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戦国史研究室コミュの武将列伝〜動画で知ろう!〜

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Youtubeやニコニコ動画にアップされている武将たちを集めたトピックです。

「戦国史しりとり」で登場した武将の順番に紹介する予定ですが、皆さんのお好みの武将を随時紹介してもらって構いません。

コメント(76)

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

享禄2年2月15日(1529年3月24日)〜天正12年3月24日(1584年5月4日)
肥前国の戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」などの異名が有名。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。


龍造寺隆信 肥前の熊の異名を持つ名将を解説!! 

風魔 小太郎(ふうま こたろう)

相模国足柄下郡出身で、風魔一族ないし風魔忍者を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領。『北条五代記』の風魔と、風魔に関連する『見聞集』の逸話、『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎から生まれた伝説の忍者である。


後北条氏の躍進を支えた異形の忍者・風魔小太郎!謎に包まれたその姿とは?

内ヶ島 氏理(うちがしま うじまさ/うじとし)

?〜 天正13年11月29日(1586年1月18日)
所領である白川郷は峻険な地域であり、歴代の内ヶ島氏当主はもっぱら白川郷の統治に専念し、外征という形で周辺地域の戦国史に顔を出すことはなかった。天正13年(1585年)11月、天正地震が発生すると、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれて崩壊し、完全に埋没。これにより内ヶ島氏の一族郎党は一夜にして滅亡した。


内ヶ島氏理、今も白川郷山中のどこかに…

相良 義陽(さがら よしひ)

天文13年2月8日(1544年3月1日)〜天正9年12月2日(1581年12月27日)
肥後の戦国大名、人吉城主で相良氏の第18代当主。外祖父・上村頼興の死後の家中争乱を乗り切って島津家と干戈を交えるも、降伏に近い和睦を結ぶことになる。その後程なく、天正9年(1581年)に肥後の名将・甲斐宗運と戦って戦死した。


相良義陽の決断!…命令と友情の狭間で

平塚 為広(ひらつか ためひろ)

?〜慶長5年9月15日(1600年10月21日)
豊臣秀吉の馬廻として仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられ垂井城城主となる。同年の関ヶ原の戦いでは大谷吉継に属し参戦。最後は山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれたとも、小早川秀秋の家臣横田小半介に討たれたとも言われる。


平塚為広 関ヶ原に散る!吉継と交わした別れの句に涙!

津軽 為信(つがる ためのぶ)
天文19年1月1日(1550年1月18日)〜慶長12年12月5日(1608年1月22日)
元は大浦姓を名乗り南部氏の被官だったが、南部家津軽郡代の実力者・石川(南部)高信を欺いて攻め滅ぼし独立。小田原攻めの際にいち早く豊臣秀吉にまみえて臣従し所領を安堵され、ついに津軽を手中にした。関ヶ原合戦では東軍に属し大垣城攻撃に参加した。


津軽為信 英雄?梟雄?一代で津軽を平らげた破天荒な『髭殿』
遠藤 慶隆(えんどう よしたか)
天文19年(1550年)〜寛永9年3月21日(1632年5月10日)
美濃国の国人で郡上郡八幡城主。織田信長、豊臣秀吉に仕えるが、天正16年(1588年)秀吉に美濃八幡領を没収される。関ケ原の戦いでは東軍に属し西軍のこもる八幡城を攻撃、この功で旧領を回復し、八幡藩主遠藤家初代となった。



復刻版・郡上八幡城の戦い『関ヶ原・東軍同士の激突/稲葉貞通VS遠藤慶隆』

松永 久秀(まつなが ひさひで)
永正5年(1508年)- 天正5年10月10日(1577年11月19日)
大和信貴山・多聞山城主。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。


松永久秀の生涯を11分で簡単解説!【日本史マンガ動画】

寺沢 広高(てらざわ ひろたか)
永禄6年(1563年)〜寛永10年4月11日(1633年5月18日)
豊臣秀吉に仕えて肥前国唐津の6万石を拝領。朝鮮出兵で軍功を挙げたことから2万石を加増されている。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後に天草4万石を加増され、計12万石を治めた。今なお残る名勝「虹ノ松原」を造ったことでも知られる。



寺沢広高は善か悪か 名君の顔の裏に島原の乱あり!?

真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)

永正10年(1513年)〜天正2年5月19日(1574年6月8日)
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。


攻め弾正 真田幸隆

長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)
天文8年(1539年)〜慶長4年5月19日(1599年7月11日)
国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後、各地の土豪を倒して四国を統一。豊臣秀吉の四国征伐に降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐の際に長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原征伐、文禄・慶長の役にも従軍した。


長曾我部元親の生涯〜英雄から暴君へ〜【日本史マンガ動画】

片倉 景綱(かたくら かげつな)
弘治3年(1557年)〜元和元年10月14日(1615年12月4日)
伊達家の家臣。伊達政宗の主要な戦争の大半に参加して、伊達氏の危難を救っている。小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、政宗に小田原参陣を決意させた。


片倉小十郎(片倉景綱)の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)
天文7年3月13日(1538年4月12日)〜元和4年6月3日(1618年7月24日)
戦国大名・龍造寺隆信の家老で義弟。龍造寺隆信が沖田畷合戦で戦死して以来、事実上龍造寺氏に代わって佐賀を支配し、龍造寺高房没後は名実共に佐賀藩主となった。


鍋島直茂 ゆっくり戦国武将解説 第28回

黒田 孝高(くろだ よしたか)
天文15年(1546年)11月29日〜慶長9年3月20日(1604年4月19日)
諱は祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、通称をとった黒田官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水としても広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。


黒田官兵衛の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

直江 兼続(なおえ かねつぐ)
永禄3年(1560年)〜元和5年12月19日(1620年1月23日)
天正8年(1580年)から上杉景勝の側近としての活動が資料で確認される。天正12年(1584年)末に狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続いた。当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであった。


直江兼続 ゆっくり戦国武将解説 第26回

松浦 隆信(まつら たかのぶ)
享禄2年(1529年)〜慶長4年閏3月6日(1599年4月30日)
肥前国の戦国大名。嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々合戦をしながら、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとした。隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築いた。


【長崎の偉人】松浦隆信

深水 長智(ふかみ ながとも)
天文元年(1532年)〜天正18年8月21日(1590年9月19日)
主君・相良義陽が戦死すると遺児・忠房を犬童頼安と擁立かつ補佐した。豊臣秀吉の九州征伐が始まると島津氏と共に闘うが秀吉と会見し、相良氏の存続について交渉しそれを承認させた。


相良氏を支えた原動力・深水長智 お家断絶の危機を何度も乗り越えた交渉力!

毛利 元就(もうり もとなり)
明応6年3月14日(1497年4月16日)〜元亀2年6月14日(1571年7月6日)
中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。


毛利元就の生涯を簡単解説〜乞食若殿から中国地方の覇者へ〜【日本史マンガ動画】

佐々 成政(さっさ なりまさ)
?〜天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
天文19年(1550年)、織田信長に仕える。兄弟が相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に父から家督を継いだ。成政は武勇の士を好み召し抱えに熱心であった。召し抱えの際に5000石の知行を約束しては6000石や7000石の知行を与えることもあった。そのため、成政のもとに武勇の士が馳せ参じた。


佐々成政 秀吉を嫌い、冬のさらさら峠越えを敢行 信念を貫こうとした熱い武将

北条 早雲 / 伊勢 宗瑞(ほうじょう そううん / いせ そうずい)
康正2年〈1456年〉? - 永正16年8月15日(1519年9月8日)
小田原北条氏の祖。備中伊勢氏の出自で(異説あり)はじめ足利義視に仕え、室町幕府政所執事から身を起こし、ついには大森藤頼の相模小田原城を奪い取って大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。早雲自身は伊勢新九郎盛時(長氏とも)を名乗り、北条姓は子の氏綱から。


北条早雲 ゆっくり戦国武将解説 第7回

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
大永3年(1523年)〜天正7年3月18日(1579年4月13日)
室町幕府の関東管領、山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、越後の長尾景虎(上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信死後の御館の乱で上杉景勝の兵に殺された。


上杉憲政『上杉謙信』を世に送り出した男!しかし人生は波乱、そして最後は悲惨。

佐久間 信盛(さくま のぶもり)
大永8年/享禄元年(1528年)〜天正10年1月16日(1582年2月18日)
織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。本願寺との石山合戦では苦戦し膠着状態に陥る。このことをずっと後になって信長からを咎められ、高野山に追放された。


佐久間信盛の生涯〜信長が激怒した男〜【日本史マンガ動画】

加藤 清正(かとう きよまさ)
永禄5年6月24日(1562年7月25日)〜慶長16年6月24日(1611年8月2日)
天正元年(1573年)羽柴秀吉の生母である大政所と清正の母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの又従兄弟たる秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。その後は、秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。


加藤清正 ゆっくり戦国武将解説 第8回

九鬼 嘉隆(くき よしたか)
天文11年(1542年)〜慶長5年10月12日(1600年11月17日)
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得た。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し戦後家康に許されたが、答志島で自害した。


【歴史解説】海賊大名 九鬼嘉隆の生涯と一族のその後【MONONOFU物語】

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)
天文9年5月5日(1543年6月9日)〜慶長5年9月15日(1600年10月21日)?
一般には島 左近の名で広く知られる。石田三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた。


島左近(島清興)はなぜ石田三成のために関ヶ原で戦い抜いたの?

三好長慶
大永2年2月13日(1522年3月10日)〜永禄7年7月4日(1564年8月10日)
畿内・阿波国の戦国大名。細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。


実は最初の天下人!? 三好長慶、やる気をなくした理由は燃え尽き症候群?

上井 覚兼(うわい かくけん) 
天文14年2月11日 (1545年3月23日)〜天正17年6月12日(1589年7月24日)
島津貴久・義久の重臣。非常な教養人で文芸にも造詣が深く、随筆『伊勢守心得書』を著して後進へ教えを遺し、また『上井覚兼日記』を著したことでも知られる。


飼っていたのは南蛮犬!犬を愛した島津の武将・上井覚兼

前田 利家(まえだ としいえ)
天文7年12月25日(1539年1月15日)〜慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている。利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。


前田利家の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

斎藤 道三(さいとう どうさん)
明応3年(1494年?)〜弘治2年4月20日(1556年5月28日)
名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。道三の娘は稲葉貞通に嫁ぎ、稲葉典通を産んだ。典通の子孫からは臼杵藩主となり幕末に至った者、皇室へ血を繋げた者、公家へ血を繋げた者などがいる。


斎藤道三 ゆっくり戦国武将解説 第29回

榊原 康政(さかきばら やすまさ)
天文17年(1548年)〜慶長11年5月14日(1606年6月19日)
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。『武備神木抄』では、「康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とされている。


榊原康政物語(豊田市公式YouTubeチャンネル)
佐久間 盛政(さくま もりまさ)
天文23年(1554年)〜天正11年5月7日または5月12日(1583年6月26日または7月1日)
母は柴田勝家の姉であり、外叔父の勝家とは父子のような親密な関係にあった。天正4年(1576年)、柴田勝家が加賀征伐を開始。盛政は勝家の先鋒として加賀平定に尽力する。天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳合戦で盛政は捕らえられた。羽柴秀吉は盛政の勇武を高く評価していたので、諭して味方にしようとしたという逸話がある。盛政は拒否して死罪を望んだ。


佐久間盛政の生涯〜超ド派手な死に様〜【日本史マンガ動画】

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)
天文21年1月26日(1552年2月20日)〜慶長19年5月6日(1614年6月13日)
豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。


仙石秀久の生涯〜大出世からの無職〜【日本史マンガ動画】

鈴木 重秀(すずき しげひで)
生没年不詳
雑賀党鈴木氏の一族で、鉄砲傭兵集団雑賀衆の有力者。史料は乏しいが、「重秀」の名は「本願寺文書」の自署があるため、「石山合戦で活躍した鈴木孫一」については鈴木重秀の事であると考えられている。


戦国最強鉄砲隊? 雑賀孫一【ゆっくり武将解説】

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
享禄3年1月21日(1530年2月18日)〜天正6年3月13日(1578年4月19日)
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の子として生まれ、初名は長尾景虎。関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱を受けて、最終的には輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。正式な姓名は、藤原輝虎。


上杉謙信の生涯を簡単解説!(前編)【日本史マンガ動画】

上杉謙信の生涯を簡単解説!(後編)【日本史マンガ動画】

長野 業正/業政(ながの なりまさ)
延徳3年(1491年)〜永禄4年11月22日(1561年12月28日)
上野国箕輪城主。関東管領山内上杉家の家臣。当時の古文書に登場する名義はいずれも受領名の「信濃守」であり、「業正」「業政」が実名である事を裏付ける文書は今のところ確認されていない。


猛将・長野業正!上野を守り抜いた虎が見せた 誠の武士の道

磯野 員昌(いその かずまさ)
大永3年(1523年)〜天正18年9月10日(1590年10月8日)

元亀元年(1570年)6月、浅井氏の家臣として参戦した姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫った。翌元亀2年(1571年)2月、本拠・佐和山城を攻撃された際、信長に降伏した。降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江高島郡を与えられている。天正6年(1578年)2月、信長の意思に背いて叱責され出奔した。本能寺の変で信長が亡くなると高島郡に戻って帰農し、天正18年(1590年)9月に死去した。


〜浅井の猛将・磯野員昌〜 姉川で見せた十一段崩し

筒井 順慶(つつい じゅんけい)
天文18年3月3日(1549年3月31日)〜天正12年8月11日(1584年9月15日)

得度して順慶と称する前は、はじめ藤勝(ふじかつ)、のちに藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和国郡山城主。元亀2年(1571年)10月、明智光秀の斡旋で織田信長に臣従。天正10年(1582年)6月、本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。


【麒麟がくる】筒井順慶 戦う僧侶の生涯とは!?

吉川 元春(きっかわ もとはる)
享禄3年(1530年)〜天正14年11月15日(1586年12月25日)

毛利元就の次男。同母兄弟に兄の毛利隆元、弟の小早川隆景がいる。父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。


毛利の『両川』吉川元春、父に『犬のような奴』と呼ばれた剛毅な男

武田 信玄(たけだ しんげん)
大永元年11月3日(1521年12月1日)〜元亀4年4月12日(1573年5月13日)

甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏第16代当主甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎。正式な姓名は源 晴信(みなもと の はるのぶ)。「信玄」とは(出家後の)法名で正式には徳栄軒信玄。


武田信玄の生涯〜誕生から最期までの53年間〜【日本史マンガ動画】

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