ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

哲学が好きコミュの自尊心を高めるために哲学的思考は有効か?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  自尊心が高ければ、自己受容でき幸福感を味わうことができるだろうか?

 できると考える。

 自尊心を高めるのは、哲学的思考によって誤った自己否定や自己欺瞞の考えを打ち破り正しき思考によって是正されると考えるからである。この考え方はむしろ心理学に基づく『論理療法』に根ざした認識であるとも言える。しかし、「信念」の是正には、思索が伴われなくてはならないことからすると哲学的思考を必要とすると考える。

 心理学に基づく認識は、必要であり思考の糧として有効ではある。しかし、無条件に受け入れることは、大人の態度ではない。「哲学的懐疑」により思索し経験を通して確証を得たものである必要がある。ここに「哲学的思考」の必要性がある。

 『論理療法』で、誤った信念(イラッショナル・ビリーフ)を論駁するのに「哲学」を元にした思考形態が必要であると考えるのは、「認識論」の問題と考えるからだ。

 この様な考え方を元にしたものに『クリティカルシンキング』がある。心理学をベースに編まれた北大路書房の基礎篇・実践篇の二冊は、考えを練る為には有効である。しかし、安易に従うことで得られるところに自尊心が育まれるかは、疑問である。

 参考とすべき書籍としてジェリー・ミンチントンの著作が有効である。著作に『人生がうまくいくとっておきの考え方』 PHP文庫がある。テーマが自尊心であるので直接的な内容である。

結論として、『哲学』・『心理学』・『クリティjカルシンキング』・『自己啓発書』を元に思索することで、自尊心を高めることは、できると考える。

 さて、みなさんは、自分の自尊心を高めるために、どんな知見をもとに哲学的思考をしていますか?

コメント(385)

ヒュームの法則は以前にも議題になったがWeblioではこう定義されている。

ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「〜である」(is)という命題からは推論によって「〜すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。

ここで「〜すべき」はどこから導かれるのか、という疑問がでてくる。 それは内在する良心の命令だと云ったのは永遠さんだが確かカントも同じようなことを云った気がする。
いずれにしても〜すべき(当為)が〜である(事実)から導けないなら、当為はどこからやってくるのかについてはオーソライズされていない。だからこそ議論の価値があるのだ。

例えば次の主張は妥当かを考えてみよう。

「ルパンはあまりにひどい荒らし行為をつづけ多くの人に迷惑をかけた。何度注意しても完全に無視し処分も受け入れようとしなかった。よってルパンは退会させるべきだ。」

普通の感覚の人ならこの考えに違和感を覚えないにちがいない。つまり妥当だ。
だがヒュームの法則を信じるならこれはナンセンスとなる。つまり妥当ではない。 私もそう思う。「退会させるべきだ」というのは主観に過ぎないからだ。

ところが、コミュルールに「当コミュのメンバーは荒らし行為を行うべきではない」という一節があれば、上の文の「ルパンを退会させるべきだ」という結論は主観とは云えなくなるわけだ。
参考になるのかは、わかりませんが、『人生がうまくいくとっておきの考え方』の第一章自尊心とは何かの全文をコメントしてみます。

 自尊心とは、私たちが自分に価値を見いだす気持ちのことである。言い換えれば、人間としての価値に対する自己評価のことである。
 自尊心はたった一つの資質ではない。それは、関連するいくつかの資質と姿勢の組みあわせである。その重要性からすると、自尊心は私たちの中心であり、それをもとに人生を築き上げる土台のようなものだ。だれしも孤立して生きているわけではないから、私たちが自分に対して抱いている感情は、周りの人たちとのかかわり方や人生のあらゆる局面での身の処し方にも影響をおよぼす。

自尊心の三つの側面

 だれしもが自尊心を持っているが、高い自尊心を持っている人というのはほんの一握りである。高い自尊心と低い自尊心の違いは何だろうか。自分を肯定的に評価することと否定的に評価することの違いはなんだろか。

 自分についての感情
▽自尊心がたかければ、あるがままの自分を無条件に受け入れ、自分の人間としての価値を認める。たとえば・・・・・
 ・外的な条件とか自分の業績とは関係なく、自分に好感を持っている。
 ・何らかの資質、能力、技術を持っているかどうかに関係なく、自分の個性を評価している。
 ・自分が自分にとって大切な存在であることを確信している。
 ・自分の価値を認識しているから、他人の意見に惑わされない。他人に批判されても、自尊心が揺るがない。
 ・自分の感情をコントロールしている。罪悪感、怒り、恐怖心、悲しみのような不快な感情とはほとんど無縁である。自分にいつも満足していて幸せである。

▼自尊心が低ければ、自分にほとんど価値を見いだせない。自分の人間としての価値は業績に比例すると信じている。たとえば・・・・・
 ・仕事の虫になって競争心をむきだしにおし、これでもかというほど業績をあげようとする。本当の自尊心とほとんど無縁であるために、業績をあげて成功をおさめることによって自分の価値を証明しようとする。完璧主義者なので、非現実的な目標を設定して自分に不当な要求をする。しかし、そのために自責の念にさいなまれ、次はもっと厳しく自分を駆り立てようと決意する。やっと目標を達成しても失望する。いくら業績をあげても、心のなかはいつも空虚だ。
 ・何かやってみるのが怖くなる。自分と自分の仕事を過小評価し、自分の能力に疑念を抱き、当然の昇給や昇進を要求するのが怖くなる。自尊心が限定されていると、自分にできることをかなり限定してしまう。目標を設定するにしても、自分には達成できないと思う。たとえ達成しても、自分はそれに値しないと思い込む。
 ・自分をあまり価値のない人間だと思い、かなり厳しい目で見る。自分の行動に対してあまりにも批判的になり、実際の欠点であれ創造上の欠点であれ、そのことで絶えず自分を叱責する。
 ・他人の意見に惑わされやすいために、たとえ危険な行動をとってでも他人に認められようと必死になる。「立派」な人たちと交わり、「立派」な学位を取得し、「立派」な仕事に就き、「立派」な車を運転し、「立派」な地域に住むことによって自分を他人に印象づけようとする。他人から称賛されたい、特別に認められたいという私たちの欲求には際限がない。当然認められるべきだと思っているのに認められなければ、腹を立てたり傷ついたりする。
 ・自分に翻弄される。感情をコントロールするのではなく、感情にコントロールされる。感情が環境に左右されるために、気分が憂うつになりやすい。自分の価値をおとしめる結果、精神的に不安定になり、嫉妬心や羨望や所有欲を持つようになる。恐怖心は強欲を生じ、自己嫌悪は虚無感と抑うつを引き起こして不幸の原因をつくる。
 人生についての感情
▽自尊心が高ければ、人生のあらゆる面における責任を受け入れる。たとえば・・・・・
 ・現実を気分よく受け入れる。自分の問題を環境のせいにしない。達成可能な目標と現実的な期待を持っている。自分の人生で起こったことには責任をもち、自分に起こることは外的要因によるものよりも、むしろ自分の選択と決定によるものであることを理解している。自分の人生は自分がコントロールしていることを十分に認識している。自分の人生は自分がコントロールしていることを十分に認識しているから、思いどおりに人生を変える力が自分にあることを知っている。自分の人生をどう生きればいいかについて他人の意見を参考にはするが、自分にとって何が正しいか、何が一番いいかについての最終決定は自分がおこなう。
 ・自分がコントロールするのは他人ではなく、自分と自分の反応の仕方である。自分に合うように環境を変えるときもあるが、環境に対する自分の姿勢を変えるときもある。

▼自尊心が低ければ、人生は手に負えないように思える。たとえば・・・・・
 ・現実を間違って解釈したり顧みない態度をとったりする。現実のある部分を観過ごし、別の部分をおおげさに考える。世の中が自分の頭で考えていたものと違うので無視することもある。現実とあまりにも違いすぎているように感じて、ニコチン中毒、アルコール中毒、食べ過ぎ、薬物依存といった好ましくない行動で自分と現実の間に障壁をつくろうとする人もいる。自分の身のふりかかるのはひどいことばかりで、世の中が不公平だという考え方に凝り固まっている。世の中全体のことに思いをはせず、自己中心的な傾向が強い。
 ・無力感にさいなまれて、日常生活のほんのちょっとしたことでもくじけるために、自分が意気地なしのように感じる。劣等感を隠すために、プライドが高くて尊大なふるまいをしてしまい、他人を遠ざけてしまう。
 ・他人をコントロールしようとする。ところが、他人は私たちに何の義理もない場合、私たちの思いどおりには行動しない。そこで、私たちは他人に否定的な感情を抱かせて心理操作しようとする。

 人間関係
▽自尊心が高ければ、私たちはすべての人が自分と同じように権利を保証されているという信念を持ち、他人に対して寛容の精神と尊敬の念を抱く。例えば・・・・・
 ・他人が自分らしくあり、自分で選んだことをし、好きな生き方をする権利を尊重する。自分が価値のある人間であると感じるために他人の承認を必要としないし、自分の価値観や信念を他人に押しつけようともしない。
 ・他人の欠点を受け入れ、平常心を保ち、柔軟性に富み、責任感が強い。すべての人を尊敬に値する価値のある存在と見なす。人によって価値が異なるという考え方は、高い自尊心の原理と相いれない。

▼自尊心が低ければ、他人に対する基本的な敬意が欠如する。他人に対して寛容の精神が持てず、自分が望む生き方を押しつけてしまう。たとえば・・・・・
 ・自分の行動様式が他人に受け入れられることが自分の価値の証しだと考えるので、自分の行動を手本にしてほしいと思う。たとえ他人の行動が私たちに影響をおよばさなくても、私たちの道徳的規範や生活信条に合わないなら憤慨する。他人に認められたいという強迫観念にとらわれ、叱責し、文句を言い、説教し、腹を立て、寛容さを失い、頑迷になる。融通が利かず、柔軟性に欠け、他人にあれこれ要求する。
 ・人間関係が台なしになる。自分に確信が持てないので、精神的に不安定で、人といっしょにいると居心地が悪い。人と気楽に接することができず、恥ずかしがったり、はにかんだり、腹を立てたり、自己弁護をしたりする。自分に価値がないという気持ちが強いために、互いに有意義な関係を築くことができず、しばしば孤独感や自己憐憫にさいなまれる。皮肉なことに、親密さを求める欲求がしばしば独占欲につながるために、他人を遠ざける結果になる。
 ・あまりいい人間関係を望めないと信じていると自分についての正しくない考え方を共有する人と関係ができるために、ひどい扱いを受ける。私たちは自分にあまり価値がないと信じているので、他人も私たちにあまり価値を見いだしていないと信じるようになる。なかには私たちをけなしたりいじめたりする人も出てくる。ところが、自分にあまり価値がないと思い込んでいるので、そういう扱いをされても当然だと思う。
自尊心についての二つの誤解
(1)自尊心は、自己本位ではない
 自尊心は自己本位と混同されがちだが、二つには大きな違いがある。自己本位は自尊心とは、似て非なるものである。本来、自我とは、自分についてのいい感情で満たされるべきものであるが、それができないので空虚さを埋め合わせようとしてできあがったものである。
 自我が肥大すると、他人に認められたい、大勢の人の中で目立ちたいと言う願望が生まれる。
底のないコップのように、どれだけたくさん注いでも十分ということはない。
 自尊心の場合は、とくに理由がなくてもいい気分でいられるのだが、自我の場合は、条件付きでしかいい気分でいられない。たとえば、所有物、業績、財産、学位、肩書、名誉などだ。これらを手にいれること自体は何も問題ではないのだが、自分がいい気分でいるためにそれに頼ると、もっと手に入れたいと絶えず思いつづけ、手に入らなければ気分が悪くなる。

(2)利己主義は高い自尊心ではない
 利己主義の人は、自分を愛しすぎているのではなく、自分をほとんど愛していない。彼らの行動は過剰な自己愛の産物の様に見えるかもしれないが、実際は自信のなさに起因していている。利己主義な人が他人を愛してもいないのは事実だが、それよりもずっと自分を愛せないことが問題なのだ。

自尊心を高めると、どんな利点があるか

 自分について気分が悪いよりも気分がいいほうが楽しいに決まっているが、それ以外にも利点がいくつかある。

 自分についての気分
 高い自尊心が重要であることは、いくら強調してもしすぎることはない。自分についての気分がすべての言動と思考に影響をおよぼすからだ。自尊心が現時点でどういう状態であれ、自尊心を高めるための努力は人生に良い影響をもたらす。

 世の中とのかかわり
 どの程度の自尊心を持っているかによって、世の中は冷たくて敵意に満ちた場所にもなれば、温かくて愛情に満ちた場所にもなる。自分についての気分が改善されれば、それに伴って現実認識も改善される。人生がますます楽しくなるので、毎日を気分よく過ごすことができる。自分に満足してリラックスするようになれば、人生のペースがゆるやかになり、生活がシンプルになって余裕が出てくる。
 自分についての気分は、問題を大変な障害物ととらえるか成長のための新鮮な機会と見なすかを決定する。自分を好きになればなるほど、逆境に対処しやすくなる。自尊心が高ければ、問題を引き起こす行動に気づいてそれを取り除くことが容易になる。自分で問題をつくり出すのではなく、心の平和を享受する。人生が苦しみではなく楽しみになる。人生とは楽しいものなのだ。

 人間関係
人間関係に対する私たちの姿勢は、人間関係の質を決定する。したがって、自分が変われば、人間関係も変わる。私たちが自分に対してどうふるまうかによって、他人は私たちに対してどうふるまえばいいかを判断する。私たちが自分をより好きになれば、他人が私たちに接する態度も改善される。私たちは自分の価値を信じることによって、そのメッセージを無意識に他人に伝える。他人はそれに対して私たちによりよく接することで応える。
 私たちの人間関係はより楽しく、精神的に得るものが多く、互いに満足のいく豊かなものになる。自分の自尊心を高めることによって、私たちは自他ともに嫌っている自分の悪癖を数多く取り除く。その結果、私たちは他人といっしょにいて居心地がよくなるし、彼らも私たちといっしょにいて居心地がよくなる。他人に対して温かさと親しみを感じれば、彼らとの愛情や友情の交換がスムーズにできる。無条件の愛を他人に多く与えれば与えるほど、彼らからの受け取る愛も多くなる。
 他人からどう見られるかよりも自己評価のほうが重要であることを理解すれば、他人に自分を印象づける必要がなくなり、自意識過剰でなくなる。人からほめられたとき、私たちはとまどったり恥かしがったりせずに、その言葉を素直に受け入れる。人から批判されても、もはや動揺しない。精神的に安定しているので、自分を守るために時間と労力を浪費することもなく、批判を快く受け入れる。
 自尊心が高ければ、私たちはいやみのない自然な自己主張ができるし、心理操作されにくくなるから他人に利用されずにすむ。精神的な自立を達成すると、何人かの友人を失うかもしれない。しかし、彼らが去って行くのは、もはや私たちを利用して甘い汁が吸えなくなったからだ。私たちはそういう連中を失う代わりに、何も見返りを期待せずにあるがままの私たちを受け入れてくれる新しい友人を獲得するだろう。
 自分についてより多くのことを学ぶにつれて、他人に対する理解も深まる。他人への思いやりの基礎になるのは自分への思いやりだから、親切心と共感と敬意を持って他人に接するようになる。そうなると、当然、周りの人たちに有益な変化が生じる。私たちは自分に対してより肯定的になるにつれて、懐が深くて包容力のある行動をとるようになる。それが他人にも肯定的な変化を起こさせる誘因になるのだ。
 多くの人が自分の人生を向上させたいと思っているから、そのために多大な努力をする。その際、次のことを理解しておくことが重要である。それは、すべての自己改善の基礎になるのは健全な自尊心だということだ。
 私たちに秘められた可能性は無限だ。能力は無尽蔵にある。だから、創造的で建設的な変化はいくらでも起こせる。しかし、目標に向けて満足のいく進歩を遂げたり、永続的に向上したりするには、自分がそれに値する人間であることを確信する必要がある。たんに人生からもっと多くのものを得ようとするだけでは不十分だ。まず、自分がそれを手に入れることを自分に許可しなければならない。それができなければ、どれだけ変化を遂げても私たちは幸せになれない。
 人生でどれだけ多くの素晴らしい出来事が起こったり、いろいろな面でどれだけ自分が恵まれていたとしても、自分がそれに値する人間であると信じないなら、幸せになる機会を逸する。経済、職業、人間関係などのどの面においても、自分がその恩恵に値する人間であると信じるときにだけ、人生は向上する。もしそう信じないなら、いくら変化を遂げても欲求不満が募るだけだ。
 自分の人生を向上させる第一段階は、自分の自尊心を高めることだ。このことを心にとめておいてほしい。
>>[351]
すっごい長々ピックアップされたものを半ば無碍にしてしまって申し訳ありませんが
>自尊心はたった一つの資質ではない。それは、関連するいくつかの資質と姿勢の組みあわせである。
この”いくつか”っていうのを同時進行でやっちゃおうということにならざるを得ない概要の煩雑さが
少なくともこのトピック上での進行の歯切れの悪さを生み出してたのですね と只今実感いたしました(・×・)

>自尊心が高ければ〜例えば
以下の内容で自尊心とは何たるやがわかるだろう、というところまでは総合的には呑み込めますが
ここではそれで終わるわけではなくって「高める方法」だとか「高められるか」だとか
そういったことまで引き出そうとなさってるわけですので(しかも「哲学的思考」が条件ときてる)
第三者からすれば今回の議題は
【あれとこれとそれと(下手したらその他諸々)を指定の方向性でどうにかできるか?&どうにかする方法ってなあに】
というような詰め込みすぎな議題である とも言っちゃえるわけです(・×・)

まあ自分は「哲学的思考は”向上”に用いない」派ですのでこういったとっちらかり系でも対応しますが
哲学的思考 が最後まで引っかかるヒトにとっては議論が目的だとすると
とりあえずもっと絞れないの ってなるかもしれません(・×・)



個人的にはこちら↓の方が手短で自尊心とは何ぞやはわかりやすいです(・×・)それでも結局内容は複数進行形でしたが
********************
自尊心を高める方法「自尊心とは」
http://xn--teto0gm34b.tokyo/

心理学で言う自尊心とは、「self-esteem」の訳とされていて「自分が他人から受け入れられ、尚且つ自分の存在を価値あるものとして肯定したいという心」の事です。
一般的な自尊心とは「自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度」となっており、心理学で言う自尊心とは少し違うニュアンスで使われる事もあります。
<略>
自尊心は心理学者 ウィル・シュッツ博士(Will Schutz)による提唱だと、
○自己重要感(Self-Significance)
○自己有能感(Self-Competence)
○自己好感(Self-Likability)
の三要素から構成されるとされています。
自己重要感は周りから大切にされ必要とされていると感じることです。
自己有能感は自分の能力が認められ、役に立っていると感じることです。
自己好感は好かれていると感じることです。
それぞれの強さは個人差がありますが、3つの満足感が満たされている状態が自尊心を高く持っているといえるでしょう。
尚、それぞれの満足感が現実とは違う妄想や自己誇大感だけの場合は、自尊心が高いとはいえません。
現実に沿った満足感を持つ事が大切なことです。
********************
セルフエスティーム(・×・)おお聞いたことが

うむ、他人関係なく云々のミッチョンさんおすすめの本の自尊心とは何ぞやとは
内容が若干違うような・・・・・・・・・・(・×・)
混乱をきたすかもしれませんが、ネット上には、自己診断ができる下記の説明もあります。

http://自尊心.com/


論理療法の情報をウィキで求めると下記になります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E7%99%82%E6%B3%95


>>[355]へ

情報提供ありがとうございます。読ませて頂きました。

出勤時間なので、御挨拶のみで失礼します。
>>[351]

ごちゃごちゃ長いけど結局これだよね。
トピ主の定義。

>自尊心とは、私たちが自分に価値を見いだす気持ちのことである。言い換えれば、人間としての価値に対する自己評価のことである。

この定義に従えばトピ主のいい分は不整合だらけとなる。

その人が「客観的な」自己評価をしたらかえって自尊心を低めることになりかねない。
確かに他人が「君は全然ダメ人間じゃない」と催眠、暗示、洗脳をすることで自尊心を高めることはできるかもしれない。だがそれは哲学的思考により自尊心を高めたことにならない。自我崩壊を食い止める手段でしかない。

これをトピ主は理解していないのだ。

繰り返すが哲学的思考は客観的分析だ。時にはその人がダメ人間だということを明らかにする。自尊心を高めることにつながるとは限らない。

哲学的思考による客観的自己評価で自尊心が高まる保証は何もないわけだ。
仮に自尊心を「善く生きることが尊いこと」という前提で定義するなら、まずはその善きこととはなにかについて論じなけらばならない。
さらに云えば善き行いのレベルも決めないといけない。
勿論これは相当難しい議論だ。だからこそすでに用意された定義、例えば辞書やベータさんが示した定義に沿って議論しなければ拡散するのが自明だろう。

善というのは人により違うのだ。
最善を政治にコミットすることだと考える人もいれば愛する人のために生きること考える人もいる。両親や家のためにというひともいる。しかしその善もまた刹那的であろ。ある時突然変わることもある。正解がないのだ。だから善はそれぞれの人のその時の感情、主観により変わる。

そういう善の正体を知らないまま尊さを論じても意味がない。況や自尊心を論じるなど・・

自尊心を論じるならばまずは「善き行いとは何ぞや」というありふれた、しかし本質的なテーマについて論じるべきだろう。
「哲学的思考ってカッコいい」と思っている人は、「哲学的思考している自分ってカッコいい」ってなるだろうから自尊心が高まると思います。

わたしは運動習慣が身についている人をカッコいいと思っているので、ジョギングすると自尊心が高まります。しなかった日は「は〜、だめだな〜」ってなります。


>>[360]へ
論文の紹介ありがとうございます。PDFを読ませて頂きました。
>>[365]
ミッチョンさん的にはそういうのは自己誇大感に当たるもので、自尊心の向上とは言わないっぽいですよ(・×・)
哲学的思考とか運動の習慣が例えできなかろうと出来ててカッコイいという評価なくとも自分のコトを尊べるってのがいいようです(・×・)恐らく
私は走らずサイクリングで(・×・)


お陰ですっかり膝を痛めて(・×・)←なんだか全く関係なし


マジレスすれば日常のストレス解消(健康的バージョン)は
長時間風呂・寝る・泣く (・×・)
>>[370]
泣きぼくろが眼球にめり込みそうなほど近くにあるレベルの泣き上戸です(・×・)

どうやって泣くかは色々です(・×・)
こないだは愛くるしいわんこやにぁんこの画像見まくって号泣してました(・×・)
>>[372]
イヤそれでも完全なるカタルシスにもってくのは難しいですよ(・×・)やっぱりリバースしそうな5秒前の如く、あちこち引き裂かれそうな感覚がしんどすぎて、泣かずに済むなら他の方法でどうにか収めたいとなることも多々です(・×・)それでも結局耐えられないで泣くのですがwww

泣けないというのはビジネス面ではがぜん有利に働くので、その意味ではうらやましい気もする(・×・)


自己誇大感に果たして哲学的思考ないし論理的思考が介入可能なのか(・×・)
根本的に・・・例えば「自分を疑うことは自尊心をつぶすのだ」という信念をイラショナルビリーフではなくラショナルビリーフとして取り扱ってしまったら
その先の介入すら不能ではないかと思うのですが(・×・)


自己愛性人格障害の症状と思考性について
https://www.youtube.com/watch?v=ZYd32GdQmYI
(映像は不要かもしれません(笑)韓国云々のくだりは「あくまでもお好みで」レベル)
境界性人格障害と自己愛性人格障害の合併症
http://d.hatena.ne.jp/kagiyakagi/00000104/p1
強迫・自己愛・境界性人格障害の二分法思考の違い
http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-51.html

自己愛性人格障害(012) この障害は治るのか?
http://jikoai.fool.jp/?p=17
サイコパス(精神病質)・自己愛性人格障害は、「患者として」臨床の場に現れない
http://blog.livedoor.jp/saraxxx-toxic/archives/1034209670.html

自意識が無意識の主体であるとしたならば、、、
>>[376]


あるとしたならば



その続きはないのですか?(・×・)<はじめまして

というか、自尊心向上に哲学的思考は有効か否かというテーマと
自意識無意識の関係性を知りたいです(・×・)
>>[378]

はじめまして。

続きですか?そうですね。スラプォイシジェクの言葉を信じてみるなら、自己意識のうちでは、自分の性格に根拠をあたえる自由な選択を意識していないということでしょうか。すなわち、この行為は、根源的に無意識的であると、よっていずれそのような主体の結論に至るという続きです。
閃きが感覚のそれなら、認識を変えれば感覚も変わるというお話。
>>[374]
トラウマ化するであろう記憶を消し去った
ということで自尊心を守ろうとした自分 この部分を尊いものとすることはできないでしょうか(・×・)
具体的にその当時の現実を無理に思い出そうとすることはないと思います。
それがあれば今の状態(の自尊心)ですらもいられない と心が判断したのでしょうから。
今の「封印していた何かがあった」というところからだけでも、スタートできると思うのです(・×・)

とロングスルーパスなコメントですいません
理由は実のところ、哲学に関係ないトピックに不要に介入されそのトピックの盛り上げに協力されている様をお見受けしたからです(侮辱したような発言すいません)。
ここのトピックも、それほど哲学的とは言えませんが(・×・)
無意義な(と思しき)ものを止められぬなら別の動かせる有意義なものを、前者以上に動かすことで克服するしかないのではと思います(・×・)
インテグリティーには本来の役割があります。
 自尊心が高いならば正しさが伴わなければならない。しかしある程度の人々は間違っていても自尊心を持っている。しかし、自身のコモン・センスと親・学校・職場からの教育と世の中を見まわすことで多くのそれらは改善される。そして多くの人々は自分は人並みである、という実感と、それに見合う自尊心を手に入れる。しかし自尊心が高くても間違っている場合がある、その間違いのケースとしてあるのが、民主主義的には正しいが本当には正しくないという場合だ。例えば差別はいけない、という民主主義からの意見と、民族による優劣はある、という意見である。

ログインすると、残り360件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

哲学が好き 更新情報

哲学が好きのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング