ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

【肥前】戦国!龍造寺コミュの龍造寺なんでもQ&A

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
龍造寺家に関する疑問、質問を、
参加者みんなで解決しようというトピックです。

コメント(19)

龍造寺家の知将は、鍋島直茂以外に誰がいたのでしょうか?
鍋島家の家臣には「鍋島の三生」がいますが、
龍造寺家ではとんと聞きませんね。
いたとしても、成富茂安くらいでしょうか。

少し時代をさかのぼれば、納富信景、小河信安などが
いますが、龍造寺家の全盛期には…

どなたかご存知ですか??
百武賢兼のもとの苗字って、
どなたかご存知ですか??

蛇足ですが、百武さんってほぼ100%彼の
子孫ってことですよね。
(明治の平民苗字許可令の際勝手に百武を名乗った
 人もいるかもしれませんが…)
有名人の血が流れているってのは、うらやましいですね。
自分は佐賀の農民の血です…
 江上氏家臣から竜造寺隆信旗本となり、同時に城原衆(江上衆)陣代を務めた、執行種兼などどうでしょう? 筑前討入りの成功は、ほぼ種兼の手腕に拠っていると思っています。

 竜造寺一門では、のちに多久安順と名乗る竜造寺家久。鍋島直茂の娘婿で、沖田畷敗戦後の政家後見人に推されたこともある逸材です。
確かに言われてみれば、藩祖・直茂は目立ちすぎてますよね〜(笑

全盛期、版図拡大に貢献し肥後筑後を守った、龍造寺家晴、はどうでしょう?

肥前を平定した後での、総力を挙げての筑後出征の陣容では、
先陣 鍋島直茂 
二陣 納富家景、
三陣 龍造寺家晴

・・・と中核に名がありますし、

隆信にしろ、直茂にしろ、手堅い武将として、家晴を随所に起用しているような。

ちなみにIF、ですが、全盛前に、智謀の将、馬場頼周が穏便に竜造寺家に心服臣従して居れば、参謀として活躍したのかもしれませんね〜!
執行氏は古くから在る名門の家柄なんですかね?たしか。
宝琳院・・割と近所です。笑

ちなみに、
佐賀で今や龍造寺姓は居ない、と聞きましたが、
自分、中学校の頃とある剣道の試合の折、長崎の人で、防具の垂れ(腰の名札みたいなアレです)にくっきりはっきり「龍造寺」と書いてある人を見ました。

なので長崎には、「龍造寺」姓の人が居る模様です。
その由縁が気になりますね。
ちなみに、抱き茗荷紋を袴に刺繍した「鍋島」君もその大会に居ました。笑
人知れず、感慨深いものがあり。w
なるほど・・やっぱ剣道部なんだね・と w

ちなみに疑問点、てか興味ある点なんですが、

今山の折、大友方包囲網に窮し、
切羽詰まった隆信が、吉弘鑑理にあてた書状で、
「なんとか当家を許してもらえるように口添えして頂けませんか、吉弘殿ほど頼れる人物はなかなか居ないんで〜」
みたいな風に書いたと言う(笑、隆信のユーモアが垣間見れる部分がある、とされて居ますが、

他に、隆信の性格のユーモアが現れているエピソードってあるんでしょうか??
鎮西大将軍さん…

執行種兼は、腕自慢な武将と思っていましたが、
攻略戦の鍵を握れるほどの知将だったんですね。

江上と言えば、龍造寺に敵対しましたが、
江上武種や神代勝利も知将と言えるレベルで、
龍造寺苦しめてますよね。

多久安順は、確か長信の息子でしたっけ?
鍋島藩政になるちょっと前くらいには活躍
したくらいしか知りませんでしたが、すでに
政家の後見人に押されるくらいの人物だったんですね。

情報ありがとうございました!
na0yaさん…

ゲームネタで恐縮ですが、
家晴はようやく信長の野望にも登場するようになりました。
それまで恥ずかしながら知りませんでした…
陣大将を仰せつかるくらいなので、
やはりなかなかの人物だったのでしょうね。

納富家景も気になります。
多分信景の息子ですよね?

馬場が龍造寺に忠誠を尽くしていたら、
かなり九州の歴史は変わっていたかもしれませんね。
隆信は還俗せずだったり(笑)
隆信が還俗しなかったために、直茂も台頭せず…
で、別の形で龍造寺は滅んでいたかも。
なんて、後ろ向き過ぎに考えてしまいました。
すみません(笑)
じゃしゅがんさん…

ありがとうございます!
戸田だったんですね。
佐賀で戸田さんってあまり聞かない気がしますが、
もともと戸田氏は佐賀の武士だったのでしょうか?
兼が付くくらいなので、多分佐賀にいたのでしょうが…
はじめまして。納富家景が出たので少々・・・

納富氏は石見守栄房の後、
納富家景(家房)、
但馬守信景(家景)、
兵部大輔家繁と続きます。()内は別名です。
なので、信景の子ではなく自身の別名か、父親の名前ということになりますね。

一族の末裔なので調べているのですが、
中々資料が少ないのが現実です。
私は長崎の者ですが、父の本籍は佐賀で江戸幕末には足軽の家だったそうです。
納富氏宗家には初期の頃竜造寺の人物が入り、江戸時代中期には断絶し、その後鍋島氏により名跡回復がなされたようです。鍋島藩で役職は着座という末席家老だった模様。
と、これくらいしかわかりません・・・。
いい資料があったら是非お知らせください!
クリスさん

 竜造寺家晴ではないでしょうか。
 肥前の与賀の馬場で、蒲池鎮漣と共に死んだ蒲池家の家老だった蒲池鎮久の子の熊千代丸は、柳川の戦いの時、民家におり、竜造寺方の蒲池残党狩りから逃れたそうです。
 竜造寺家晴は、竜造寺家兼、隆信と二代に渡って滅亡の危機に瀕した竜造寺氏を支援してくれた蒲池鑑盛のことから大恩ある蒲池氏を滅ぼしてはならないと考え、竜造寺隆信には内密で、熊千代丸こと後の蒲池貞久を家臣としたようです。ただ竜造寺隆信が生きている間は、蒲池貞久は公文姓を名のっていました。
 鍋島氏が肥前の実験を握った後、家晴の一族は諫早に移り、蒲池貞久の子孫からは宇都宮姓と蒲池姓の子孫が出ています。
 詳しくは、蒲池氏の子孫の処をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E6%B0%8F
クリスさん

 肥前で謀殺された蒲池鎮漣の従兄弟に、やはり蒲池氏の家老の大木統光がいますが、彼は竜造寺隆信の策略を予想し、鎮漣に肥前佐賀へ行くことを辞めさせようとしましたが手遅れでした。蒲池鎮漣一行が肥前で謀殺されたことを知ると大木統光は、鍋島直茂の元へ馬を走らせ切腹しようとしますが、鍋島直茂がそれを止め、何度も説得して統光を家臣としました。幕末の佐賀藩から出て、明治の重臣となった伯爵の大木喬任はその子孫です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E5%96%AC%E4%BB%BB

 松田聖子(蒲池法子)さんは、蒲池鑑盛の三男であり、蒲池鎮漣の弟の蒲池統安の子孫になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E7%B5%B1%E5%AE%89
 松田聖子さんの生家は江戸時代は、立花宗茂を藩祖とする柳川藩の家老格の家だったようです。
 私も松田聖子さんは大好きです。
はじめまして。
先ほどこのコミュニティーに参加させていただいた、なも☆彡@松浦党と申します。

 質問ですが、永禄六年(1563)において肥前の二代巨頭、龍造寺VS有馬による丹坂の戦い(百合野合戦)が行われていますが、なかなか詳細がわかりません。
もし、詳しい方がおられれば詳細や、記述がある書籍を紹介していただけないでしょうか?

よろしくお願いします。

ログインすると、残り7件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

【肥前】戦国!龍造寺 更新情報

【肥前】戦国!龍造寺のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング