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歴史逸話集コミュの慶喜の隠遁生活

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 十五代将軍徳川慶喜は、好奇心旺盛で新しいものが好きだった。
 江戸城引渡しの後、やがて駿府に行き、政治には一切関わらず、46年の長い隠遁生活を送るが、その時の逸話を幾つか・・・・・・。



 慶喜はきな粉が大好物であった。そんなある日、慶喜は顕微鏡できな粉を観察していたが、きな粉の中に粉ダニがいるのを発見してしまった。
 それ以来、二度ときな粉を口に入れることはなかった。


 明治36年6月、慶喜は大阪の砲兵工廠を見学に行った。ここでは最新の大砲を作っていて、担当者は慶喜にこの大砲を見せるつもりでいた。
 しかし慶喜が興味を示したのは、アルミニウムの飯盒だった。飯盒での飯の炊き方を教わった慶喜は、一個貰って東京に帰り、早速飯盒で飯を炊くが、これが美味しい。
 だが、慶喜はアルミが人体に無害なのか疑問に思い、担当者に質問してみるが、当時アルミは未知の素材なので、データ的にも不完全。そこで技術者は
「銀であれば大丈夫」
 と答えたので、慶喜は銀塊を送り、銀製の飯盒を作った。
 その後慶喜は、屋敷でも野外でも、毎日この銀の飯盒で飯を炊いた。


 毎朝慶喜は、台所で蝿を捕まえていた。なぜ蝿を捕まえていたかというと、飼っていたカジカガエルの餌にするためである。


 明治20年代、慶喜は写真師の徳田孝吉から、写真撮影の技術を学んだ。時に慶喜は既に50代後半。
 デジカメが普及している現在と違い、当時写真は誰でも写せる代物ではなかった。
 孝吉は、写真撮影がいかに難しいかということを慶喜に説明して、写真撮影を断念するように伝えると、慶喜は、
「無礼者!そこを動くな!!」
 と激怒して、孝吉に撮影技術を学ぶことになった。
 学んでいくうちに、写真撮影の難しさが慶喜にもわかったが、
「難しいからやめられぬ」
 と言いながら、写真の技術を習得していく。
 そして後年、慶喜はスナップ写真も撮影している。

コメント(2)

難しいから周りに理解されなかった慶喜は、あまりに長い隠居生活・・・

色々なことにチャレンジした人ですよね

自分が表舞台に出れば揉める事がわかっているから、とても頭のいい人です。
 慶喜は今に至るも評価が一定していなくて、「卑怯者」「臆病者」という人もいれば、「名将軍」「家康の再来」という人もいます。 
 もし自分が表舞台にでようとしたら、まわりの人(特に旧幕臣)が黙っていないでしょう。だから長い余生は、「黙して語らず」ということで、趣味に没頭したようです。

 それにしても慶喜の多芸と好奇心は、驚くべきものがあります。写真撮影を学んだのは、まさに「50の手習い」を地でいくようなものです。
 人間50年といわれている当時、こんな歳になってからも新しいことに挑戦する姿は、本当にチャレンジ精神が旺盛です。
 今にたとえれば、80歳をすぎてから、パソコンに挑戦するようなものです。

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