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伊東の雑情報(^^♪コミュのYOKONARABI

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「横並び」

「横並び」の本来の意味は、もちろん物が横に並んだ状態にあることである。転じて、差をつけないで同等に人を扱うこと、あるいはそのように扱われている状態を指す。

今や普通の言葉のように聞こえるが、「横並び」が独立した単語として認識されたのは、ごく最近のことのようだ。『広辞苑』に「横並び」の項目が登場するのは1998年発行の第五版からで、91年の第四版には記述がない。おそらく、一単語としての「横並び」は、90年代に市民権を獲得したのである。

さて、「横」も「並び」も古くから辞書にある言葉である。また横に並ぶという表現もごく自然であり、これが長い間使われてきたものであることに疑う余地はない。よって、独立した単語としてみなされるようになったのは、この言葉の組み合わせに新たな含意がこの時期に発生したからと考えるべきである。

 それは、物事が好ましくない状態にあるという示唆だ。「横並び」は、単なる客観的な状態記述を目的とするよりは、何か悪いことを暗示すべく使われるものである。逆に良い意味で使われるような場合を、少なくとも私は簡単には思いつかない。

「悪しき横並び社会」という言葉から「悪しき」を取り払っても、おそらく日常での意思の疎通の妨げになることはないだろう。「結論は横並び」という表現から、結論が一致してたいそうめでたいと感じるよりは、むしろ何やら悪いことが起こったと感じる人のほうが多いだろう。

横並びの語源
しかしながら、理屈のうえでは横並びが常に悪というわけではない。車の形状や飛行機のデザインがどれをとっても大筋で同じになるのは、物理的な要請があるからだ。ほとんどの魚の形状も流線型で横並びしているが、これにも自然の摂理が働いている。この種の横並びに目くじらを立てる人は多くはないであろうし、またそうすべきでもない。

 何かが横に並んでいるという一般現象そのものをして、にわかに善悪を論じることはできないのである。にもかかわらず、「横並び」に特殊な意味合いが発生したのは、特定の文脈で発生する横並び状態が問題視されたからに違いない。それを踏まえつつ、「横並び慣行」「横並び賃金」などの用例を見れば、この言葉が表そうとしているのは、横に並ぶのが悪いという価値判断にとどまらず、日本の社会経済システムに存在する、ある共通した問題点であろうと想像がつく。

さすれば「横並び」の語源は、90年代初頭のバブル経済崩壊後に盛んにされた、長期低迷する日本経済の活力を取り戻すために何がされるべきかという議論のなかに求められるべきであろう。当時は、我が国の各所にある横並び体質が経済活力を奪う元凶の一つであり、規制緩和をもって競争を促し、横並びを廃すべきであるという主張が、さまざまなメディアをにぎわしたものである。

たしかに、規制緩和を悪しき市場万能主義の発露とみなし、弱者保護と適切な規制の維持をすべしという主張も、けっして少数派ではなかった。しかし、「横並び」に新たな意味が生まれた背景には、差が生じてしかるべきなのに均一な状態に置かれているものが身のまわりにたくさんあり、そのような横並びの積み重ねが経済停滞の原因ではないかと、少なからぬ人が疑っていたという事情があったに違いない。なぜなら、そのような感覚が共有されなければ、「横並び」の新たな意味合いが日本語の中に定着しなかったはずだからだ。

コメント(2)

それでは、規制緩和が解消することを目指した、横並びを助長し経済の活力を奪う問題点とは何だろうか。

端的にまとめれば、それは経済活動の帰結が活動の内容や質によらずに決まるという仕組みである。そのような仕組みが経済の活力を奪うという考え方は、経済学のモラル・ハザード理論によって正当化できる。

理論の主張を例示するために、庭をきれいにするための草むしりなどのように、汗をかいただけの成果が確実に出るような作業を考えよう。このとき、無理なくとれる草の量を基準として定めておいて、それを達成できた人には、むしった草の総量にかかわらずに一律の報酬を与えることにしてみよう。

こうしておけば、全員が目標を達成し、不公平なく均一な所得を得ることができるだろう。しかるに、仕事の量や巧拙にかかわらず一定の報酬が得られることが保障されるならば、がんばって余計な仕事をする必要もなくなってしまう。おそらくは基準とされる量だけの草むしりをして、誰もが仕事を切り上げるようになり、結局のところ庭をきれいにするには余計な人手がかかるであろう。すなわち経済活動の内容や質によらず横並びの結果が期待されるときに活力は生まれず、無駄遣いが起こる。これがモラル・ハザード問題だ。

庭を無駄なくきれいにするためには、報酬はむしった草の量に応じて、すなわちはっきりとわかる成果に対応させて支払われるべきである。報酬が増えるのならば、より草をむしろうとするからだ。つまり、望ましい活力を引き出すためには、活動の成果に応じて報酬を支払うことで、仕事をするインセンティブを効果的に与える必要がある。これが、モラル・ハザード理論の教えである。

「横並び」という言葉が確立した当時の様子がよく表されているものに、98年に当時の総務庁がまとめた『規制緩和白書』がある。白書は、「許認可等及びそれに関連する行政指導などの手段により、国民・事業者を直接規制する行政(直接規制)」から、「明確かつ具体的なルールを定め、ルールを守っている限り自由に、想像力を発揮して活動できるようにする行政(間接規制)」への転換が我が国の目標であり、それは「民間の活力が一段と発揮されるべき今日の時代において必要とされる」と論じている。

ここでの直接規制とは、努力や創意工夫の質にかかわらず均一な結果をもたらそうという仕組みと読むことができ、それに対して間接規制は努力や創意工夫を促そうとすることを目標とした方法に他ならない。すなわち、白書は政府が行うさまざまな規制が、経済活動の内容や質によらず結果の平等を保障することになっていると認識し、それによって発生するモラル・ハザード問題を解消するために、成果報酬の考え方を応用しようと述べたのである。

モラル・ハザードと不確実性
しかしながら、努力に対して得られる成果が不確実であるときや、成果の意義が不確かなときには、単純な成果報酬は必ずしも好ましくないということも、モラル・ハザード理論は主張することを忘れてはならない。

再び単純な例を考えよう。今、何人かの人が独立に作物を植えるとしよう。作物には2種類あり、世話をすれば確実に育つものの果実は凡庸な作物と、熱心に世話をしても育つかどうかわからず、果実の社会的潜在価値は高いものの、その真価はなかなかわかりにくい作物があるとしよう。
もし作物の種類や出来にかかわらず報酬が保障されるとすれば、すでに論じたとおり、熱心に世話をする意欲が不足するであろう。他方、もし収穫された果実の量に応じてのみ報酬を得られるとしたらどうだろうか。確実に育つ作物のほうは、草むしりの例と事情は同じである。ところが育つかどうか不確実な作物のほうは、少々問題がある。最大限の努力をしても、運が悪いと作物は育たないし、また育っても果実の真価を認められないかもしれない。すなわち、努力しても報われない可能性がある。すると、人々は失敗を恐れ、凡庸な作物の生産のほうにより興味を覚えるであろう。

全体で見れば、大切なのは誰が成功したかではなく、どれだけの果実が得られるかだから、不確実な作物への挑戦者がいるほうが望ましい。しかし、果実を得るのに失敗した人が路頭に迷うようでは、誰も難しい作物に挑戦しないであろう。それはあたかも、競争を促すはずの成果主義が、かえって挑戦する活力をそぐかのように見えるのである。

よってこの場合は、失敗しても何らかの補償をする約束をしておいて、不確実だが価値の高い可能性のある作物にも挑戦できるように仕向けるほうが好ましい。一般に、努力に対する成果が不確実なときには、報酬を見かけの成果に完全に依存させてしまうのは必ずしも好ましくない。成果に依存して支払われる報酬と、成果を問わず保障される報酬との組み合わせを考えるべしというのが、モラル・ハザード理論の教えなのであるある。

セーフティ・ネット
この例を一企業内での労使関係にあてはめると、作物の育成に失敗した者の首を切るというような極端な成果主義ではなく、雇用を維持するという一定の保障と組み合わせたほうが、被雇用者の士気が上がり活力が増し、最終的には全体の利益になることを示唆する。つまり、雇用は企業の社会的責任というような、昨今流行しつつある根拠不明瞭な概念などに頼らずとも、何があっても最低限の賃金と雇用を維持すると確約するのは、最終的に企業の利益追求とも合致するのである。

理論の主張を踏襲すれば、雇用維持が利益に反するとき、あるいは真の利益を企業が見誤るような場合でも、失敗した者へある程度の報酬が保障される仕組みが、企業を超えた社会的枠組みとして整備されることが、経済活力の源になるということもわかる。

この観点から我が国の社会保障を見直すと、残念ながら立派なものとは言えない。たとえば、年金をめぐる一連の不細工な出来事は、本来堅固な保障の仕組みであるべきものが、実はあやふやなものではないかという印象を、国民に与えてしまった。理論的には、保障が本当に危ういかどうかにかかわらず、危ういと感じられてしまうだけで人はより手堅い作物を志向するようになり、結果として経済の活力は奪われるものである。仮に、雇用が企業の社会的責任であると政府が主張することに意味があるとすれば、それは社会的セーフティ・ネットの整備がおざなりに済まされてきたことを認めるということであろう。

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