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高杉晋作コミュの前原一誠コミュニティ

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松陰先生の門下、やそこと、前原一誠のコミュニティを作りました♪

前原一誠 (佐世八十郎)
1834(天保5年)〜1876(明治9年)


松陰先生から、「勇気と知恵があり、その誠実さは他の誰にも負けない」と称された人物です。
萩の乱で刑死した人物、というイメージがつきがちですが、やその魅力は何より松陰先生お墨付きの誠実さ、徳の高さに思います。


天保5年3月20日(1834年4月28日)長門国土原村にて、大組47石の長州藩士・佐世彦七の長男として生誕。

士分でありながら、幼少〜少年期は極貧生活。
友達は皆農家の子など、成長過程でその後の【仁政】への志しを育みました。
17歳の時、落馬による大怪我で、一生後遺症に苦しむことに。

性格も内向的になり、自殺さえ考えることもありましたが、松陰先生の門下に入った時、やそは大きな喜びと希望を得る。
その時、既に24歳。塾生の中では年長者。


27歳で自ら【一誠】を名乗ると、松陰先生の教えを継ぐべく、動乱の世に出ていきました。

文久年間は攘夷活動に奔走。
高杉晋作の功山寺挙兵には、たった一人で駆けつける。

心を病んだ時、やそは下関で高杉と共に暮らした。
慶応年間には、藩の中枢である政府員として活躍し、高杉からは"後進之英物"と最大級の評価を得る。


四境戦争では、病床にある高杉を補佐し、小倉口参謀として長州軍を指揮。
荒廃した土地を見て"慘然として独り心を痛む"と心境を詠む。

戊辰戦争では干城隊副総督、次いで北越征討総督府参謀に就任し北越で戦う。

小倉や新潟では、戦火に苦しむ人々の為、周囲の反対を押しきり年貢半減令を出す。
仁政をモットーとするやそは、傷ついた人々を助ける任務に使命感を覚える。
会津では、厳罰を望む官軍首脳部を説得し、会津藩救済に尽力。


明治新政府内では参議、続いて兵部大輔に就任。

西洋式近代化を急ぐより、頑なに仁政にこだわり、政府の政策を非難。
ついには役職を辞任し、東京を離れると郷里で畑仕事に精を出す。

自宅に訪れた他県や地元の者たちの窮乏を聞けば、借財をして助けました。


明治9年、政府を弾劾するため決起し、天皇へ諫言することを決意。
地位も名誉も捨て立ち上がる。

「病に死すも、刃に死すも、死は同じことなり。我は忠義に死すると思い詰め候も、奸吏も我らを賊となりとも盗となりとも言わば言え。心は誠に清く候はば、天地神仏へ対し、いささかも恥ずかしき心、これなく候まま、我ら死に候とても、少しもお悔やみなきよう、一重に祈り候」
家族に宛てた手紙より

43歳で刑場の露と消えるその瞬間まで、一誠を貫く。


感情の起伏が激しく、不器用だが妙に素朴で人間臭いやそです。

◇前原一誠 (佐世八十郎)◆
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5102831

よろしくお願いいたします。


※管理人様、不適切な内容でしたら削除お願いいたします。

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