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哲学が好きコミュのデカルト、バークレ、カント、ヘーゲル、ウェーバー、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンと仏教中観派、仏教唯識派、仏教論理学、イスラーム哲学。

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デカルト、バークレ、カント、ヘーゲル、ウェーバー、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンと仏教中観派、仏教唯識派、仏教論理学、イスラーム哲学。

デカルトは自分が認識しているものが夢、幻かどうか哲学の方法として疑い、考えている思惟の主体である「自我」の存在だけは疑えないとしました。

バークレ主教は外界の存在は、夢、幻であり存在しているのは神と自我だけだという「独我論」=「主観的観念論」を樹立しました。

カントは「物自体」は認識できないが「時間・空間」を座標軸とする感性、知性(昔は悟性と訳されていた)、理性の三段階の認識の枠組みで外界からの刺激を整理し

自然科学の法則を構成できるとして自然科学が可能だと論証しました。これは、自然科学の法則など成り立たないとしたヒュームに対する批判です。

この「物自体」=「主要には神」の存在を理性によって認識できるとしたのがヘーゲルです。

ヘーゲルは人間=理性=神=ロゴス=絶対精神と考えます。『精神現象学』はレベルが低い認識から主観と客観が合一する「絶対知」に至るまでの認識発展論を記述し、

「絶対知」に到達した時に現れるロゴス=神=論理を体系化し「存在論」として提示たのが『論理学』です。人間は自分が神だから神を認識できるとしたのがヘーゲルです。

マルクスはカント認識論を批判的に肯定し、労働、階級闘争という「実践」により真理に近づくとしました。

「実践」を欠如させて「素朴実在論」=「鏡的反映論」に陥ったのはエンゲルス、初期レーニン、スターリンです。

彼等は「認識論」(精神現象学の論理)を「存在論」(論理学の論理)に埋没させたのです。

後期レーニンは自己批判し、『哲学ノート』でカントを「恥ずかしがり屋の唯物論者」と呼び「主観的観念論者ではない」事を論証しました。

「カント認識論+実践による物質の真理への接近」というマルクス認識論を復活させたのです。そこで、スターリンはレーニン『哲学ノート』を読む事を禁止しました。

日本共産党は今でも『哲学ノート』を読む事を事実上禁止しています。日本共産党が権力を取れば北朝鮮のような国になる事は確実です。

カントは自然科学がいかにして成り立つのかを論証しましたが、社会科学がいかにして成り立つのかを論証したのがマックス・ウェーバーです。

人間は自分のイデオロギーに基づいて認識の枠組みを作り、それによって、外界からの情報を整理して社会を認識するとしたのです。

仏教の中観派では、自分の価値観、好みによって外界の存在に線を引き、色をぬり、姿・形をでっち上げ、それに執着すると考えます。

目の前に居る美女が実はゴキブリかもしれないのです。外界の存在は認識主体が作り出したものです。

この考えはイスラーム史上最高の神秘主義哲学者であるイブン・アラビーの思想と酷似しています。

イブン・アラビーによれば宇宙には唯一の存在=アッラーフしか存在しません。それを区分して多くの存在として見ているのは人間主観の妄想です。

イラン人スフラワルディーは鏡に囲まれた「ろうそく」の例で説明しています。

一つの鏡に映った「ろうそく」は他の鏡にも映り、無数の数の光が現出します。

真に存在するのはアッラーフだけです。しかし、宇宙は無数の存在があるかのごとき外観を呈します。

イブン・アラビーとスフラワルディーの哲学を統合したのがイランのモッラー・サドラーです。

こうした神秘主義の世界では宗教の違いはどうでもよくなります。ユダヤ教、キリスト教の聖書には「異教徒、異端者は皆殺しにせよ」と書いてあります。

しかし、コーランには「宗教の強制があってはならない」とあり信仰の自由を認めています。

トルコで活躍したイラン人神秘主義者ルーミーは「なぜ、あなたの弟子にキリスト教徒がいるのですか」と聞かれ、「イスラームもキリスト教も真理という同じ山頂を目指している。相違はどの登山道を行くかにしかない。どの登山道を選ぶかは自由だ」と答えました。

イスラーム国家=ムガール帝国ではイスラーム神秘主義者とヒンズー教のヨーガ行者との交流会が開かれました。

南アジアにおけるイスラーム・ヒンズーの対立はイギリス植民地主義が作ったものであり、シリアにおけるアラウィー教徒とムスリムの内戦もフランス帝国主義が作った宗教対立を原因とするものです。


しかし、中観派にはカントのような「三段階認識」論が無いし、カントのごとき知性(悟性のカテゴリー)もありません。その点は唯識派も同じです。

唯識派は認識主体である「心」=「識」の外界の存在を否定する独我論です。中観派は外界の実体(恒常不変、独立自存、分割不可能)ではない存在も認めます。

中観派のダライ・ラマは仏教の事を何も知らない西洋人相手の講演の時、必ず、唯識派批判をします。日本の唯識派(法相宗の薬師寺、興福寺)の坊主はダライ・ラマを国際公開討論会をやるべきですが、金儲けに忙しく、その暇は無いようです。薬師寺はAKB48を呼んでコンサートを開き、アイドルファンに愛される薬師寺を目指しています。

また、東京に事務所を置き、東京の金持ちに「世界遺産=薬師寺で葬式、法事をやりませんか」との営業活動を展開しています。

中観派は言います。「唯識派は心が実体として存在している事を認めている」と。

唯識派は「心(アラヤ識)は刹那滅であり、我々は実体の存在を認めているのでない」と。

この論争を深く知るにはチベット仏教のゲルク派(ダライ・ラマの宗派)の開祖ツォンカパの「唯識派批判」を読まなければなりませんが、現代日本語訳を読んでも理解できません。

大谷大学の仏教学者は「現在のサンスクリット語、チベット語の仏典の翻訳は「敗戦直後のヘーゲルの和訳」と同じレベルにあると言いました。

唯識派の学習は玄奘三蔵編訳『成唯識論』(玄奘は「西遊記」に登場)を読めば終了するし、中観派はチャンドラキールティ『「ナーガールジュナ中論」注釈』=『プラサンナパダー』を読めばわかりす。

研究者は重箱の底をつつくような文献学研究をしているだけです。

まだ、研究途上にあるのはインドのカントと呼ばれる「三段階」の認識論を大成し、仏教論理学を完成させたダルマキールティです。








コメント(6)


インドの、カントと呼ばれる方がいらしたんですか。
いろいろ詳しくありがとうございます。
>仏教の中観派では、自分の価値観、好みによって外界の存在に線を引き、色をぬり、姿・形をでっち上げ、それに執着すると考えます。目の前に居る美女が実はゴキブリかもしれないのです。外界の存在は認識主体が作り出したものです。


美女とゴキブリの例は、主旨がちょっとわかりません。
「人間はゴキブリさえも美女と間違えるほど、勝手に主観で外界を捏造しているに過ぎないと、中観派は考えている」
という意味でしょうか?
そういう主旨だとしたら、ちょっと違うと思います。
確かに草むらに落ちている縄を蛇と間違えるという例は仏教においてしばしば取り上げられるものですが、
少なくともその事例には唐突性、類似性などの要素があります。
しかし美女と蛇の事例には類似性がまったく欠けており、
部屋にゴキブリが出てきたのを突然美女が現れたと勘違いする人はいないのではないでしょうか。
部派仏教時代の経量部が外界の対象そのものは私たちの心にその形象を投げ込むだけで、私たちはこの形象を見ることはできても対象そのものを決して見ることができないと考えたのに対して、

後の唯識派は、私たちの心にある表象の原因として外界の対象を類推することを誤謬推理だとして、私たちの心の表象の原因は、一瞬前の心であり、もっと言えば私たちの心深くに蓄えられた種子が現勢化すると私たちの心に表象を生むのだと考えた。
ダルマキールティ著『知識論評釈』より

「論理的な根拠は、主張命題の主辞となっているもの(ダルミン、有法)の属性であり、かつその賓辞となるもの(すなわち、論理的帰結としての属性)によって遍充される(論理的帰結が論理的根拠を包摂する。以上はディグナーガが定式化した論理的根拠の3条件を示すもの)。
論理的根拠と論理的帰結の不可離の関係が確定されることで、論理的根拠は3種(本質的属性、結果、非認識)に限定される。それ以外は擬似的根拠に過ぎない。」
こんなのを引っりださねばならんとは・・
さすがにこのトピでホッブスネタをコメントするのは無理がある・・

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