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椹木野衣コミュの何故、椹木野衣なのか?

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自由に語って下さい。

著作、人格、カリスマ、企画、美術史的存在意義・・、
面白い展開になったら、本人にも紹介してみようかと
思っています
(ここの存在を知らせたくなければ、それはそれでOK)。

個人的な出会いは、村上龍との対談集でした。
あれ読んで、頭良い人だなと思った記憶がある。

今読み返しても新鮮だった。

コメント(28)

『増補・シミュレーショニズム』(ちくま学芸文庫)なぞは、
現代の美術・芸術の諸価値を問う上で、まあ必須なのかなって思う。
けど、基本的な枠としてはベンヤミンとかボードリヤールとか
よんどきゃ十分かなって気がしちゃうのは、
多分、てゆうか、確実に、現場・ディティール見てないせい。
なんだけど、やっぱり、どうなんでしょう、
かっこいいし、頭いいし、野心家だし、人格者なんでしょうけど、
どうもイケスカナイ、
とでも、敢えて言ってみておきましょうか。
って、何も分かっていないので、
御教授いただけるとありがたいです。
「シミュレーショニズム」のころよりも、今の氏のスタンスを
理解するには「日本・現代・美術」以後の活動を追う方がわかりやすいと、個人的には感じます。
あの本は、80年代に活躍した作家(なんか失礼な言い方ですが)に話を聞くと「現場を見てない!」と言いますね。特に日本の状況。
でも、90年代を通しては、国内外ともに、十分に現場には精通してるかと。

ちなみに、イケスカナイ、とお思いになる理由は何処に有るのでしょうか?
いや、わかる気がしますけどね、ニュアンスは(笑。
やはり、「批評家」として外部から見た場合、そういう要素ってあると思うので。
↑、あ、文がおかしくなってますね。「〜あの本」とは、「シミュレーショニズム」を指します。
  >2でNGさんのいうように「日本・現代・美術」以降に関しては国内外ともに、とくに国内に関しては氏の存在抜きには語れないと思な。
 「爆心地の芸術」も重要でしょう。氏がいなければ近代美術館で戦争画いついっても見れるか疑問だし、戦争画と現代まで続くサブカルチャーを他の評論家は誰が説いたか?って気がします。
 同時代性のなかで会田誠、村上隆、現代美術製作所〜レントゲンの関係も時代における必然の中のシンクロニシティでしょう。

 っていって不真面目な生徒でパンク小僧だったおいらは氏の現代音楽の授業でおなじくパンク〜コア系の音楽を聞く友人と「ノーニューヨーク」系のビデオを見て興奮しすぎて氏に授業退場を勧告されたことがあります爆
「日本・現代・美術」はいかにそれまでの日本美術があいまいでいい加減なものをよりどころにしていたのかを明らかにする作業。だったと思うのですが、そのあとに日本の美術がどこに向かうのか?とりあえず国際市場で価値を勝ちとろうという方向なのか?

みたいなところに興味が有ります。

にもかかわらず日本の美術は相変わらず根性論みたいなところでぐるぐる回ってるのは何でなのか?やっぱ日本人が暗いからなのか?とか。

いっそ、国際的な美術としては翻訳不可能なところに日本の美術は向かっているのではないだろうか?あえてそれくらいのレベルまでたどり着くことによって国際的な(かつての浮世絵?のような?)評価を狙うしかないのだろうか?とか。

村上某氏の活動もどこかそんな日本の美術を国際舞台へ持ち込むためのただの翻訳作業ととられてしまいがちな印象をみんな持ってしまう、いや実際そこんとこどうなのか?とか?

具体的に日本で現代の美術を志すには何をすればいいのか?どこに行けば良いのか?コミケやワンフェスじゃ駄目なのか?
とか・・・

「先生、俺。日本で現代の美術で天下を取りたいんです!」
という若者になんと答えれば良いのか?
私の推測ですがやはりボードリヤールとかドゥルーズ=ガタリとかデリダなど、ポストモダン系の思想家からの影響は大きいですよね。
論壇的な場での立ち回りも結構うまいと思います。柄谷行人とか宮台慎二みたいにはならないでね。まずならないでしょうが(笑)
お、ちょっと活発になってきましたね。
閉鎖寸前だったのが(笑。

明日はぼくも何か書きますかな。
同時代に東浩紀のような思想家がでてきたことも恐るべきシンクロ二シティでよね〜。

「先生、俺。日本で現代の美術で天下を取りたいんです!」

悪い場所である「日本」でってところが逆に難しいよね〜。
分かったら誰も苦労しないよw
取りあえず海外の美術の動向を伺うだけではもう「だめ」ってことは確か。
まず、「天下」とは何か?から諭すでしょう。
「天下」とはなにか?としてしまうと
あいまいで暗い日本がニヤニヤと元気を取り戻しそうなので、
ここは「天下」とは何処か?という具体的な問いかけで攻めたいところですね、この問いには。

日本の現代の美術の具体的な場はどこなのか?
何処と何処と何処の画廊で個展を開けばよいのか?
誰と誰と誰に評価してもらえれば良いのか?

実は、やっぱりそんな具体的な場は今のところ無いのか?

むしろ、場を作るってことが大事なのか?
日本で現代で美術を行っていくためには自分で場所作りから始めないといけないのか?
だからゲイサイなのか?

とか?

「先生!俺。日本の現代の美術の中心でアイを叫びたいんだw」
という若者にとりあえず何処を教えれば良いのか?
やっぱり今は茅場町か六本木、目黒あたりの有力ギャラリストの
ギャラリーが当時の現代美術製作所のあたるのかな。。ちょっと違うな。。

どこのギャラリーで個展を開けばよいのかではなくてどこのギャラリーの企画展で展示やらせてもらえるかが重要なんだよね。
今は不況だから大抵の貸しギャラリーが金払えば個展をやらせてくれる。そこそこキャリアあってこまめにギャラリーに足運べば企画展でそこそこのギャラリーがやらせてくれるかもしれない。
でも上記のギャララリーはやっぱり特別なんだよね。

あとは現代美術系の公募で入賞を繰り返すこと。

「岡本太郎大賞」や「キリンアートアワード」、平面なら「昭和シェル」あたり。

まあ一例にしか過ぎないし「天下」には上記だけじゃだめだけどね。

 
日本は最終的には水戸でやって天下統一だ!
そしたら海外遠征だ!凱旋帰国だ!
まぁ、それはさておき、

そうなってくると「天下」は、ギャラリーやキュレーターそして作家の間でのつながりや力関係などが変化していく現在進行形の場所。
常に中心はあって移動しつつ変化してるからこまめにチェックしなくちゃ置いてかれるし、その変化を追いかける気分が大事なんではないかってことになってくるんでしょうか?

流行に敏感な作家とメディアが不足してるような印象をうけますが・・・それ以前に流行がないのか?

同時にその場所が如何に暗くなくてみんなの注目の的になれるか?が現代の日本の美術の面白さと盛り上がりを意味することになる?

「先生、日本の現代の美術の最先端の熱い情報を得るにはなんと言う雑誌を買えばいいんですか?」
とかでしょうか?
最近のサワラギ氏は、そういった「天下」志向
には興味が無いのでは?個人的には話しててそー感じます。

今の小沢剛みたいに、国際展の便利屋みたいに
なってる状態にも批判的な事いってますしね。

もちろん、そういった「海外」での賞賛を勝ち取る
のはたいへんなことなので、それはそれであり、とは
言いますが(この辺りは「爆心地の芸術」でも言ってる
事)。

むしろ、できやよいのように、基本的な制作スタンスが
特異極まりない、「異能」に惹きつけられているような
印象。それが「単なるキッチュ好き」みたいに、2ちゃん
で煽られる原因なのかもしれないですね。

そんな状態なので、「どううまくやればいのか?」って、
まぁためしに聞いても、色々言うけど、最後は
「やりたい事をやりたようにやればいいんだよぉ、
うまくやろうとか、せこいよ」
みたいなオチですね。最近。
あ~たしかに水戸美術館でやって海外遠征ってパターン何人もいるね。
そのパターンで母校の講師に三十でなったタナカコウキ氏は予備校で一つ上だったな。

「流行」というかある種の「モード」は平面にはある程度ある気がするな。

 「現代美術」の展示を見ることがいけてて「現代美術」の作品を購入することがステイタスとなるような状況を日本で作れればいいのかも知れない。
 だけどお隣の韓国では八十年代のソウルオリンピックの時にそういう状況ができたけど、その後その状況が「糞も味噌もごっちゃ」な状況を生んじゃて、結局国外に留学して成功した作家とかだけが残っていってる状況もあるんだよね。
 ゲイサイがそんな状況の二の次にならなきゃ面白いと思うんだが。

 「美術手帳」以外にも新しい面白い雑誌が出始めてるし「カーサブルータス」とか一般誌と美術雑誌を繋ぐような雑誌も出始めてるね。でもフォローしてる作家はほとんど被ってるw
 日本ってミニコミとかフリーペーパーとかの社会的な機能に関してどうなのかな?オルタナティブスペースと関連したミニコミとかフリーペパーって強い力もてれば面白いと思うんだけど。
 西海岸とかでパンクカルチャーとミニコミとの関係の中で出てきたレイモンド・ペティボンとか面白いと思うんだよね。
 人気あるけど壊れてるエロ漫画家の町野変丸とかを村上隆は一時期持ち上げてたね〜。
 
 NGさんが言うように近年の椹木氏の「異能の人」への興味
って見てて面白いよね
 。今の時代に精●病院にも入院したことがあるパフォマーで大阪万博中に太陽の塔の下全裸で疾走し逮捕されたダダカンにインタビューしたりとか。。まだ新作の戦争と万博だっけ。。読んでないや。
 あとデキヤヨイが不思議少女ぶってたけど実は演技だったのにまんまと騙されてた椹木氏の話にいたく椹木氏の「人物」に対する思い入れを感じてぐっと椹木氏が好きになりましたw
できちゃん、実際一緒に飲んだんですけど、
あれは「演技」じゃないような・・。
途中、
マジで中学生と話してるような気がして、
頭がクラクラして
きた記憶があるんですが・・。

あの人は「真性」だと思うのですが。
まぁ、「天下」はあくまで国内で終わる形容詞じゃないかなとw

それはさておき、「異能」とか「狂ってる」ってのは日本の現代の美術で大事なことなんですよ。多分。なぜなら「天下」の一端を担ってる椹木氏がそういう流れを作っているから・・・というのはどうでしょう?

こないだまで基準もクソもなかった原始時代みたいな(それも原爆爆発後の?)日本の現代の美術の地平で何か打ち立てていくためには最終的な好き嫌いってすごく重要なことナンじゃないか?
いやぁでもそれが今の日本の現代の美術の基準を作りつつあるのではないか?

漠然と見て今の作家は売っていく上でどこか「狂ってる」ことを求められる流れができちゃってるような気がするようなしないような?それはいいことなのか?悪いことなのか?

いやだからこそ、それはそれでいいから今はあたかもかっこよくておしゃれで、若くてかわいい女の子がキャーキャー言いながら(キャラ萌えーじゃなくて・・・)作家を追いかけ男は鼻息を荒くする。(ついでに銀行も金を貸す?)ような流れをある程度、意図的に作ってかなければいけない時期なのではないか?

でもそれをやるには人手が不足しすぎてるんじゃないか?
お金はあとからついてくるんじゃないか?
いややっぱり世の中そんなに甘くないのではw?
もっと美術に対して戦略的な、好戦的なメディアが今。求められているんではないか?

「先生、日本の現代の美術の現場を熱く盛り上げる雑誌を作りたいんですけどタイトルは何が良いですか?!」
とか?
は〜。今日午前中に会議あるのに寝れない。NGさんも三時まで起きてて現場で事故らないでね汗

 まあ、そんな話はさておいて。トウキョウトラッシュhttp://www.so-net.ne.jp/tokyotrash/index02.htmlの山口裕美さんの本とかにもあるけど現代美術のお金出す企業や地方自治体は少ないし、現在ますます減ってる気がするな。 
 ましてや不良債権にあえいでいる銀行が回収できる見込みのない現代美術作品の制作のために金出すわけないよw 日本の現代美術家に金貸すような担当は俺が上司ならすぐ解雇だねw
 あとね〜。フリーペーパーでもミニコミでもいいけど、なんだかんだで流通の問題と作る人間がどれだけコネクションあるかと広告をどんだけ取れるかの問題があるんだよね。
 
 >17NGさん
できさんと飲んだことあるんだw まあとりあえず小人さんは実際には見えないらしいよw 俺はお経唱えてると眼前にありありと浄土の状景を思い浮かべることができるがw

 
フリーペーパー話といえば、
ここ10年くらいのアート系フリーペーパーに影響を与えた雑誌として椹木氏も書いてたスタジオボイスって雑誌がりましたが、(今も有りますが・・)あれは当時安くつくってるのにハッタリが効いていてとても刺激的だった記憶。

その後、フリーペーパーに憧れ4色刷りを目指したり、情報発信というより作品発表というようなモノが増えたような印象。

多くは体裁を整えようとして力尽きてる感がありますが、
やっぱ会社で夜中にこっそりコピーしてホッチキスでとめるんじゃダメなのか?それだとおしゃれな日本の現代の美術足り得ないのか?とかw

あえて「美術の熱い現場をレポートして盛り上げたい若者」がいたなら、まずはコピーにホッチキスで十分。あとはリスト作ってあげるからそれを編集部、ライター、ギャラリー等に片っ端から送り付けなさい。
タイトルは岡本太郎にちなんで「次郎」なんてどうかしら?
ついでに日本一知名度の高い美術館、ジブリ美術館も取材して来なさい。
と指導したくなります。

作品が売れないのはやはり絵画等にくらべ評価の基準がない。
価値がつかない。という部分が根底にあった。
がしかし椹木氏の登場により、日本の現代の美術の現場に価値を図るための基準ができてきた。作品を評価し値段をつけることが可能になるw。作品を担保に銀行も金を貸すw。という流れが・・・w
評価の基準もそうだけど、日本はアート自体を評価
する精神的な土壌がないですよね。

もちろん欧米もそんなの持ってるのは完全にアッパー
クラスだけだろうけど、アートを精神的文化的に価値
ある行為と認めて、その思想性に資金を投資する人は、
日本よりは多い。
だから現代美術の作品に、ものとしての価値(使える、
とか、食べられる、とか色々)がなくても、完成度が
なくても、ゴミでも、その思想が優れてれば値段は
高くつける。

でも、日本だと物質的に優れた側面が無いと、そのもの
に文化的価値=経済的価値を認めないですよね、比較的。
だから、美しかったり、
出来が良かったり、それこそ何かに使えたりさ、そういう
要素がないと、「値段」がつかない。大竹シンローとかの
ジャンク的な作品に「なんでこんなゴミに
数百万がつくわけーー?」みたいになる反応って、まさにそうですよね。それは別に悪いとは思わないんですが、そういうところでは、やはり中々現代美術は欧米的な根付きかたは難しいかも。

ちなみに、最近、ぼくは日本的な価値基準のほうが好きかも。
即物的で正直。
土壌の問題ですかね?やっぱり。根付かない。
解決策は品種改良でしょうか?

・・・なんか話が暗い日本の場所っぽくなってきたようなw
好き嫌いはさておきたいのですが、
勝手にまとめると・・・

なぜ海外でゴミも高く売れるのか?
日本と比べて歴史も有り評価するシステムもあるので
日本人から見るとゴミでも世界の美術の文脈から見ると非常に重要なものを孕んでいるから。

日本人にはなぜその文脈が見えない上にその完成度が理解できないのか?
情報が入ってこないし不勉強だから。

なぜ日本では現代美術の価値が評価されにくいのか?
文脈がないから評価できない。
意味がわからない。そもそも何のためにつくったのか良くわからない。

ナンデ文脈が無いのか?
歴史が浅い上に戦争(画?)という大きな歴史的断絶があるから、そこで文脈が切れたままつながってない。(無理やりまとめすぎ?)

仕方が無いので、文脈も良くわからないまま戦後、海外で当時流行っていた、ガラクタを美術館に並べるという表現を表面的に真似したあたりから再出発?(言いすぎ?)

じゃぁ現代の日本の美術はこれから何処に向かうのか?
そんなのわからない。

というようなかなり勝手な解釈で椹木氏の本を読んでたんですけど・・・どうでしょうか?

ところで、どうにも日本人は、「美術」とは文脈とか流行に対して無関係、世間の雑踏とは無縁で無垢なもの、自己の内なるエネルギーかなにか・・・という思いが強いですよね。なぜなんでしょう?コレは誰の影響なんでしょう?
 結局、日本人がたとえ現代美術に根ざす作品であってもそこに表面的な完成度の高さや実用性を求めるのは「血」なんだよ。
 明治以前までの日本の美術は絵画、工芸、デザインがボーダーレスな価値観だったし、そこには個人主義的な思想性よりもまず表面の技術力が絶対な価値観の基準だったと思う。そのクオリティは幼少期からの自分の属する流派の師匠の手本の盲目的なまでの模写から始まるわけだし。西洋美術にかんしても師弟関係や公房制はあったけどその制度自体は中世まで。でも日本はほんの二百年前までそうなんだからしょうがないやね。
 おいらもどんな現代美術作品であっても作品自体よりコンセプトが面白い作品は、視覚芸術としてだめだろうと思う。

>仕方が無いので、文脈も良くわからないまま戦後、海外で当時流
>行っていた、ガラクタを美術館に並べるという表現を表面的に真似>したあたりから再出発?(言いすぎ?)

 もうそんなことする時代は六十年代に「もの派」が生まれる前に終わったよ。
 問題なのはあくまで日本の美術の歴史、それこそ奈良時代から大和絵や日本的な木彫仏像の歴史は始まってるんだからその延長線上で現代美術を語るだけのアイデンティティが必要な時代なんだと思うよ。

>ところで、どうにも日本人は、「美術」とは文脈とか流行に対して>無関係、世間の雑踏とは無縁で無垢なもの、自己の内なるエネル.>ギーかなにか・・・という思いが強いですよね。なぜなんでしょ>.う?コレは誰の影響なんでしょう?

一つは日本の中高ぐらいまでの美術教育が「現代美術」に対してフォローしないから理解できないものとして捉えがちなこと。
 一つには岡本太郎がテレビで一般大衆に与えた芸術家像って大きい気がするw おいらが子供のころまで岡本太郎はよくテレビに出て強烈なインパクトを与えてたからね〜。みんな岡本太郎の著作読まずにテレビで判断してた。
>「もの派」が生まれる前に終わったよ
再出発もうまく行かず60年代でまた文脈が終わっちゃったってことでしょうか?
そのあとにつながっていない感じが日本の美術の場所ってことになるのかな。だからリセットしてもっと以前の歴史からやり直そうという気分なのか?

日本の場合は明治以前に「美術」は無かった。
という突然のスタートを考えると如何にそれ以前にあったものを「美術」として再解釈しなおして日本の美術史にアイデンティティーをもたらしていくのか?という作業。その作業のいびつさがこれまた日本の美術の場所でもある気がしますね。

あ、あと世間一般の現代美術はビジュアル的な完成度として弱いというようなイメージは何処から来るんでしょうか?
総合芸術(?)であるところの現代美術の場で視覚的に弱い作品は評価されてないと思うんですけど、これもやはり誰かの影響なんでしょうか?
 「もの派」がミニマリズム、コンセプチュアリズムなんかと世界的な同時代的リンクしたことをいいたかったんだよね。
 やみくもに輸入ってことじゃなくてさ。
 まあリーユーファンの存在が大きいんだけど。
 それに明治以前に日本に美術はなかったという明治以降の輸入美術の無自覚な受け入れの全面肯定が椹木氏のいう「悪い場所、日本」であり、それをふまえて振り出しに戻そうとしたのが「日本ゼロ年」じゃなかったのかな。
 それ以降に村上隆が日本の明治以前の美術とアニメーションなどのカルチャーをスーパーフラットでリンクさせたことを

>日本の場合は明治以前に「美術」は無かった。
>という突然のスタートを考えると如何にそれ以前にあったものを>>「美術」として再解釈しなおして日本の美術史にアイデンテティー>をもたらしていくのか?という作業。その作業のいびつさがこれま>た日本の美術の場所でもある気がしますね。

という風に切られると、明治以前の日本美術とかもそうだけどさらにいうと「禅」という美術ではない宗教的哲学が海外のミニマリスムに与えた影響とか日本の工芸品がパリ万博で十九世紀末のヨーロッパでクリムトなどの作家やマイセンなどの陶器など大きな影響を与えたこととかどうなるの?って聞きたくなるな。
 歪な作業ではなくてようやく自分達の文化的な基盤の上で現代美術を語っても海外が納得した(リトルボーイ展の成功が好例)というのが自分の中の解釈。
 それまで海外で日本的な文脈を全く感じさせなければバナナ(外身は日本人て中身は白人)、逆に日本的な要素を感じさせればたんなるオリエンタリズムと評論してきた海外の美術評論家やメディアが手放しで賞賛し受け入れたのがリトルボーイ展であり、その文脈には日本美術〜第二次世界大戦〜アメリカンサブカルチャーへの日本的カウンターカルチャーとしてのオタクカルチャーという流れがあるんだよ。
 その理論の構築はたんなる「翻訳」なんかではないでしょ。
それを歪な「翻訳」ってしてたらいつまでたっても日本人は日本人のアイデンティティの中で「現代美術」を作れないってことになるもん。どんなに修行しても、たとえ日本で生まれても黒人がうまい寿司作れないっていう論拠なき理屈と一緒でしょ。
みんな長いな!時間が無くて読めない!w
とりあえず、今日はさわらぎ氏と話して
出した結論をひとつ、話のネタとしておいておきます。

「野球はイタリアでカネにならないが、日本とアメリカ
 では巨大な利益を生む。
 漫画はイタリアでビッグビジネスになることはないが、
 日本においては出版業界を支えるほどの巨大マーケット。
 アメリカではサッカー選手は見向きもされないが、
 イタリアでは英雄だ」これをアートに当てはめると・・。

 つまり、個人の営為はともかく、全体を考えた場合、
無駄な努力ってあるよね、という事。例外は
あるけど。日本におけるサッカーの地位の推移とか。
う〜ん。翻訳やそこで起こる歪み、いびつさ、はもっと肯定的なものなんだと思うんですが・・・

むしろ明治期に行われた翻訳って歴史的な作業、西洋にあった近代の言葉のすべてを自国の言葉に作り直して国内に持ち込んだ偉業。これは日本人のアイデンティティーのかなりの重要なポジションを占めてると思ってるんですが、どうでしょう?実際そこでの作業というフィルターを通さずして江戸時代を見ることはもはや困難に近いし・・・

「自分はかつて自分が思っていた以上に歪んでいる。」
というのが結構大事な出発点なんだなとあらためて思うんですよ。むしろこのテーマ無しに今の日本で美術作品は作れないんじゃないかとさえ思ったりして。
そのゆがみを如何に肯定的に知らしめるか、という国内に向けた作業が今、重要な気がします。

>黒人がうまい寿司作れるかどうか?
これ面白いですね。この黒人が寿司握ってる場所がNYなのか築地なのかでだいぶ印象が違う気がするw。

海外で評価された日本人の作品
日本で評価された日本人の作品
は等価である必要は無いけど
等価であって欲しいと思う気持ちはある。

スタジオジブリが「もののけ姫」をアメリカで公開するとき
「アメリカ向けに編集しなおせば多分ウケる
けどこのままだったらアメリカではウケない。」
というようなことを言われたらしいけど。

結果は、そのままアメリカに持ち込むことによって
その後の価値のバランスを崩す。という挑戦を取った。
ということだったように記憶してますが、

誰にウケたいのかを最初に選ばないといけないってことですね。
そのうえで第三者にもウケたらラッキー!みたいな。
>むしろ明治期に行われた翻訳って歴史的な作業、西洋にあった近代>の言葉のすべてを自国の言葉に作り直して国内に持ち込んだ偉業。>これは日本人のアイデンティティーのかなりの重要なポジションを>占めてると思ってるんですが、どうでしょう?実際そこでの作業と>いうフィルターを通さずして江戸時代を見ることはもはや困難に近>いし・・・

あ〜なるほど。確かにそうだね。ドブ吉さんのいう「ねじれ」や「ゆがみ」について、ふと自分のフィールドの「仏教学」の明治以降の変化と現在の状況で考えたときにすごく納得できるとこあるんだよね。
>「翻訳」にかんしてネガティブな見方しすぎてたな。
>スタジオジブリが「もののけ姫」をアメリカで公開するとき
>「アメリカ向けに編集しなおせば多分ウケる
>けどこのままだったらアメリカではウケない。」
>というようなことを言われたらしいけど。

>結果は、そのままアメリカに持ち込むことによって
>その後の価値のバランスを崩す。という挑戦を取った。
>ということだったように記憶してますが、

村上隆の戦略もジブリの戦略をもっと狡猾に時間かけてやったといえるかもね。
 「リトルボーイ展」のカタログ入手して今、読んでるんだけど「(日本の)美術系の大学、専門学校でグラフィックデザインから純粋芸術まで学習している学生のほとんどが一度は漫画家を目指し、そして挫折した経験を持っている」
との一文が。。
 この一文が誇張めいたものにしろ日本ではたしかに「アート>現代美術」ではなく「マンガ>現代美術」かもしれない。
 「富と名声」という面からみたらw
 椹木氏のテキストもあるけどまだそこまで読んでないので読んだら話の流れに関連させて書き込みたいと思います。

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