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戦国史研究室コミュの花倉の乱と河東の乱の質問

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花倉の乱の前に婚姻はしていませんが武田信虎と今川義元は同盟してますよね。
この同盟のメリットってなんだったのでしょうか。
また花倉の乱の前に義元と信虎が同盟を結んでいることは武田と交戦中だった北条氏綱も承知のはず。
なのになぜ氏綱は義元側に加担したのでしょうか?
花倉の乱の後の武田と今川との仲で同盟破棄とみなし河東の乱を起こすより
甲斐攻めの経験のある福島氏や玄広恵探と組んで義元方を倒して今川を属国状態にさせたほうが北条にとってメリットになったと思うのですが???

義元が足利将軍家より偏偉を賜ったってことは将軍家からしてみれば義元を今川家の当主に認めるということですよね。

それで幕府の高官上がりの北条としては義元を認るしかなかったのではないかとは思ったのですが北条って関東管領家と交戦しているのでそういうことをこだわる家柄ではないと思いなぜ義元側に加担したのか分からずじまいです。

またなぜ義元は北条が怒ると知っておきながらそのリスクを負ってまで武田と同盟したのでしょうか。
どなたか知っている方がいたら御指導お願いします。

コメント(7)

黒田基樹著『戦国北条一族』のP82にいくつかの仮説が述べられています。
推論の域は出ないようですが、黒田先生でさえそうなのですから、誰も明確な解答はできないでしょう。

>義元側に加担したのか分からずじまいです。
将来、関東管領を倒した暁には関東管領の職をもらい受けようとするために今川家の口添えが欲しかった。
北条と名乗ったからには何らかの冠位が役職が欲しかったためだと思っている。
>義元は北条が怒ると知って
三国同盟みたいな感じだと思うけど。
背後を気にせず、別の敵を倒して領土拡張したかったのではないかな?

俺の推測だからあーあーと思って読み流してくれ。
どうもありがとうございます。
戦国北条一族を少し読んでみようと思います
そもそも今川義元が頼っていたのは北條氏綱だったのだと思います。北條氏が今川氏を支援する理由も義理もいくらでもあります。予想できるのは、全面的に北條氏綱が今川義元の支援をしていて、今川良真勢を圧していたことです。今川義元・北條氏綱連合軍でそのまま撃破できたでしょうけど、今川良真勢後退が甲斐に影響していたことが武田信虎の前島一族成敗事件から分かります。甲斐の武田信虎に影響してしまった以上、双方で何らかの行動に出なければなりません。
今川義元にとっても、武田信虎が今川良真・福島正成らを支援するようなことになれば激戦は免れません。そこでおそらく今川義元と武田信虎の同盟が双方のメリットと一致したのでしょう。
ただし、今川義元にとっての誤算は、北條氏綱の激怒です。

武田信虎側の目線ですが…。
花倉の乱のあった天文5年(1536年)の頃は、武田信虎は信濃の村上氏との戦いにあけくれていた時期です。伴野氏や大井氏ともからみ、永正16年(1519年)から天文5年(1536年)の間には、信濃(佐久郡)と甲斐の国境付近で圧したり圧されたり度度激戦が繰り広げられていました。
国内統一を邪魔していた最大の宿敵だった諏訪頼満とも天文4年(1535年)9月に和睦しましたが、それまでは村上氏、諏訪氏、北條氏、今川氏ら四方八方の敵と戦ってきたわけです。扇谷上杉氏との関係上、山内上杉氏との仲も決してよくはありませんでした(大永4年(1524年)に山内上杉氏と武蔵秩父で対峙)。
国内では最後まで反旗を翻していた今井信元を鎮圧して甲斐をほぼ統一したのが天文元年(1532年)ですし、今川氏と小山田氏の縁戚関係も意外と深く、小山田氏や大井氏も完全に武田信虎に臣従したいたわけではありませんでした。
そんな不安定な時期、花倉の乱がおこった天文5年(1536年)は武田氏にとって変革の最大のチャンスだったのだと思います。

上杉朝興の娘が天文3年(1534年)に亡くなっていることや、天文5年(1536年)3月(1月17日とも)に、武田晴信が元服に際して将軍足利義晴の偏諱を受けていることなどが、今川氏との関係を明るくしたきっかけであり、メリットだったと想像ができます。
デメリットも大きかったと思いますが、それ以上のメリットがあったからこそ今川氏支援に踏み切ったのだと思います。これまで今川氏との戦いで身内を失ってきた家臣たちも多く、彼らにとっては今川氏は仇敵なわけですから、今川氏との婚姻同盟はやりきれない思いだったことでしょう。工藤虎豊、内藤虎資ら武田信虎の重臣たちを筆頭に、小幡氏、原氏、多田氏、横田氏らが、武田家臣の前島氏の一族の成敗や、今川氏との婚姻同盟などについて直諫したといいます。武田信虎も鎮圧に手を焼いたようですが、特に武田氏のなかでも大きな力を有していた工藤一族が挙って北條氏を頼って出奔したといわれています。

甲駿同盟に激怒した北條氏綱が天文6年(1537年)2月に駿河(興津)へ出兵しています。武田信虎が今川義元救援のために富士須走口に出陣し北條氏と激突していますね。甲駿同盟は北條氏にとってメリットはほぼありませんし、報復行為に近い出兵からみて北條氏は予め知らなかったと思います。

あくまで私の想像ですが、今川義元が北條氏綱を裏切ったかたちになります。
とてもわかりやすい説明ありがとうございました
以前より今川と武田は犬猿の中でした。福島正成が甲斐に攻め込んで信虎の奥方を懐妊させたのが後の晴信だと信じ、信虎は家督を信繁に譲ろうとしたようです。
なので武田が良真勢力には荷担しないでしょう。
逆に天敵武田と結んだ今川を北条は許せず良真勢力に荷担したという説があります。骨肉の間柄今川北条が手切れになった瞬間です。言い換えれば、属国扱いだった北条が今川から独立した瞬間です。負けた福島正成の子が小田原に引き取られ、大変気に入られて北条綱成となるのです。そうしないと今川北条の争い、北条綱成の誕生、信虎の晴信嫌い等辻褄あいませんよね。

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