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本田宗一郎コミュのエピソード

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おやじさんに関係する逸話?を書きたいと思います。
皆さんも逸話等ありましたらカキコお願いします。

スポーツカーは赤!!

おやじさんが車(スポーツカー)を造ると言って
造ったのがSシリーズ(S500・S600・S800)で
「スポーツカーの色は絶対に赤だっ!」と言ってたそうです。
しかし、当時は赤い車といったら、
消防車等、国の指定した車にしか使用出来ず
それはおかしいという事で、おやじさん自ら何度も国に申し出て
ようやく許可が下りて赤い車が誕生した。
おやじさんが言わなければ、今も赤い車が無かったりして・・笑
この話はいろんな本に書かれていますね。

続きは、少し長くなる?かもしれないので
次回に書きます。


コメント(134)

>カーゴさん

本田宗一郎さんは、浜松時代はお金にずいぶん苦労されていたようです。
実家が人手に渡っているのもそのせいだと、浜松の方から聞きました。

儀平さんが持っていた山林もことごとく売り払って必死に会社経営をして
いたようです。

「人間・宗一郎」という写真集に、本田宗一郎さんの「東海精機重工業株式会社」の社長の名刺(写真)が出ています。

株式会社はあったんでしょうね。
■1969 本田宗一郎 社内講話より

皆さんが今、営々として作って、輸出して下さるところの「カブ」、これを作った時だって
「50ccなんていうオートバイで、輸出なんかできる訳ないじゃないか。」って散々
やられたんすよ。

ところが、50ccが世界を風靡している。日本だってこんなに沢山、我々がシェアを
占めている。何事かって言いたいんです。

その時代にどうだってやんです。
英国でも、ドイツでもどんどんcc大きい。その時我々は小さなエンジンで、50ccで
5馬力も出した。

それが現在の本田技研の基礎になっているんです。
世界の名車「スーパーカブ」は、誰の発案で作られたのか知っていますか?

「本田宗一郎さんだろう」と思う方が多いでしょうが、実は違うんです。

本田宗一郎さんの関心時は主に「スピードと馬力のあるエンジン」で、
小さな原付バイクには関心がありませんでした。

当時の本田の専務だった藤澤武夫さんが、本田宗一郎さんに50ccの
バイクの製作を働きかけたのです。

商売に鋭い勘をもつ藤澤専務は、大衆向け商品の大量生産を考えており、
本田宗一郎さんも「何としても新しい主力モデルを作りたい」と思って
いました。

当時(1956年)のホンダの主力製品は:

ドリームMF型 (350cc)
ホンダ号EJ型 (200cc)
ベンリイJC57型(125c)
カブF-?型 (50cc) 
などでした。当時はまだまだ小さな会社でした。

カブF−?型は自転車に取り付ける補助エンジンでしたが、後発メーカーに
追いつかれて売上が減ってきていたのです。

1956年の暮、視察に行ったヨーロッパで、本田・藤澤の二人はいろいろな
モペットを見ては、意見を交わしました。

共通して出たのは、ホンダが目指す次期主力製品は:
 
1.実用的であり
2.軽くて操作性に優れ
3.小型で強力なエンジンを備えていること

でした。

その時、藤澤専務は「50ccの完成車で、カブF型にかわるやつを作ろう」
と言います。
本田宗一郎さんは「50ccでそんなのを作るのは無理だ。」と返します。

藤澤専務は「これができなきゃ、本田技研は将来、そう発展しない」と畳み掛けます。
「外国にもそんなオートバイはない」と本田宗一郎さんが言うと
「ないから、つくってくれというんだ。」と引かないいのでした。

藤澤専務の挑発に、本田宗一郎さん持ち前の「技術者魂」に火がつき始め、
着手から1年8ヶ月という長い開発期間をかけて1958年にスーパーカブ
は完成しました。

日本中のオートバイ販売台数が月4万台という時代に、藤澤専務は「まあ、
月産3万台だな。」とクレイモデルを見て予言し、周りを驚かします・・・。

「そんなに売れるだろうか?」と周りの社員は思ったそうですが、この予言は後に的中します。

実は月3万台を売ってようやくトントンという価格設定(55,000円)を狙っていたのです。

結果はご存知のようにスーパーカブは大ヒット。煽りを食って倒産・廃業する同業者が相次ぎます。

藤澤武夫が製品企画を発案し、本田宗一郎が開発し作り上げた大傑作である「スーパーカブ」は
50年経った今でも、輝きつづけているのです。
亡くなる少し前のお話です。

ビートの発表会に、突然ひょっこりと本田さんが現れて、いじって触って座って・・・一通り確認し終えて、LPLの飯塚さんのところにやってきて本田さんが耳打ちしたそうです。

「あんたいい仕事したね!」
「テールランプのあたりは、見やすくていいデザインだね」

飯塚さんは、親父さんに、初めてほめられたそうです。
それまでは、怒られた記憶しかなかったとか^^;

そのあと、本田さんが亡くなられたそうですから、生前発表を見られた最後の車がビート・・・ミッドシップオープンだったことは、(当時の情勢でスポーツカーとは堂々と名乗れませんでしたが)スポーツカーが大好きな本田さんへの手向けになったのではないでしょうか


追記)自分は、ビートの生誕10周年のイベントでLPLの飯塚さんからこの話を聞きました。
自分は、以前からビートに乗っていましたが、その話を聞いてからテールランプ回りのカスタムをやめました^^もとから気に入っていたんですけどね!
元々、カブが生まれるきっかけとなったのは「藤沢武夫」の「発案であった」と言うのは何となく知っていました。

確かに、当時の本田宗一郎は「世界をアッと言わせるマシンを作りたい」・・と言う考えが強かったと言いますが、藤沢武夫は「執拗に迫った」と言いますね。

・・・私が覚えている事柄なのですが、ちょうどその当時は「バイク用のレ−スエンジン(125CC2気筒・250CC4気筒)」の開発があったため、本田宗一郎は「並行して開発を進めていた」と言う事を後から藤沢武夫に言ったそうですね。

藤沢武夫も、レ−ス用マシンの開発は知っていましたが、
「レ−ス用マシンの開発を中断してまで、カブを作ってくれた」と思っていたそうです。
でも実際は、金勘定を任せている藤沢武夫の「考えを尊重した」・・と言う結果でしょうか。

関係ないですが、世界で初めて「石油燃料エンジンを使った自動車」を発明した人が2人います。

ゴットリ−プ・ダイムラ−とカ−ル・ベンツです。
この二人は、会った事もなければ話もした事がない・・と言います。
たまたま同時期に、エンジン(0.5馬力)を搭載した「2輪車・3輪車」で特許をとった・・と言う事ですが・・・、

ゴットリ−プ・ダイムラ−は「エンジンの性能を良くする」と言う方向に傾いていた・・と言います。
しかし、カ−ル・ベンツは「クルマをいかに大衆に広めるか」と言う方向に傾いていた・・・と言いますね。

考え方一つで、同じエンジン・クルマ・バイクでも「方向性が全く違ってくる」と言えます。
藤沢武夫が考え出した発想も、そうした中において「合点がいく話」と言えますね。
ホンダ以外に宗一朗を創業者にする。東海精機ってあるんですね。戦時中軍事品を作ってて敗戦後株式を豊田自動織機に株式を譲って無職になって考えたのが現在のホンダですね。
戴いたHONDAの社内報で”『安全なくして生産なし』を自らの手で創る”
という記事がありまして、「あれ?」と思いました。

「安全なくして生産なし」という言葉は、HONDAの工場の中で掲げられて
いる理念で、本田宗一郎語録の一つとされています。

HONDAでは「安全は全てに優先する」ととらえている人が多いそうで
「安全衛生を優先した物作りを言っているのだ」と捉えている人が多い様です。

しかし、これは「言葉が時間の経過とともに歪められてしまっている」と
指摘する人がいます。(佐藤正明著・「ホンダ神話?」(文春文庫)

この言葉は、本田宗一郎さんがオートバイしか作っていなかった時代に語った
言葉で、
「車は走る凶器である。それを運転するのはユーザーだ。
そのユーザを事故から守るためには、安全な車を作らねばならない」
・・・という意味で「安全(な車)なくして生産なし」と言ったのだそうです。
そういう信念を持って車の生産を開始しよう!という意味が本来だそうです。

それがだんだん「安全(な職場)なくして生産なし」と誤解されてしまった
との事・・・

かの藤澤武夫さんは「語録を作れば、言葉だけが独り歩きしてしまう。
語録は時代背景が分からなければ意味を持たない。」と言い、ご自分の語録は
作らなかったそうです。

・・・さて、真実やいかに!?


ところで、この安全帽子欲しい・・・(^^;
本田宗一郎さんの西郷隆盛についての記述。

『人生の終わりを着陸というのなら、私が死んでいって着陸したときの
評価が成功であるのかないのかということが問題なのである。
 
 西郷隆盛は実に着陸が悪い。

なるほど江戸城明け渡しのときに江戸の市民を大火から救ったのは、
すばらしい功績だと思う。

 しかし、征韓論に敗れてすね者になって郷里の鹿児島に帰り、そして
西南の役を引起して何万という若い者を道連れにしたということは、
なんとしても着陸が悪い。

 人間として許せない。

そういう人物をいまだ偉人だと称して日本人の心の中にあるということが、
非常に危険な思想だと思う。』

・・・「俺の考え」より(本田宗一郎)

 
今日ちょうどそのへん読んでたもので・・

「私は西郷隆盛にも好感が持てない。征韓論が敗れたといって鹿児島に帰り、若者たちとともに西南の役を起こしたことを思うとき、なぜ若者たちの行動をいさめなかったか、一揆を起こした者とともに死ねばそれでいいとういものではないだろうと思うのだ。多くの若者を死に追い込むことは、けっして英雄のとるべき道ではない」

この本は宗一郎さんが引退されて全国おれい行脚の旅に出ていた頃の秘書の書いた本です。
当時、母親のみかさんも同居しており、作者が世話&話し相手だったようで

宗一郎さんの両親、儀平、みか、祖母のけ江、祖父の寅市さんの事もかかれています。
本田宗一郎さんが、ピストンリングの製造に悪戦苦闘していた頃の仲間・宮本才吉さんとの
会話が、とても良くて気に入っていますのでご紹介します。


宮本  私も社長に使って頂いたもんでいい経験になりました。
    今でも社長の言ったことを忘れやしない。

   「なあ宮本、知恵はいくらつけたって重かないし苦労じゃない。
    最後は物質に代わるときがくるんだ。若いときはうんと勉強しようや。」

本田  しかし、俺の苦労は楽しい苦労だったな、自分じゃ。

宮本  社長はいつも、やるときは一生懸命仕事をやって、遊ぶときはうんと遊べ。

本田  まあ、その方は十二分にやったよ。

宮本  私も社長について勉強したお蔭で、現在食える丈になりましたが、
    これも社長のお蔭ですよ。

本田  そんなことはないよ。

宮本  私の苦労もみんな実りましたよ。


・・・宮本さんは、東海精機を辞めた後、寿綿業という会社の社長になりました。
ずい分前にTONYさんが書いていらっしゃいましたが、料亭の汲み取り便所に外国の方が入れ歯を落とされたそうです。
お金を払えば拾ってくれる人はいたのですが、宗一郎氏はあえてそれをせず、自ら裸になり汲み取り便所へおりて入れ歯を探し、それを熱湯消毒して、自分の口に入れてみて、それからきれいに洗って外国の方へお返ししたそうです。

いろいろあるエピソードの中で、とくに印象に残るものです。
青っぱなの宗ちゃんが 子供の頃よく戦争ごっこをして、俺は作戦を練るのがとくいだった。といっておりましたが、どんなあそびなのでしょうか、石をへいきで投げ合っていたようですし、崖の上から物を落とすとかしてたようですし、

敵をつかまえて木に縛り付けて拷問をして敵のアジトや作戦を聞き出す。とか、相手の大将が降参するまで殴る。みたいな野蛮な遊びだったのでしょうか。
>カーゴさん

子どものころ、戦争ごっこしたり、ナポレオンの歌を歌っていたそうですね。

♪コルシカ島の 島影で〜 と。
「車の顔は、鷹が獲物を狙う時の様なキリッとした目みたいなのがいい」

本田宗一郎さんが、H1300クーペをデザインしていた岩倉さんという方に
言ったそうです。

「ヘラヘラ笑ったような顔、メソメソ泣いているような顔は良くない」とも。

・・・最近はバイクも鷹の目になってきましたが。(^^;

1979年 カーチス号が復活した時

カーチス号を荒川の土手に持ち込んで試走をしました。

当時発売されたプレリュードも持ち込んで

直線加速で競争をしました。

シンクロ無しのチェンジに勘が戻らず、悔しがってはいましたが

子供のような笑顔で、当時20歳だった私と握手を交わしました。

その後、私が就職し、2年経って、宗一郎氏が全国訪問された際

福岡の2輪代理店にいた、私を見つけ「ああ、ここにいたのか あの時はありがとう」と声かけられたのは私の人生の心に残る言葉の一つでした。

後で社長に、お前個人的に宗一郎氏を知っているのかと言われ

少し待遇が変わったとか変わらないとか(笑)

今ではカーチス号は茂木で美しく展示されていますが

HITSにシートをかぶせられ悲惨な姿で眠っていたのを

宗一郎氏。。当時はHITSの校長と一緒に眺め

「もう一度乗ってみたい」

から始まったのでした。



スーパーカブC100(1958年)が大ヒットし蕎麦屋の出前や新聞配達など、
町の商店の間では大変な評判となり、この成功を見て他社もこれに追随した。
Y社のカブ、S社のカブと呼ばれるようになった。

この頃ようやく日本にも、意匠権というものが意識されはじめ、係争の結果、
ホンダが勝利する。
当時のお金で数億円を、相手会社がホンダに支払う羽目となった。

しかし、社長の本田宗一郎さんは、「ホンダが創ったと分かればそれでよい。」
として、お金を受け取らない決定をしたのである。
とらぬ狸を決めていた営業、生産、開発の重役は悔しがったと聞く。

翌朝の新聞はこれを大きく取り上げた。これによって世間は、
「やはりホンダのオリジナルだった。」と知ることになる。

本田宗一郎さんの思い切った決断によって、かえってホンダの独創性が
世に認められることになり、同時に社内にも独創性の重要さが強く
意識付けられたのである。

岩倉信弥「本田宗一郎との『叱られ問答』」より:
http://www.jmca.jp/column/honda/hondaindex.html


本田宗一郎さんは空に憧れを持っていました。
「いつか自分の飛行機で、空を飛んでみたい・・・」 
その気持ちは、ずっと持っていたようですが、時には大問題となりかねない
話もあったようです。

それは埼玉県白子町に工場があった頃の話でした。

工場にエンジン付きのグライダーが持ち込まれて、社員一同はビックリ。

聞けば、本田宗一郎さんが「これにD型のエンジンをつけて空を飛ぶ!」
とのこと。

プロペラは、もと海軍の設計技師が本田に入社しており、最適なものを設計
したそうです。

「誰が乗るんです?」と聞くと「俺が乗るしかないだろう!」と本田さん。

「オヤジさん、飛行機の免許は?」と聞くと「なくても大丈夫だろ!」と、
無免許でも平気とばかり、豪気な本田さん。

当時の白子には、300mの直線路が試運転用に整備されており、これを
滑走路として飛び立つ計画でした。
計算では250mあれば、飛び立つ事ができるとのことで、いよいよ初飛行
の日となりました。

周りでは止める人も多かったそうですが、本田さんは意気揚々と支度をして
グライダーを滑走路の端に押していったその時・・・

工場に部品を運んできたトラックが、運転を誤ってグライダーに激突!!!

・・・グライダーはバラバラになってしまったそうです。

その時の本田さんの表情は、それまで見たこともないくらいの落胆したもの
だったそうです。

しかし、社員は「トラックがぶつかったのは、神様のおかけだ。もし飛んで
いたら、オヤジさんは死んでいただろう・・・」と噂したそうです。

・・・これも強運の持ち主ということの例えでしょうか。

しかし、この後も本田さんの飛行機の夢は続いていくのでした・・・
今日聞いた話です。

知人の知人が昔、落合近辺に住んでいた頃の話だそうです。

壊れたホンダのバイクを押していたら、声をかけて来たオジサンが。
「ホンダのバイクは壊れない。」と、預かって行ったそうです。

翌日、エンジンが新品に成って返ってビックリ!
・・・そのオジサンは本田宗一郎さんだったそうです。

似た話ですが・・・もう一つ。

本田宗一郎さんと義理の息子さんが、ゴルフに出かけたら、
道中で側溝にはまったホンダの軽自動車が。

それを観た本田宗一郎さんは、車を降りて一緒に押して出してあげた
そうです。

おかげでゴルフには遅れてしまったのですが、そういう人だったそうです。


「新車情報」(テレビ神奈川)の司会などで有名な三本和彦さんが番組で語っていた話です。

ドリームEに乗っていた三本さんは、あちこちが壊れて不調なE型を店で直してもらっていて、文句を言っていたら、「どこが調子が悪いですか?」と聞いてきたおじさんがいたので「調子が悪いのはいろいろだけど、今回はリアサスの溶接が外れて・・・」と説明したら「大変申し訳ないです。これからはこのようなことが無いような物を作ります」と頭を下げたそうです。
何と、その人こそ本田宗一郎さんだったとか!
TONYさん、こんにちは。いつも情報をありがとうございます。

こう言うエピソードはいろいろありますね。これが、自分の肩書を「会社員」と言っていた宗一郎さんを物語る一コマですね。
ある日、鈴鹿サーキットのゲートに黒塗りのハイヤーがやって来た。

警備員「通行証お願いします。」

運転手「関係者だ。」

警備員「ですから通行証を。」

運転手「だから関係者だといってるだろう。」

警備員「関係者でも何でも通行証を提示して頂かないとお通しできないことになっているんですよ。」

運転手「・・・(不満そう)」

すると黒塗りのハイヤーの後部座席から声が。


「通行証を忘れてきたのは我々のミスだ。今日は引き返そう。」こうしてハイヤーは帰っていった。

数日後、警備会社にあの本田宗一郎さんから手紙がきた!

「貴方のようなちゃんとした方が警備してくださってることを心強く思います。」

・・・警備会社は騒然。

追い返したのは宗一郎さんの車だったわけで警備会社も大慌て。

その警備員は「宗一郎さんを追い返した」伝説の男となった。


そしてまたその後鈴鹿サーキットに黒塗りのハイヤーがやってきた。

警備員「通行証お願いします」

運転手「はい(通行証差し出す)」

警備員「はいどうぞお通りください」

そして黒塗りの車は通過して行った。

前を通過していく時、後部座席の窓が開き窓から宗一郎さんが警備員に会釈した。


1986年3月のことです。

ホンダ学園(HITS)の卒業式。

卒業生のSさんは、「本田校長にサインを貰うのは禁止」という事前通告を何とかPASS仕様と考えた結果・・・
「つなぎにサインを貰うのはOKでは?」という妙案を思いついた。

自前で新品ツナギを用意して卒業式当日に理事長の杉浦さんや、HSCの佐藤先生にサインを貰い、おそるおそる本田宗一郎さんにサインをお願いしたら、気前よくサインしてくれたのがこれです・・・
躊躇していた分、スペースが限られてしまったとか・・・

そんな貴重なつなぎを頂いたので、ご紹介させていただきました。

このツナギは、ホンダ学園に寄付することになりました。わーい(嬉しい顔)

https://blogs.yahoo.co.jp/trailsupercub90/14956125.html
三寒四温というものの、真冬に逆戻り。

せっかくの休みですが、家に閉じこもっています・・・

さて。

ホンダOBのSさんからのメール。

1975年頃、退任された本田宗一郎さんと奥様がマン島にある博物館に行かれたそうです。

その時にジュークボックスから流れたKathleenを気にいられ、ハミングされていたそうです。

写真は、谷口尚巳さんです。

・・・歌もいいですよ。




・Kathleen
https://www.youtube.com/watch?v=wd1fVYq8Uzk



今年のエイプリールフールのツイッターで・・・ホンダさんの投稿写真より。

「本田宗一郎さんは、西郷隆盛が嫌い。」
「本田宗一郎さんの、買っていたダックスフントの名前からDAX HONDAっていう名前に。

・・・一応補足 (^^;

S600が発売された時の本田宗一郎さん。


S500に続き、1964年3月〜1965年12月に生産したFR・2シーターのオープンスポーツ。現在でもビンテージカーとして、一定の人気を保っている。また、西ドイツ(当時)へ輸出した初めてのアジア製四輪車でもあった。

1964年3月 S500の後継として発表された。価格は50万9,000円。サブマフラー、ヒーター、ラジオ、助手席サンバイザー、バックアップランプ(左右)、サイドシルプロテクターを標準装備としたSM600もラインナップされた。
1965年2月 ビジネス用の名目で、クーペが追加されている。車重は20kg増加した。
1966年1月 、後継車種のS800が発表された。
「いだてん」を観て・・・

本田宗一郎さんは、戦後の混乱期に本田技術研究所を立ち上げました。
会社を立ち上げて間もないころ、浜松出身の古橋広之進さんが1949年8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、世界新記録を樹立して「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれたことで、自分の会社も頑張らなければ!と思ったそうです。
本田宗一郎さんのお墓はいつも花がいっぱいだなと思っていましたが、奥様のさちさんが月命日に欠かさず花を供えていたそうです。
お金があるとはいえ、素晴らしい愛情を感じます。
なお、さちさんは亡くなってご長男からも墓参は構わないと言われているそうです。
ただし、墓石が汚れるからお酒は掛けないでとのこと。
ホンダOBのかたから聞きました。
本田宗一郎さんのアート商会時代の同僚に、斯波君という華族出身の人がいたそうです。

宗一郎さんは斯波君と仲が良くて、休みの日に一緒に遊びに出かけたところ・・・町の易者から呼び止められて、斯波君は宗一郎さんの下で働くようになると言われたそうです。

「そんなわけはない、斯波君は華族の出身だぞ!インチキ易者め!」ということになったらしいのですが、宗一郎さんが戦後、本田技研を作ったときに創業メンバーとして入ったことがあり、易者の言ったことは現実となったそうです。





・・・そんな斯波君とのちょっといいエピソードを新発見!




斯波君・・・斯波穏(やすし)氏は本田技研で働いていた時、宗一郎さんと仕事で泊まった旅館であんまさんを呼んだそうです。

二人が体をもまれながら話していると、あんまさんが、「私たちは竹の長い棒を杖代わりにして歩いているけれど、折りたためないので邪魔になる。もっと小さくできる杖はできないものだろうか」と言う。
それを聞いた二人は翌朝、竹の釣り竿を買ってきて、折りたためる杖をつくって、あんまさんに渡すと、涙を流して感謝されたという。

そのことをきっかけに、目の悪い人のための杖の会社を立ち上げた斯波君の会社は、今は息子さんが運営するNPO法人の六星・ウイズ。

六星・ウイズは、浜松市内に「ウイズ半田」と「ウイズ蜆塚」の2カ所の拠点をもち、現在では49名の視覚障がい者と、13名の職員が働いている就労支援施設となっているそうです。

・・・過去から現在! 名家は続くよ!

ホンダOBの方から聞いた話ですが、創業者二人の25年の感謝ご退陣パーテイー(1973年)をホテル・オークラで行った際に余興で金井克子をよんで、「他人の関係」を歌ってもらったそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=lqlcB4fn48g

・・・他人の関係wwwわーい(嬉しい顔)
今日が弊社の仕事納めでした。

午前中に初めてのお客様のところに訪問しました所・・・

その方のお父様が、昭和20年代に本田宗一郎さんに頼まれて研究所にしばらくいたとのことでした。

なんでも、ドリーム号のエンジンの不具合率が高いころで、不具合の発見のために、「レントゲンは人間の体の中がわかるのだから、エンジンの中身がみれる方法があるはずだ。やってみてくれ」

と言われたそうです。

陸軍で技術をしていた関係で話があったそうです。

甲府のN工業という会社でした。

2020年の最終日に本田宗一郎さんの名前が出て嬉しかったです。

昨日聞いた本田宗一郎さんのお話です。



Kさんは、ホンダのS600とかS800に乗りたくて、「仕事をしていれば乗れる機会もあるだろう!」と思ってホンダSF(サービスファクトリー)に入社。



N360の整備から始めたのだそうだ。



1973年の社長退任の後の「全社員握手ツアー」(1974〜1977)で握手をしてもらったが、背は小さいのに手がごつい人だったとのこと。



宗一郎さんから「もっと力を入れて握ってみろ!」と言われたとか。



その後、甲府のホンダSFはディーラーに吸収されたのですが、信州方面に絵を描きに行った帰りに本田宗一郎さんが立ち寄ることがあって、宗一郎さんの顔を知らない社員には「ホンダの本田だよ」と言っていたとのこと。



宗一郎さんはポケットマネーで4,5万円を「何か好きなものを食べてくれ」と、置いていったこともあったそうです。



Kさんは藤沢武夫さんには一度だけ会ったことがあるとのこと。



・・・貴重な体験ですね。伝えていきたいお話ですね。
前に書いた?話の追加情報・・・

本田宗一郎さんが、若いころに東京・湯島の「アート商会」で共に働いた兄弟子に碓井正男さんという方がいました。
碓井さんは甲府で自動車修理工場を経営していましたが、宗一郎さんとは「先に死んだほうの葬式に出る」という約束をしていたそうです。

1980(昭和55)年に碓井さんが亡くなると、宗一郎さんは約束通り甲府にやってきたのですが・・・

なんとヘリコプターで飛んできたそうです。

国母のホンダCLIOから、迎えの車が着陸場所についた時には、もうヘリコプターは着陸場所の上空で待っていたそうです。(後で遅いと怒られたらしいwww)

しかし・・・

航空法第79条の規定に基づき「航空機は、陸上にあっては空港等以外の場所において離陸し、又は着陸してはならない。」と定められております。

しかたなく地面から30cm浮いたまま降りたそうです。(帰りは不明ですが・・・)
お葬式では葬儀委員長をかって出て、それが新聞に載るとあちこちから碓井家へ問い合わせが殺到したそうです・・・
「本田宗一郎顧問からの色紙受領の経緯」

昭和46〜47年頃に、当時千葉県館山市正木にホンダ直営のホンダSF館山整備工場が有りました。
当時は近隣の整備店ではホンダ車は整備を拒否されてもおりました。

頂いた当日はセダンの車両の整備完了との連絡を受けていたため、受け取りにSFまで出向いて担当者と話し中に工場内の社員の様子が忙しくなって話を中断していたところ、小柄なおじいさんとカバンを持った大柄に見える人の二人が入ってきたところ、社員全員が緊張していました。

二人は社員にいろいろ話をして、その後工場入り口の敷地内に植樹を行っておりました。
当方は一連の行事が終わるまで待っておりましたが、植樹も終わり担当者も当方に対応できるようになったため、支払い等を終えて車で帰ろうとしたところ、担当者が私を本田氏に紹介してホンダ車2台を所有している旨を伝えてしまいました。





私は帰ろうとしたところ本田氏から呼び止められ、カバンの中の色紙と道具を出させてその場で描いておりました。描き終わってから私に渡す時に大きな声でそれぞれ説明が有りました。

「この大根の様に私は会社を大きくしたいと思っています。今後ともホンダ車をお願いします」と社員全員に聞こえるように話されました。

私は、本田氏が私にこの色紙を渡しながら社員に自分の言いたいことを言っているのだと重いが有りました。また、名刺も添えられており、名刺は表が日本語で裏面は家後記載となっており、自宅の住所と電話番号が記載されておりました。

私はこの人は大物ぶらない素晴らしい人と感じました。
その後ホンダの製品、バイク、農機具の草刈り機、トラクター、軽トラ、NSXまでホンダの製品を購入使用しております。




この色紙に託した気持ちは、本田氏が私や社員に話した「この大根の様に私は会社を大きくしたいと思っています」の意思を示したものですので、個人が持っているよりもホンダ様で工場に掲げて繁盛してほしいとの気持ちで寄贈いたします。

2017年12月吉日 記載者 (有)鶴岡ホンダ販売 川崎様
藤澤武夫の米国自動車殿堂入り授賞式典開催

https://www.honda.co.jp/topics/2023/ce_2023-07-26.html?utm_source=hondanews&utm_medium=email&utm_campaign=HMN230811_3rd_btn

やっと いまさら 藤澤武夫さんが アメリカの自動車殿堂いりしました。

遅すぎますね

藤澤武夫さんが作った

ワイガヤ

本田技術研究所

文鎮制度

など すべてなくなり  時代は変わりましたね
>>[14]
確か、FIAの事務所で申請したら金色はダメだと言われて、監督だった中村良夫さんが、その場で決めたのだと聞いています。
宗一郎さんの周りには魅力的な人が集まるんですね。

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