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橋川文三を考えるコミュのみんなで『日本浪漫派批判序説』を読もう!―増補『日本浪漫派批判序説』未来社刊

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「保田與重郎」のトピで「ダンボールさん」から身に余るお褒めの言葉をいただき、嬉しいやら気恥ずかしいやら、たいへん恐縮しています。
他の誰でもない「ダンボールさん」であるだけに、真摯にその言葉を受けとめて、これからの励みにしようと思います。ありがとうございました。

その上で、あれから改めて『日本浪漫派批判序説』を精読してみたのです。
一部を拾い読みすることはあっても、全体を通して精読したのは、何十年振りのことでした。正直に申します。解かっているつもりが、全然、解かっていなかった、という事実を痛いほど感じました。橋川文三というひとの視野の広さと奥深い知識と、読みの鋭さを改めて実感させられ、驚愕した次第です。
また、哲学と思想とを内包させた形で、「政治」と「文学」の両方の大地を跨ぐようにして、しっかりと立っていらしたんだ、ということを今更ながらのように知らされました。どちらかだけでは、とても『日本浪漫派批判序説』は書けなかったろうと確信しています。

そして、やはり『日本浪漫派批判序説』は、橋川文三の原点であると思います。
橋川文三の全体像を掴む上で有効であるばかりでなく、その後の歩んでいった方向性をも見せてくれています。地殻の奥深くで熱くたぎったマグマのようにして、橋川文三を突き動かしていた衝動が何だったのか、何を問題としようとしていたのか、『日本浪漫派批判序説』が教えてくれているように思いました。

閉塞した時代状況の極限において噴出した精神的病理としての問題であるだけに、優れて今日性のある問題だと、わたしは確信しています。その意味では橋川文三の眼は、現代の闇に潜む魔物をも照射していたのだと思います。

わたしを含めて、このコミュに新しく加わった方もいます。
興味をもたれてコミュに参加されても、まだ『日本浪漫派批判序説』を読まれていない方もいると思います。そして、わたしのように遠い過去の体験として終わっている方もいると思います。

いみじくも「韃靼人さん」が言われています。
「私がこのコミュに参加した理由は、橋川文三の日本浪曼派批判序説をもう一度読みたいと思ったからです。
さらに言えば、橋川は保田をどのように読んだのか、保田の著作に即して具体的に知りたいと思ったからです。さらに橋川が批判序説で問題提起したのは、何だったかを確かめたいということもあるのです」

「マックスさん」のイロニイに対する疑問も、まだそのままです。
記憶が定かではありませんが「まつきさん」だったと思いますが、橋川文三の現代的な意味みたいなものを考えたい旨の書き込みも拝見いたしました。
そうしたことにも当然に、関連してくると思います。
コミュに参加されている方々においては、得意、不得意な分野があると思います(オールマイティの方もおられますが)。ことは文学にも関わることなので、色々な方を巻き込むことができると思います。

幸いにもこのコミュには、橋川文三の死を看取った二人の高弟がおられます。「かまいちさん」と「カツラブさん」です。ゼミの二年と大学院で教えを受けたお二人が一番長く、生身の橋川文三と接していたのです。とりわけ国学に関する造詣が深いと推察しています。わたしも、是非ともお二人には訊きたいことがあります。

『橋川文三を考える会』という原点に立ち返って、『日本浪漫派批判序説』を皆で読み、その上で議論しませんか?
皆で読めばそれだけ理解が深まると思います。

進め方としては、ただ漠然と議論しても、話が分散してしまい焦点を絞れなくなると思いますので、分割した形で、順番に議論していきたいと考えます。
『日本浪漫派批判序説』を理解する上で、どうしても前提となる「基本認識」があると考えます(本の中で、論理を展開していく道筋でばらばらな形で散見しています。表現を変えて重複して何度も述べられたりしています)。同じ土俵で議論するために、予めそれを皆の共通認識とする、前段階の作業的議論が不可欠だと思います。

以下、わたしなりに『日本浪漫派批判序説』の内容をまとめてみました。この番号順に、議論していきたいと思います。始まる前に、わたしが橋川文三が展開している当該の箇所を抜粋します(記載ページを表記)。重複していても表現が違う場合は、理解を助けるためにも併記します。
(1)(2)について、例示として抜粋してみました。

議論に際しては、「マックスさん」の以下のご指摘を最優先するように望みます。
「逆説や反語、アイロニカルな表現、言葉の比喩など、言ってみれば言葉のごまかしで逃げるのではなく、「ここのところは実は自分でもよくわかっていないのですが、言ってみれば−−」など、正直に表白すべきでしょう。」

意味不明のレトリックと警句の多用、また象徴詩のような言葉の羅列は控えていただきたいと思います。それこそ、日本浪漫派のイロニイを論じるのに、対象を曖昧化し拒絶するイロニイを用いるという本末転倒でしかないと思います。

最終的には、「ダンボールさん」が言われたように、『橋川文三を考える会』としてウィキペディア(Wikipedia)に掲載したいと思います。
できれば、『橋川文三を考える会編―日本浪漫派批判序説の解説』みたいな小冊子にでもなれば、などと妄想しています。
どうでしょうか?
賛同していただけるでしょうか?


『日本浪漫派批判序説』を理解するための議論順序

(1)橋川文三の考察目的…p12
  
  ?「日本ロマン派という精神史的異常現象の対照的考察への関心」
   ※「昭和の精神史の到達したある極端な様相として、そこに日本帝国主義イデロ
     ギーの構造的秘密がこもっている」
  
  ?「その体験の究明を通して、自己の精神史的位置付けを求めたいという衝動」―
   「世代的関心」

(2)橋川文三の『日本浪漫派』分析における仮説…p13〜p14
  
  ?「昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義=プロレタリ
    ア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本
    ロマン派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在の五十代、四十代、
    三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ない
    し対偶の関係がある。この三者は、精神史的類型の立場からみれば、等価であ
    る。」
  
  ?「こうしたいわば原体験としての日本ロマン派は敗戦の衝撃によって亡びたとさ
    れているが、それは事実としても正しくないばかりでなく、この種のロマン主
    義、この種の民族主義を醗酵させた母胎としての心性は、とくに三十代以下の
    世代に、広汎に認められる。」

  ?「戦後におけるウルトラ・ナショナリズムの思想史・精神史的究明は、主として
   「軍国支配者の精神形態」というテーマに集中された。それは、たとえば丸山真
    男の「超国家主義の論理と心理」によって最初の透徹した照明を与えられ、精
    密な論理的見通しを与えられたものであるが、そのさい、多かれ少なかれ論理
    的仮設としての「純粋ファシスト」が基準的操作概念とされ、日本的ナショナ
    リストはその消極的偏差の量によって測定されることになった。とくに日本ロ
    マン派に関する限り、私など実際の経験からいっても、これをファシスト・イ
    デオローグとするには、なお幾つかの中間項の挿入と基準概念の修正を必要と
    するであろう。たとえば、日本ファシズムを構成する基本的性格概念としての
    「神輿」「官僚」「無法者」という分類をとってみても、日本ロマン派をこの
    種の「無法者」の範疇に入れることは、たとえ「草莽」とか「哀しき浪士の 
    心」というようなその自称の規定をひきあいに出すとしても、やはり無理であ
    る。とくに、私の見るところでは、日本ロマン派ないしその影響をうけた人々
    は、概していわゆるインテリゲンチャの第二類型に属する者が多かったという
    点からも、かれらを単純な志士型のエトスの持主と見ることは大いなる不十分
    である。かれらが「官僚型」の人間でなかったことは、いうまでもあるまい。
    私は、軍隊にひっぱられた保田與重郎が、その高名なる国粋主義への貢献と皇
    軍賛美の努力にもかかわらず、ひどく不器用にいためつけられたというエピソ
    ードを思い浮かべる。概して日本ロマン派のなかの「純粋」な連中には権力衝
    動が欠け、合理的・市民的行動様式にも不適格であった。このことからも、日
    本ロマン派解析のための手続きには、ファシズム一般の理論とは異なる操作が
    必要であろうと思う。」

(3)論理を展開する上での橋川文三の基本認識
  ?政治体制=天皇制国家の支配原理
   ・丸山真男
   ・藤田省三
  ?日本ファシズムの特質
   ・神島二郎
  ?美意識と政治
   ・加藤周一
   ・国学的政治理念
  ?日本文学史
   ・概観=通史
   ・小林秀雄『私小説論』―「社会化した私」
   ・伊藤整―『小説の方法』
  ?社会状況

(4)日本浪漫派の誕生メカニズム
  ?歴史的分析
  ?個人的な分析
   ・保田與重郎 
   ・亀井勝一郎
   ※
   ・小林秀雄
   ・太宰治

(5)日本浪漫派の本質
  ?イロニイ
  ?イロニイと政治
  ?日本浪漫派と戦争

(6)日本浪漫派の問題
  ?戦後思想への還流
   ・第一次戦後派の精神的原型
   ・実存的ロマンチシズム−三島由紀夫
  ?ロマン主義とは
  ?ロマン的愛国心
  ?現代社会における展望
   ・私にとっての日本浪漫派
   ・イロニイと私
   ・現代社会状況から見た日本浪漫派の今日性

※※まとめ等で、おかしい点、疑問点があれば、ご指摘ください。

コメント(147)

(続き)

保田與重郎の「イロニイ」の奇怪さとは、色々な意味合いが重層的に重なり合っていることに起因しているのだと、わたしは思います。

先ず一つは、啄木の『時代閉塞の現状』の延長としての、一般的な「イロニイ」。
二つ目は、ドイツ・ロマン派=シュレーゲルの理論(概念)としての「イロニイ」。
三つ目は、マルクス主義の弁証法的な発露としての「イロニイ」。
四つ目は、国学に内在する「イロニイ」的な要素(これは、わたしは推測です。国学は詳しくありません)。

この四つが、日本的な思想土壌の中でチャンポンになっているから、よけいに解かり難くなっているのではないでしょうか。

言葉の厳密な意味での西欧的「自我」の確立が難しい精神的な土壌。丸山真男が言っている「座標軸に当る思想的伝統は我国には形成されなかった」という土壌。そして、「精神的雑居性の原理的否定を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」であるマルクス書義をくぐったということ。にも関わらず、橋川文三が看破した「過激ロマン主義」の流れとしてあった昭和初期の「マルクス主義」の限界。

そんなこととも、絡み合ってくる。こうなると、尚更、解からなくなる。
そんな気が、わたしはするのです。
私の「イロニイ」なるものに対する疑問。その趣旨、前後関係をお話しましょう。ダイコクコガネさんとの対話を通じ、私なりにだんだんと見えてきた部分もありますので、そういったことも含めてお話します。

私の疑問の出発点は、橋川氏の次の文章にあります。(『批判序説』)

「保田の思想と文章の発想を支えている有力な基盤として、三つの体系的構造が考えられる。マルクス主義、国学、ドイツ・ロマン派の三要因がそれである。そして、これらの異質の思想が保田の中に統一の契機を見出したとすれば、そのインテグリティを成立させているものは「イロニイ」という思想にほかならないと私は考える。」

「イロニイ」という言葉の定義、意味についてはその後の橋川氏の論述のうちに何度も説明の文章があるため、徐々にその文脈が理解できてきました。最後までその十全なる理解を妨げてきたのは、「体系的構造」としての「マルクス主義」でした。

この「マルクス主義」をどうとらえるか。ここが当初からの疑問でしたし、いまでははっきり見えてきましたが、ダイコクコガネさんと私との対話の食い違いの大元になっているところのものでした。その捉え方の違いをはっきり記せば、ダイコクコガネさんは、ここで言う「マルクス主義」を「マルクス主義運動」、あるいは「福本イズム」としてとらえているのに対し、私はわかりやすく言えば「マルクス思想」あるいは歴史3部作に見えるような「トータルな理論体系」として捉えていたということです。

「マルクス主義」を「マルクス思想」、「トータルな理論体系」と見れば、補論一で展開している小林秀雄の「社会化した私」の議論が見えやすくなる。つまり、「マルクス主義」を社会思想として受け取った小林が日本に見たものは、「社会化した私」の不可能性であり、ダイコクコガネさんと私が何度も確認した丸山から藤田、神島にいたる「自然村秩序」でした。この天皇制国家の支配構造の抜きがたさを見た小林は、「社会化した私」の不可能性と諦念にいたるのです。たしかに資質はちがうが、同じ「マルクス主義」を通過した保田はどうか。ここで、はたと疑問に思うわけです。果たして、保田に「マルクス思想」、「トータルな理論体系」なるものがあったのか、と。日本ロマン派の基礎のひとつとなった「体系的構造」としての「マルクス主義」。それを「トータルな理論体系」と位置づけていいのか。そのような疑問が『批判序説』を読む私の頭には最初から現在にいたるまで常につきまとっていました。
しかし、こんな文章が『批判序説』にあります。

「日本ロマン派の成立は、―(略)―むしろ大正・昭和初年にかけての時代的状況に基盤を有するものであること、また、プロレタリア・インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広汎な我国中間層の一般的失望・抑圧感覚に対応するものとして、その過程の全構造に関連しつつ形成されたものであるという観点を提示したい――」

また、自然村的秩序が崩れ、天皇制国家の支配構造が揺らぎ始めた大正末から昭和初期にかけて、その社会的動揺とパラレルに起り始めた日本ロマン派の形成、という記述。そして、補論一の小林の「社会化した私」の論述。

それから、『批判序説』読後に読んだのですが、『歴史と体験』に含まれた「昭和十年代の思想」中にある日本ロマン派をはじめとする「転向」の経過説明。すなわち、「運動」が「人手」を要求するために生活上の無理が生じ、「閉鎖的な第一次集団への回帰」が起ってくる、という説明。

これらから、保田をとらえていた「マルクス主義」は「マルクス思想」であり、「トータルな理論体系」であろうと判断したわけです。もちろん丸山や神島のような分析的把握はしていなかったにしても、自然村的秩序の崩壊、閉鎖的な第一次集団の危機の意識は保田にあり、それが「民族の発見」につながり、「転向」にいたった、と見たわけです。

また、このような文脈は、『歴史と体験』の72、73ページに展開されています。

しかし、それにしても、そのような事実を直接証明する論述がない。小林にはそれがあっても、保田と日本ロマン派には、そのことに直接触れる記述がない。それが、常に私の頭につきまとっていた疑問であり、ひいては「イロニイ」なるものがどこから来たのか、その十全な理解を阻んできたものなのです。
一方、ダイコクコガネさんの言う「福本イズム」が、ここで言う「マルクス主義」だったとしましょう。そのときには、果たして、保田らに自然村的秩序の崩壊、閉鎖的な第一次集団の危機といったものがつかまれたでしょうか。「現実の関係を明かにすべく努力するかわりに、理論的範疇の提起と調和の遊戯にふけっている」福本イズムに、そのような認識が可能だったのでしょうか。

しかし、そうは言っても、またたしかに「仮設」と断り書きがつけられてはいても、ダイコクコガネさんのご指摘通り、福本イズムと保田とのロマンティシズムをめぐる共通性は『批判序説』中に示されています。たしかに、ここだけを読めば、保田の「マルクス主義」とは福本イズムだったと了解できそうに見えます。しかし、そうであれば、日本ロマン派の基礎のひとつとして、橋川氏はなぜ、「福本イズム」という名称を与えなかったのでしょうか。なぜ誤解を与えるような「マルクス主義」なる名称を用いたのでしょうか。

また、そうであるならば、福本イズムからの転向はどのようにして起ったのか、そのダイナミズムが見えません。たとえ福本イズムに発展的「転向」なる概念が存在したとしても、そのスタイルを保田がどうして採用したのか、その機縁が見えません。また、橋川氏が『批判序説』とほぼ同時期に執筆した「昭和十年代の思想」において展開した農本的個人の「転向」のあり方と明らかに矛盾してきます。

これらのことからどういうことが言えるかといえば、私の現在の暫定的な結論としては、橋川氏は「マルクス主義」なる語を二重の意味で使っていたのではないか、ということです。「トータルな理論体系」として社会をつかむ「マルクス思想」と、そして「福本イズム」とです。しかし、それにしても、「仮設」の部分には書かれていても、私には「福本イズム」と保田との関係をつかむのがむずかしい。まず、保田と福本イズムとの歴史的関係が証明されていない。その根拠となっているのは、27年テーゼにおける福本イズム批判の言が日本ロマン派の本質を衝く言葉を使っている、という橋川氏の直感でしかない。もちろん、ここの歴史的証明がむずかしかったのでしょう。そのために「仮設」と断らなければならなかったのでしょう。
しかし、「イロニイ」なるものをつかむために、あるいは『批判序説』の核心をつかむために最も重要な部分は、私が、101のところで指摘した三つの峰の部分だと思います。「(保田は当初)絶対的なものを追求していた」という竹内好の証言。ふたつ目は満州事変をめぐる保田の論述。そして三つ目は、本論の最後にある、戦争の現実を「昨日」として「思い出」として解釈し、「歴史」として生きることを教えた、というくだりです。101、102のところで詳述したので繰り返しませんが、そこに現実から遊離した「イロニイ」が生まれ、古事記を抱いて南方の密林で屍をさらすというような倒錯したいかれかたが生れたのでしょう。

ここにおいて、現実から遊離した保田の「美意識」、「イロニイ」になぜ橋川氏がいかれたかの秘密が明かされます。まさにこの最後の文章にそれがそのまま表れているので、ここに繰り返す要はないでしょう。そして、橋川氏は最後にこういっています。

「しかし、また、その「美」が、一種の根源的実在として提示されたものである限り、それが現在もなお、ある隠された原理として作用していることは否定できないのである。」

この部分が『批判序説』の現在性につながるところでしょう。
ダンボールさん。

上記のものでよろしいでしょうか。つまり、「イロニイ」なる概念はおいおいつかむことができたが、日本ロマン派の基礎を構成するひとつである「マルクス主義」との関係がいまひとつつかめなかったために、「イロニイ」なる概念のよってきたる筋道がよくわからなかった、ということです。

この部分は、上記のように「マルクス主義」を「マルクス思想」、あるいは「トータルな理論体系」として解釈すれば、それによって看取された自然村的秩序の崩壊が日本ロマン派の形成に強く影響した、という意味合いで、そのよってきたる筋道が納得できるわけです。
ダイコクコガネさん。

さしつかえなければ、下記のところのご事情をもう少し語っていただけませんか。

いろいろな意味で興味がありますし、福本イズムにある発展的「転向」といったものも、もう少しわかりやすくなるかもしれません。


「ともあれこれで、わたしは「小説」に「転向」します。
この転向は、わたしにとって保田與重郎と同じように、「福本和夫」的な発展的な「転向」です。そして、橋川文三の呪いでもあるのです」
マックスさん。

最初に断っておきます。
少々、きついことを言ってしまうかもしれません。
気に障ったら、お許しください。

マックスさんの解釈の方が、個人における「思想のダイナミズム」ではなく、むしろ固定的な捉え方をしまっている気がします。それこそ「ダイナミズム」は見えてこなくなってしまうように思います。

ひとは、あらゆる行為において、原因と結果を絶えず理性的に判断していると考えるのは間違いです。
そして、ひとは絶えず変わっている。経験や年齢とともに、自覚しているか、無自覚かの違いはあれ、考え方から感じ方まで変わっているんです。
それから、マックスさんが終始一貫して拘っている「社会化した私」ではないですが、ひとは社会の中でいきているのであれば、当然にその影響を受けるわけです。
社会という意味は、マルクス主義的にいう下部構造(経済的客観性)も勿論そうですし、それ以外に風俗や流行や思想的なトレンドや、もっと曖昧な表現をすれば「時代的な空気」のような、目には見えない「漠」としたもののにも影響されているわけです。

ひとが原因と結果を理性的に判断して行動しているとすれば、それほど解かり易い社会はありませんし、ある意味では不気味ですらあります。

マックスさんのマルクス主義の捉えかたもそうです。
固定的な見方をしています。その箇所を抜粋します。


「マルクス主義」を「マルクス主義運動」、あるいは「福本イズム」としてとらえているのに対し、私はわかりやすく言えば「マルクス思想」あるいは歴史3部作に見えるような「トータルな理論体系」として捉えていたということです。


わたしは、「マルクス主義」を「マルクス主義運動」、あるいは「福本イズム」としてとらえて」などおりません。大正末から昭和初期の日本におけるマルクス主義運動の中の一つに「福本イズム」があったといっているのです。そして、あの時代の日本における「マルクス主義」を考えたとき、どうしても無視することができないのが「福本イズム」なのです。「福本イズム」の理論信仰の側面と「分離結合論」は、戦後における日本の「マルクス主義」運動を考える場合に、どうしてもそこに立ち戻ってしまうくらい重要なものだからです。
小林秀雄にしろ、福本和夫にしろ、野呂栄太郎にしろ、保田與重郎にしろ、マルクス理論を学んだはずです。
マックスさんが言われる「トータルな理論体系」というのが理解できませんが、「主義」だけを学んだのではなく「トータルな理論体系」も学んだはずです。
そうした人たちの考えと運動が、戦前の日本における「マルクス主義」なのです。
全く別個であるはずがありません。

それから、マックスさんのいわれるマルクス主義を「トータルな理論体系」と見なすという認識には、マックスさんの次の言葉の意味が含まれているように思えます。


「ダイコクコガネさんと私が何度も確認した丸山から藤田、神島にいたる「自然村秩序」でした。この天皇制国家の支配構造の抜きがたさを見た」


マックスさんは小林秀雄も保田與重郎もこうした「トータルな理論体系」のもとに、天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていたとしています。
保田はもちろん、小林秀雄もこんなことはわかってはいなかったはずです。
小林秀雄が見ていたのは、丸山真男が『日本の思想』で書いている「精神的雑居性の原理的否定を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」であるマルクス主義の側面です。
マルクス主義の受容によって、初めて日本にも西欧的意味での「個人」と「社会」との対立的な自覚が起こるはずだと、小林秀雄は思ったのです。
小林秀雄の「社会化した私」は、日本文学史の「私小説的」な土壌を踏まえた上で考えなくてはならないのです。

天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていたなどと、どこにも書かれてはおりません。
(続く)
(続き)

わたしが、このトピで既述した神島二郎の抜粋箇所に対して補足的にまとめたところを再度掲載します。

「神島二郎は、一般のファシズム論と同じように、日本ファシズムの発生は中間階級を基盤にしていたと考えました。が、神島はその基盤の解明に対して、独自の概念を用いたのです。通常おこなわれる中間階級の客観的条件による把握に対して、主観的条件による把握を重視したのです。それは、主観的な階級帰属意識が政治の帰趨を決定するのであり、客観的帰属が曖昧な社会層の主観的帰属が最重要だ、という問題意識からです(神島は「中間階級」でなく、主観的帰属を問題にするという意味で「中間層」とした)。」

ここで言われている「通常おこなわれる中間階級の客観的条件による把握に対して、主観的条件による把握」を注目してください。
「中間階級の客観的条件による把握」とは経済的な条件、階級性のことです。これはマルクス主義的な分析方法です。下部構造を分析すれば、それに本質的に規定されている上部構造は自ずと見えてくるという方法論です。

これに対して神島二郎は「主観的条件による把握を重視」しているのです。アプローチの仕方が全く逆転しています。
つまり、マックスさんが言われるマルクス主義を「トータルな理論体系」と見なしたとしても、こうした分析は不可能なのです。

丸山学派とは、先にわたしが挙げた『もっと曖昧な表現をすれば「時代的な空気」のような、目には見えない「漠」としたもの』こそを重視したのです。そうしたものこそが、無自覚にひとを突き動かし、また時代を突き動かしていると考えるからです。そうした霧のような中に潜んでいる、無自覚な意識の中に隠れた「思想」と「精神的構造」と「政治的意味」とを探ろうとする学問なのだと、わたしは考えています。

何かマックスさんは、「トータルな理論体系」をもったマルクス主義が万能のような認識をされているような気がしてなりません。

保田與重郎が関わった戦前の日本のマルクス主義というときに、マックスさんが言われるようにマルクス主義=「トータルな理論体系」とする時点で、歴史的に見る視点を欠いているように思います。確固とした形での「マルクス主義」がそこにあるのではないのです。「マルクス主義」も歴史の中で、時代状況で、国による精神的な風土性でちがったものとなるのです。

マックスさんが、わたしへの反論として述べられている箇所ですが、これこそが、丸山学派的な分析なのです。そのまま抜粋して、逆反論とさせていただきます。


「日本ロマン派の成立は、―(略)―むしろ大正・昭和初年にかけての時代的状況に基盤を有するものであること、また、プロレタリア・インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広汎な我国中間層の一般的失望・抑圧感覚に対応するものとして、その過程の全構造に関連しつつ形成されたものであるという観点を提示したい――」
「また、自然村的秩序が崩れ、天皇制国家の支配構造が揺らぎ始めた大正末から昭和初期にかけて、その社会的動揺とパラレルに起り始めた日本ロマン派の形成、という記述」


上の既述こそが、わたしが述べた『もっと曖昧な表現をすれば「時代的な空気」のような、目には見えない「漠」としたもの』なんです。金融恐慌、思想弾圧、農村恐慌、迫り来る戦争の足音、先の見えない不安。そうした「時代的な空気」の中から中間層インテリゲンチャの間に「イロニイ」が芽生えたのです。その流れの先に、日本ロマン派がいたという分析です。

これを、マックスさんが解釈しているように、「天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていた」としたら、むしろ日本ロマン派は誕生しなかったでしょう。
戦前のマルクス主義陣営=日本共産党ももっと有効な戦略をたてられたはずです。
「天皇制権力は、その基礎の動揺・分解の所在をつきとめることなく、その再編・強化を求め、同時にまた、それをつきとめなかったがゆえに、体制自体をファシズム化したと思われるからである」と神島二郎が言っています。

そして、最後に、マックスさんの次の文章を抜粋します。
失礼ですが、マックスさんは、わたしがこのトピで既述したことを、お読みになられているのでしょうか。

「もちろん丸山や神島のような分析的把握はしていなかったにしても、自然村的秩序の崩壊、閉鎖的な第一次集団の危機の意識は保田にあり、それが「民族の発見」につながり、「転向」にいたった、と見たわけです」


保田の「転向」が特殊だという意味を説明しましたよね。
そして、保田の「転向」はマルクス主義からの「転向」なのです。
極論すれば、むしろ理論的な「転向」なのです。
わたしの「104・105」をもう一度読んでください。

(続く)
(続き)

「転向のダイナミズム」と言われていますが、マックスさんの解釈こそ「転向のダイナミズム」が見られません。

わたしが保田の思想の変遷を『批判序説』の論理に沿って既述したのを、もう一度お読みください。

マルクス主義理論(=福本イズム)の保田的な弁証法的=「イロニイ」による読み替えが「転向」であり、そして、なし崩し的な国学への接近が始まり、そうした中で「民族の発見」につながったり、無政府主義的な農本主義になっていったりするのです。
言っておきますが、「民族の発見」が転向ではありません。

わたしは、既述しました。もう一度、既述します。

マルクス主義運動の政治性と論理性から、非政治性と心情性へと、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」をしたのです。そして、政治から疎外された革命感情の「美」に向かって、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」をしたのです。
マルクス主義からの発展的「転向」を行った当初は、保田與重郎にとっては、それこそが「革命思想」であったわけです。

これを「転向」としてはいけないのですか?

通常の転向でないから、「特殊な転向」と橋川文三が言っているのです。
そして、一見するとありえないような「マルクス主義」からの、「国学」への接近のダイナミズムは、この「転向」によって可能になったのです。これこそが『批判序説』における橋川文三の独創的分析であり、珠玉の論理なのだと、わたしは思っています。
この橋川文三の視点をくぐって初めて、保田與重郎という「化け物」の正体がつかめるようになったのです。
だから、この「マルクス主義」からの「転向」が『批判序説』の核心部だと言ったのです。
そして「化け物」が、わたしの中にも棲んでいることを知らされたのです。

マックスさんは、この部分の『批判序説』での説明が不十分だと言われる。が、わたしはこれで充分だと思っています。極論すれば、すこぶる論理的な「転向」だからです。それでいて、保田の思想の変遷を理解する上ではキイポイントとなっているのです。

マックスさんは、この「転向」のあとの保田に関する『批判序説』の部分に、あまりにも目が行き過ぎているように思います。


あっ、忘れるところだった。

「ともあれこれで、わたしは「小説」に「転向」します。
この転向は、わたしにとって保田與重郎と同じように、「福本和夫」的な発展的な「転向」です。そして、橋川文三の呪いでもあるのです」

この箇所は、何の意味もありません。橋川文三に「40才を過ぎたら、小説を書け」といわれたので、忠実に守っているだけです。47才から書き始めて、毎年、新人賞に投稿しているのですが、才能がないため、まだ作家にはなれない(いや永久に無理だろう)という意味に過ぎません。
マックスさん。

補足です。

「福本イズムにある発展的「転向」といったもの」

福本の言っている「転向」とは、革命に向けた間違っていた戦略的方向を、正しい方向に変えるという意味で使われているのです。その意味で、わたしは発展的、また積極的と形容したのです。
だから、保田は弁証法=「イロニイ」によって、福本イズムをより高い次元にした、というような認識だったのだと思います。
橋川文三が言っているように、本人はそれこそが「革命思想」だ、くらいに考えていたのでしょう。

しかし、やはりこの「転向」には、小林多喜二の拷問死に象徴される思想弾圧の影響があったはずです。それを「イロニイ」によって、意識的に韜晦してしまったのだと思います。橋川文三も、そう認識していたと思います。

そして、結果からみれば、「マルクス主義」とは全く違った地点まで、保田は歩いていくことになったのです。その意味では間違いなく「マルクス主義」からの「転向」だったのだと思います。
マックスさん。

再度、補足です。

マックスさんが、言われていることに対してです。

ダイコクコガネさんの言う「福本イズム」が、ここで言う「マルクス主義」だったとしましょう。そのときには、果たして、保田らに自然村的秩序の崩壊、閉鎖的な第一次集団の危機といったものがつかまれたでしょうか。「現実の関係を明かにすべく努力するかわりに、理論的範疇の提起と調和の遊戯にふけっている」福本イズムに、そのような認識が可能だったのでしょうか。

「保田らに自然村的秩序の崩壊、閉鎖的な第一次集団の危機といったものがつかまれたでしょうか」という箇所です。

郷里に帰れば目にすることですから、保田は当然に知っていたはずです。
福本だって、認識はしていたはずです。
農村の荒廃を知っていたから農本主義の運動が起こったのですし、その延長線上に5・15事件があったのですから。

農村の惨状を知っていることと、「天皇制国家の支配原理」としての二元性の意味を知っていることとは、全く別次元のことです。
二元性を知らなくても、農村の惨状はわかります。
そして、「第二のムラ」における自然村的秩序の崩壊も、感覚的に誰もがわかっていたと思います。それが、「時代閉塞の現状」が醸し出す、目には見えない「時代的な空気」なのです。そのわけがわからない空気を呼吸するうちに、無自覚に、中間層インテリゲンチャの意識の中に「イロニイ」の影が忍び込んでくるのです。

農村の荒廃した現状を知っていても、、「天皇制国家の支配原理」としての二元性の意味を把握できていなかったから、「マルクス主義陣営」は現実に即した有効な戦略を打出せなかったんです。
それは、農本主義者も、支配層も同じです。

それから、福本イズムですが、27テーゼ・31テーゼ・32テーゼ・資本主義論争を経ても、戦後の「マルクス主義」運動の中にさえ、福本イズムにおける理論信仰の側面は色濃く受け継がれていたのです。
そして、「分離結合論」は「セクト主義」でもあったのです。

「現実の関係を明かにすべく努力するかわりに、理論的範疇の提起と調和の遊戯にふけっている」福本和夫でも、いくらなんでも農村の荒廃の現状は認識していたはずです。
福本が農村の情況を認識していたのはどのような次元でしょうか。まあ、ともかく、保田の初期の雄大な「転向期」論文はむかし番町書房から出た「昭和批評大系」の始めの刊で読みました。引越しをたくさんしたおかげでなくしましたがその次刊では既に「日本の橋」が載っています。

保田の「郷里」は奈良でしょう。
NOAMさん。

はじめまして。

おっしゃる通り、保田の「郷里」は、奈良県の桜井町です。
「大和」としたのは、厳密に言えば間違いです。すみません。

>福本が農村の情況を認識していたのはどのような次元でしょうか

27テーゼの前後で、野呂栄太郎の二つの論文における明治維新革命の捉え方が、純粋な「ブルジョア革命」から変わるわけですが、福本和夫は当然に純粋な「ブルジョア革命」と見なしていたと思っています。

「資本主義論争」が「封建論争」であったことから見ても、当時の国家体制に内在する「封建性」を過小評価していたことは間違いないと思います。
そして、理論重視のいわば公式主義的なものでしたから、「農村」への視点が著しく欠けていることも事実だったと思います。

その意味では、「農村の情況を認識」してはなかったといえると思いますが、「農本主義」運動の昂揚とかは、時事的な問題として知っていたはずと「推測」しています。
「農村」の荒廃は知っていた。が、それと日本における革命戦略を考える上では、無視できる程度にしか認識していなかったのだと思います。
その辺りは、郷里と一心同体のような保田とは、大きな隔たりはあったはずです。
福本イズムの論理的な読み替えである「転向」にも、その辺りは無意識に働いたと思っています。

それから「恐慌」の捉え方も重要だと考えています。革命にとってはプラスであるような受け入れかたというか……。そうした志向の延長からみれば、「農村の荒廃」を見る視点も、どれほどのものだったかは想像はできます。

『批判序説』を読むことに主眼をおいていたので、できるだけ『批判序説』で引用された書籍以外は、わたしは参照しないようにしたかったのです。
当然、その当時の橋川文三の知識は、『批判序説』の世界よりももっと広大なものであることは確かですが、それでも『批判序説』の世界に限定して読みたいと思ったのです。

たとえば、当時の「マルクス主義」について、橋川文三は『歴史意識の問題』で書いています。福本イズムについても。でも、そうした知識の補助がなくても『批判序説』は理解できるように思ったのです。
『批判序説』の後で、橋川文三は日本ロマン派に関することを述べているはずです。多少、矛盾することがあるかもしれない。
が、わたしは『批判序説』に拘りたいのです。
これが、わたしの原点だからかもしれません。

長々と、くだらないことを書いてしまいました。
NOAMさん。

補足させてください。

マックスさんが、保田の「転向」に関して例示された「小野」の日本的な精神土壌における「個人」、「自我」という問題が、当時の「マルクス主義」の中にも同じような問題としてありました。
保田の「転向」には、深いところでは、そうしたものも関わっていたのは確かです。
但し、意識されたものでなく、体を流れている血を通して、無意識に作用したのだと思われます。

「転向」という現象を一つの断面でぶった切って、事足れりとするつもりはありませんが、鮮やかな形で論理的に捉えるということから見れば、致し方ないと思います。

小説「保田與重郎」なら、そんなレベルでは問題外です。
生きている保田與重郎という「化け物」は描いたことにはなりません。
意識している内面と、もっと奥深くにある意識を超えたもの、遠く歴史を越えて身体の中に脈々と流れている血に染み込んだもの(「民族」「大地=自然」「祖先の魂」?)、そんなところまで描かなければならないと思います。
NOAMさん。

すみません。
思いついたので、ついでだから書いてしまいます。

前から思っていたんですが、何で橋川文三は他の丸山学派と違って、あやふやな現象を論理的にぶった切って、鮮やかに目の前に突きつけてくれないんだろう、という不満というか疑問があったのです。

橋川文三は、あまりにも文学的なんだと思います。つまり、一つの断面でぶった切って、事足れりとできない。さきほど、わたしが書いたところまで拘っている。

意識している内面と、もっと奥深くにある意識を超えたもの、遠く歴史を越えて身体の中に脈々と流れている血に染み込んだもの(「民族」「大地=自然」「祖先魂」?)、そんなところまで描かなければならないと思います。

だとすると、マックスさんの読み方が、橋川文三的なのかなあ、と思えてきました。
マックスさん、申し訳ありません。

もう、仕事に行かないとならないので、中途半端で心残りなんですが、終わります。
ダイココクコガネさん。

とりあえず、これをこの話題の最後とするつもりですが、いろいろとご教示、ありがとうございました。ちょっとエキサイティングな場面もありましたが、大変勉強になりました。また、対話を重ねるうちに、自分でも気がつかなかった新たな文脈、構造のあることに気づかされ、まさに目からうろこが落ちる思いもいたしました。まあ、このちょっと記しておきましょう。

なぜ私が「イロニイ」なる言葉、考え方にわからなさを感じているのか、自分なりにその疑問の源泉がわかってきたような気がします。はるか昔に読んだ萩原朔太郎の解説書である岡庭昇の本に「陰画としての近代」という言葉がキーワードとして展開されていましたが、『批判序説』を読みながら、「イロニイ」というのはそのあたりの考えに縁近性を持つのかな、と思い続けてきました。もちろん、いま岡庭の本も手元にないし、その縁近性を裏付けることなどはできません。私が言いたいのは、「イロニイ」なる言葉については漠然としたイメージから入って、読み進むにしたがって橋川氏の記述にしたがって語の定義、社会的機能といったものがつかめてきたということです。では、そのわからなさとは一体どこにあったのか。それは、やはり概念の由来でしょう。マルクス主義からの由来が、どうしても、腹に入ってこない。

ダイコクコガネさんは、マルクス主義からの「転向」、「イロニイ」への道行きについて、こう書いています。


「?『挫折の内面的必然性を非政治的形象に媒介・移行させる』。
?『「心情の合言葉」としてのマルクス主義という奇怪な倒錯的表現は、それが非政治化され、情緒化された形での革命思想であった』
?『政治から疎外された革命感情の「美」に向かっての後退・噴出』」

また、こうも書いています。

「マルクス主義運動の政治性と論理性から、非政治性と心情性へと、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」したのです。そして、政治から疎外された革命感情の「美」に向かって、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」をしたのです」


「発展的な「転向」」という概念は福本から引いたものですが、私にはこの道行きがどうしても腹に落ちないのです。論理としては理解できますが、果たしてこれが「転向」なのか、という疑問です。もちろん、福本はこれを「転向」と呼ぶのでしょうが、これが「弁証法」から「イロニイ」に転ずる過程だとしたら、ちょっと味気ない思いが残ります。
また、ダイコクコガネさんは、こうも書いています。


「福本の言っている「転向」とは、革命に向けた間違っていた戦略的方向を、正しい方向に変えるという意味で使われているのです。その意味で、わたしは発展的、また積極的と形容したのです。
だから、保田は弁証法=「イロニイ」によって、福本イズムをより高い次元にした、というような認識だったのだと思います。
橋川文三が言っているように、本人はそれこそが「革命思想」だ、くらいに考えていたのでしょう。
しかし、やはりこの「転向」には、小林多喜二の拷問死に象徴される思想弾圧の影響があったはずです。それを「イロニイ」によって、意識的に韜晦してしまったのだと思います。橋川文三も、そう認識していたと思います。
そして、結果からみれば、「マルクス主義」とは全く違った地点まで、保田は歩いていくことになったのです。その意味では間違いなく「マルクス主義」からの「転向」だったのだと思います」


もちろん、名づけ方は何と言ってもかまわないのですが、あえて言えば、この歩みは、「転向」というよりむしろ「ルサンチマン」といったほうがふさわしいのではないかとも思われます。

ダンボールさんから、そろそろ「イロニイ」なるものへの話題転換をはかったほうがいいという提案があり、ダイコクコガネさんがそれに応じて系統的な知識を披露され、その中で石川啄木のロマン的心情とその社会的背景あたりから入ってはどうか、との逆提案がなされました。なかなかに着眼点のすぐれた提案だと思います。橋川氏はこう言っていますね。(『批判序説』)


「私がここでいいたいことは、啄木が感じた時代の「性急な思想」の中には、いうまでもなく国民的規模におけるある無力感が現われていたが、ただそれは純粋なイロニイとして現われるまでにはいたらなかったのに対し、日本ロマン派の場合には、時代の挫折感は中間層の規模の拡大に対応して拡大され、したがって、その無力感はより過激とならざるをえなかったということである。―(略)−「日本浪漫派はここに自体が一つのイロニーである」という「広告」の言葉は、私にはたんなる高踏のポーズではなく、奇妙にこみ入った文脈においてではあるが、我国における「強権」の発展過程と、それに対する反体制的底流の相互関係の中に正当に位置づけてしかるべき発言と考えられるのである」


「中間層」といった言葉づかいに、ダイコクコガネさんが注意を促された神島の「第二の村」の概念がうかがえますが、ここでの議論の重点は、やはり日本ロマン派の「イロニイ」におけるただならぬ様相への予告でしょう。保田はなぜ「マルクス主義」から「転向」し、「イロニイ」なるものにいたったのか。その生々しい道行、ダイナミズムこそ語られるべきであることが予感されます。
橋川氏の遺作に『昭和維新試論』があります。かまいちさんに紹介されて読んだのですが、その中で橋川氏は、「戊申詔書」なるものを紹介しています。啄木が国民的規模における無力感に襲われ、「何か面白いことはないかねえという不吉な言葉」を青年たちがつぶやいていたころに出された(1908年)天皇の詔書です。橋川氏はこの詔書に、当時の支配層における不安心理、危機意識を読み取ります。山県有朋、明治天皇自身、「社会主義」に対する強い不安を語ります。その3年後に、山県の「病的な恐怖感」から幸徳秋水が刑死します。その幸徳は1901年に、著書「帝国主義」でこう書いています。


「封建時代の武士は、国家をもって武士の国家なりとせり、政治をもって武士の政治なりとせり、農工商人民はこれに与かるの権利なくまた義務なしと思惟せり。今の軍人もまた国家をもって、皇上及び軍人の国家なりと為せるなり、彼らは国家を愛すというといえども、その眼中軍人以外の国民あらんや。故に知る愛国心の発揚は、その敵人に対する憎悪を加うるも、決して同胞に対する愛情を加うる者にあらざることを。」


おおざっぱな文章ですが、天皇制国家の支配原理を素朴な形で伝えていますね。天皇制国家の愛国心は「農工商人民」といった「同胞」に対するものではなく、むしろ「同胞」は政治に参与する権利も義務もないという趣旨ですね。秋水は『資本論』を知らず、社会分析における有効なツールをもってはいませんでしたが、その生活、思索によって天皇制国家の支配原理の大元はつかんでいたんですね。思想とはこういうものですね。

「天皇制の支配原理」としての二元性、あるいは「自然村的秩序」や「第二の自然村」を理論化した藤田、神島は丸山学派として有名ですが、その丸山自身、学生時代には講座派の書物を熟読していたこともまた有名ですね。講座派の面々は1920年代、30年代を代表するマルクス主義者たちですが、その代表的な経済学者、山田盛太郎は、1932年、『日本資本主義発達史講座』の中、「軍事機構=キイ産業の構成」の「旋回基軸」を説明する中で、こう書いています。


「日本資本主義の根本的特質の一つは、厖大な半農奴制的零細耕作を地盤として、したがって、広汎な半隷農的零細耕作農民および半隷奴的賃銀労働者の労役土壌を基礎として、それの上に、巨大なる軍事機構=キイ産業の体制を構築するに至っている点に存する。かくの如き関係の下における軍事機構=キイ産業の創出過程、その過程の強力的性質の明確な把握は、日本資本主義の軍事的半農奴的性質を正しく理解するために、必要とされる所である。」


山田は以下の叙述において、歴史的事実と統計数字を駆使してこの構造を逐一例証していくわけですが、この理解は、神島の言う「自然村的秩序」あるいは「第二の自然村」の考え方を下部構造から基礎付けるものですね。大胆に言えば、山田から神島へはあと一歩といえるでしょう。神島が読んだ丸山、丸山が読んだ山田。そして山田は当然、秋水なども熟読したでしょう。思想というものはそのように受け継がれるものですね。そして、後から見る者が、たとえそこに一歩のちがいしか見つけることができなくとも、その一歩には大変な個人史の距離が刻み込まれているものですね。
山田以前に、講座派の代表格、野呂栄太郎は1927年、『講座』以前の論述においてこう書いています。


「土地始め農業生産手段と生活資料との全部または一部を失った農民も、彼らにして一片の小作地さえ獲られ、または土地の不足を補うなんらかの副業(−(略)−)が得られる限り、直ちに農村を去る事をしなかった。−(略)−しかしながら、人工増殖の封建的拘束性が廃除され、農耕地が商品化され、しかも農耕地面積は日清戦争前後までほとんど増加されず、その上、農村手工業は解体され、農業の商業的経営も漸次発達して農業生産そのものも多少とも資本家的生産様式に従属して来たという事のために、土地を収奪された農民の多数は、いやおうなしに農村から押し出された。農民の農村離脱は、個々の農民については、重税と高利負債とに対する長き苦闘の末、万策尽きた最後の活路であったのだが、それにもかかわらず、それが、全体的には極めて顕著なる傾向として急激に進行したということは、農民の収奪が、いかに深刻にして広汎なる範囲にわたったかという事を物語るものである。
農村を去った農民は、あるいは都市の近代的工場やマニュファクチュアの職場や商館へ、あるいは鉱山や鉄道工事場や土木工事場へ、あるいはまた北海道の資本家的農場や漁場へと流れ込み、近代的プロレタリアまたは準プロレタリアと化して、我が資本主義の急激なる発達を可能にしたのであった。」


山田の言う天皇制国家支配原理の下部構造をよりヴィヴィッドに叙述していますね。ついでに言えば、野呂も山田も、明治期の日本経済、日本社会を対象にしています。つまり、昭和初期の農村恐慌による農村荒廃を問題にしているのではなく、日本の資本主義的国家経営構造に内在する矛盾を問題にしているわけです。どういうことかといえば、野呂も山田もその論述の中で何度も何度も触れているように、第一の問題要因は農村から上方に吸収される地租→地代における高率、苛斂誅求にあり、その農民収奪において初めて「巨大なる軍事機構」=天皇制国家の保持経営が行われてきたということが証明されているわけです。

ことに野呂が、前掲論文の「要約――日本資本主義崩壊過程における重要なるモメントとしての農村」においてまとめている次の論述は、後に出てくる論点にとって大事だと思います。


「生産地代の貨幣地代への転化は、それとともに資本化された地代たる土地価格を発生せしめ、土地そのものを完全に商品化したばかりでなく、従ってまた農業生産物の主要なる部分をも商品として生産されねばならなくした。
ここにおいて、まだ依然として、没落せる封建社会から踏襲せる小生産様式の下に生産している日本の小農民は、未だ彼らの生産物を商品として生産し得る諸条件を有することなくして、資本家的生産様式に伴う価格変動の不利益なる影響を受くることになった。これは、自由なる分割土地所有の下において異常に昂騰せる土地価格の露呈する合理的農耕と土地の私有との間の矛盾とあいまって、彼らを商業資本と高利貸資本との寄生によって衰弱せしめ、ついに農民の大部分をして生産手段および生活資料の全部または一部を失える無産者または準無産者に零落せしめた。」
小農民は、自身の生産物を商品とする生産的能力も条件も持たないのに、そのリスクだけは商品市場に放り込まれるという指摘です。経済的に自然村に縛り付けられ、市場の失敗の危険性だけは責任を負わなければならないという桎梏です。

1929年、野呂が労農派との論争過程で書いた論文は、「国家―地主―小作人」という日本の農村における支配の図式を、「土地私有者―資本家的小作農―農業労働者」という図式と対比しています。


「国家―地主―小作人の関係は、「他の適当なる一般的生産諸関係の下では」、土地私有者―資本家的小作農―農業労働者の関係として発展せられた所のものである。しからば、何ゆえに、我が国において特にかかる発展形態をとったか?」


この問いに対する答えを野呂は抽象的にしか出していませんが、これを受けて、山田は後年、この関係の背景についてこう解説します。


「必要労働部分にまでも喰いこむほどの全剰余労働を吸収する地代範疇、利潤の成立を許さぬ地代範疇。土地所有者たるの資格が圧倒的に優位を占める右表の場合においては、利潤を目標とする資本主義的農業経営の成立しうる余地を存しない。したがっていわゆる貨幣所有者は、利潤を目標とする借地農業経営者たることなく、地代を目標とする寄生地主たるの一般的傾向をとる。これ日本資本主義発達の場合に、何故、農業上、利潤の成立を許さぬ全剰余労働吸収の地代範疇=半隷農主的寄生地主制が強化せられるかの根拠を明示する。この点は、日本農業における資本主義化の限度を形成する。」


ここにおいてその意味は明らかですが、後に(1939年脱稿)E・H・ノーマンが『日本における近代国家の成立』においてよりわかりやすく展開します。


「日本の地主制度は高額の小作料を特色とするが、これが非耕作地主の関心をもっぱら地代の徴収にばかり向けさせ、資本家として農業経営にその資本を使用することを妨げる原因となっている。イギリスでは農業が十分に資本主義的発展をとげたため比較的少数者の手に土地を集中させ、これら少数者は議会のエンクロージャー法令によって在来の旧小作人を放逐したのちに耕作面積を拡大し資本制企業として土地の営利経営をおこなった。在来の半封建的旧小作人はイギリスでは最終的に土地から放逐され、一家をあげて、急激な成長をとげつつある都市工業に職場を求めざるをえなかった。しかし日本では、高額地代の魅力にひかれた地主や高利貸は、自ら農業経営をおこなうために旧来の小作人ないし自作農をことごとく放逐しようとは思わなかった。むしろ法外な小作料を徴収するために農家に零細のうちを稼行させることを望んだものである。」


土地に縛り付けられた小農民は、その高額地代に魅かれた地主によって収奪され、地主はイギリスのような資本主義的農業経営者には変化しようがなかった、という指摘です。この構造のため、「国家―地主―小作人」という天皇制的支配構造は、「土地私有者―資本家的小作農―農業労働者」というイギリスの農村社会のような構造には変化できなかった、ということですね。イギリスのような農村社会の構造においては、その構成員の中でだれひとり土地に縛り付けられる者はいませんから、天皇制的支配構造が成立する余地は存在しません。
ここでもうひとり見てみましょう。講座派の明治維新史代表は羽仁五郎ですね。1932年の『東洋における資本主義の形成』において、羽仁は維新にいたるまでの経済社会関係について書いています。


「われわれは、アジアにおける氏族的諸関係の保存によって粉飾された奴隷性的乃至封建農奴制的階級社会の本質が、奴隷性的乃至封建農奴制的生産関係にほかならず、いなその矛盾の一層深刻複雑なるものにほかならぬことを、いかなる場合にも確認せねばならない。われわれは、アジアにおけるいわゆる「土地の私有の欠如」乃至「最高の土地所有者としての国家」とは土地の私有への発展の特殊な形態を意味し、土地所有の国家的規模への集中を意味したことを理解し、すなわち、そこでは封建的農奴所有者階級の土地所有権がその国家への集中の傾向の下に発展せざるを得なかったこと、したがって、そこではその国家的集中によって封建的土地所有の本質は変えられずいな一層矛盾が塞がれたものとされていたことを、あくまで厳格に認定せねばならぬ。そして、われわれは、かのアジアにおける「地代租税」は、歴史的には、実に、封建的地代の転化せる一形態としてのみ主張され得ることを主張し、地代租税の形態における搾取の封建的農奴制的本質のとくに苛酷なる性質を確認せねばならない。かかる意味において、ただかかる意味においてのみ、われわれはアジア的生産様式およびこれに基づける社会について語り得るのである。アジア的生産様式は、本質的に奴隷性的乃至農奴制的生産様式よりほかのものではなく、ただそれがおくれた氏族社会末期の関係の保存により一層矛盾に塞がれ酷烈にされたものである、とされるよりほかない。」


羽仁によれば、この構造は維新以後も続いていくわけですが、この構造は当然ながら野呂や山田が展開した天皇制的支配構造と同じものですね。服部については省略しますが、戦前の丸山はここに天皇性的支配構造を読み込み、自らの思想を発展させ、藤田や神島につないでいくのです。つまり、思想というものは突然に起るものではなく、必ず先導者、先覚者がいるものなのだと思います。前に引用したものですが、丸山はマルクス主義について『日本の思想』の中でこう言っています。


「マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は−(略)−それなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求するという課題を学んだ。」
つまり、ここで少し見ただけでも1930年前後のマルクス主義者は、天皇制支配の構造を熟知しているわけです。たしかに、神島の言う「第二の村」を構成する「中間層」なる主観主義的構成要素については議論が及んでいませんが、少なくとも天皇制支配の第一要件である自然村的秩序については十分につかんでいます。そして、その崩壊過程も早々と把握しているわけです。当然それは昭和初期の農村恐慌などというアドホックなものではなく、日本資本主義の発展に伴う小農民の構造的疲弊という段階からつかんでいるわけです。ダイコクコガネさんは、こう言います。


――何かマックスさんは、「トータルな理論体系」をもったマルクス主義が万能のような認識をされているような気がしてなりません。

そうではないのです。「トータルな理論体系」と橋川氏が言うように、あるいは丸山が「マルクス主義」について言及しているように、ひとつの経済社会をとらえるうえできわめて有効なツールであったわけです。少なくとも、講座派の人々はそのツールを使って上記のような理解に達しているわけです。つまり、当時のマルクス主義者がそのような認識に到達していたことはありえない、ということはまったくありえないのです。


橋川氏は、同じ「昭和十年代の思想」において、福本イズムから講座派対労農派の論争に触れ、こう言っています。再掲します。

「この論争を、たんなる理論闘争としてその内容を紹介し、それぞれの戦略観点の差異を説明するだけでは、思想の視角から見るときは、不充分におわる。−(略)−この論争が、まさに日本そのものの革命を課題としたこと、そのために、マルクス主義というトータルな理論体系が、はじめて日本の歴史そのものの科学的分析を試みたということこそ、思想史的に見て唯一の重要点であった。」


このことを私も言いたいのです。マルクス主義というトータルな理論体系を通って初めて、「はじめて日本の歴史そのものの科学的分析」が試みられたということ。さらに不充分ながらも天皇制支配構造の原理がつかまれ、丸山や藤田、神島、そして橋川氏に受け継がれていったということ。そして、そのマルクス主義の輸入に驚きあわてた一群の文学者たち、小林秀雄、保田たちがこの主義を受けとめて、天皇制支配構造の原初的な形態をつかみながらも、宿命的な形で敗れ、「自然村的秩序」に帰っていったこと。これらの歩みを私は『批判序説』に読んだのです。しかし、その点で最後まで気がかりなのは、保田のマルクス主義理解が十全にはわからない点です。つまり、私の読み方をもってすれば、この点に『批判序説』の批判点があるわけです。私が、一番最初の書き込みで「核心」と言ったのは、この批判点にあります。
ところで、神島はこう言っています。

「天皇制権力は、その基盤〔=自然村的実体〕の動揺・分裂の所在をつきとめることなくその再編・強化を求め、同時にまたそれをつきとめなかったが故に体制自体をファシズム化した」

これはこう読めますね。天皇制権力は、その基盤の動揺、分裂がどこに起っているかをつきとめることなく再編、強化に乗り出したということですね。つまり、動揺、分裂が起っていることは知っていたが、それがどこで起っているのかはつきとめなかった、ということですね。このことは、橋川氏の『昭和維新試論』にある「戊申詔書」を見てもわかりますね。動揺、分裂はわかっているが、どこで起っているかを突き止めるまでにはいたらないということですね。つまり、そのよってきたるところは日本の資本主義的国家経営、あるいは天皇制的支配構造であるところの自然村的秩序の崩壊、さらに淵源をたどれば日本経済構造の桎梏である小農民の逼迫にあるわけですが、それは突き止められないわけです。あえて言えば突き止めたところでいかんともしがたいわけです。その構造を変え、たとえば農村経営における資本家的農業経営者の自由な創出など思いもよらないし、そんなことは天皇制的支配構造からいってとても可能性のあることではないわけです。そのことはマルクス主義者の側においても同じです。それを知っていればなんとか歴史的悲劇を食い止めることができたなどという段階ではないわけです。天皇制的支配構造における桎梏の前には、マルクス主義者といえども、あるいは山県といえども、なにもなすすべがないわけです。橋川氏が、「戊申詔書」のその後の記述で言及しているように、当時の政府は支配構造をさらに強めるしか手はないわけです。神島が「同時にまたそれをつきとめなかったが故に体制自体をファシズム化した」と言っているのはこのことでしょう。

1935年、「転向」した中野重治が『村の家』を書いたのは、上記のような構造は百も千も承知のうえで「村」に帰ってきた人間が、なおも「村」を凝視して書き続けるという論理を超えた覚悟を書いたものです。吉本隆明がこの作品を評価しているのもその書き続けるという姿勢においてであり、転向した人間が「村」で生きるためには書き続けるしかないわけです。

中野の件は余談ですが、ひるがえって『批判序説』です。当初、日本ロマン派の基本構造としての「マルクス主義」ということを読んだとき、直感的に上記のような構造を覚知しました。その構造を前提にして読めば、次の橋川氏の叙述の意味も浮かび上がってくるでしょう。


「日本ロマン派の成立は、―(略)―むしろ大正・昭和初年にかけての時代的状況に基盤を有するものであること、また、プロレタリア・インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広汎な我国中間層の一般的失望・抑圧感覚に対応するものとして、その過程の全構造に関連しつつ形成されたものであるという観点を提示したい――」
「また、自然村的秩序が崩れ、天皇制国家の支配構造が揺らぎ始めた大正末から昭和初期にかけて、その社会的動揺とパラレルに起り始めた日本ロマン派の形成、という記述」 (『批判序説』)
これについて、ダイコクコガネさんはこうおっしゃっています。

――上の既述こそが、わたしが述べた『もっと曖昧な表現をすれば「時代的な空気」のような、目には見えない「漠」としたもの』なんです。金融恐慌、思想弾圧、農村恐慌、迫り来る戦争の足音、先の見えない不安。そうした「時代的な空気」の中から中間層インテリゲンチャの間に「イロニイ」が芽生えたのです。その流れの先に、日本ロマン派がいたという分析です。


この読解も私とはちがうのです。先に長々と引用、説明したように、このような社会観察はすでに30年代前後の講座派は十二分に行っており、百も千も承知のうえのことなのです。そしてこの十全なる理解は当時のマルクス主義を通して行われたものなのです。

しかし、とは言っても、私には日本ロマン派の基本構造のひとつとしての「マルクス主義」というとらえ方の理解が難しかった。上記のような理解がそのまま通る文脈もあれば、不充分な文脈もある。そして、なによりもひとつの体系としてのマルクス主義がどのように「イロニイ」なるものに変わっていくのか。

その意味において私の「イロニイ」なるものの理解を助けたものは、先の私の書き込みでも紹介した『批判序説』における三つの峰です。つまり、「保田は何か絶対的なものを求めていた」という竹内好の証言。ふたつ目に、満州事変に衝撃を受けた保田が「フランス共和国」、「ソヴェート連邦」と並ぶ世界史的事件だと位置づけたという話。そして、三つ目に、「昨日」として「思い出」として耐え難い戦争という現実を乗り越えていく「イロニイ」の世界。保田がこの三つの峰を踏破しながら歩いていく姿は、私に納得を与えました。絶対的なものを求める保田が、マルクス主義の歴史理解のツールを手にしてフランス共和国(『ブリュメール』を思い出すではありませんか)、ソヴェート連邦を思い、最後に満州事変の衝撃に打たれる。その後の「イロニイ」の世界は、むしろ橋川氏の説明において納得できたところです。とくに「昨日」として「思い出」として乗り越えていく表現という論理は私には分かりやすい説明でした。
しかし、ダイコクコガネさんとの対話の中で、福本イズムの話が出てきたため、混乱に陥りました。ダイコクコガネさんは、こう論述しています。


「マルクス主義理論(=福本イズム)の保田的な弁証法的=「イロニイ」による読み替えが「転向」であり、そして、なし崩し的な国学への接近が始まり、そうした中で「民族の発見」につながったり、無政府主義的な農本主義になっていったりするのです。
マルクス主義運動の政治性と論理性から、非政治性と心情性へと、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」をしたのです。そして、政治から疎外された革命感情の「美」に向かって、「弁証法=イロニイ」による発展的な「転向」をしたのです。
マルクス主義からの発展的「転向」を行った当初は、保田與重郎にとっては、それこそが「革命思想」であったわけです。
(略)
この橋川文三の視点をくぐって初めて、保田與重郎という「化け物」の正体がつかめるようになったのです。
だから、この「マルクス主義」からの「転向」が『批判序説』の核心部だと言ったのです。
そして「化け物」が、わたしの中にも棲んでいることを知らされたのです。」


たしかに論理はたどれますが、やはり私にはわかりにくいのです。実を言えば、そもそも「弁証法=イロニイ」という表現がよくわからない。私の頭には、その具体像がちっとも浮かんでこないのです。それが思い浮かばないため、ダイコクコガネさんに、質問したのです。


「ともあれこれで、わたしは「小説」に「転向」します。
この転向は、わたしにとって保田與重郎と同じように、「福本和夫」的な発展的な「転向」です。そして、橋川文三の呪いでもあるのです」」

とありますが、その意味は? と。つまり、私の聞きたかったことは、発展的な「転向」とはいかなるものか、その具体像を教えてほしいと思ったのです。言葉のうえや論理では理解できても、具体的な人間の生き方のうえにおいて指し示してくれないと腹に落ちないのです。

以上、ちょっと長々しく書きましたが、この問題については私としてはとりあえずの締めとしたいと思います。

ほかの参加者の方々のことに気が回らず、調子に乗って書き散らしたことを反省しております。ダイコクコガネさんにも失礼なことを申し上げたかもしれませんが、ご寛恕ください。
マックスさん。

何か「マルクス主義」一色になってきてしまいましたね。

>つまり、『批判序説』におけるマルクスは、橋川氏や丸山(あるいは小林秀雄)のマルクスであり、野呂や山田、あるいは山川や大内のマルクスではないんですね。

この発言との整合性はどうなるのかな、なんて思わないでもないですが……。


一つ、引っ掛かるのは、次の2箇所です。

>ダイコクコガネさんは、マルクス主義からの「転向」、「イロニイ」への道行きについて、こう書いています。
>保田はなぜ「マルクス主義」から「転向」し、「イロニイ」なるものにいたったのか。

「転向」して「イロニイ」にいったのではないのです。
わたしが既述した「保田與重郎の思想の変遷」を確認していただければ、わかると思います。

先ず初めに、「無自覚のうち」に意識の中に「イロニイ」の影が忍び込んできたのです。
わたしが書いたのは、そうした意味でです。次の箇所です。

金融恐慌、思想弾圧、農村恐慌、迫り来る戦争の足音、先の見えない不安。そうした大正末から昭和初期の「時代的な空気」の中から中間層インテリゲンチャの間に「イロニイ」が芽生えたのです。

これは、一人保田だけでなく、中間層の意識の中に「イロニイ」が徐々に蔓延していったのです。啄木の頃と比較にならないくらいの時代の『閉塞感』が「イロニイ」を、中間層の意識の中に連れてきたのです。
保田の中にも「イロニイ」が入り込んだのです。
重要なのは、まだこの段階では、保田は「イロニイ」と認識していなかったということです。

その保田が、「マルクス主義」に接近するのです。
そして次に、ドイツ・ロマン派= シュレーゲルと出逢うのです。
自分の意識の中に「無自覚に」忍び込んでいた「イロニイ」を、はっきりとしたものとして認知するのです。そして、保田は「ロマンチック・イロニイ」という思想として自分の中に「自覚的に」内在化するのです。

その後に「マルクス主義」からの「転向」があるのです。その「転向」に際して、「マルクス主義」における弁証法を「イロニイ」に転化させて、「マルクス主義」の論理を乗り越えたのです(=「転向」)。
乗り越えた結果が「イロニイ」ではなく、「イロニイ」は手段なのです。
わたしが「ドイツ文学案内」の中の「ロマンチック・イロニイ」の説明として引用した箇所を想い起してください。

フリードリッヒ・シュレーゲルが言い出したロマンチック・イロニーこそ、まったく独特な芸術的近代主義である。このイロニーは、われわれが宇宙とか全一に心を開いているために、一定の立場や見解や愛に捉えられることがなく、それをつねに身軽に乗り越えて、おのれの自由を確保しようとする意思上の態度である。

「一定の立場や見解や愛に捉えられることがなく、それをつねに身軽に乗り越えて、おのれの自由を確保しようとする意思上の態度」として、「マルクス主義」を乗り越えたのです。その「態度」こそは弁証法的だ、と言われれば、そうかなあ、と思わないでもないですよね。

乗り越えた結果は、わたしが?〜?として、橋川文三の文章から抜粋したものです。

橋川文三の文章を想い起してください。

マルクス主義、国学、ドイツ・ロマン派、の三要因がそれである。そして、これらの異質の思想が保田の中に統一の契機を見出したとすれば、そのインテグリティを成立させているものは「イロニイ」という思想にほかならない

つまり、「イロニイ」は結果ではなく、いわば三要因を繋ぎ合わせている接着剤みたいなものなんです。

なんか、その辺りをマックスさんは誤解されているんじゃないのかな、と思いましたので、しつこいようですが書いてしまいました。
ことが「イロニイ」のことなので、どうしようかと思ったのですが、書くことにしたのです。
マックスさん。

わたしの得意な補足です。

2箇所ではなく、もう1箇所ありました。

>なによりもひとつの体系としてのマルクス主義がどのように「イロニイ」なるものに変わっていくのか。
マックスさん。

戦前の「マルクス主義」による「天皇制国家体制」の分析ですが、もう少し多角的な視点から見た方がいいと思いますよ。

わたしは「マルクス主義」の分析としては、東大新書の「日本資本主義の成立?」から「日本資本主義の没落?」までの全13巻を読みましたが、下部構造における科学的な分析は、マックスさんが言われているように、すごいものだと思いました。
それこそ、目からうろこが落ちる思いでしたよ。

でも、何か物足りなかった。違うなというか、どっかおかしいなあ、というか、そんな感じがしたのです。
その頃には、もう橋川文三の『近代日本政治思想の諸相』を読んでいましたので、その影響だとは思います。

下部構造を科学的に分析して、国家権力の経済的基盤と階級性を暴いたとしても、それが本質の全てだとしたら違うなあ、と素朴に感じたのです。
むしろ、それを絶対的に正しいとしてしまうことによって、もっと深い所の本質が見えなくなってしなうような気がしたのです。

その頃のわたしは、「天皇制」と「ファシズム」に関心があったので、そうした関連の書物を読んだりしていたのですが、戦前の「マルクス主義」陣営の「天皇制」の把握のに興味があったので、そうした書物も読んだりしました。

戦前の「マルクス主義」陣営の日本における「資本主義」分析とは、そのまま「日本のファシズム」論でもあったのです。
「マルクス主義」陣営の内部においてさえ、全然、捉え方が一様ではないのには、驚きました。
それは、とりもなおさず「天皇制」の捉え方も、まちまちだということです。

わたしは安部博純著「日本ファシズム研究序説」(未来社)を読んだのですが、その辺りが詳しく、分類までして書いてあります。


わたしとマックスさんの論争で出て来た32テーゼですが、「天皇制=絶対主義」という図式で理解されているのです。純粋な「資本主義国家=ブルジョア国家」でないということです。明治維新革命がブルジョア革命でなかったという捉え方ですね。
そうなると、「マルクス主義」における国家論からすると日本には「ファシズム」はありえなくなる。この辺りの「マルクス主義」陣営の混乱を服部之総が書いています。

「下部構造が変化すればだまって上部構造も変質するという労農派的見解は他力主義であるが、下部構造が変わっても上部構造はいつまでも本質を変えないとする神山理論はちょうど労農派を逆にしたほどの自力主義で、労農派よりももっと遠く、マルクス主義から逸脱しているのではないだろうか?」

こんな調子で、大真面目に議論していたんです。あたかも、わたしとマックスさんのように……。

マックスさんは、こう言われています。

「ここで少し見ただけでも1930年前後のマルクス主義者は、天皇制支配の構造を熟知しているわけです。たしかに、神島の言う「第二の村」を構成する「中間層」なる主観主義的構成要素については議論が及んでいませんが、少なくとも天皇制支配の第一要件である自然村的秩序については十分につかんでいます。そして、その崩壊過程も早々と把握しているわけです。当然それは昭和初期の農村恐慌などというアドホックなものではなく、日本資本主義の発展に伴う小農民の構造的疲弊という段階からつかんでいるわけです。」

下部構造の科学的な分析によって、封建性の遺構が証明され、国家権力の階級性は明らかになりました。それを、32テーゼで「天皇制=絶対主義」と図式化しました。
科学的な分析は認めます。が、このレベルで「天皇制支配の構造を熟知している」と言ったら、奇怪な『天皇制』に申し訳けが立たなくなります。恐れ多くも『天皇制』とはこんなものじゃない。
だから、戦後に「天皇制」が大問題となったのです。

久野収・神島二郎『「天皇制」論集』なんて、並の本の大きさじゃないんですよ。本棚に入れるのに苦労するくらいなんです。

神島二郎の「自然村秩序」と「マルクス主義」陣営の下部構造の分析で実証した「封建性秩序」と同等に見ることが、そもそも不思議でなりません。
神島二郎は『近代日本の精神構造』では丸山真男の他に柳田國男の方法論に影響を受けているのです。

(続く)
(続き)

もう一度、藤田省三の「天皇制国家の支配原理」を抜粋します。

政治権力が「権力に内在する真理性」(ヘーゲル)への自覚を喪失して、政治外に存在理由を求めて行く過程は、他ならぬ権力が全生活領域に普遍化し、したがって、日常化し、権力の放恣化を帰結していく過程であるが、わが近代日本においてはとくに権力が道徳と情緒の世界に自らを基礎付けたことによって、権力の客観的な放恣化は主観的に神聖化され、したがって「主体的」に促進されることにさえ至る。そうしてこの論理過程は同時に、近代日本の政治が辿った歴史過程であった。(中略)
あらゆる日常生活秩序がいわば非政治的支配関係と化し、支配権力は日常生活秩序の上にではなく、その中に存在するものになったのである。ここにおいて政治権力はそれが心情と日常道徳の世界の裡に存在している限り、安んじて暴力を恣にすることが出来た。維新において企図された絶対主義的政治国家は、日本資本主義社会が形成されるにつれて、社会の上に相対化されず、逆にその中に浸透しつつ、自己の政治権力としての固有性をすら忘却するにいたったのである。日本の支配者に政治的リアリズムが全く欠如していた事情はこれに起因する。何故なら、権力が、社会状況を自己の統制作用の対象として観察されるところに、権力機能のリアリズムは成立するのであるから。また体制が聞きにいたるや、つねに「国家道徳の頽廃」にその原因が求められるという奇現象も、同じく右の連関に由来する。いうまでもなく、権力の自己主張が,日常道徳の世界において自らの道徳性の顕示の形態で行われる場合(権力のモラトリアム)には、反権力行為が道徳悪とされることは勿論、権力の対外的危機に対する敏感ならざる反応も又道徳性の喪失現象とみられる。
このように概括される天皇制の権力状況は、国家の構成原理からすれば、明かに、異質な二つの原理の対抗・癒着の発展関係として捉えられるであろう。すなわち一つは、国家を政治権力の装置(Apparat)乃至特殊政治的な制度として構成しようとするものであり、他は、国家を共同体に基礎付けられた日常的生活共同態(Lebensgmeinscchaft)そのもの乃至はそれと同一化できるものとして構成しようとする原理である。(中略)
維新以来の近代化「国家」の形成が自由民権運動に対抗することによって漸く完成するに至ったこのとき(1889年-帝国憲法の発布を中心とする前後3年の画期)、同時にはじめて体制の底辺に存在する村落共同体(Gemeinde)秩序が国家支配に不可欠のものとしてとりあげられ、その秩序原理が国家に制度化されたのである。そしてそれによって、権力国家と共同態国家という異質な二原理による、天皇制に固有な両極的二元的構成が自覚的に成立し、ここに天皇制支配のダイナミックスを決定する内部の二契機が形成されたのである。

特に次の箇所に注目してください。

「天皇制の権力状況は、国家の構成原理からすれば、明かに、異質な二つの原理の対抗・癒着の発展関係として捉えられるであろう。すなわち一つは、国家を政治権力の装置(Apparat)乃至特殊政治的な制度として構成しようとするものであり、他は、国家を共同体に基礎付けられた日常的生活共同態(Lebensgmeinscchaft)そのもの乃至はそれと同一化できるものとして構成しようとする原理である」

「マルクス主義」陣営の「天皇制」の分析は、ここでいう「国家を政治権力の装置(Apparat)乃至特殊政治的は制度として構成しようとするもの」の側面を、経済的な基盤に対する客観的、科学的な解明によって明らかにしようとしたのです。その結果が、封建性の遺構が明らかとなったのです。
「封建性の遺構」と、「国家を共同体に基礎付けられた日常的生活共同態(Lebensgmeinscchaft)そのもの乃至はそれと同一化できるものとして構成しようとする原理」とが同じものであるはずがありません。
それを、マックスさんは同じとして、「マルクス主義」陣営が藤田省三のいう意味で「天皇制国家の支配原理」を認識しているというのです。
さらに、その藤田省三の論理を発展させた、神島二郎のいう「自然村秩序」にあと一歩の距離まで迫ったと言われるのです。
わたしは、(?)としか言い様がありません。
(続く)
(続き)

最後に丸山学派について書きます。

丸山学派とは、たとえば「日本ファシズム」を例にすれば、「マルクス主義」のように概念規定に拘泥することなく、イデオロギー・制度・精神構造・行動様式・心理など「多角的な視点」から究明する学問なのです。

マックスさんは、丸山学派についても、勘違いしているような気がします。
「マルクス主義」の影響を受けなかった者など、あの時代の日本におりません。肯定するか、否定するかは別として、何らかの影響を受けたはずです。
ましてや、「政治思想史」を志すからには、無視するとしたら自殺行為です。
橋川文三も、影響を受けたとはっきり言っています。
こんなボンクラなわたしでさえ影響を受けたのですから。

ええいっ、もう、ついでだ!!!
そう思って、ヤケクソで、書いてしまいました。わたしは駄目な男です。
とても、ダンボールさんのようにはなれない……。
いつものように、補足です。

「天皇制」という言葉の由来は32テーゼだと、せっかく「かまいちさん」が教えてくださったので、32テーゼのその箇所を書いておきます。
どんな感じで「天皇制」を見ていたかが如実にわかります。

「天皇制は、国内の政治的反動と封建性のいっさいの残存物との支柱である。天皇主義的国家機構は、搾取階級の現存の強固な背骨をなしている。これを粉砕することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものとみなされねばならなぬ」
『批判序説』からちょっとはなれましたね。

「国家を共同体に基礎付けられた日常的生活共同態(Lebensgmeinscchaft)そのもの乃至はそれと同一化できるものとして構成しようとする原理」が藤田によって定礎されたという議論ですが、私はむしろそのような認識、感覚は明治期以来の日本人の常識だと思いますよ。そのような「家」に関する常識的、日常的な桎梏を支えにして、講座派の人々の下部構造に対する分析へのエネルギーが生れたと私は理解していますが。(「家」に関する桎梏は、ある意味、明治期日本文学のきわめて大きいテーマのひとつですね)

安藤昌益という江戸時代中期の学者がいますが、こういう言葉を残しているんですね。

「−−無始無終、無上無下、無尊無賤−−転定は先後有るに非ず、惟自然なり」
(「統道真伝」)

「転定」というのは、「天地」という言葉の当て字なんですね。つまり、簡単に言えば、治者による被治者の支配を正当化する社会そのものを批判しているんですね。徳川政権に対する批判です。なぜ当て字にしているかというと、社会体制、村構造にとどまらず、文字形態、言語構造、認識構造にまで徳川政権の支配を昌益は見ているのです。

なぜ少数が圧倒的多数を支配できるのか。この疑問は、政治学が生れる根源的な発想だと思いますが。

まあ、私も不勉強ですので、もっと勉強してみましょう。
マックスさん。

>藤田によって定礎されたという議論ですが、私はむしろそのような認識、感覚は明治期以来の日本人の常識だと思いますよ

マックスさんの論理展開は、ここに集約されています。『批判序説』の理解においては、この傾向がより色濃く滲み出ています。

「認識、感覚は明治期以来の日本人の常識」ということをよく考えてください。
わたしも、これは事実だと思います。
はっきりと「認識」していたかは疑問ですが、意識の中に入り込んでいたと思います。

では、そうした「感覚」がどういった意味をなすものなのか。政治的な統治装置の手段として、構造的に組み込まれているのか。そうした「感覚」の由来はどこにあるのか。それは歴史的なものなのか、一時的なものなのか、風土的なものなのか、そして、精神的な構造としてあるものなのか、あるとしたら、どこからやってきたのか等々……。

こうしたアプローチと解明が、藤田省三の学問であったわけです。そうして悪戦苦闘した後に、「空気のようにしてある漠とした、あやふやだったものの姿」が体系的な形ではっきりと目に見えるようになったのです。

わたしが丸山学派の方法論について言ったのは、こうした意味です。もう一度言います。

「マルクス主義」のように概念規定に拘泥することなく、イデオロギー・制度・精神構造・行動様式・心理など「多角的な視点」から究明する学問なのです。


「認識、感覚は明治期以来の日本人の常識」とは、そうした体系的な形で論理的に認識された「思想的・政治的な意味」ではないのです。
それを、マックスさんは同じと考えてしまっているのです。
早い話が、藤田省三の『天皇制国家の支配原理』の理論を知らなかったら、「認識、感覚は明治期以来の日本人の常識」から、マックスさんは何が見えてくるのですか。
藤田と同じ論理が見えてくるのですか?
庶民が常識として藤田の論理を認識していたというのですか?
だとしたら、歴史は全く違ったものになっていたでしょう。

神島二郎の「自然村的秩序」でも、まったく同じ事がいえます。
「理論」を知っていて、その視点に立って、時代状況に生きる人たちを「同じような立ち位置」にいるものとして理解しようとする。それは、歴史的なものの見方とは違います。
歴史的な制約と限界からはみ出した発想をしたりする天才や偉人はいます。しかし、それとて、歴史的な制約はあるのです。
時代の文脈で解釈するとは、そうしたことだと、わたしは考えます。

戦前の「マルクス主義」にしても、、「資本主義論争」の内容は勿論のこと、野呂の論文にしたって、今の時代に目に出来る形でなんか知りえないのです。非合法になって地下に潜っていたのですから、よほど共産党の中枢部に接近している者にしか正確には知ることはできなかったはずです。いわば密室で、革命に向けた戦略理論が構築され、現実はそっちのけにして仲間内で理論的な論争をしていたのです。

そして、コミンテルンの内部的な事情が戦略理論に反映している、ということまで言われたりすると、とても一筋縄ではいかない。

マックスさんと論争していた中で感じた、わたしの率直な感想です。
ちょっと混乱されていますね。

朝日平吾は、吉野作造や橋川氏のように、アイデンティティの急速な崩壊を明確に認識、分析して財閥の重鎮に凶刃を向けたのですか。そうではないでしょう。彼には、吉野や橋川氏のような明確な分析はなかったけれども、全身でその時代の危機を感じ、アイデンティティの崩壊を覚知したからこそ、刃を握ったわけでしょう。

議論の発端は、保田や小林が当時、マルクス主義の理解によって自然村の崩壊現象に気がついていたかどうかという問題だったでしょう。ダイコクコガネさんは、当時のマルクス主義者ではそういうことに気がついた人はいないという議論をされたので、私は当時の講座派の面々の認識、つまり自然村の崩壊現象を下部構造からしっかり分析している論述を紹介したのです。ちなみに『日本資本主義発達史講座』(そういう名前だったかな)は岩波書店から出ていますよ。私の議論というのは、当時の代表的なマルクス主義者たちがそのような認識、分析をしていたのだから、保田や小林もそのくらいのことは知っていただろうということ。(なぜなら、当時のマルクス主義者が天皇制の支配構造の基礎をなす農村社会を分析しないで、何を分析していたのですか)それからまた、たとえ講座派の面々ほど明確に分析していなくても、「家」の構造、「村」の構造は常識的な話ですから知らないはずがない、であるならば、その桎梏と崩壊という時代の重圧を全身で受け止めた保田と小林の行動、言動のダイナミズムがそのことによって基礎づけられるということは十分考えられることでしょう。ちょうど朝日の行動のダイナミズムが、明確に朝日によって理論づけられていなくても、その時代によって生まれた天皇の赤子としてのアイデンティティ危機を痛切に受け止めたことによってはぐくまれたのと同じように。

思想史というものは、文字通り思想の歴史というわけでしょう。そのとき、思想史家は、すでに起こったことについて、分析し差別化し、時代の文脈を再構成し、その史実のよってきたる構造を指し示すわけでしょう。丸山や藤田や神島はそうしているわけですね。しかし、時代や人々はすでに動いているわけです、その構造の中で、あるいはその構造の外で。動いている人々にとって、その構造が見えやすい場合と見えにくい場合とがあるでしょう。しかし、「トータルな理論体系」であるマルクス主義に接近した保田と小林にとっては、その構造は見えやすかったのではないでしょうか。岩波から出た『講座』はその構造をそう指し示しています。すくなくとも、橋川氏は、「昭和十年代の思想」において、農本主義青年に典型的に見られる「転向」の型を示し、自分がマルクス主義運動に参加するとそれだけで村の人手不足から村人たちに迷惑がかかり、そのことが心理的機制になって村に帰っていくという図式を明示しました。橋川氏によれば、日本ロマン派もその構造は同じだということです。

「丸山学派」なるものについては、私はよくは知りませんが、「多角的な視点」から社会や歴史の構造を究明しようとするのは、思想史家のこれも常識だと思いますが。私は、丸山はマルクス主義にのみ影響を受けたなどとは一言も書いてはいませんし、そうも思っていません。これも常識ですが。
マックスさん。

マックスさん自身が、わたしが批判した意味の中で、混乱しているんですよ。
言っていることが、いつの間にか変わってきてしまった。
あの当時の「マルクス主義」のことはいいません。
が、これは『批判序説』を理解する上での根本的な誤りだと思うので、敢えて再び述べます。

マックスさんは、『批判序説』を解釈する上で、根本的な二つの誤りを犯している。
一つは「マルクス主義」から「イロニイ」に「転向」したという解釈。これでは『批判序説』は理解できません。それが、最初の論争の発端でもありました。

二つ目が、わたしがこのトピの「141」でマックスさんを批判した箇所です。

>藤田によって定礎されたという議論ですが、私はむしろそのような認識、感覚は明治期以来の日本人の常識だと思いますよ

このマックスさんの発言に対してわたしが、こう批判しました。

「認識、感覚は明治期以来の日本人の常識」とは、そうした体系的な形で論理的に認識された「思想的・政治的な意味」ではないのです。
それを、マックスさんは同じと考えてしまっているのです。
早い話が、藤田省三の『天皇制国家の支配原理』の理論を知らなかったら、「認識、感覚は明治期以来の日本人の常識」から、マックスさんは何が見えてくるのですか。
藤田と同じ論理が見えてくるのですか?
庶民が常識として藤田の論理を認識していたというのですか?
だとしたら、歴史は全く違ったものになっていたでしょう。

わたしが言っている意味が、説明不足のために解からないのかもしれません。
が、これまでの「論争」を振り返ってみれば、納得されるはずです。

では、わたしとマックスさんの「論争」の中で振り返ってみましょうか。
その前に、この文章をわたしに書かせる切欠になった、直前の「142」のマックスさんの文章を抜粋します。

>議論の発端は、保田や小林が当時、マルクス主義の理解によって自然村の崩壊現象に気がついていたかどうかという問題だったでしょう

そうでしたでしょうか?
「マルクス主義の理解によって自然村の崩壊現象に気がついていたかどうかという問題」ではなかったのではないですか?
神島二郎の言っている意味での「自然村的秩序」だったはずです。

先ず、マックスさんの、これまでの発言を抜粋します。

?「私が考えるに、橋川氏がここで言う「国家(天皇制国家)の構造機能の実質」とは、まさに「天皇制国家の支配原理である二元性」つまり、神島が言うところの「自然村的秩序」にその基礎が置かれた「近代日本における天皇制の正統性根拠」のことでありましょう。決して、野呂が軌道修正したような「絶対君主制的な封建制」というようなものではないでしょう。」

?「つまり、天皇制国家の「構造的機能の実質」が何であるか。それは日本ファシズムの生成過程であり、「天皇制国家の支配原理」であるところの「自然村的秩序」であった。そのことは、マルクス主義の総合的認識方法を経た日本ロマン派の知らないところではなく、むしろその崩壊の兆しにさえ気がついていた。そして、ここに「イロニイとしての日本」、「イロニイとしての天皇制」という構えへの転化が起こった。この文脈において初めて、橋川氏の次の言葉が生き生きと浮かび上がってくるのではないでしょうか」
(続く)
(続き)

?「橋川氏が「マルクス主義」という場合には、「27テーゼ」とか「32テーゼ」とかの事象はその視野には入っていないと思います。橋川氏が「マルクス主義」という言葉でつかまえている事象はまさに「トータルな理論体系」のことで、保田との関連で言えば「自然村的秩序」=日本的自我構造を自覚的にとらえるための論理視座であり、小林との関連で言えば「社会化された私」の自覚とその日本における不可能ということでしょう」

?「ここで問題が発生します。「(天皇制)国家の構造機能の実質」とは何か。ダイコクコガネさんは、野呂が軌道修正した「絶対君主制的な封建制」とします。しかし、これではまず、橋川氏の文脈が成り立たないではありませんか。「絶対君主制的な封建制」を裏返しにしたところで、「イロニイとしての天皇制」、あるいは「イロニイとしての日本」は出てきません。それらが登場してくるのは、まさに神島言うところの「自然村的秩序」(第一のムラ)に統治の基礎を置くところの天皇制国家の構造の裏返しがあるからです。つまり、マルクス主義的な社会の捉え方から一瞬小林などに夢見られた「社会化した私」を断念せざるをえなくなった時点において、その裏返しとしての「イロニイとしての日本」、「イロニイとしての天皇制」という境地が保田によってつかまれた、という文脈です」

?「ダイコクコガネさんと私が何度も確認した丸山から藤田、神島にいたる「自然村秩序」でした。この天皇制国家の支配構造の抜きがたさを見た」

こうしてみれば、マックスさんが言っているのは、神島二郎のいう『天皇制国家の支配構造』における「自然村的秩序」ですよね。

それに対しての、わたしの過去の反論を抜粋します。

(1)「マックスさんは小林秀雄も保田與重郎もこうした「トータルな理論体系」のもとに、天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていたとしています。
保田はもちろん、小林秀雄もこんなことはわかってはいなかったはずです。
小林秀雄が見ていたのは、丸山真男が『日本の思想』で書いている「精神的雑居性の原理的否定を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」であるマルクス主義の側面です。
マルクス主義の受容によって、初めて日本にも西欧的意味での「個人」と「社会」との対立的な自覚が起こるはずだと、小林秀雄は思ったのです。
天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていたなどと、どこにも書かれてはおりません」

(2)「保田與重郎は、当然に「自然村的秩序」は認識していたはずです。そこに郷愁を抱いていたはずです。それは、保田與重郎だけではなく、「第二のムラ」にあった者、とりわけ中間層に色濃くあったはずです。それは事実ですから、否定はしません。 しかし、その「自然村的秩序」が「天皇制国家の支配原理」として、構造的にどういう意味をもち、どう作用しているのかを理解しているのとは別次元の話しです」

(3)「郷里に帰れば目にすることですから、保田は当然に知っていたはずです。
福本だって、認識はしていたはずです。
農村の荒廃を知っていたから農本主義の運動が起こったのですし、その延長線上に5・15事件があったのですから」

(4)「農村の惨状を知っていることと、「天皇制国家の支配原理」としての二元性の意味を知っていることとは、全く別次元のことです。
二元性を知らなくても、農村の惨状はわかります。
そして、「第二のムラ」における自然村的秩序の崩壊も、感覚的に誰もがわかっていたと思います。それが、「時代閉塞の現状」が醸し出す、目には見えない「時代的な空気」なのです。そのわけがわからない空気を呼吸するうちに、無自覚に、中間層インテリゲンチャの意識の中に「イロニイ」の影が忍び込んでくるのです」

ご覧の通り、わたしは「自然村の崩壊現象に気がついていた」と言っているんですよ。ですから、マックスさんが言われた『自然村の崩壊現象に気がついていたかどうかという問題』になどは、なる訳はないのです。

問題は、マックスさんが『丸山から藤田、神島にいたる「自然村秩序」でした。この天皇制国家の支配構造』を知っていると、言われたことが問題になっているのです。
そしてマックスさんは、そこにこそ保田の「マルクス主義」からの「イロニイ」への「転向」をみていたのではないですか。
それが、どうしたわけか、ここにきて変わってきてしまった。
どう見ても、混乱しているのは、マックスさんの方のような気がしますが……。
まあ、お互いにどこかで少しずつ混乱しているのでしょうね。これだけやりとりを続けてきたわけですから。あらためて敬意を表します。

そうですね。ダイコクコガネさんは、「(保田らは)「自然村の崩壊現象に気がついていた」とおっしゃっているわけですから、その点では私と変わらないわけです。すると、何が問題かというと、その認識が保田らの「転向」というダイナミクスにつながっているかどうかという点ですね。私はつながっていると思いますが、ダイコクコガネさんはそうでもないとおっしゃられるわけですよね。

ここのところは、鋭敏なダイコクコガネさんが気がついているごとく、橋川氏は『批判序説』のなかでは論理を展開していませんので、ちょっとわからないところですね。まあ、ここのところは読み方のちがいになってくるのでしょうか。

ちなみに、小林に関するダイコクコガネさんの言及ですが、「マルクス主義の受容によって、初めて日本にも西欧的意味での「個人」と「社会」との対立的な自覚が起こるはずだと、小林秀雄は思ったのです」という文脈と、すぐあとの「天皇制国家の支配構造における統治機能としての「自然村秩序」の意味を知っていた」という文脈とは相通ずるものがあるのではないでしょうか。
マックスさん。

いろいろと、失礼なことを申し上げました。
申し訳けありませんでした。

と、いうことで、この辺りで終りにいたしましょう。
このコミュのトピ記録も更新しましたし、伝説(?)にもなったようですので。
ありがとうございました。
ダイコクコガネさん。

今回の対話を通じ、あらためて自分の読みの浅さなどに気づかされました。ダイコクコガネさんの着眼点と所論に目からうろこが落ちる思いを何回か味わいました。ダイコクコガネさんのご注意とご教示を記憶にとどめながら、今後も橋川氏の著作を読むと同時に、また数年後にでも『批判序説』を再読してみましょう。また新たなものが見えてくるでしょう。

とりあえず、ありがとうございました。また別のトピでも対話を交わすこともあるでしょう。

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