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木鶏クラブ青年部コミュの『松下幸之助の哲学』

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『松下幸之助の哲学』(松下幸之助 PHP研究所(2002))
の要旨です。

「いかに生き、いかに栄えるか」が副題。松下幸之助の人生哲学の集大成。人間の究極の問いかけに真摯に明瞭に語る。まだ若輩の 私にはずしんとくるものがなかったが、一生そばに置いておきたい書という感じがした。

・ お釈迦様は"諸行無常"ということを説かれた。"諸行"とは"万物"ということであり、"無常"とは"流転"ということである。す なわち諸行無常とは、万物流転、生成発展ということなのである。言い換えると、お釈迦様は、日に新たでなければならないぞ、とい うことを教えられたのだと思う。

・ 万物すべて、自然の理法に従い、日に日に生成発展の道をたどっている。私たち人間も、この自然の理法に従い、日に日に新た な営みを続けていかなければならない。常に時に従い、創意と工夫を新たにして、一日一日と生成発展の道を進まなければならない 。そこから限りない繁栄、平和、幸福が生み出されてくると思う。

・ 調和を一言で言うと、それぞれのものが、一定の秩序のもとに、互いに生かしあっている状態であると思う。調和した社会とは、 各人がそれぞれその分に応じて働き、社会秩序が正しく守られ、お互いに助け合っている社会なのである。

・ 真の調和を実現するためには、正しい秩序を打ち立てなければならない。秩序とは、物おのおのがそのところにある、というこ とである。

・ 調和は、宇宙の法則に順応する生活態度を求めるところにおのずから生まれてくるものであって、この法則に反して、一時的に、 人間の知恵才覚で妥協や馴れ合いを行っても、それは真の調和とはいえない。宇宙の法則を求めていくところに、調和がおのずから 生まれてくる―これが調和の本質であると思う。

・ 素直な心になれば、心の眼が開けて、自然の理が感得できるようになり、その結果、賢愚の別を問わず、無理のないものの見方が できて、正邪の区別も自然にはっきりするようになると思う。

・ "すなお"という言葉を漢字に書くと、一般には"素直"という字に置き換えられているが、この字を見たときに受ける感じからい えば、なにか"すなお"という言葉のもつ本当の意味を言い表していないように思われる。しいて"すなお"という言葉の含んでいる 意味を漢字で表そうとするならば、それに一番近いのは"忠"という言葉ではないかと思う。

"忠"という言葉のもつ本来の意味は、字の示すごとく一筋にまん中を貫く心、かたよらぬ心であると思う。左右バランスのとれた心 であり、二心のない、まごころを尽くす心である。それはまた、中心が定まっているから、決してバランスを失うことのない、危な げのない心でもある。

・ 人から言われたことをただ忠実に、従順に守るということだけでは、本当の意味の素直さにはならないと思う。これはいわば消 極的な素直さであると思う。本当の意味の素直さというものは、もっと力強いものであり、積極的な内容をもっているものである。 すなわち、物事の真実に対して強く現れる心であると思う。

いいかえれば、物事の真実を受け入れようとする力の湧いてくる心である。それは、正しいこと、真実なるものに忠実であり、従順 である心であると思う。間違っていることであるならばこれを排し、その物事の真実なることを見極めて、それに従う態度であると 思う。

・ 素直な心とは、物事の是非善悪を映し出す鏡のような働きをするものであり、この素直な心はわれわれの日常生活を営む上にお いて、欠くべからざる基本的な心構えであると思う。

・ 素直な心を養うには、何といっても、そのような心になろうという心がけというか、気持ちをもたなければならない。絶えず素 直な心になることを念じ、その人それぞれの立場において、工夫と精進を積んでいったならば、少なくとも、昨日よりは今日、今日よ りは明日と、日一日と素直さが高まってくるのではないかと思う。

・ 主観的な人間の願い、人間の目的は、繁栄、平和、幸福になることであり、客観的な人間の目的、人間の使命は生成発展すること、 すなわち繁栄、平和、幸福になることであって、主観的にも客観的にも、ピッタリ一致する。一致するということは、その目的が正 しいことであり、それが成就するということである。

だから私たち人間は、大いに繁栄、平和、幸福を望んでよいと思う。正々堂々とこの願いをもってよいと思う。そしてこの願いは成 就するに違いない、この目的は達成させるに違いない、という強い信念を持つ必要があると思う。要するに、人間の目的は、人間を中 心にして生成発展の大原則を、人間の上にも万物の上にも顕現し、これによって、人間の繁栄、平和、幸福を図るところにあるといえ る。

ただし、絶えず真理を究め、生成発展の原理を自覚して、お互いの生活の上に創意と工夫を凝らさなければならない。そこに、学問 の使命があり、また尊さがあると思う。

・ 新しい人間観の提唱:宇宙に存在する全てのものは、常に生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の 理法である。人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間は、たえず生成発 展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用す ることによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。

かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、そ の支配者となる。すなわち人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。そ してなにものもかかる人間の判定を否定することはできない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である。

このすぐれた特性を与えられた人間も、個々の現実の姿を見れば、必ずしも公正にして力強い存在とはいえない。人間は常に繁栄を 求めつつも往々にして貧困に陥り、平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸に襲われてきている 。かかる人間の現実の姿こそ、自らに与えられた天命を悟らず、個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんとする結果に他なら ない。

すなわち、人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することができない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の 人々の知恵が、自由に、何の妨げも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を生か すのである。まさに衆知こそ、自然の理法を広く共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である。まことに人 間は崇高にして偉大な存在である。

お互いにこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を高めつつ生成発展の大業を営まなければならない。長久なる人間の使 命は、この天命を自覚実践することにある。この使命の意義を明らかにし、その達成を期せんがため、ここに新しい人間観を提唱す るものである。

・ 多数知は本当の衆知ではないと思う。十人いるならば、十人の知恵が全部、自由にそして平等に、あますところなく吸収され、総 合される必要があると思う。一人ももれるところがあってはならないと思う。たとえ大知恵者の知恵であろうと、また愚者の知恵 であろうと、全て同じ条件のもとに、平等に、大は大なりに、小は小なりに、それぞれの持ち味に応じて、吸収され総合されなければな らないと思う。

・ 繁栄、平和、幸福を進めるものが真の善であり、これを損なうものがすべて悪であるということを、一応善悪の判定基準の根本的 な考え方にしてよいと思う。

・ われわれは人間として、人間の本質に生きる、つまり、人間の本質に生き、人間として完成への道を進んでいくことが善である と思う。そして、これにはずれることが悪ではないかと思う。

・ 理性と本能とが調和し高まっていくところに、人間としての正しい道があるのであって、これが善なる姿であり、この調和が破 れた場合に悪になると思う。

・ 人間の欲望の本来の姿は、生命力の発現である。したがって、それ自体は善でも悪でもないと思う。それは一つの力と考える べきもので、善悪以前のものである。

・ 欲望は生命力の現れであり、生命力は人間が生きていくために、宇宙根源の力から与えられたものであるから、その現れである 欲望もまた天与のものであり、したがって人間は、これが与えられていることを大いに感謝しなければならないと思う。すなわち、 欲望は感謝すべきものであって憎むべきものではないと思う。

ただ注意しなければならないことは、欲望は善にもなりうるし、悪にもなりうるということである。すなわち、欲望は人間の用い方 いかんによって、善にも悪にも転化しうるのである。

・ わたしたちの欲望を満たそうとする行いが、自分のためにも、他の人のためにも役に立つ、すなわち社会全体の繁栄、平和、幸福 を、少しでも進めるに役立つものであるならば、その欲望は、いわば神の意志に添うものであり、また人類共通の願いにも役立つもの であって、それは正しく善なる欲望として、大いに進められるべきものになると思う。

・ 人生とは、生産と消費の営みである。ここでいう生産と消費とは、物心両面にわたる生産と消費の意味である。たとえば、お互 いに相寄って思いを交わすことは一つの心の働きである。よい思いが通い合えば、それはよき心の生産であり、悪い思いが通えば、 悪い心の生産である。

また、消費についても、よい話を聞き、それに心を費やすことは一つの消費である。音楽を聴いて喜び、名画を見て楽しむことも、よ き心の消費である。しかし、不愉快を感じ、苦しい思いをすることは悪い心の消費であり、よき人生にはならない。

・ 人にはおのおのみな異なった生命力が与えられている。この生命力は、わたしたちの生命の根底となっている一つの力で、その 内容は、生きようとする力と、いかに生きるかという使命を示す力との二つから成り立っていると思う。この生命力が、宇宙根源の 力によって全ての人に与えられている。

・ 生きようとする力(生の本能)はすべの人に共通であり、そこに何の差別もないのだが、いかに生きるかというその人の使命を与 える力は、人によってみな異なる。すなわち、この力によって万人万様、みな違った生き方をし、みな異なった仕事をするように使 命づけられている。

・ 生命力は、宇宙根源の力によって人間に与えられたいわば天与のものであって、これをあるいは天分と呼んでさしつかえないと 思う。したがって、天分は全ての人に与えられ、全ての人がこの天分のままに生きることが、最も正しい生き方であるということに なると思う。そこで、成功というのは、この自分に与えられた天分を、そのまま完全に生かしきることではないかと思う。

・ 自分の天分を見出すには、まず何といっても、自分の天分を見出したいという強い願いを持たなければならないと思う。そのた めには、素直な心をいつももっている必要があると思う。素直な心が欠けていると、自分自身を買いかぶったり、また他人の勧めを 曲解したりして、とんでもない方向に進んでしまうことになる。すなわち、強い願いと素直な心、この二つがいつも用意されてい る必要があると思う。

・ 宇宙根源の力と人間のつながり:宇宙根源の力は、生命力(宗教)、心的法則(精神文化・人文科学)、物的法則(物質文化・自然 科学)の三本の線で結ばれている。これによって宇宙の秩序に順応した生活態度というものは、第一に生命力の線、すなわち生命力 を与えている宇宙根源の力に対する感謝であり、第二に心的法則の線、すなわち人間の心と心との交わりに対する喜び、敬愛であり、 第三に物的法則の線、すなわち物に対する尊重の三つの姿となる。したがって、礼も三つに分けて考えられる。

・ 第一の礼は、素直な心になって宇宙根源の力に対し感謝と敬意を表することであり、人間をつくり、万物をつくり、その全てを 動かしていく基本的な力に対し、感謝と祈念とをささげることである。これはいわば宗教であり信仰である。

・ 第二の礼は、素直な心になってお互いに愛し合い、尊敬しあうことである。これは人倫であり道徳である。

・ 第三の礼は、素直な心になって物を尊重することである。それぞれの物を生かして大事に使うことである。これは経済である。

・ 人間の本質は、繁栄、平和、幸福の姿において生まれついているのだが、そのことを生活態度に現すためには、まずそういう本質 を認識自覚するとともに、その本質を具体化していく生活態度が必要であって、その基本から礼が始まると思う。つまり、礼は繁栄 、平和、幸福を導く原動力といえると思う。

・ 正しい信仰に入るためには、まず天地の恵みがすでに限りなく与えられているのだということをはっきり認識し、しかも、この 恵みは、無心の姿において平等に全ての人間に降り注いでいることを自覚しなければならない。そして、この恵みは、物心両面の形 で与えられているのであるから、一方に偏らずに素直に物心一如の形で受けていく。そこに深い喜びと感謝の心が起こり、力強い労 作が次々に生み出されていく―これが正しい信仰のあり方である。

・ もしも人間本来に悩みありと断ずるならば、人間はしょせん悩みから逃れることはできない。のみならず、むしろ悩むことが 正しいので、悩まないことは誤りであり、罪であるということにまでなる。そしてその時に起こる悩みを、ただ応急的に処置するの みで、根本的な解決策を究めるまでには至らないと思う。

それが、人間には本来、悩みがないのであると断じれば、それではなぜ悩みが起こるのか、ないはずであるのになぜ悩みが起こるの か、こう考えるようになって、根本的な解決策に至るまで進んでくると思う。そこで、私たちは、人間には本来、悩みがないのである 、悩みのないのが人間の本質であると、こう考えたいのである。

ただ一言付け加えておきたいことは、人間の本質として悩みがないということと、人間の心の働きとしての喜怒哀楽を感ずることと は、別問題であるということである。言い換えると、人間には喜びや怒りや悲しみや楽しみを感じる心の働きがあるが、この心の働 きは天与のものであり、悩みがないという人間の本質をいかに自覚しても、この働きはなくならないのである。またなくしてはいけ ないのである。

・ 貧困は天理に背く罪悪として退けるものであって、決してこれを是認してはならないと思う。清貧に甘んずるというのも尊い 生き方ではあるが、これは貧困を是認した考え方であって、これでは貧困を除去することはできない。そこでわれわれは、「貧困は 罪悪である」とはっきり定義し、これを除去しようと思うのである。また実際、貧困は罪悪を作り出すものである。「衣食足らざれば 礼節を知らず」ということになる。

・ 富とは単に蓄積されたものをいうのではなく、生産力と消費力こそが本当の富である。

・ 教育とは人間をつくることである。人間をつくるというのは、すでに生まれている人の人間としての性能を育成する、すなわ ち人間性を高めることである。この人間性を高めるためには、人間としての働きの中心をなす知情意を育成することも大切だが、そ れにもまして、この知情意の調和を図ることが大切である。

知情意が円満なる調和を保つところにこそ、立派な人間がつくりあげられるのである。いわば人格の完成というのもここにある。 学問、技芸だけではなく、さらに根本的に、人生そのものの正しい生き方をしつけていかなくてはならないと思う。われわれは、人間 として生きている以上、人生の意義、あるいは人間の意義をよくつかんでいなければならない。それをつかみえてこそ初めて、おの おのの職業も意義があり、生きがいのある人生が生まれてくるのである。

それを習得させるのが教育であるが、それを単に知らせるだけでなく、身につけさせることが大切であって、それがしつけというも のである。

・ 今日までのわが国の教育は、知ることと実行することを切り離していたのである。アメリカでは、研究は第一であっても、研究 して知っただけでは人生に何物をももたらさない、実現の伴わない知識は描ける餅に等しい、知ったことを実現するところに値打ち がある。

・ 文化とは、"宇宙の法則が一つ一つ解明され、それが人間生活に応用されていく姿である"。科学にしても、芸術にしても、宗教に しても、すべてこの宇宙の法則を解明していく一つの姿なのである。しかもそれは、単に解明されるだけでは文化とはいえないの であって、その解明されたものが、一つ一つわたしたちの現実の生活に生かされてこなければならない。

だから、一部にいかにすぐれた学者や芸術家がいたとしても、国民全体の生活が高まってこなければ、文化が進んでいるとはいえな いと思う。

・ 文化とは、宇宙の法則である物的法則と心的法則とを一つ一つ解明して、これをわれわれの生活のうえに生かしていくことであ るが、そこから、広い自由と、高い秩序と、限りない生成発展とが生まれてくるのである。したがって文化国家においては、自由と秩 序と生成発展の三つが、同時に存在しなければならないが、そのためには、物質文化と精神文化とが併行して進展しなければならな い。そこに限りない繁栄、平和、幸福が生まれてくるのである。

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