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人生の師を歴史と人文に求めてコミュの吉田松陰

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吉田松陰(よしだ しょういん、吉田松蔭、天保元年8月4日(1830年9月20日) - 安政6年10月27日(1859年11月21日))は、日本の江戸時代後期、幕末期の思想家、教育者、兵学者。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コメント(5)

先ず、後世の人間に未だこれほどの影響を与える人物が、29才でその生涯を終えたことに、驚きを禁じ得ません。11才で藩主に講義し、24才で幕府が震撼した黒船の来航に、弟子と2人で乗り込み、アメリカへ渡ろうとした話しは有名ですね。そして、それら反幕的な活動で、野山獄に入獄するのが同じく24才だったそうです。彼はその24才のときに、野山獄で既に松下村塾と同じような事をしているのです。それは、囚人たちに向かって、『一緒に勉強しませんか』と粘り強く誘い、ついに囚人たちと獄中で学び始めます。彼は、腐っている囚人たちの長所を見つけ、『あなたは俳句が得意だから、僕たちに俳句を教えてもらえませんか』、『君は書が上手だ…』、『あなたは、植木の技術は素晴らしい』、『○○さんは、わらじの作り方が上手ですね。僕たちにわらじ作りを教えてください』等々…
そして彼自身は、『私はこれといって取り得はありませんが、しいて言えば孟子に熱中しています。良かったら孟子を講義させてください』と、地獄のような獄中を真逆の、楽しい学びの場に変えてしまいました。そして、いつしか司獄(刑務所長)までもが、その講義に耳を傾けていました。講義はその後孟子の輪読会にまで発展し、やがて松陰が「諸君の中に必ず後世、僕の意志を継ぐ者が出てくるでしょう」と信頼するまでに、彼らは変わっていきました。

私は、この話しを聞くと、今でも目頭が熱くなってしまいます。
現代の技術や知識の進歩は、目覚しいものがあります。しかし、それら手段の進化と比較して、目的であるところの精神は、先人と比較してむしろ後退している様な気がします。
このコミュニティーを立ち上げたのもまさに、それへの憂いからもあります。
犯罪等も益々悪質化、猟奇化しています。また、そこまでいかずとも、ニートやパラサイト、フリーター等の無気力な若者が増加しています。今、出来ることはそれらを知覚し、憂いを感じる人たちが、『近頃の若いもんは…』と、2千年前の壁画に描かれている嘆きを繰り返すのではなく、『近頃の若いもんはええなあ』と、松蔭のような良導ではないでしょうか。

話しが松蔭からそれてしまいましたが、松蔭も到底1回では表しきれませんね。また、機会を創ってコメントさせて頂きます。
以下、『明治維新』の方にコメントしたものです。


松蔭が自らを高みに引っ張っていく考え方として、常日頃から意識していたものに、『二十一回猛士』というものがあったそうです(ご存知の方もおられると思います)

野山の獄で幽囚の身となっていた25才のときに、21回の猛を奮うようにとの夢を見たそうです。

詳細は、以下にて。

実家杉の漢字には二十一の形がある。養家吉田も二十一回の形がある。松陰は寅年生まれ、虎の長所は猛である。猛はいわゆる激しさであり、天の声、誠である。松陰はこの猛の実践という使命感を抱き、それを実践せずにはおられなかった。普通の生活では、このようにすればこうなるからやろうとか止めようとか言うけれども、これは猛ではない。猛を実践することが松陰の生き様そのものである。このような猛を二十一回行って日本の上に立ち込める暗雲を払いのけるのだと言う精神である。今まで松陰は3回猛を働いた。あと十八回残っていると。


凄まじいまでの気概ですね。それも、若者にありがちな野心からではなく、純粋に日本や日本人を思うが故の行動に、ただただ畏敬の念を感じます。

松蔭に思いを馳せるとき、ときに『この点においては、神仏に勝っているような気がする』と思うことが間々あります。

まさに、維新という巨大な動力の発案者であり、それを動かしめた、点火プラグやローギヤの様な存在に思えます。
 以前、松蔭に関してのある文章を見て、『これこそ自分が

見習うべき方向性ではないか』と思ったくだりがありましたの

で、以下に掲載させて頂きます。



俗流に流されずに自己を確立し、昔の真の人物を師として、

毀誉利害に自分の心を動かされないようにやっていくつもりで

ある。このことを誓っていえる」


「吉田松陰  維新を切り開く思想とその後継者たち」より



 この考えや思いこそ、『古今東西・人物探求』の真の目的と

いえると思います。

 
 以下に自身が管理する(正確にはバトンタッチを受けた)も

う一つのコミュニティー、『明治維新』に書き込んだものを掲

載させて頂きます。



以下、「吉田松陰  維新を切り開く思想とその後継者た

ち」(大和書房)より、松蔭の人柄が偲ばれる一エピソードを

引用させて頂きます。


 弘化三(1846)年、松陰十七歳の春、ちょうど、林真人

の家に仮寓して勉強中、林家に火事があった。

 松陰は自分の持物には目もくれず、林家の家財を運び出す事に専心した。

 そのため二年前、藩主の親試の際、武教全書を講じて、藩主

からほうびにもらった七書直解十四冊を、一冊を残して焼いて

しまった。

 林家では、大変恐縮し、気の毒がったが、彼は「貴方の方

で、大事な家が焼かれるとき、一つでも沢山、出してあげよう

とするのは当然です。

 そのために、自分のものが焼けたからといって、不思議なこ

とはありません」と(児玉芳子談)答えた。


 
 青年時代の小さな事かも知れませんが、こういった部分で

も 彼が何を大事にしていたか、またその後の彼の行為の片鱗

が垣間見える様な気がします。
 以下、「明治維新」に書き込みさせて頂いた

ものです。


 現在、司馬遼太郎さんの、「世に棲む日日」

を読んでいます。

 その中に、松蔭の日記の一部として紹介され

ていたものを以下に引用させて頂きます。


 自分はちかごろこう思っている。志操と思想

をいよいよ研き、いよいよするどくしたい。そ

の志と思いをもって一世に跨らんとしている。

それが成功するせぬは、もとより問うところで

はない。自分は志をもつ。志士の貴ぶところは

何であろう、心を高く清らかに聳(そび)えさ

せて自らを成すことではないか。


 齢二十一にしてこの考え、研ぎ磨かれ、澄み

切ったまさにダイヤのような心であり、人類史

上最も稀有且つ高みに登った一人に思います。

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