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哲学が好きコミュの因果性や帰納的推論は如何にして正当化されるか?

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改めまして、こんにちは。とまとめ です。

タイトルの通り、因果性や帰納的推論をいかに正当化しうるか?という問題について一緒に考えてほしいです。
この問題は一般に「ヒュームの問題」と言われ親しまれていますが、因果性を正当化する決定的な言説は今の所あるとは言えない状況かと思います。例えば2010年代にネットを中心に話題になった思弁的実在論の論者の1人カンタン・メイヤスーは、この問題に対してヒューム的解決(因果性は存在しないとする立場)を受け入れ、むしろそれを積極的に述べています〔彼に言わせれば宇宙は如何様にも突如として変化しうる〕。
この様な状況で因果性を正当化することはできるでしょうか?
また、類似の問題として帰納的推論は正当化しうるでしょうか?

皆さんの応答お待ちしております。
私も勉強した内容をまとめ次第、順次ここに投稿します。

―参考―
哲学が好きコミュニティの以前のトピックに、「確率」に関するものが有りました。
比較的近い話題かと思いますので、ここにURLを貼っておきます。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=929559&id=82004597

コメント(14)

>お天気野郎様
「帰納的推論があってすべて正当」というのが具体的にどのようなことを指示していらっしゃるかわかりませんが、例えば科学の方法論が帰納法なしには成立しないとする考え〔サミュエル・オカーシャ〕や、帰納法は我々の思考や推論の根本に属するものであって正当化できるかどうかというような類のものではないという立場〔ピーター・ストローソンやフランク・ラムジー〕などがありますね。

持論と言われると困りますが、少なくとも因果性や帰納的推論を正当化する「自然の斉一性」を原理として鵜呑みにしたり実在するものとしてそれ以上の正当化をしないような立場には立たないと思います。これは因果性や自然の斉一性が存在しないと考える理由があるからではなく、因果性や自然の斉一性の実在性を信じるべき理由が今のところ見当たらないからです〔これが提示できるのであれば、私は因果性や帰納法を積極的に正当化する論を立てると思います〕。

因果性や自然の斉一性を確信できないという意味では〔因果性・自然の斉一性を定立するコストのない〕ヒューム的な解決は魅力的ではあるのですが、実際帰納的推論が各所で重宝されていることは事実として認めるべきだと思うし、そうであるならばヒュームのような大々的な正当化の放棄は取りたくない(ような気がします)。ヒューム的解決を採択しながら帰納的推論を正当化するという意味では、ストローソンのような問題の解消の仕方は魅力的かもしれません(ストローソンの議論がヒュームと相性の良いものなのかはわかりませんが)。
逆に、因果性や帰納法を積極的に正当化するアイデアを僕はあまり持たないので、このトピックに関心のある方に「自然の斉一性」を強く信じる方や、帰納的推論を正当化できると考える方がいらっしゃれば、是非その理由も含めて伺ってみたいと思っています。

※自然の斉一性とは、AのあとBが起こるなら、n回目であれAの次に必ずBが起こるという前提のことです。もう少し詳しいことは下の「ヒュームの問題」の話を観るか自分で詳しく調べていただけると良いかと思います。

>PalatinusπCitizens様
まずは文献の紹介に感謝します。ありがとうございます。

当為(〜すべき)を扱うのは社会科学というよりは倫理学ですかね。あるいは社会学と倫理学(や心理学)を越境するような領域の学問を想定されているのでしょうか。どちらにせよ私はそうした学問には詳しくないので、そこでの「因果」というものが何を指示しているのかよくわかりません。
私がこのトピックを立てて問題にしようとしているのは、基本的に哲学、形而上学、自然学が扱う因果性のことです。

例えば「事象Aのあとに事象Bが起こる」という経験を繰り返すと、人は事象Aと事象Bの間に「Aを原因としてBが結果する」という因果関係を見出します。
ヒュームはこうした因果関係は実際には存在しないと考えました。AとBの間に見いだされる因果性は人間が捏造した「フィクション」であって、「Aのあと必ずBが起こるわけではない。AのあとにBという経験が100回繰り返されたとしても101回目にはAのあとにCが起こるかもしれない」とヒュームは考えたのです。
この「100回(n+1回)繰り返せば、次の回では違う経験をするかもしれない」(自然の斉一性への懐疑)というのが、いわゆる「ヒュームの問題」の核心部分です。
ヒュームによれば自然の斉一性は、帰納法や因果性の前提とされているものですが、実際には証明できない形而上学的な命題であるか、そうでなければ帰納法によってしか正当化できない(そしてその場合、論点先取の誤謬によって帰納法を―また自然の斉一性も―正当化することはできない)命題です。つまり「実際に我々は帰納法や因果性を信頼しているが、それを正当化できる見込みはなさそうだ」ということであり、「その上で我々の帰納法や因果性に対する信頼は、どのようにして正当化しうるのか」というのが「ヒュームの問題」と呼ばれるものです。

PalatinusπCitizens様は自然科学の分野において因果性を正当化できないと考えていらっしゃるようですが、その理由は何でしょう?
よろしければ是非お聞かせください。

参考文献
サミュエル・オカーシャ『科学哲学』
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』
デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
参考
拙著ですが、メイヤスーについては比較的わかりやすい解説を書いています。
https://note.com/tomatome_/n/n8c4b6f5bc49f
 「因果性や帰納的推論をいかに正当化しうるか?」という時の「正当性」がなにを意味するかが問題であると思います。哲学者は一般に論理に重きを置きすぎるので、「正当性=論理的根拠がある」と考えがちです。しかし、因果関係も帰納法も自然の斉一説を前提としていますが、斉一説に論理的根拠はないということは大抵の哲学者が認めていることではないでしょうか。
 自然法則はすべて帰納法によりつくられていますから、宇宙の秩序が斉一的でなければ無意味です。でも、自然法則を信じないでは人間が生きていくことはままならないでしょう。だから、ヒュームだって自然法則や科学を信じているはずです。つまり、宗教を信じているという意味と同じような意味で科学を信じているのだと思います。
 もちろん、私も科学を信じています。明日も明後日もおそらく万有引力の法則は有効だと信じています。ただ、2021年から突然万有引力の法則が無効になる、そういった事態が生じる論理的可能性は否定できないと思います。(絶対ありえないと信じてはいますが‥‥)
ひとまずお返事します。

>お天気野郎様
待ちます。ストローソンやラムジーの立場が参考になるかもしれないですね。

> PalatinusπCitizens様
小説を書いたのは先週が初めてなので書き方の型とかはまだ無いですね。6千文字という制約があったのでプロットというほどのものは書かなかった気がします。メモの端に走り書きぐらいはしましたけど。
小説の中での前後関係と因果性の話って、確かバルトの『物語の構造分析』にありましたよね(記憶違いかも)。今度きちんと読みたいなと思いつつ放置してます。

>御坊哲様
自然の斉一性は正当化〔論理的根拠を与えたり、何らかの説明によって説得性を与えたり〕できるようなものではなく、信じて受け入れるしか無い、という立場でしょうか。
直感的には同意したいところですが、それならそれで「なぜ正当化することができないのか」「なぜ正当化することのできない信念を価値あるものとして固持しうるのか」は気になるところです。――後者の疑問は「実際に真なのではない命題に価値を認め、その命題を信じることに正当性はあるのか」と言い換えることもできるかと思います。この場合(存在判断として正当化できない)宗教的命題を価値付けたり信じたりすることの正当性の問題としても取り扱えるかもしれません。

それから、自然法則がすべて帰納法によって作られているかどうかも問題化できるかもしれません。例えば帰納的推論を否定した科学哲学者にカール・ポパーがいます。彼に言わせれば自然法則〔を説明する科学的理論〕は帰納法なしに立てられた、反証可能なテスト命題を持つ論理的モデルということになります。こうしたポパーの立場を復権できれば、自然の斉一性を否定するような科学理論も自然法則の説明として立てられるかもしれません。ただまあ、ストローソンのような立場が比較的強いことを考えるとポパーを立てるのは心もとないのかもしれませんね(わかりませんけど)。

正当化、がどのようなことを指すのかというのも確かに問題ですね。
真理論や認識論に属するような問題になってくるんですかね。
>>[11]

>自然の斉一性は正当化〔論理的根拠を与えたり、何らかの説明によって説得性を与えたり〕できるようなものではなく、信じて受け入れるしか無い、という立場でしょうか。

はい、そうです。

>それならそれで「なぜ正当化することができないのか」「なぜ正当化することのできない信念を価値あるものとして固持しうるのか」は気になるところです。

誰しもがある種のもどかしさを感じるところだと思います。が、正面からそれを成し遂げた哲学者は未だいませんね。

>それから、自然法則がすべて帰納法によって作られているかどうかも問題化できるかもしれません。

どのような科学理論も、まず発端は経験事実を帰納することから始まっているはずだと思います。どのような自然法則も、いくつかの経験事実(観測)を満足するような仮説によってできているはず、例外はないと思います。

>例えば帰納的推論を否定した科学哲学者にカール・ポパーがいます。彼に言わせれば自然法則〔を説明する科学的理論〕は帰納法なしに立てられた、反証可能なテスト命題を持つ論理的モデルということになります。こうしたポパーの立場を復権できれば、自然の斉一性を否定するような科学理論も自然法則の説明として立てられるかもしれません。

ここのところがよく分かりませんでした。カール・ポバーこそ自然の斉一性を最も固く信じていた人物だと思うのですが‥‥。例えば、ある時、特殊相対性理論に反する実験結果が得られたとします。とても綿密に計画された実験で手落ちは考えらなかった場合、ある人々は自然の斉一性が崩れたと考えるかもしれませんが、カール・ポバーだけは実験条件かあるいは特殊相対性理論のもともとの不備であると考えると思います。
カール・ポバーは、ここで言う「ヒュームの問題」を矮小化しているように思います。反証可能性ということで宗教と科学が弁別できると言いますが、ヒュームに言わせれば、そもそも自然の秩序の斉一性に理性的な根拠などないわけです。しかし、自然の斉一性を前提としなければ、反証可能性もその意義がなくなってしまいます。
>御坊哲様
「ポパーの立場を復権できれば、自然の斉一性を否定するような科学理論も自然法則の説明として立てられるかもしれません」と書きましたが、御坊哲さんの言うとおり、これは無理筋かも知れません。帰納法を使わない科学理論の立て方なら、自然の斉一性なしに成り立つかも知れないと思ったのですが、反証可能性が成り立たなくなってしまうんですね……。気づかなかった。間抜けでしたね笑。すみません混乱させて。

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