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フランス好きですが、なにか?コミュのルキノ・ヴィスコンティ

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ヴィスコンティ専用のトピを開設いたします。

ルキノ・ヴィスコンティはイタリアの映画監督として、最高に美的な耽溺を引き起こす世界を作り出しました。

こんどヴィスコンティにお詳しいエレナさんが参加して下さいましたので、二人でキャッチボールをして、このヴィスコンティの美的世界の秘密を解き明かしたいと考えます。

皆さまもどうぞふるって割って入ってください。
コメントを歓迎いたします。

最初に、「ベニスに死す」から始めたいと思います。

具体的なトピの運用:作品をすこしずつ切り分けて、各部の具体的な描写を分析しながら見ていきたいと思っています。
その理由は、「ベニスに死す」も必ずしも易しくないので、できるだけ本トピを読んでもらうことで作品の魅力をわかってもらえるように、それから、恣意的な解釈を避けるためです。

今のところ、

1,海上の船
2,ゴンドラ曳き
3,ホテル
4,サロン
5,回想シーン

ここまでは、こういう区切りで議論したいと思っています(以降は未定t)

興味のある方はぜひ、もう一度ビデオをご覧ください。
なお、日本では英語版が流布していますが、パリの名画座ではふつうイタリア語版を上映しています(フランスで売っているDVDはマルチリンガルです)。ただ、英語版とイタリア語版でストーリー的には違いはないと思います。
ぼくの印象では、やはりイタリア語のほうが、気分がよいです(意味はわかりませんが、苦笑)。

では、始めます。



コメント(111)

最も清純に見えるアクマっていちばん怖いです。

しかし、こういうところはほとんど少女漫画ですね。
まあ、よくぞこんな美少年を探してきた。

以前、ある女子学生のヒトから「『ベニスに死す』だーいすき」とおっしゃったので、「よしよし、これは話があうかも」と思って少しお話ししました。しかし、話しをしてみると、どうも話が噛み合わない。それでよくよく聞いたら「あの美少年がよい!」とおっしゃるのです。

うーむ。
それからは、気をつけて『ベニスに死す』大好きという方にお会いしても、最初に「美少年がいいのか、美少年をみているおじさんのキモチがよいのか」伺うようにしております、はい(笑)。

このハナシは後日談もあって、『ベニスに死す』を見たって方にこの質問をしました。「少年がいいのか?おじさんか?」
そしたら、即座に「あのおじさん、キモい」とおっしゃられまして、、、、
それからは、あまりあの作品が好きだってことは隠すようにしております(笑)。

ストーカー(続)

ヴィスコンティは自作「白夜」でもヴェネツィアを舞台にしていますが、こちらは、チネチッタかにセットを組んで作りました。セットなので、同じ箇所がなんども出てきます。

『ベニスに死す』では、実際のヴェネツィアで撮ったようです。

今度見なおしてみるとタジオ一家が家庭教師のフランス人女性を先頭にして、皆帽子をかぶって運河沿いの路地を歩くときは、まるでストーカーから逃れるように、あるいはコレラの蔓延から逃れるように急ぎ足ですね。
なにか切羽詰まった思いが掻き立てられます。
しかし、タジオだけはストーカー氏を待ってくれるのです。
しかし、家庭教師がそのタジオを呼ぶ声はまた切羽詰まったものです。

そして、そのあと、井戸のある小広場や、路地、橋に白い消毒薬がまかれるのをわれわれは目にするわけです。これも不安をかきたてる材料です。

Le vent se leve
il faut tenter de vivre

の心境です。
ジプシー

このあと、ホテルのテラスでジプシーが余興を見せるシーンとなります。

その前にヴェネツィア本島でストーカー行為をアシェンバッハが働いていた最後のシーンは井戸のある広場で、土産物売りの商人に白い消毒液を撒いているのはどうしてか、尋ねますが商人は下を向いて返事さえしません。この商人も、ある意味では小小悪魔です。

そのあとにジプシーのシーンになって、ジプシーも同じ事をアシェンバッハから尋ねられます。
だから、ストーカー行為とジプシーというシーンが連続しているのは、疫病の懸念でつながっていることになります。

ジプシーはテラスに上がって仲間と一緒にギターを弾きますが、とくにタジオ一家とアシェンバッハにつきまといます。このオトコももちろん小悪魔の親分みたいな人物で髪は赤毛、歯が二本抜けていまして、いかにもといった印象です。美しいピンクのモスリンのドレスをきているタジオの母親は不快そうな顔をしてさけます。支配人が詫びを入れています。

ジプシーは演奏を終わって帰りかけた所で、ホテルのボーイから「さっきお客(アシェンバッハ)が何を尋ねたか」質されます。ジプシーとホテルはグルなのです。

彼らはいったん帰りかけますが、また戻ってきて「あはは、あはは」というアンコールを歌います。
このとき、もういちどテラスにまで上がってきて、アシェンバッハとそしてタジオ家の家庭教師のまえで「あはは」とやります。
アシェンバッハは苦虫を噛み潰したような顔をしていますが、家庭教師はジプシーと一緒に大笑いしています。彼女は自分を見舞うかも知れない災厄にまったく気がついていないのです。

そのあと、ジプシーはアカンべをしてさります。
これはもちろん「あんたたちはここでノーテンキに贅沢を楽しんでいるだろうが、そのうちに、、、、」というメッセージです。

このジプシーのおかげで、観客であるわれわれは、自分たちがなにか非現実の、危険な世界に舞い込んでいることを実感します。
ジプシー

そういえば、オペラでは特別の役割りがありますよね、
たとえば、カルメンでは恋の終わり、死を予言します。
ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」では、ジプシーが子どもを連れ去ります
訂正

いま原作を読み返してみると、この芸人たちのシーンはかなりページを割いて書いているのですが、「ジプシー」とは書いてありません。ただ、ヴェネツィア人の「芸人」とあるだけです。

なにかの記憶違いのようです。
それですみませんが、74で「ジプシー」とあるところは「芸人」と訂正します。

また、75と76は削除となります(実際には削除しませんが)。
Sさん、ご迷惑をおかけしました。
トーマス・クック

このあと、主人公は本島にでかけて、サンマルコ前の広場を横切って、トーマス・クックにお金の両替に行きます。

この時の教会の撮り方はちょっと変わった撮り方をしています。
最初、建物の下半分だけを撮るので、背景にある建物がなにかわかりません。
だんだんキャメラを引くようになってあるていどわかる頃にはキャメラが大きな柱で邪魔されるので、画面が暗くなってしまいます。

そのあと、トーマス・クックのなかで実直そうな雇員に「どうして、消毒薬を撒いているのか」尋ねます。
雇員は周囲を気にしながら、真相を話してくれます。そうです、コレラが流行っているのです。
雇員氏は、親切にすぐ街を離れるようにさえ勧めるのですが、アシェンバッハは聞いていません。
この映画の中でほとんど唯一、誠実な人間とも言えるこの雇員氏の話しを彼は聞いていないのです。

雇員氏が必要以上に長々と喋るのはアシェンバッハが聞いていないことを逆に示す為です。

話しを聞かずに何を考えていたかというと、タジオの一家にコレラのことを話して、即刻出発させることです(実際には実行しませんが)。

このあたりは原作とはニュアンスが異なります。原作では、タジオ一家に教えて、自分も発とうかと考えるが、実際にはしない、という風に、あまり重要でないことのように書いています。

ところが映画では、このあとホテルの廊下でアシェンバッハが煩悶する様子をかなり長く映します。

そしてそのあと、子どもの葬式の回想になります。

はて、アシェンバッハはどうして廊下で煩悶したのでしょうか?

1,体調がすぐれず、苦しかった。
2,マルクとリラとの交換レートが悪くてむかついた
3,自分がコレラで死ぬかと思って悲しくなった。
4,子供の死を思い出した。
5,タジオが自分の子供のように死なねばならないのかと考えた

どうです?
タジオの家族に教えてあげたら感謝はされるけれど、彼らがベニスを去ってしまうともう会えなくなる。だから、教えたくないのですが、そうすると、少年はコレラで死ぬかもしれない。死ぬかもしれないと思っても、話すことが出来ないのです。
そうですね。

では、子どものように慈しむ気持ちと、性的に愛する気持ちとどっちが強かったかというと、、、、

このあと、アシェンバッハはコレラのことはタジオ一家には知らせず、床屋で化粧を始めるわけですよ。
化粧をするっていうのはやはり相手の気をひこうってことですかね。

それはまあいいのですが、映画では原作よりも子どもを慈しむ気持ちが強いことも事実です。

映画では子どもとチロル?の山荘で戯れるシーンと、子どもの小さいお棺を出すシーンがありますが、これは原作にはありません。原作では、細君は早くも亡くなり、一人娘はすでに嫁いでいる、というように家族、子どもはぜんぜん登場しないのです(「ファウスト博士」でも同じです)。

ヴィスコンティはこれにマーラーのエピソードを足しているようです。

マーラーとマン、そしてヴィスコンティの関係はフクザツです。

マンは『ベニスに死す』を書いたときにマーラーをモデルにしたと言われています。ただ、どこまでマーラーから取ったかはわからないのです。ヴェネツィアで美少年に会ったという事実はないようです。
しかし、マンは主人公にマーラーと同じグスタフという名前を与えたので、ある程度はマーラーからとったのでしょう。そして主人公を文学者に変えました。

いっぽう、ヴィスコンティはこの文学者をまた音楽家に戻し、幾つかのエピソードをまたマーラーから取って付け加えました。たとえば、子供の死です。その他友人との論争などもそうです。

ただ、どうしてこうしたエピソードをマーラーから作品に移し入れたか、という問題は残ります。

友人との論争は自分の美学(というか、ヴィスコンティ自身の美学)が崩れていくきっかけを作るためでしょう。

子供の死は、やはりそういう思いがヴィスコンティにあったからでしょうね。
少年を我が子のように慈しむキモチがあったんでしょう。

蒸し返しますが、78で設定した選択肢には、6があるべきでした(エレナさんの79の解釈に沿っています)。

6,言うべきか言わざるか煩悶した

という選択肢が必要だったように思います。
この問(言うべきかどうか)が重要なのは、言わねばタジオがコレラにかかって、自分の子供のように死亡するだろうし、言えばタジオは発ってしまい、会えなくなるからです。

問題はこの2つをヴィスコンティはどの程度対立的に捉えていたかです。

どうもタジオを我が子のように慈しむテーマを(原作とは違って)導入したのに、そのテーマは中途半端に終ってしまい、(原作と同じように)グロテスクな化粧おじさんのほうに急いで戻ってしまうことですね。
なんの説明もなく、床屋のシーンに移ってしまいます。

そこンとこがちょっとわかりにくいんですけど。

何かよい解釈ありますでしょうか?

論理的には矛盾があるんだけど、キモチの上ではあまりないというか。
あるいは、煩悶はしたんだけど、やはり性的な思いのほうが強かった、ということでしょうか。
>この問(言うべきかどうか)が重要なのは、言わねばタジオがコレラにかかって、自分の子供のように死亡するだろうし、言えばタジオは発ってしまい、会えなくなるからです

たとえ言ったところで困惑させるだけで、交通が滞るまえに発つのは難しいのではないかと思ったのではないでしょうか?
だったら、自分も発つことをあきらめてタジオを死ぬまで見守ろうと思ったのではないのかと、わたくしは思いました。

もともと自分の寿命は感じていたのだと思います。

自分一人だけが助かるか、タジオと運命を共にするかどっちの道を選んだらよいのか、煩悶したのではないかと勝手に思っていました。

>なんの説明もなく、床屋のシーンに移ってしまいます。

覚悟を決めた、と言うところでしょうか?
死に化粧って日本以外にもあるのでしょうか?

最後に海で、タジオ(天使)が指差すところは天国なのでしょうか・・・・?

>たとえ言ったところで困惑させるだけで、交通が滞るまえに発つのは難しいのではないかと思ったのではないでしょうか?

前半(困惑させる)は、まあそうですが、後半は、あのトーマス・クックの実直なおじさんが「一両日中に交通が遮断されるかも知れない」という趣旨のことを言っています。だから、すぐ発てば帰れたんじゃないでしょうか?

>だったら、自分も発つことをあきらめてタジオを死ぬまで見守ろうと思ったのではないのかと、わたくしは思いました。

うーん。

>もともと自分の寿命は感じていたのだと思います。

これは重要な論点ですね。
いつ頃から死を自覚していたか。

>自分一人だけが助かるか、タジオと運命を共にするかどっちの道を選んだらよいのか、煩悶したのではないかと勝手に思っていました。

うーん、やっぱ証拠がないですよね。

>>なんの説明もなく、床屋のシーンに移ってしまいます。
>覚悟を決めた、と言うところでしょうか?
死に化粧って日本以外にもあるのでしょうか?

あれは死に化粧には見えません(笑)。

>最後に海で、タジオ(天使)が指差すところは天国なのでしょうか・・・・?

天国か、地獄か、、、。要するに彼方ですよ。
便実世界に美がある、ということを認めさせた要因(タジオ)が、「あっちあっち」と彼方を指さすのは皮肉といえば皮肉です(笑)。
>あれは死に化粧には見えません(笑)。

書き方がおかしくてすみません、特にそれを強調したわけではありません(気になっていました、ただの疑問です)

「身支度を整える」という意味です。



「死に化粧」には見えない理由

1,これはどう見ても、冒頭に出てきたおしゃれじいさんと一対をなしています。
あのじいさんは死に化粧をしているとはおもえません。

2,床屋のあと、すぐヴェネツィアの市街でストーカー行為をやっていますから、色気まんまんなのです(笑)。


それでは、「身支度を整える」というのは、どうでしょうか。
口紅を塗ったりしていて、やはり身支度としてはやり過ぎのように見えますが。
身支度を整えるというのは、床屋さんに行くという行為のことです。
お化粧とは関係ありません。
ふつう映画って意味のないシーンは撮らないんですよね。

仮に、もうすぐ死ぐから床屋でも行っておくか、ということで行ったとして、

行ったということと、
行ってすごい化粧しちゃった、ということと

のあいだでどっちが重要なんでしょうか?


お化粧して、まんざらでもない自分を見たら、まだまだいけると錯覚してしまうのではないですか?

いかがでしょうか、、?(笑)
それって女性のお化粧観じゃないでしょうか(笑)?

やっぱ、アシェンバッハは最初の船のお化粧じいさんに明らかな嫌悪感を示しているので、「まだいける」というキモチもあったかも知れないけど、自分がけっこうグロテスクになっているという自覚もあったかと思いますよ。

あとで、それとわかるシーンがありますよね。
床屋の後、すぐにアシェンバッハはタジオ一家の後をつけて、ヴェネツィアの街を彷徨します。

ヴェネツィアの街にはゴミがあちこち溜まっており、火が燃えています。
まるでブリューゲルの地獄のイメージです。
そうです、コレラが蔓延して荒れ果てた街の中を彷徨するのです。
乞食にまで付きまとわれてアシェンバッハは散々です。
しかし、相変わらずタジオはこちらを振り向いて、主人公の気を引き続けます

このあと一家は薬屋で?なにかを買った後立ち去り、アシェンバッハは彼らを見失います。

そこで、本当に悲しそうな顔をします。
しかも白い上着、赤いネクタイはよれよれになり、顔は汗で濡れています。

その格好で彼は井戸端に倒れます。

心臓の病気が出たのでしょう。

しかし彼はここで、哄笑します。
「うへへへはははは」という感じで大笑いするのです。

はて、彼はどうしてここで哄笑するのでしょうか?

エリナさん、Sさん、この際、ぜひお答えください。
 煙の立ちこめる、死に瀕したベネチアの街は、またぞくぞくする美しさですね。
 問題のほうですが、、、、わかりません(あっさり)。高校生の頃、現代文で肝心の問題をいつも外していたのを思い出します。
 主人公は、自分のやっていることの滑稽さや恥ずかしさをわかっていたはずですから、ここまできたら、もう降参するしか無いはずです。友人との論争のシーンがありましたが、あれは内面の葛藤でもあるのですよね。そして、彼は美しい少年を追いかけ回し、生涯をかけて刻苦精励してきたはずが、こうして堕落してしまいました。笑ったのは、美を追求するために、自分はずいぶん回りくどい努力をしてきたのだな、おかしいよね、という感じでしょうか。彼は間もなく死んでしまいますが、映画ではあまり、悲惨さも悲しさも感じられません。幸せだったとまでは言えませんが、死と交換するほどまでの美を目にし、それを愛していたわけですし、芸術家としても、人としても、納得できたのではないですか。
ぼくも完全に理解したという自信はありませんが、

ここはその後の音楽会の回想シーンと連続させて理解したほうがよいかと思っています。

演奏会の指揮が失敗して、控え室に倒れます。そこに友人のアルフリートがきて「あなたの音楽は死んだ。大衆はそれを見破った」って言うんです。

つまり彼の「芸術を涵養することによって、精神は倫理的に高まり、神に近いものとなる」という美学が破綻したということになると思います。

それに対して、アルフリートが提唱していたのは、現実のなかにある美、五感によって理解され、生きられる美です。つまり現実のなかにある美でした。

つまり美に対する考え方が根本的に変わったということです。

ところでヴィスコンティの作品には「時代が変わった」という痛切な認識がよく出てきます。
「山猫」では、貴族が支配していたシチリアの地域の支配権がブルジョワに移っていくのです。貴族はブルジョワの台頭を苦々しい思いでみていますが、それを受け入れます。
「家族の肖像」でも、古典文化に埋もれて生きている教授の家に荒々しい若者たちがロック音楽を抱えて闖入してきます。教授は不愉快な思いで彼らを迎え入れますが、しかし彼らにもある種の魅力があることに気が付きます。

実にヴィスコンティの最大テーマはある文化が滅びて、別の文化が台頭する、ということだと思います。

つまり、問題を少し視点を変えて再提出してみると「アシェンバッハはアルフリートとの論争に勝ったのか負けたのか?今この論争についてどう思っているのか?」ということになります。
>つまり彼の「芸術を涵養することによって、精神は倫理的に高まり、神に近いものとなる」という美学が破綻したということになると思います。

 これはキリスト教的倫理観ですよね。彼は、こういう使命感があったのですが、現実の中にある美の魅力に気がつくのですね。ギリシャ彫刻のような、という形容を原作ではしていましたが。見方によれば、獲得したということではないでしょうか。滑稽で惨めな思いではありますが、そもそも、あの少年に抱いていた思いが性愛だったとしても、同性であり、年寄りだったとしても、別に悪でも何でもないし、自分のそういう感情を味わうことは、人間を理解することでもあるし、人生を何というか豊かにするかもしれません。悲しくても。それも、芸術家としては負けではないと、思われますが。死と引き換えにはなりましたが、彼は受け入れていたと思います。答えになってますでしょうか。
>キリスト教的倫理観ですよね。

まあ、そうなんですが、キリスト教というよりはドイツ教養層がもっていた文化概念、倫理観があるんじゃないでしょうか。

それが崩れていくわけです。

実は、コンサートの失敗のあと、悪夢をみて飛び起きるシーンがありますが、その間に入るはずの、本当に悪夢のようなシーンをヴィスコンティは撮ったのですが、削除してしまいました。

これは、なんと数十年後のアシェンバッハがミュンヘンのカフェ・プロコープではでなオージー・パーティのような狂酔乱舞を繰り広げる人々の輪に加わるシーンで、原作の「ワルプルギスの夜」に当たるものです。
ヴィスコンティはこれが大好きで「地獄に落ちた勇者ども」でも、ナチス親衛隊によるホモ・パーティを撮っています(「ルードヴィッヒ」にもあり)。

これが本当の悪夢でして、それで主人公が目をさますわけです。

このワルプルギスの夜はどういう意味をもつかというと、現実のもつ美、欲望も含めて、全部を受け入れると、その究極の姿は、これ、ということになるんでしょう。

アシェンバッハがこれまで狭苦しい精神の王国に暮らしていたのが、タジオによって、そして友人との論争によって、現実世界がもっている広大な可能性、美に目覚めるわけですが、彼が開眼した世界の究極の姿はこのワルプルギスの夜なんでしょう。
友人アルフリートについて

アルフリートは、マーラーの友人であったシェーンベルクから取られていると一般にはよく言われています。

前にも書きましたが、現代音楽の創始者といってもよいシェーンベルクはマーラーとは喧嘩友達で、よく議論をしていたし、またマーラーは友の作る音楽がわからぬまま、(友人なので)支持を与えたと言われています。

ところが、ヴィスコンティはあるインタヴューで「アルフリートはシェーンベルクではなくて、アシェンバッハのもう一つの自我だ」と言い切っています。

この映画には、いうまでもなく「古典的なドイツ教養主義」の哲学と、そして「現実の美と悪と死等等をまるまる受け入れる文化観、美学」との対立があるわけですが、その対立はアシェンバッハの心のなかにもあるということになります。

ヴィスコンティは同じインタヴューのなかで、この2つの文化観の交代は1910年代、ちょうど一次大戦の頃に起きたと言っています。

これはちょうど、ヴィスコンティの師であったジャン・ルノワールが「大いなる幻影」で展開したテーマであったわけです(戦争で社会が根本的に代わった。貴族の没落)

つまり自分の古典主義的な文化観、人生観がタジオの登場によってひっくり返されてしまい、それを受け入れたことになります。

「現実の美」を受け入れることは、死を受け入れ、グロテスク、愚か、滑稽を受け入れることでもあります。

アシェンバッハはそういうことを自覚していたのです。友人のアルフリート(アルター・エゴ)を通して受け入れたのです。
井戸端での哄笑

アシェンバッハはだんだん自分の美的理想が崩れていくことを自覚しています。
美少年によって崩れたのです。

ただ崩れた自分をそのまま肯定していると、(ヴェネツィアに残るわけだから)、自分が滅びることも自覚しています。
ヴェネツィアにはコレラも蔓延しているし、自分が心臓が悪いことも理解しているわけです。
しかも、美少年に身を入れるあまり、化粧したりして、自分が非常にグロテスクな存在になっていくことを自覚しています。

ヴェネツィアで美少年を追っかけて、井戸端で倒れて、しかも顔は汗と化粧でぐじゅぐじゅになって、つまりいちばんみっともないというか、惨めな状態になったのです。

ここでわははと大笑いするのです。
自分ってなんてみっともない存在になってしまったんだ、わはは。
しかし、それでいいもんね、わはは、という大笑いです。
自分のことがわかっているのです。

ここがわからないと作品がわかったことになりません。
作品の最高のクライマックスだと思います。

このシーンは実はシナリオにはなくて、大笑いすることはダーク・ボガートがしたと言われています。
彼はこの映画で自己最高の演技をしたと言われていますが、作品をよく理解していたからでしょうね。
(だいぶ間があいてしまって、申し訳ありません)

映画もここまで来ると、フィナーレを迎えます。
主人公が朝、食堂に降りていくと、タジオの一家の荷物がフロントの前においてあって、彼らはもう帰国するというのです。

アシェンバッハが浜辺に出ると、最後の浜遊びをしているタジオに会います。
その後、タジオは浜にいつもいる青年と組討ちをします。

このシーンには性的なものを感じます。

主人公はこれをみて(興奮のあまり?)倒れて死にます。
したがってこの死はコレラのためではなく、心臓の病気のせいです。
顔に黒い筋ができるのは、髪を染めた墨汁?が流れでたということになります。
そして最後のシーンで、タジオは海に入り、あっちの方を指さしておかしな姿勢をします。
アシェンバッハはそれに向かって両腕を差し出しながら、事切れるのです。

はて、あれは何を意味するのでしょうか?

(あれ、これはやったかな?)

どうですか、皆さん?
もしかすると、天使?(悪魔?)に導かれたのでしょうか?・・・・
天使(悪魔?)ってなんですか、このばやい?
願望ということになりますか?・・・・?
 「あなたの行くところがあそこにありますよ。」と、あちらの世界を指差したのでは? もちろん、主人公の幻想でしょうけれど。
ちょっと復習を試みますと、

アシェンバッハは「精神と道徳」の世界に生きていたわけですよ。
ところが、避暑地でタジオに会ってしまい、動揺します。
そして友人から「堕落せよ」と言われたことを思い出します。
友人は「美とはこの世にあるから、そこに向かって身を持ち崩していいんだ」みたいなことを言います。

つまり、美とは現世にあるってことになるじゃないですか。
それなのに、美のもとであるタジオ君は、あっちの方に誘っているじゃないですか?

矛盾していませんかね?
 少年は間もなく家族と故国に帰り、もう会うことは出来ません。本当ならば主人公は国に帰り、きっちり長生きして「精神と道徳」のために立派な作品を作らなくてはならなかった。少年もどこかで普通に年を取ったでしょう。しかし彼は別れを前にどこかを指差す少年の意図に従い、そちらを見ようとします。それは一瞬の心のふれあいであるのです。そして、そしてその瞬間と,現世にある少年の美しさを、その目と心に永遠にとどめて死んでいくことを選ぶのです。彼は「現世の美」に、身を投げ出したのですから、矛盾は無いと思いますが。
端的に言って、タジオが指さしている「あっち」って、いったいどっち?

どういう場所を指し示しているんでしょうか?
一言で言うと?

地獄? 天国? あの世? 現実ではないどこでもない場所?
ミュンヘンの女郎屋? タジオの実家? チロルの山?
ヴェネツィアのトーマス・クック?
あの世ですかー、うーん。

アシェンバッハは、でも心臓が悪くてすぐあの世に行かれるので、強いて指さす必要もないんでは?とも思うんですけどねー。
ぼくの考えを申しますと、

現世でとことん美を追求すると、それは堕落への道。
(友人に堕落せよと言われる程に)
当時は同性愛に今よりも厳しかったから、美の追求はこの世の法や倫理とぶつかることになる。
そうなると、現実世界のルール、現実世界がつくっている枠組みからはみでることになるんじゃないか。

そうなると、世間から罰せられて、没落したり死んだりすることも覚悟せざるを得ない。

そういう現実を超えた世界をタジオは指し示しているんじゃないでしょうか。
そうした超現実の世界に行きましょうって、タジオは誘っている、と、こういうことになるのでは。

そのタジオについていくことは、死の世界にいくってことです。
だから、この機会にこの世からおそらばした。

というのがぼくのの解釈ですが。
 わかりました。私の考えと、そう違わないような気もしますが。しかし、よりはっきりと、少年が誘っていることになりますか。現実を超えた世界へ。

 この幕切があまり悲惨な感じがしないのは、主人公が泣く泣くではなくて、自覚して自分の運命を選んでいるからなんですね。 はたから見れば、のたれ死にみたいでしょうが。

 美の追求も、人生の追求も、簡単に現実世界の枠からははみだしてしまいます。それは、今もあまり変わらないのではないでしょうか。人に認められることとか、幸せそうな終わり方にとらわれすぎていると、求めている大切なことは手に入らない。厳しいんですが、そういう時にどちらを選ぶのか、ということだと思います。
 
これで、『ベニスに死す』はいちよ終了いたします。

ご清聴ありがとうございました。

今回のやりとりで新たにわかったこととしては、アシェンバッハのタジオへの愛は意外と子どもへの愛情に浸透されている面がある、ということぐらいでしょうか。
また、最後の少し前で、主人公が井戸端で倒れて哄笑するシーンの重要性を指摘したつもりです、はい。

次はトピを改めて「ルードヴィッヒ」に取り掛かる予定です。

お楽しみに

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