馳走してやれよ、そうすりゃ国王も俺たちのことが解るさ!」と、まわりはナデールをはやし立てる。

「ヨルダン王国は、アブドゥッラーで始まり、アブドゥッラーで終るだろう」ハーシム一族(注1)の政権を最も手厳しく批判する人たちは、こう予言しておもしろがっていた。が、いざ1999年の冬にフセイン国王が死去し、その息子アブドゥッラー2世が紆余曲折の末にヨルダン国王に即位すると、彼らは黙ってそれを受け入れた。

上の言いまわしは、1951年に起きたアブドゥッラー1世暗殺事件に触れている。この国王はヨルダン王国の創設者で、フセイン前国王の父(注2)である。アラブの春がおこり、この言い伝えが不吉な予兆として再び人々の話題にのぼっていたが、ヨルダン社会は10年も続いた混乱状態の中にありながら国のまとまりは維持していた。

国王アブドゥッラー2世と国民との歴史は最初から冷えきっていたと言わざるを得ない。国王即位の直後から国民の目に映っていたのは、英国式すぎる教育、大衆との距離、世界銀行総裁やアメリカ大統領張りの国民向け演説、それだけだった。口先だけの勇ましさと、2003年、イラク戦争のときのブッシュ大統領に合わせた歩調は、国民に近づこうとする国王自身の努力を結果的に台無しにした。「国王はわれわれ国民に言葉をかけようとはけっしてしなかった。われわれを通してアメリカと話していた」と、国中で言われている。


「ヨルダン第一!」「われわれはヨルダンそのもの!」といった政府御仕着せのスローガンも、国王には有利に作用していない。さらに、きわめて常軌を逸した噂が流れている。国王が賭け事に熱中し底知れぬ負債をかかえている、というのだ。真実にしろデマにしろ、そういった噂は人々の想像の世界で実際に影響力を持ってきている。

にもかかわらず、不満の矛先は国王個人の問題を越えて行く。ヨルダン王国創設以来、歴史は繰り返されてきた。たとえば地域紛争、人口の激変、難民の激増である。1948年には、アラブ対イスラエルの第一次中東戦争があり、次に、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムがヨルダン王国へ併合された。1967年には、その領土をイスラエルに奪還され何十万人ものパレスチナ難民が流入した。さらに、1990年から1991年にかけては、イラクによるクウェート侵攻、湾岸戦争、クウェートから強制退去させられた何十万にも及ぶパレスチナ人の流入があった。そして2003年にはアメリカのイラク侵攻があり、さらに何十万ものイラク市民がヨルダンに辿り着いた。

もちろん、1970年から1971年にかけての「事件」もある。反ハーシム政権運動やパレスチナ抵抗運動である。いずれの場合も同じ様な解決策が結集された。上からは、欧米や湾岸諸国だけではなく国際支援団体を通して、ヨルダン王国の生き残りに必要な解決策が持ち込まれ、そして草の根的には、家族の連帯とか共同体や近隣地域のネットワークを通して、新たに生じた諸問題の解決が試みられた。また、社会契約も日々作成され、ある所では異なるグループの住民間で、また別の所では政府と社会との間で取り交わされた。


(1) ハーシム家はヒジャーズ[アラビア半島西部]出身の一族。第一次世界大戦後、イギリス主導でトランス・ヨルダンとイラクに創設された王国(1920-1958)の王位についた。
(2)「父」は筆者の誤りで、正しくは「祖父」。[訳注]
次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその2

現在こういったテコ入れ策は尽きてしまっている。フセイン国王はかつて国際援助資金を使って民衆、特にパレスチナ人とヨルダン人の対立を利用しヨルダン南部の不満分子を押さえ込むことができたが、その資金は枯渇してしまった。

産油国の収入は出稼ぎに行った人々の送金を確実なものとし、ヨルダン社会の構成員、中でもパレスチナ人の大部分を援助することができたが、それも底を尽きた。というのは、アジア人の出稼ぎ労働者がアラブ人に取って代わったからだ。

容赦なく民営化された水道、通信、そして電力部門、国内いたるところに設けられた経済特区、こういったものが結果的に物価高騰と地元労働力の流出をもたらし、低賃金の外国人労働者で補うこととなった。2003年以来、天井知らずの不動産投資は ―その価格高騰は止まらない― とうとう中産階級を押しつぶし、首都を異常発達させ、郊外地域を荒廃させた。

社会は弱体化させられ、アラブの春を待つまでもなく不満は広がり、批判の火の手があがった。1989年、マアーンで起きた民衆蜂起は国全体に広がり、そのため戒厳令が廃止され、国および市町村の議会選挙が行われた。ここ数年、検閲制度があるにもかかわらず汚職事件がたびたび露見するのも、またこういった不満のあらわれである。最新の汚職事件 −全体をハジャヤ族が所有していた同名の土地ハジャヤが政府に徴用され、「再投資しやすい」という理由で国王の個人名で登録されたという事件− これは政府を巻き込み、人々の怒りをかきたて続けている。

 ヨルダン南部、特にタフィレとカラクとマアーンを結ぶ三角地帯はかつてハーシム政権が没収した土地だが、今では同政権のアキレス腱となっている。

(続く)
次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその3

ここでは、《36部族連合》と《アラブ民族主義団》というふたつの主要グループが活動している。集会やデモが行われ、機動隊との衝突や不敬罪による投獄も起こっている……。

《36部族連合》が主張する最大の要求は、国からのハジャヤの土地の返還である。それが彼らがディーワーン(王宮)で受けた冷遇へのお返しなのだ。「昨今ではたった1通の請願書を出すために部族の長が王宮で並ばねばならない。フセイン王の時代には、このような侮辱を受けることはなかった」と、タフィーラの活動家であるヤセル・ムハイセンは説明する。
                                                             
一方、《アラブ民族主義団》のほうは、社会問題や労働賃金の引き上げを組織のスローガンにして、教員や郵便局員のストライキなどを実施している。新自由主義的政策に対抗し,死海のカリ鉱石会社の労働者たちが、カナダ企業に彼らの工場を売却される事を阻止する活動を行っている。、「アカバの非関税地域の設立によって我々は恩恵を被るはずだったのです。しかしそうはなりませんでした。

工場は今ではケラクの住民にとって、軍隊と並んで、重要な雇用の受け皿になっているのに、会社側は工場を売り払おうとしている。カナダ企業が我々住民のかわりにアジア人労働者を雇うのを、いったい誰が止められると言うのか。」と、弁護士で《アラブ民族主義団》のメンバーでもあるワダー氏は言う。

 より北側にある地域では,36部族の憤懣や、昔からのヨルダン人一族の一部にあるハーシム家との根深い確執の上に、さらにイスラム同胞団やパレスチナ人住民の影響が重くのしかかる

 意外な事には,住民の大多数がパレスチナ人である地域、とりわけ難民キャンプはでは人々は平静を保っている。「今度ばかりはヨルダン人どうしの問題で,私たちには何の関係もない事ですよ。」と、ある女性が会話の中でのふとした機会に本音をもらした。彼らはただの観客であって,今起きている状況は彼らの問題ではないと言うのである。彼らは間近に注意深く批判的精神を持って事態を見守っているが、起きる事はただ受け入れるだけである。

(続く)
次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその4


ヨルダンに住むパレスチナ人は、チュニジアやエジプトで民衆が勝利したことをわがことのように実感しながら、シリアが行なっている弾圧とイスラエルがガザ地区に対して行なっている弾圧を比較する。「シリアの方がひどいです。バシャル・アサドは自国民を大量殺戮しているんですから」と憤慨するのはアブー・アナスだが、兄弟のアブー・オマールは、この内戦の背後でアメリカの見えざる手が動いているのではないかと探っている。「この革命はいったい何なんだ? 反政府勢力がカタールの支援やアメリカの意向を受けているとは…」

とはいえ、主要な政治組織と民衆の間にはある距離感が生じ始めている。シリアの民衆蜂起を巡り、パレスチナの政党ハマスの党首、ハーリド・マシャアル氏が方針転換したことについて人々は皮肉を言うことさえある。

同氏は当初シリア政権への支持を表明していたが、ひとたびカタールを訪問すると、シリアとの間に距離をおいてムスリム同胞団の立場に歩調を合わせるようになった。同様に、2012年1月にはマシャアル氏、カタールの密使、アブドゥッラー2世の三者会談が持たれたが、それが同国王がワシントンを訪問した数日後だったことから、人々の間では、ヨルダン在住パレスチナ難民の最終居住地について決定し、その資金をカタールに肩代わりしてもらうのではないかとの憶測が広まっている。

「カタール首長とヨルダン国王に会ったあとシリアを経てガザにもどる、そのようなハマスの党首に何を期待できるんだ?」とアブー・オマールは問いかける。

一方、ムスリム同胞団は大衆の不満を巧みにとらえ、自らを重要な政治勢力として地位を固めようとしているが、それは政府や諸部族との軋轢(実際に2011年12月、マフラクでバニ・ハッサン部族と衝突が起きた)のみならず、他の野党勢力との摩擦を起こさざるをえないだろう。

(続く)
次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその4

彼らムスリム同胞団としては、大衆の不満を巧みにとらえて、政治的に影響力のある勢力のなかに重要な地位を占めようと努力をしているが、政府のみならず部族との対立(特に2011年12月、マフラクのバニ・ ハッサン部族)や、他の対抗勢力との摩擦は避けて通れない。

ハリル氏は、「アラブ民族団」に近いジャーナリストだが、次のように言って怒りをあらわにする。「彼らは信頼ができません。ヨルダン住民の要求を都合良く利用しようとしていて、住民の味方のような口ぶりですが、その後では違う方針を押し付けてくるのです。内務省の前で集会がある、するとシリア大使館の前でも同じ時に集会が行われる,,,反体制活動を自分たちのやっていることにしたくて、それを陰険なやり方で妨害しているのです。もしこれがイスラム教徒を自分たちの影響下におく事をねらってのことなら、大きな迷惑ですよ!」

一方、アセム氏は40歳代の弁護士で、この状況について別の見方をしている。曰く、「私はイスラム原理主義というものをよく知っています。自分の父がそうだったからです。ヨルダンではイスラム原理主義の歴史は他の国々と同じじゃありません。彼らは常に権力と結びつき、権力は彼らに支えられています。地域的にも国際的にも少なからぬ影響力がありますが、リベラルな対抗グループにはそれがないのです。もっともムスリム同胞団とて妥協はしなくてはなりません。もしうまくいかなければ彼らだって追い払われてしまうでしょう。それのどこに問題があるんですか?」
 
 それでも、将来に対する全国的な熱狂や議論には不安をぬぐい去る事が出来ない。政治団体「立憲君主党」は王制を脅かす一番の懸念を最も自覚している、すなわち王制の解体である。ジャマールは三人の軍高官とともに、グループ設立メンバーの一人であるが、長年にわたって体制側とぶつかってきた。国を縦横に走り回り、あらゆるグループや部族長、国内や国際的な政治分野に影響力のある有力者と会ったのは、イギリスの君主制にならって、憲法改正の構想のもとに彼らを結集させるためであった。その体制では、政府を選ぶのは議会であって国王ではない。 

(続く)


次第に疑問視されるヨルダン王政ーーその5(最終回)

「国を守るための解決策はほかにありません。国の命運を決定する権限を国民に委譲するべきです。あとから別の問題が出てくるでしょうが、他のいかなる解決法も犠牲が大きすぎると思われます。ハーシム一族はもはや敬愛されていません。国王は親族をほとんど遠ざけてきたので、弟の誰かが跡を継ぐのもほとんど不可能でしょう…」

「王のいない共和国はどうかとおっしゃるですか?いったい何のために?国民は王国に住んでいるということで安心できるんですよ。共和国で起きていることをご覧なさい、シリアで、イエメンで…。」

さしあたり、国王は状況の深刻さを認識しているようには思われない。約束した改革を果たすのが遅れ、首相を何度も替えて、汚職事件を立件できなかったといって無力で無能な前任首相を毎度責めているが、そういった事件は政府、議会、裁判所がたらい回しにしてきたようなものなのである。彼は隣国シリア政権の運命を横目で伺いながら、事態を引き伸ばしているが、そうしている間にもガソリン価格や電気料金は高騰しているのだ。

さて、最初のデモ行進のときには参加者にコーヒーが振る舞われたが、それ以後は治安警察のいつもの弾圧にとって変わった。2011年3月25日、アンマンで機動隊が抗議デモの参加者を棍棒で殴った上、彼らを病院の中まで追跡した。2011年11月にランタで事件が発生した時の弾圧は厳しいものだった。

以来、警備体制がさらに強化された。憲兵隊が著しく増強され暴動鎮圧のために配備されたのが思い出される。去る5月に行なわれたアメリカほか15カ国との合同軍事演習は、《イーガー・ライオン》と名付けられ、部隊の補強を誇示するものだった。人々の噂では軍当局と全国情報局の間には意見の対立があり、改革に好意的なのは情報局の方だという。噂はどんどん広がっていく。しかし、空約束のアメをしゃぶらせ、弾圧のムチをあたえても、もう効果がないことがわからないのだろうか。

(以上)
権力なきモロッコ政府 (その1)

ウェンディ・クリスティアナセン特派員(Wendy Kristianasen)
ル・モンド・ディプロマティーク英語版主筆、『イスラム深層世界への旅』(2001年、パリ、シーニュ社刊)著者


「モロッコは民主主義国家ではありません。しかし、『アラブの春』によって民主主義国家という目標への第一歩を踏み出しました。わが国にとってこれは革命的なことです!」。現法務大臣のムスタファ・ラミド氏は言う。

現政権は初のイスラム主義による連合政権で、率いるのはアブドゥリラ・ベンキラン氏と彼が党首をつとめる「公正発展党」(PJD)である。ラミド氏にとって「アラブの春」は願ってもない出来事だった。それまでラミド氏はイスラム主義政党内の異端児であり、政治改革を選挙参加の前提条件に挙げていた。

 2011年2月20日、アラブ諸国で始まったデモに呼応して、何千人もの人々がラバト、カサブランカ、タンジール、そしてマラケシュの街頭でデモを行なった。新憲法や政権交替、そして政治腐敗の根絶を求めたのである。

同年3月9日、モハメッド6世は賢明にもこうした求めに応じ、演説でさまざまな改革案を表明した。同年6月17日には、国王は新憲法を提案。その内容は、国王が多数派与党から首相を任命する義務を負い、首相に議会の解散権を与えるというものであり、さらにはアラビア語に加えベルベル語を公用語にするというものであった。同年7月1日の選挙でこの憲法は、73%の投票率――この数値は疑問にふされたがーー、98.5%という高い賛成で可決された。また同年11月25日に前倒しの国政選挙では、公正発展党が第1党で勝利した(325議席中107席)。

 確かに国王の機敏な対応で暴動は免れたものの、本当にモロッコの情勢は変化したのだろうか。2007年にベンキラン氏は、彼の目標は「自由と民主制であるが、これにはある一定の枠がある」と説明していた。特に国王の地位については触れられない。たとえ報道が少し自由になり、社会がいくらか活気づいたとしても、こうした枠はなくなってはいない。

今では政治腐敗についても取りあげられるが、王家周辺の汚職については触れられない。たとえばマフザン(モロッコ王宮)の官僚たちの情実人事を行ったり、燐鉱山の管理で王家の私腹を肥やしたり――25億ドルにも上る――、といったことに言及するのはタブーとなっているのだ。

(続く)
権力なきモロッコ政府 (その1)
(ルモンド・ディプロマティック、11月号記事)


いったいどのような権力をイスラム主義者たちは所持しているというのだろうか。ムスリム同胞団の影響下にある《公正発展党》は、比較第一党なのに連立内閣では31名の閣僚のうち12名しか占めていない。経済はニガル・バラカ氏の手中にあるが、彼はかつて政権を担っていた右派の《イスティクラル党》(注1)所属である。

外務,内務、及び観光省はすべて《影の大臣》の支配下にある。《影の大臣》とは王宮に選ばれ実権を持っている者たちのことである。こういうわけで、2012年3月、アメリカの国務長官ヒラリー・クリントンは正規の外務大臣に会う前に、王の外務顧問に会っている。王の顧問たちは元内務大臣アリ・アル=ヒマ氏と同じように《2月20日運動》の主な非難の対象となっていた。

言うまでもないことだが、国王は今もなお軍と治安情報部隊を握っている。さらに国王は閣議を司るだけでなく、モスクやイマームの統制を担うイスラム法学者評議会(モスクやイマームの統制を担う。注3)の議長も務めているのである。

 《2月20日運動》に参加した人々は、憲法改正以外にパンと仕事を要求していた。ヨーロッパの財政危機、観光業の落ち込み、麦の大凶作などで国は打撃を受けており、若者の二人に一人は職がない状態だからだ。
 
 このようにイスラム主義者たちは政権についたのだが,彼らには権力はないのである。ラミド氏は次のように認めている。それは彼がその事を認めるまれな閣僚の一人だからなのだが、「連立内閣の中に問題があるのです」つまり、「連立でなければもっと迅速に、そして効果的に活動する事が出来たのですけどね。」と述べている。しかし彼は楽観的である。「改革は始まったばかりで、これから良くなるだろうと考えています。」彼自身は、司法制度の改革を行う決意をしている。

(続く)



(1) イスティクラル党  モロッコの民族主義政党。独立に貢献した。
(2) イマーム      イスラム教の指導者。スンニ派においては、集団礼拝で信徒たちを指導する統率者。
(3) イスラム法学者(ウラマー)  イスラムにおける知識人の事。宗教教育における先生の役割を持ち、実質的な聖職者にあたる。

権力なきモロッコ政府 (その3)
(ルモンド・ディプロマティック、11月号記事)

「すでに権力と機能の配分は始まっています。より民主主義的な方向性を目指していますが、相変わらずモロッコ流になるでしょう」。

 「公正発展党」の重要な切り札と言えるのは、ベンキラン氏である。彼は人気もカリスマ性もあり、率直な物言いを行い、ダリジャというモロッコ風のアラブ方言を使う人物である。彼は聴衆を射抜くような目をして喋る、それは一対一の対談だろうが、大勢を前にした演説だろうと同じことで、例えば2012年の7月にラバトで行われた「公正発展党」の集会がそうだった。

リベラル派の批評家で、「公正発展党」にはとても与しない人物でさえ、ベンキラン氏には一目を置いている。というのも、ベンキラン氏が、生活必需品への大規模な財政支援を続けることはできず、また、物資、とりわけ原油の値上げを行わなければならないと公言した最初の人物だからである。「彼はモロッコの国民へ、もはや他の選択肢はないとはっきりと述べました。ベンキラン氏は人々に、この苦い薬を飲ませることができたのは、彼に正当性があったからです」。

  ところで「公正発展党」は自己の立場をどのように考えているのであろうか。「2011年に行われた選挙は民主主義の夜明けと言えるものでした」、と答えるのは、「公正発展党」の書記長補佐スリマン・エロトマニ氏である。「『公正発展党』と他の[連立]政党の課題は、労働組合、非営利組織、そして王と協力することです。我々の目的はこの新しい憲法に息を吹き込むことです。何故ならこの憲法は、今は単なら紙切れにすぎないからです」。

更にエロトマニ氏は続ける。「アッラーは偉大なり、アラブの春が我々を救ったのです!しかし、モハメド・ブアジジ氏の自死がチュニジアの政体の崩壊を引き起こしたのに対し、モロッコの事情は全く異なっています。モロッコには、チュニジアのような暴動鎮圧、はたまた20万人の死者を出したアルジェリアの内戦のような例はありません。ここでは、政治体制が国際的に見ても理にかなっていることは明白です。モロッコ国民の弱さ、そして民主主義の欠如は否めませんでしたが、「公正発展党」は政体の合法性を問題にしたくはなかったのです。我々はまさに中道を模索していました」。

(続く)

 権力なきモロッコ政府 (その4、最終回)


 この中道精神は多くの批判を呼び起こした。特にヨルダンで最も影響力のある組織《アル=アドル・ワル=イサン(公正慈善運動)》の側から強い批判を浴びている。この組織は合法化されていないが黙認されていて、イスラム主義の運動を行っているが、《公正発展党》が理想を放棄したと非難している。

創始者であるアブデサラム・ヤシン師とその娘で組織の広報官であるナディア・ヤシン女史の指揮の下、《アルーアドル・ワルーイサン》は君主制に異議を唱えている。《2月20日運動》には加わっていたが、後に手を引いた。組織の政治顧問であるヒシャム・トウク氏はこう述べている。「あれは戦略的な後退でした。主導権を握ろうとする左派の小グループによって運動が間違った方向へ向けられたためです。」
 
 《公正発展党》が選挙で勝利してから一年が過ぎたが、モロッコ国民は政府に対して前回とは対照的な評価をしている。もっとも厳しい批判は都市現役層からのもので、その考えは進歩主義的で世俗的である。もっとも彼らの多くはイスラム教徒としてのつとめを守る人々である。

概して彼らの批判は社会問題、とりわけ女性の社会的な地位の問題に重点をおいている。《公正発展党》の内閣の中に、女性は、「連帯・女性・家族ならびに社会の発展」省を担当するバシマ・ハッカウイ女史一人しか含まれていないという事実は、彼らの目から見ると事態を雄弁に物語っている。問題の女性大臣が法務大臣(多数妻帯者)の第二夫人であるという事実がさらに伝えられたので、何をか況んやである。

このような問題は家族聖典(ムダワナ)の改正問題と直結するのだが、結局国王の圧力により2004年に首尾よく決着して女性に新たな権利が認められた。女子差別撤廃条約(CEDAW)は1993年モロッコによって批准されたが、シャーリア(イスラム聖典)と齟齬をきたさぬよう、という留保を付けていた。2008年、国王はこのことを議会に諮ることなしに、留保事項を《無効である》と宣言してしまった。都会層の代表者たちには、この国王は必要な改革を保証してくれる擁護者のような存在だ。女性の社会的地位の分野においては特にそうである。

 イスラム主義の運動の専門家であるムアンマド・トズィ氏は、次のように《公正発展党》が直面する試練について述べている。「ブルジョワやプチブルジョワ,彼らは同時に保守派で伝統主義者なのですが、これまでは《公正発展党》に投票しました。しかし今では彼らに投票してもらうには努力が必要です。都会の知識人たちはこの党の者たちを、田舎出の成り上がり者だと悪口を言っています。」 

しかし実のところ、彼らの強みは大衆に近いという事で、貧しい出自に由来するものであり、イデオロギーによるものではない。他のイスラム諸国と同様、イスラム主義者たちはよく組織されている。「しかし、彼らにはジレンマがあって、国王の望みどうりに国を近代化しなくてはならない一方、彼らの保守主義的な支持基盤も守らねばならない、しかも彼ら自身、社会のどんな近代化にも徹底的に反対であるということなのです。」

(終わり)
フランスにおける女性と就労 ――常識のウソ―― (その1)

マーガレット・マルアーニ* *社会学者。フランス国立科学研究センター研究ディレクター、労働市場とジェンダーネットワーク事務局長
モニーク・ムロン** **統計学者。フランス国立統計経済研究所員、計量社会学研究所員

( 記事は、両氏の共著『フランス女性の労働100年史』Un siècle de travail des femmes en France. 1901-2011, La Decouvert, Parisに基づく)

 失業率や物価指数の数字には、政治的な意味合いがある。それは女性の就労率についても同じである。それぞれの社会や時代、文化圏ごとに固有の女性労働形態が形成され、そのイメージと表象が生み出されるのである。そして、数字は積極的に社会イメージの構築に寄与する。

そこで、20世紀における女性就労率を算出し直すと同時に、その算出方法を解析することが必要となる。今日の固定観念を通して当時の社会を見るのではなく、その時代時代における定義の拠り所となったデータや理論を掘り起こさねばならない。そうすることで、一般認識や社会規範がいわゆる「女性労働」の範囲を決めてきたことが理解できるのである。

 かつての国勢調査があたかもライトモティーフのように繰り返したのは、「女性の社会的地位の分類は、往々にして解釈による」ということであった。職業として規定できるものと、そうでないものとの境界線はどこにあるのだろうか。
フランスにおける女性と就労 ――常識のウソ―― (その2)

女性たちは、毎年毎年、どのように国勢調査の対象とされてきたのだろうか? 切り捨てられたり算入されたり、無視されたり認知されたり…。女性には常に無職という暗黙の憶測がのしかかる。

例えば、畑にいる農家の女性は農作業をしているのか、それとも景色を眺めているのか? 解雇された女性労働者は失業者なのか、それとも「専業主婦に戻った」のか? このように何度も繰り返されてきた残念な質問は女性にしか投げかけられない。これには、男性の就労は当然だが、女性はたまたま働いているに過ぎない、という考え方の対比が表われている。

 報酬労働や《専門的な職業》を行っていると申告すること、あるいはしないこと。家事労働――厳密な意味での家族内労働――と賃金仕事を区別すること。こうすることによって被調査対象者は経済社会の一員として自己の立場を明確にすることになる。仕事と非仕事の境界線は、現代社会における女性の地位を読みとるための見えざる赤い糸である。その証拠に、「労働価値」の低下について云々される一方で、職業活動は相変わらず社会的に枢要な社会経験であり続けている。

(続く)
フランスにおける女性と就労 ――常識のウソ―― (その3)


20世紀の労働史の通説によれば、女性の就業率は1901−1962年の間に減少する傾向があったとされているが、これは《統計上のトリック》である。というのは、そこにあげられている数字というのは農業労働の定義の変化に合わせて計数し直されたものだからである。二十世紀の初頭、農業従事者と生計を共にし、他に申告する仕事を持たない成人はすべて、農業従事者にあたるとみなされていた。これは主に農夫の妻たちである。

1954年になって、専門家は農業に従事している申告する人だけを農業就業者数に含める事に決めた。こうして、農夫の妻で、自分が農婦であると申告しない女性は非就業者と見なされるようになってしまった。しかし、それまでは逆の仮定が自明だと考えられていたのである。

農業の衰退が始まった頃に、――それはまた専業主婦という概念が花開いた時期でもあるが―、この定義の変更によって120万人が就業人口から失われ、そのうち約100万人は女性だった。女性の就労率が減ったように見えるのは当然なのである。

 このように、1960年代以来の女性就業率の増加は、この人為的に下げられた地点から出発している。女性就業率のとてつもない増加は継続し、さらに強まったかのように評価されている。21世紀の初め以来、統計が「なんでもかんでも雇用に含める」ことに集中しているためになおさらそうなってしまった。

すなわち、一週間に一時間でも働いて収入を得たら、学生でも失業者でも退職者でも就業者の中に数えられるようになった。こういった時代遅れの定義づけは、それ以降いっそう徹底したやり方でおこなわれている。いっぽう児童就労が無くなり、若者の進学率が高くなるにつれて若者の就業率が減少し、また年金を受給する権利が拡大した。こうした最若年層と最高齢層の就業率は長年減少傾向があったが、今やそれは逆に増加する兆候をしめしているのである。

(続く)
フランスにおける女性と就労 ――常識のウソ―― (その4)

女性の労働におけるこういった側面はあまり知られていない。しかしその見方は細部をのぞいては全面的な真実だ。すなわち、時代によって女性の就労は必ずしも常に家庭の状況に左右されるわけではない。

 反面、失業、不完全雇用、それにパートタイム労働、そういったものも20世紀を通してずっと存在していたが、実に様々な呼ばれかたや定義をされていた。時代にそって完全な一覧表を作りあげることは難しい。なぜならその数字はあいまいで、論争の的になりやすく政治の影響を受けがちなものだからだ。

前世紀の初め、一時的に働く場所を失った労働者や非雇用者だけが、失業者に数えられていた。日雇い労働者や、出来高払いの労働者で仕事の見つからない人々は数に入れられなかった。

女性に仕事がないのは、女性は働かないものだという考えがあるからだ。彼女たちはあらゆる求人に今すぐに応える準備が出来ているのだろうか? それとも単に主婦である事がもう流行らないから自分が失業中であると申告しているだけなのだろうか?

(続く)

フランス映画の現状
エウジュニオ・レンジ
映画雑誌『アンデパンダンシア』共同編集長

 スキャンダルの気配が広まっている。文化特例措置が危機に瀕しているというのだ。2012年に、欧州委員会がフランスにおける映画への助成金制度を再度批判したが、これはメディアで特に大きくとりあげられることはなかった。しかし、プロデューサーで映画配給業のヴァンサン・マラヴァル氏が、去る12月に『ル・モンド』紙に寄稿し、その中でフランス映画界は増え続ける助成金の上にあぐらをかき、一部の人気俳優たちは驚くべき額のギャラを受け取っている、という事実を告発したが、これが思わぬ反響を巻き起こしている。

いずれの記事の場合も、非難された助成金制度で問題となっているのは、概ね国立映画センター(数年前からは「国立映画・アニメーション・センター」となったが、「CNC」の呼び方のほうがよく知られている)についてである。これは一つの産業、その中でも第七芸術を保護する目的で設立され発展してきたものだ。

1946年に当センターが設立されたのは、一部には《ブルム=バーンズ協定》に抵抗してのことだった。というのは、この協定はフランスがアメリカに負っていた債務の一部を帳消しにしようというものであり、その交換条件がフランスのほぼ全ての映画館をアメリカ映画に開放することだったからだ。交渉の末、フランスは自国の映画を何とか毎月1週間は上映できることになった。

しかし、CNCの役割が大きくなったのは、《特別追加税(TSA)》の出資による援助基金が1948年に設立されたためである。映画館入場チケット総売り上げの10.72%がこの特別追加税として差し引かれ、その総額が映画制作に投入されるようになった。

1959年に新設された文化省は、アンドレ・マルローを大臣に頂き、売上金を前貸しするという《選別援助制度》を導入した。この制度の目的は、「リスク」が大きすぎるという理由で映画会社がなかなか認めない企画の制作を支援することだった。最後には、テレビが観客を独占し始めた1980年代初頭、ジャック・ラング文化相は各テレビ局を助成基金に参加させ、さらに《映画・視聴覚産業融資会社(SOFICA)》を設立した。この組織は、民間の寄付金で成り立つ一種の売上金前貸し機関であり、これには優遇税制が適用された。

 現在でもこういった方針、つまり売上金を天引きして制作部門へ配分するというやり方は維持されている。さらに、この課税はビデオ産業にも、そして2007年3月からはインターネット配信にも及んでいる。

2011年の映画制作費の総額8億629万ユーロのうち、1億4307万ユーロがTSA(特別追加税)、6億3104万ユーロがテレビ番組制作会社およびテレビ局、そして3196万ユーロがビデオ業界の、それぞれ税収から得たものである。ちょっとした金の卵である……。なんとも頑固な非常識さに、欧州委員会が頭を悩ましているのも納得がいく。その非常識さは、インターネット配信にまで課税して、時代に適応しようとしている。

(続く)

フランス映画の現状ーーその2

欧州議会が余勢を駆って非難するのが、これらフランス映画支援策が地域限定であることである。製作会社がフランス以外のEU加盟国内で使える予算は全体の20%だけ。フランス国内の映画スタッフを(さらに!)保護しようというのだ。

 こうした保護政策が功を奏しているのは、異論の余地がないところだ。CNC所長のエリック・ガランドー氏が指摘するように「いくぶん集客に貪欲に過ぎる市場の悪影響の修正」が目的であり、この施策のおかげでフランス映画は外国映画、とくにアメリカ映画に呑み込まれずにすんでいる。これはヨーロッパにおいて唯一の例である。

同じように、現実に公金を「大作映画から集め、作家主義の作品や多様性を持つ作品へ補填する」政策がとられていることは、完全競争市場におけるフランスの並々ならぬ意欲の表れなのだ。政策に充分な根拠があることは明白である。しかし、こうした特例措置の適用条件には時代とともにいささかのゆがみが起こっている。

 フランス映画は稀に見る繁栄を享受している。というのも年間200本ものフランス映画が生産され、そのうち何本かは注目すべき興行成功を収めているからである。2011年のフランス作品でいえば、エリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュ監督の『最強のふたり』は最高動員記録を保持している。

だが、たとえばダーレン・アロノフスキー監督の『ブラック・スワン』といったハリウッド作品と、どこがどう違うというのだろうか。アロノフスキーはヴェネツィア映画祭で金獅子賞(グランプリ)に輝いた監督であり、『ブラック・スワン』は2011年フランスの観客最多動員作10本に入る。巨額の製作費を投じ、国際的スターをキャスティングしたこの作品は、幅広い大衆をターゲットに作られている。またしかし、古典的な物語を実験映画に見事に変容させたひとつの例ともなっている。

『カイエ・デュ・シネマ』編集長は、アロノフスキーを評して「完璧さの追求」に取り憑かれている、という(201
1年2月号)。さらに、彼は同年のフランス作品『最強のふたり』を「甘ったるいマシュマロ」になぞらえてもいる(2011年11月号)。

 こうした『ブラック・スワン』に対する高評価については、ほとんど異論はないようだ。フランスの商業映画は、たいていはアメリカで作られた同種の作品よりも質が落ちるということである。とはいっても『最強のふたり』はハリウッド式映画産業の黄金律に従って作られているのだが。

(続く)
フランス映画の現状ーーその3

..... 『最強のふたり』はハリウッド式の黄金律におとなしく従って作られている。最初の5分で作品の精神的・道徳的テーマが示され、最後はどんでん返しの「めでたしめでたし」へと至るのである。したがって「大衆向け作品」においては、フランスとアメリカの文化的差異は表われない。

だが、助成制度の恩恵を受けている諸作品においては、その違いが見てとれることだろう。そもそも『最強のふたり』はこの助成の対象にはなっていないのだ。

 2009年に規定が改訂されたCNCにとって、もはや映画は管轄部門のひとつでしかなくなった。他にもテレビ番組、マルチメディア、ビデオゲームといったものがあるからである。映画部門に対する支援は1億550万ユーロに上る。

支援は「公益」という名目に相応しく企画から上映まで製作全般に及び、短編・長編、劇映画・ドキュメンタリーといった、あらゆるジャンルに対し行なわれている。

これら多岐にわたる支援のうち、売上げの前貸し助成には2000万〜3000万ユーロが割り当てられている。50本ほどの企画しかこの審査を通らず、それもせいぜい製作予算の半分までの貸し付けであることから、大したものではないと思えるかも知れない。それでも、この前貸し助成が映画支援制度の要であることに変わりはない。理由は、この助成が、映画創造を保護するという国家意思の表示だからである。

 だが、いったいどのような作品創造を保護しようとしているのか。前貸し助成を受けるのが恒例となっている映画作家を見れば、その概要を掴むことができるかもしれない。

ジャク・ドワイヨン、フィリップ・ガレル(彼は一度だけ『恋人たちの失われた革命』の製作で貸し付け拒否に遭い、物議を醸した)、オリヴィエ・アサイヤス、ブリュノ・ヂュモン、コスタ=ガヴラス、ミヒャエル・ハネケ、アヴィ・モグラビ……。一方、援助を断られたものを見ると、この助成制度の限界がわかる。ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの二人が作り出す厳格な作品、ルネ・アリオ(『Les Camisards』、あるいはミシェル・フーコー原作の『Moi, Pierre Riviere…』)、今夏にシネマテークでの回顧展が予定されるジャン=クロード・ビエット、そして驚嘆すべき監督リュック・ムレらの作品である。

(続く)
フランス映画の現状ーーその4


プロデューサーのトマ・ラングマンは、多くの人が心の中で思っていることを堂々と声に出して言ってのけた。CNC選定委員会のことを「お友だち委員会」と評したのだ(注4)。確かに、選定会議では正式なCNC委員と他に、映画に関わる様々な職業から選ばれた人たちが席を占めているのは事実であり、彼らが友情や利害関係で申請者と結びついている場合が多いのも事実である。

しかし、とりわけ問題だと思われるのは、援助対象映画を選別する委員会が明確な基準に従っていない、ということである。例えば、2011年に助成を受けた映画の中には、パスカル・ボニゼールの復古調の作品『Cherchez Hortense 』が入っているかと思うと、現代の巨匠の一人アヴィ・モグラビの 『Retour à Beyrouth』も選ばれているのである。

 それでも、CNCの眼鏡にかなう作家主義映画はこうあるべきだ、という暗黙のモデルが存在する。フランソワ・トリュフォーの『終電車』(1980年)がそれだ。これはトリュフォーが模範的な「フランス映画の美的特質」を蘇らせた作品である。彼は若い頃、その形式主義と脚本第一主義を理由にこのフランス映画の美的特質を酷評していたのだが……。

CNC委員会の選定は、常に脚本を拠りどころとしてきた。実にこの約30年間、制作過程の基本として完成シナリオを優先させてきたことが、ある種の形骸化をつくりだしてしまった。というのは、シナリオ優先はアカデミックな形式を重んじる必要性によって強化され、物語と台詞に集中してきたからである。

その逆の例であるが、ナンニ・モレッティの場合、撮影の一部が脚本に先行することもある、ということを指摘しておこう。『赤いシュート』や『親愛なる日記』などがそれだ。

 この傾向を緩和させるために、先ごろ改善策がとられた。

(続く)
フランス映画の現状ーーその5

この傾向を緩和させるために、先ごろ改善策がとられた。

2012年には、伝統的なストーリー展開法に縛られない監督――ヴィルジル・ヴェルニエ、トマ・サルヴァドール、ラリー・クラークなど――の映画が助成を受けた。しかし、こういった「正常化」もまた、どちらかというとテーマの画一性となって現れてくるようになり、その一例として自己陶酔的な迫害妄想がある。こうしたテーマは映画遺産の上に重くのしかかっている――アサヤスの映画は好例である。

さらにはテレビの力にしばられることになる。1985年からテレビ局は、劇場映画の事前購入予算の1%を供出することで映画制作に関わることを法律で義務づけられた。ところが、テレビ局の関心は次第に低コストの映画(制作費400万〜800万ユーロ)の方に向きつつある。

こういった映画はテレビ・ドラマや商業映画に似てくる運命にあるのだ。たとえば、人気俳優の起用、意外性のないストーリー、ごく単純な表現に極まる映像技術などである。その逆に、一般的な方式からあまりにもかけ離れた演出や台詞を採り入れる映画は、排除される恐れもある。

SOFICAや自費制作のお陰で、市場の脅威からほぼ完璧に保護されている映画もいくつかある。しかし、急進的すぎる制作方法では、基準と合致しないという理由でCNCの認可が下りない可能性もある。助成金付与にはこの認可が不可欠なのだ。そこで、この超ラディカルなやり方では、無名のままに留まることになる。

その好例に、ジャン=クロード・ルソー監督の『De son appartement 』という見事な作品がある。これは2009年マルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭(FID)で最優秀作品賞を受賞した。この映画祭は設立以来15年間、世界で最も権威ある映画祭の一つとして開催されてきたが、未だに知名度は低い。

(最終回に続く)


フランス映画の現状ーーその6(最終回)

結論として、これからは資金をよりいっそう《違いのわかる》映画に投入する事が重要になるだろう。資金を投入するにあたっては、商業主義的映画の勢いを抑えること,特にその広告費を制限する努力もすべきだ。そうすることによって、批評の領域まで含む映画産業全体に広がりと可能性が与えられるだろう。

批判や創造性の欠如は、作家主義映画と商業主義映画の両方に悪影響を及ぼしている。特に作家主義の映画においてはより深刻なようだ。文化という祭壇に作品を捧げるために収益性を犠牲にしているからだ。

しかし商業主義映画の平凡さも全く同じくらいに気がかりな状況だ。CNCは映画産業全体の体制がうまくまわっていることをよいことに、あぐらをかいていられると考えているかもしれない。つまりCNCはフランス映画における困難に気づいていないのだが、深刻なのは必ずしも金の問題だけではないのだ。

これまでの対策は小手先の事であり、将来の展望にはつながらないからだ。いずれは、人目に立つことが少なくなった《文化的特例》の名において、《産業の特例》を保護する事はますます難しくなるであろう。

(終わり)

世界のおひとり様事情ーーその1

(ルモンド・ディプロマティーク、2013年3月号)

ニューヨークから東京まで、暮らしぶりを激変させているある事情
「お一人さま」なれど孤独にあらず

エリック・クリネンバーグ
ニューヨーク大学(社会学)
近著に、『一人で生きる――独り暮らしの急増ぶりと意外な魅力』(未邦訳)Eric Klinenberg, Going Solo. The Extraordinary Rise and Surprising Appeal of Living Alone, Penguin Press, New York, 2012. がある。本記事はその要約である。

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 50年前はごく少数だった独居者が、いわゆる「先進」諸国で急増している。一部の人たちは、増大する社会的孤立や一種の自己愛の徴をそこに見ている。しかしこの種の変化をもたらした条件についての研究が進み、もっとニュアンスに富んだ様相を浮かび上がらせている。それは個人主義と豊かな人間関係の融合である。

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 旧約聖書の冒頭に次のように記されている。神は世界を創造されるにあたり、一日に一つずつ仕事を成し遂げられた。天と地、光、あらゆる種類の動植物の種などの創造である。神は創りたもたもの一つ一つに対し「これは良い」と満足気に言われた。しかし神がアダムを創りたもうた時、人間の不完全さに気がつかれると、語調が変わった。「人間が一人でいるのは良くない」と神は申され、その結果イヴを創られてアダムと番わせた。

 時がたつと神学の周辺から、人間は孤独と戦うべしという要請が出でて、哲学や文学の素材を提供するようになった。ギリシャの詩人テオクリトスは断言した。「人間は永遠に他の人間を必要とするだろう」。そしてローマ皇帝、マルクス・アウレリウスは、ストア哲学を好み、人間を「社会的動物」とした。

集団生活がいかに必要かということを最もよく表しているのが、家族の発明である。あらゆる時代、あらゆる文化圏において、社会・経済生活の土台をなすのは、家族であって個人ではない。進化論者たちがいみじくも断言している、「原始社会における生存競争で、集団での生活は決定的に有利だった。それは安全性の面だけではなく食糧供給さらには種の保存の面からも同じであった」と。


 この50年間、人類は前代未聞の社会的経験を積んできた。人類史上初めてのことであるが、あらゆる年齢層とあらゆる社会環境にある相当数の個人が、ひとり暮らし、《おひとり様》の生活を選択しているのである。ごく最近まで、大部分のアメリカ人は若くして結婚し死別するまで一緒に暮らすのが普通だった。夫婦のどちらかが先に死んだら、残されたほうはすぐに再婚した。

それが現在では、結婚するのも以前より高年齢化し、結婚期間もより短くなっている。ピュー研究所によると、アメリカでは平均初婚年齢が「過去最高、すなわち、この半世紀の間に5歳上がっている(注1)」。ひとり暮らしの原因は離婚、死別、独身主義などがあるだろうが、いずれにせよ、その期間は何年、何十年と続く。人生の諸段階を記している要素の内、家族はもはや一時的あるいは条件つきの位置しか占めなくなっているのである。

(続く)
世界のおひとり様事情ーーその2

ひとり暮らしは「病気」?「反道徳的」?はたまた「神経症」?

こうした現象が広がっているにもかかわらず「ひとり暮らし」という生き方は現代において議論されることがなく、それゆえ理解されてもいないテーマである。当人たちも周囲も「おひとり様」という立場を、あくまで個人的な体験に過ぎないと捉えているのだが、次第に一般的になりつつあるこの生き方が社会生活に及ぼす影響は、当然ながら考察に値する。

ところが、この新たな傾向をメディアや学会でたまたまテーマに取り上げることがあっても、評論家たちはただ心理学用語や社会用語によって問題を語るのみである。彼らが用いるのは、「ナルシスム」であるとか、「ひきこもり」であるとか、または「《絆》の崩壊」であるとかといった言葉である。しかし、この劇的な変化はメディアで取りあげるような残念なイメージと比べて、はるかに興味深く――そして、そう受け入れがたいものでもない。


《おひとり様》の増加は、大きな社会の変化をなしており、それ以上でも以下でもない。都市空間(住宅、交通手段など)の概念に方向性を与え、個人向けサービス産業の発達(家事の訪問サービス、保育サービス、食事の宅配など)を促している。生老病死の仕方にも影響を及ぼす。あらゆる社会集団・ほとんどすべての家族にインパクトを与えているのだ。

(続く)


世界のおひとり様事情ーーその3

 おひとりさまの増加はアメリカに典型的な現象だと考えたくなる。つまり、文芸評論家のハロルド・ブルームが「自己中心教」と呼んでいるものの現れと考えるのだ。しかし、この変化を推し進めている力は、アメリカ特有の考え方の枠を超えるものである。その証拠に、アメリカは独居者数に関しては遅れをとっており、それほど個人主義へ傾倒していないと思われている国々に大きく引き離されている。

統計的にみて、独居生活に対して最も好意的な上位の国々は、スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・デンマークである。これらの国々では、単独世帯は総世帯数の40〜45%を占める。日本では、歴史的に社会生活が家庭尊重と深く結びついているにもかかわらず、単独世帯の割合が昨今30%に近づいている。

ドイツ・フランス・イギリス、さらにはオーストラリアやカナダでも、その割合はアメリカよりも高い。この現象は、かつての産業大国に留まらない。というのも、最も増加の速度が速いのは中国・インド・ブラジルだからだ。≪ユーロ・モニター・インターナショナル≫(ロンドン所在の市場調査会社)の調べによると、単独者世帯の数は世界中で爆発的に増加している。その数は1996年に1億5300万だったが、2006年には2億200万人を超え、10年で33%伸びたそうだ。


 この劇的な変化をどのように説明すればよいだろうか。経済発展が関係しているだけではなく、経済発展で一部の人たちに生じた物質的な安寧も関係していることは明白である。

(続く)
世界のおひとり様事情ーーその4


言い方を変えれば、かつてないほどに「おひとり様」たちの数が増えたのは、豊かになって以降、こうしたライフスタイルが可能になったからである。だが、経済が理由のすべてではない。

1957年の統計調査によれば、アメリカ人の半数が非婚者を「病気」、「不道徳」あるいは「ノイローゼ」だと思っており、中立的な意見はたった3分の1だった。一世代たって1976年になると、結果は逆転する。非難めいた意見が3分の1で、半数は中立的意見である。7人にひとりは独身生活に賛同すらしている(注3)。

独身者数が既婚者数を上回った今日では、こうした調査を行なうことを考えること自体、どこの調査機関にとってもとんでもなくばからしいことに思える。夫婦生活を行わない人間に対するマイナス・イメージのは残るにしろ、今現に結婚を選択するための決定要因が根底から覆ったのである。

 支配的なイデオロギーのなかにしっかり根をはった常識がまかり通っている。それは、成功して幸福をつかむには、他人とのあいだに培った絆に頼るよりも、運命から抜け出しよりよいチャンスを得るほうが有効だという考え方である。自由、ありあまる選択肢、プライベートの充実、これらはいずれも現代的な知恵に見合った美徳である。人口統計学者のアンドリュー・チャーリンは「人は親や子よりも前に、まず自分自身のことを考えねば」(注4)とまで示唆する。

 ほんの少し以前には、離婚を望む者は誰しもまず己の離婚請求を正当化する必要があった。今日では、その論理が反対の方向へと変化していることが観察できる。つまり、もし夫婦生活が完全に満たされない場合、即座に結婚生活に終止符を打つのが当然であり、終止符を打たないのならその理由を説明できなくてはならないだろう――それほど自らに「自己の尊重」を命じることに重きが置かれているのだ。

この変化は、生活の場所に対する執着が次第に薄くなってきていることにも現れている。アメリカで人々は頻繁に引っ越しをするので、社会学者らは「隣人の絆」というよりは「限定的コミュニティ」という呼び方を好む。職場での人間関係についても同じことが起こっており、これは不安定なポストや収入、将来の見通しがないこと、といったことにはっきりと現れている――「ご自分のことだけお考えください」が、生き残っていくための処世術なのである。

ドイツ人社会学者のウルリッヒ・ベックとエリザベス・ベック=ゲルンスハイムは「歴史上初めてのことであるが、個人主義をベースとして社会の再生産がなされつつある」(注6)と記している。


(続く)
世界のおひとり様事情ーーその4

「個人の尊重」は19世紀に拡がったものの、20世紀後半になってやっと産業社会を根底からひっくり返すことになった。それは4つの社会変革のおかげである。つまり、女性の権利の認知・コミュニケーション手段の発展・都市化・平均寿命の伸長、だ。この4つがあいまって、個人主義と一人暮らしに都合の良い環境を作り出し、西洋から始まったこの流れは世界へと拡がった。


欲しいものを好きなときに

 まず第1に女性の解放から。1950年以降に女性がこの分野で得たものは、不十分で不完全ではあるのだが、そうはいっても革命であったことには変わりない。というのも女性は学歴を手に入れ、ビジネス界に進出し、家庭生活や性生活をコントロールするようになったからだ。ほとんどの先進国は、この半世紀に同様な変化をとげており、高等教育でもビジネスの場でも、これほど男女のバランスが均等になった時代はこれまでない。とはいうものの、女性への差別が消えたわけではないのだが。

時を同じくして、女性が勝ち取った避妊とバースコントロールによって男女関係の伝統的な枠組みが崩れ、晩婚化と別居・離婚が急速に増大した。アメリカでは一組のカップルが離婚に終る可能性は50年前に比べに2倍となった。

女性にとってパートナーとの別離や一人暮らしは、もはや禁欲を意味することはなくなった。むしろ正反対だ。中産階級の30代の女性の多くが《第二の青春》で味わう、新しくて自由気ままな恋愛がもたらす陶酔に憧れるようになった、とスタンフォード大学の社会学者 マイケル・ローゼンフェルドは述べている。この快楽主義はローゼンフェルドが名付けた「ひとり暮らしの現代」の核心点である。つまり一人で自立して生きることで、他人たちと愉しむ余裕が生まれるということになるのだ (注7)。

(続く)
世界のおひとり様事情ーーその6

次に個人称揚の発展の基盤となったのは、コミュニケーションの革命である。通信手段が進化し、家にいながら他人と交流することを可能にした。

1940年のアメリカでは電話機のある家庭はたった3軒に1軒の割合だったが、第二次世界大戦後は63%に増え、今では95%のアメリカ人が電話を所有している。テレビの普及はさらに速かった。政治学者のロバート・パットナムが著書『孤独なボウリング』で、1948〜1958年の間にアメリカでテレビのある世帯は1%から、実に90%に推移したと指摘している。

20世紀終盤の十数年には、インターネットが状況を一変させた。ネットは電話によるコミュニケーションの相互性と、テレビの受動的消費性を併せ持つ。ネットユーザーはいつどこででも誰とでも繋がることができるだけでなく、ブログを作ったり、ユーチューブに画像を公開したり、ソーシャル・ネットワーク(SNS)に投稿することで世界中の不特定多数に向けて呼びかけることが可能である。あらゆる人々が、インターネットによって孤独と連携を両立させ、物理的接触なしに幅広い人間関係を持てるのだ。

 ほとんどの独身独居者が他者と交流を持つ手段が、もうひとつある。外へ出て、街の社交場を利用するのである。世界を個人主義に向かわせている第3の牽引力は「都市化」である。

大都市にはありとあらゆる「変人」が引き寄せられてやって来る。彼らは大都会の雑踏の中で同類同士と気ままに交遊を結ぶ。都市化によって、価値観、好み、ライフ・スタイルといった共通点ごとにグループの形成が促され、多くのサブカルチャーが生み出された。こうして発展したサブカルチャーは確立され、今ではメインのカルチャーとなっている。

歴史学者のハワード・チュダコフは、19世紀と20世紀の転換期におけるシカゴやニューヨークといった都市は、都会暮らしを楽しむ独身の白人男性たちの新しいライフ・スタイルによって変容を遂げたという。彼らには、行きつけの飲み屋、プライバシーを詮索されない住居、勝手気ままな生活があったのである。

(続く)

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