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戦国史研究室コミュの戦国史しりとり

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戦国史しりとりで盛り上がりましょう!
皆さんの知識を存分に披露してください。

扱う時期は、
【平安時代後期〜江戸時代初期】
【前九年の役(1051)〜大坂の陣(1615)】
くらいの間とします。
目安なので厳密に考える必要はありません。

合戦、人物、地名、城、文書、官職、制度、なんでも結構です。
取りあげた語句の説明を一言、書いていただければ助かります。
小説・マンガ・映画などに登場する仮想戦記の内容も対象内です。
その場合、出典を明記してください。

同じ名称が何回出てもかまいませんが、直近に登場した名称は出来るだけ避けてください。

その他、当トピの特別ルールを定めます。
ルールは随時、追加修正します。

--★戦国史しりとり特別ルール【2022.11.24更新】★--

1 「ん」で終わるものは、その1つ前の語句を採用します。
  (例)越前(えちぜん)→ぜorせ

2 濁音で終わるものは、濁音ありなし両方ともOKとします。
  (例)織田信長(おだのぶなが)→「が」or「か」

3 次の語句で終わる場合は、○○の最後の語句を採用します。
 1 「○○戦争」「○○の戦い」「○○合戦」「○○征伐」「○○の役」
 2 「○○海戦」「○○沖海戦」「○○岬沖海戦」
 3 「○○の変」「○○の乱」
 4 「○○城」「○○寺」「○○山」「〇〇湊」「〇〇津」
 5 「○○天皇」
   ※上皇、法皇、親王などすべての称号を含む。 
 6 「○○島(とう、しま)」
   ※島名以外は適用外となりますので、ご注意ください。
 7 その他、類似の語句に適用
   ※そのつど「3-7を適用」などの断りを入れます。

4 外国の人名、地名等につき、読み方が複数ある場合はどれを採用してもOKです。
 また、現地語読み・日本語読みのどちらでもOKです。
  (例)李舜臣
      →(現地語読み)イ スンシン
      →(日本語読み)り しゅんしん
        ・・どちらを採用してもOKです。

5 「う」で終わる場合は、あ行「あいうえお」からの選択も可とします。
 「う」で終わる語句が多く、しりとりを続けるのが難しいためです。
  (例)血判状(けっぱんじょう)
      →うorあ行「あいうえお」の中から好きな語句を選べます。

6-1 「ら」行で終わる場合は、ら行「らりるれろ」からの選択も可とします。
  「ら」行で始まる語句が少なく、しりとりを続けるのが難しいためです。
  (例)福島正則(ふくしままさのり)
      →りorら行「らりるれろ」の中から好きな語句を選べます。
  (例)吉川元春(きっかわもとはる)
      →るorら行「らりるれろ」の中から好きな語句を選べます。
6-2 「ら」行で終わる場合は、その一つ前の語句を選んでも可とします。
  (例)福島正則(ふくしままさのり)
      →「り」の一つ前の語句「の」を選べます。
  (例)吉川元春(きっかわもとはる)
      →「る」の一つ前の語句「は」を選べます。

まず最初は、戦国時代といえばこの人、
「織田信長」
→がorか      

コメント(326)

松永 久秀(まつなが ひさひで)

永正5年(1508年)- 天正5年10月10日(1577年11月19日)
大和信貴山・多聞山城主。初めは三好長慶に仕えたが、長慶の死後は三好三人衆と時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

→で、て
寺沢 広高(てらざわ ひろたか)
永禄6年(1563年)〜寛永10年4月11日(1633年5月18日)

尾張国の生まれ。豊臣秀吉に仕えて肥前国唐津の6万石を拝領。朝鮮出兵で軍功を挙げたことから2万石を加増されている。秀吉死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に天草4万石を加増され、計12万石を治めた。今なお残る名勝「虹ノ松原」を造ったことでも知られる。


※唐津市に広がる防風林・特別名勝の虹の松原
加賀井 重望(かがのい しげもち)

永禄4年(1561年) - 慶長5年7月19日(1600年8月27日)
はじめ織田信長に仕え、その死後は次男の織田信雄に仕えた。小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い武功を挙げた。戦後、秀吉に使番として召しだされ、1万石を与えられた。関ヶ原の戦い直前、三河国池鯉鮒(現・愛知県知立市)において水野忠重、堀尾吉晴らと宴席を共にしていたとき、些細なことから口論となって忠重を殺害し、吉晴を負傷させたが、自らも吉晴によって殺害された。享年40。

→ち


※加賀井重望の居城だった加賀井城址(岐阜県羽島市)
長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)
天文8年(1539年)〜慶長4年5月19日(1599年7月11日)

土佐国岡豊城主・国親の長男。国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後、各地の土豪を倒して四国を統一した。しかし、豊臣秀吉の四国征伐に降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原征伐、文禄・慶長の役にも従軍した。

→か
片倉 景綱(かたくら かげつな)
弘治3年(1557年)〜元和元年10月14日(1615年12月4日)

伊達家の家臣。天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄2年(1593年)の文禄・慶長の役、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど伊達政宗の主要な戦争の大半に参加して、伊達氏の危難を救っている。小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、政宗に小田原参陣を決意させた。また、城代においては安達郡二本松城在番、信夫郡大森城主、奥州仕置き後は、佐沼城主、亘理城主などに任ぜられた。

→な
鍋島 直茂(なべしま なおしげ)

天文7年3月13日(1538年4月12日)〜元和4年6月3日(1618年7月24日)
戦国大名・龍造寺隆信の家老で義弟である。信昌、信生(のぶなり)のち直茂を名乗る。龍造寺隆信が沖田畷合戦で戦死して以来、事実上龍造寺氏に代わって佐賀を支配。龍造寺高房没後は名実共に佐賀藩主となった。

元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81。当時としては長命であるが、耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったため、高房の亡霊のしわざではないかと噂され、これが「鍋島家化け猫騒動」のモチーフのひとつとなった。

→げ、け
剣吉館(けんよしたて)

青森県三戸郡南部町剣吉に所在した日本の城。八戸根城と三戸城の中間に位置し、居館域は大館と小古館の二つに分かれている。戦国時代の城主の北氏は南部家の家老を務め、三戸城の北に屋敷があったので「北殿」と呼ばれた。

→て


※剣吉館址
天神山城(てんじんやまじょう)

埼玉県秩父郡長瀞町岩田にあった日本の城である。天文年間に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したと伝えられている。1560年に上杉謙信が関東侵攻を開始すると藤田氏は上杉方についた。しかし、同年9月に北条氏によって攻め落とされた。1564年頃に北条氏康の四男である氏邦が入城した。1590年の小田原征伐の際に、鉢形落城と共に開城したといわれている。

→ま


※天神山城復元CG
松浦 隆信(まつら たかのぶ)
享禄2年(1529年)〜慶長4年閏3月6日(1599年4月30日)

肥前国の戦国大名。嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々合戦をしながら、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとした。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。隆信は中国の文物、名器を所有していたので、翌年、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。文禄・慶長の役には当主たる息子鎮信が出征して隆信は出陣しなかったが、文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、これを果たしたので賞された。

隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築いた。

→ぶ、ふ
深水 長智(ふかみ ながとも)
天文元年(1532年)〜天正18年8月21日(1590年9月19日)

肥後相良氏家臣。深水氏は、第4代当主相良長氏の子蓑毛祐長の子長陸を祖とする。代々、相良氏の奉行職(執政)を務める家柄であったが、長智は特に奉行としての手腕に長けた名臣として名高い。主君・相良義陽が戦死すると遺児・忠房を犬童頼安と擁立かつ補佐した。豊臣秀吉の九州征伐が始まると島津氏と共に闘うが、義久が八代から退去すると秀吉と会見し、相良氏の存続について交渉しそれを承認させた。

→も


※深水長智の墓 深水観音(熊本県球磨郡相良村)
毛利 元就(もうり もとなり)
明応6年3月14日(1497年4月16日)〜元亀2年6月14日(1571年7月6日)

中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘の国人領主。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。

→り、ら行、な
長窪城(ながくぼじょう)

長野県小県郡長和町長久保にあった日本の城。室町時代の応永年間に、大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。武田信玄の支配となった長窪城は、武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、小県郡は真田昌幸の領地となり、天正11年(1583年)昌幸が上田城を築くと、長窪城は廃城となった。

→ぼ、ほ
北条 早雲 / 伊勢 宗瑞(ほうじょう そううん / いせ そうずい)
康正2年〈1456年〉? - 永正16年8月15日(1519年9月8日)

小田原北条氏の祖。備中伊勢氏の出自で(異説あり)はじめ足利義視に仕え、室町幕府政所執事から身を起こし、ついには大森藤頼の相模小田原城を奪い取って大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。ちなみに早雲自身は伊勢新九郎盛時(長氏とも)を名乗り、北条姓は子の氏綱から。

→う、い
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
大永3年(1523年)〜天正7年3月18日(1579年4月13日)

室町幕府の関東管領(1531年-1561年)、山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱では、養子上杉景虎とともに御館に籠もるが攻め落とされ、景虎の長男道満丸を伴い和議仲裁のため春日山城に赴く途中、上杉景勝の兵に殺された。

→さ、ざ


※上杉憲政の墓(山形県米沢市 照陽寺)
佐久間 信盛(さくま のぶもり)
大永8年/享禄元年(1528年)〜天正10年1月16日(1582年2月18日)

織田氏の宿老、鳴海城主。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。本願寺との石山合戦では苦戦し膠着状態に陥る。このことをずっと後になって信長からを咎められ、高野山に追放された。佐久間信盛自身の書状や『多聞院日記』の記述から、信盛が高野山で平穏に余生を送ったことがわかるため、高野山から追い出されたというのは、『信長公記』の誤謬だともされる。

→り、ら行


※『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛)
両細川の乱(りょうほそかわのらん)

永正の錯乱を契機に勃発した、細川京兆家の家督および室町幕府将軍の座を巡る内戦である。細川高国・大内義興・畿内の反三好勢力と、細川澄元・その子晴元・三好氏ら阿波勢との間で20年以上にわたって抗争が続いた。当初、京を抑えた高国方は足利義尹を、対する澄元方は足利義澄を擁立していた。しかし義澄の死後、高国が澄元方に大敗すると、義尹は澄元方に通じる。高国は義尹を追放し、新たな将軍として義澄の子・義晴を擁立した。一方、澄元の後継者・晴元は堺公方・足利義維を擁立して高国に対抗。晴元・義維陣営は高国・義晴陣営を破ったものの、義晴との和睦などを巡って内部対立が激化し、天文の錯乱が勃発することになった。

戦争:両細川の乱
時 :永正6年(1509年)- 天文元年(1532年)
場所:京都とその周辺
結果:細川高国の自害、細川晴元と足利義晴の和睦(堺公方の崩壊)

→わ


※(左)細川高国像(東林院蔵 伝狩野元信筆)
 (中)細川澄元像(永青文庫蔵 狩野元信筆 重文)
 (右)細川晴元像
脇城(わきじょう)

徳島県美馬市脇町大字脇町にあった日本の城。阿波九城の一つ。別名虎伏城。天文2年(1533)、三好長慶が築城した。当時は、西にあった岩倉城と合わせて阿波の西部を守る体制をとっていた。天正7年(1579)と天正10年(1582)に長宗我部元親が攻めよせ長宗我部方の城となったが、天正13年(1585)の羽柴秀吉の四国攻めに際して、羽柴秀次の軍に屈して降伏、開城した。

蜂須賀家政が阿波国の領主となると、支城群阿波九城の一つと位置づけられた。家政は特に脇城を重要視し、家臣団の筆頭である家老の稲田植元に1万石を与え、城代として置いた。稲田氏は城の強化と城下町の整備を行い、脇の町は阿波西部の中心地として繁栄した。しかし一国一城令により、寛永15年(1638)に廃城となった。

本丸跡は雑木林と化しているが、中央付近にある直径2mの井戸は今でも水を湛え、本丸東南隅の泉は小さいながらも水が湧き続けている。麓の稲田氏菩提寺貞真寺の西には城主の館があったが、現在では完全に宅地化している。

→き
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)

戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争の総称。

●享禄4年(1531)の享禄の錯乱または大小一揆と呼ばれる内紛、
●天文元年(1532)から同4年(1535)の細川氏・畠山氏などとの戦いである天文の錯乱または天文の乱、の2つからなる。

この2つの戦いを一括りにすることの是非については議論の余地があるものの、両者とも本願寺10世証如と、その後見人蓮淳(8世蓮如の6男。証如の外祖父であり大叔父でもある)による法主の権限強化を図った政策方針の末に生じた出来事である。

→ぶ、ふ


※(左)証如
 (右)山科本願寺の土塁跡
福島城(ふくしまじょう)

信濃国筑摩郡(のち木曽郡)福島(現・長野県木曽郡木曽町)にあった日本の城。他の地域の同名の城との混同を避けるため、「木曾福島城」とも呼ばれる。

戦国時代、木曾義康により築かれた。平時は、上の段城を館とし、山城を詰の城とした。木曾義昌も居城とした。本能寺の変が勃発すると、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曾福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。 岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。

その後、義昌は徳川家康に通じて盟約を結び、安曇・筑摩・木曾の安堵を得たが、家康と豊臣秀吉が対立すると盟約を反故にし秀吉に恭順した。このため家康は天正12年(1584年)9月、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを差し向けて妻籠城の義昌を攻めたが、撃退されている。これに先立つ同年8月、小笠原貞慶が贄川又兵衛を調略して木曾福島へ侵入し、義昌は興禅寺に逃れた。

その後、義昌は秀吉の麾下となった家康とともに関東に移封され、城は廃城となった。

→ま

松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)

天文6年(1537年)、扇谷上杉氏の当主である上杉朝興が没すると、13歳の朝定が同氏の当主となった。かねて武蔵国中央部への進出を画策していた北条氏綱はこの機に乗じて7千余の部隊で小田原城を出陣、河越城の攻略に成功した。一方、父朝興の遺言である河越城の死守を果たせなかった朝定は、重臣難波田憲重の居城である松山城まで後退して体制を立て直し、余勢を駆って城下まで攻め寄せた北条勢を迎撃した。難波田らの奮戦の結果撃退に成功したが、この際に行なわれたとされる和歌問答が風流合戦として著名である。

城門から打って出、激しい迎撃戦を展開しながら帰城しようとする難波田憲重と、寄せ手側の山中主膳の間で、次のような和歌問答が交わされたとされる。

山中  あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
      なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く

難波田 君おきて あだし心を 我もたば
      末の松山 波もこえなん

難波田は、まだ若い主君朝定への忠誠を和歌にした。実際にこのようなやり取りがされたのかどうかは定かではないが、室町時代の武士の風流を解する心が表れたエピソードと言える。現在、松山城址の搦手門の遺構とされる凝灰岩質の斜面に、このとき難波田の乗馬が駆け上がった蹄の跡と伝えられるくぼみがある。

→う、あ行


※(左)難波田憲重(『英雄百首』歌川貞秀画)
 (右)山中主膳(『英雄百首』歌川貞秀画)
臼杵城(うすきじょう)

大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城(にうじまじょう)」が築かれ、大友氏の拠点となった。

通説では永禄4年(1561年)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562年)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、宣教師の書簡には家臣の反乱を避けるために丹生島に移った事が記されており、弘治3年(1557年)前後、義鎮は臼杵へ拠点を移していたと考えられている。府内では既得権益が障害となり、大友氏が十分な経済的権益を確保できなかったが、新たに臼杵に本拠を移すことで、臼杵の湊と城下町が一体化した経済都市を創り出し、安定的に直接支配する体制を構築しようとしたと推測されている。

関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1600年)に美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入封、その子稲葉典通と2代にわたって修築が行われ現在のような姿となった。稲葉貞通入城以降、明治維新まで、稲葉氏15代の居城となった。


※臼杵城跡(臼杵公園)
狐橋の戦い(きつねばしのたたかい)

第二次河東一乱初期の合戦で、天文14年(1545年)8月16日、駿河の今川義元軍が相模の北条氏康軍を駿河国狐橋で破った。この戦いに勝利した義元は勢いに乗って北条方の長久保城を攻略、武田信玄を仲介にすることで河東地域(駿東郡・富士郡)を後北条氏から取り戻した。

時 :1545年10月16日(天文14年8月16日)
場所:駿河国今井
結果:今川軍の勝利

→し、じ


※河東地域 地図
下妻城(しもつまじょう)

常陸国関郡下妻荘(現在の茨城県下妻市)にあった日本の城。多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城(たがやじょう)とも称し、地元では一般にこの名称を用いている。城郭は広大で旧真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであった。1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたとされるが、1961年(昭和36)に始まった都市計画事業を経て、現在では多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなっている。

城が完成した15世紀中頃は東西両館からなり、東館を本丸とする2廓の単純な構造であった。その後多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、多賀谷氏7代の重経の頃(16世紀末から17世紀初頭)には南北1.5kmにおよぶ長大な城域を有するようになっていた。この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、城郭・城下町の規模や充実度の面で常陸国屈指の存在であった。

→ま


※下妻城 本丸跡
松川の戦い(まつかわのたたかい)

関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島地方へ南下してきた伊達政宗の軍と会津若松城上杉景勝配下の本庄繁長と須田長義率いる上杉軍との間で行われた戦いである。

合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長の居城・福島城は福島県庁となっている。

戦争:関ヶ原の戦い
時 :慶長5年(1600)10月6日
場所:福島県福島市
結果:上杉軍(西軍)による福島城の防衛成功。伊達軍(東軍)による信夫郡奪還失敗。

→わ


※福島県福島市空撮 中央に信夫山
和歌山城(わかやまじょう)

和歌山県和歌山市一番丁にある平山城である。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、1585年の紀州平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら縄張りを行った。普請奉行に藤堂高虎を任じ、1年で完成させた。この際に「若山」が「和歌山」と改められている。1619年、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立した。明治維新後も本丸の天守、櫓群は遺ったが太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼失した。 現在は、本丸と二の丸が市立和歌山城公園となっている。

→ま


※天守(城下から望む)
松井田城(まついだじょう)

上野国碓氷郡にあたる現在の群馬県安中市松井田町高梨子にあった戦国時代の日本の城(山城)である。永禄初年、1560年頃から城主は、安中氏、武田氏、織田氏と変わったが、本能寺の変後に北条氏直の軍勢が入り、大道寺政繁が城代となった。

天正17年(1589年)小田原征伐が起こると、豊臣秀吉の命で前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢が松井田城を攻撃した。しかし数千の兵が籠る松井田城は3月20日の総攻撃でも落城せず、持久戦が行われることになった。この結果、約1ヵ月後の4月22日に城代大道寺政繁は降伏し、松井田城は豊臣側に明け渡され、廃城となった。

→だ、た


※松井田城址を空から見た布陣
大物崩れ(だいもつくずれ)

戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を壊滅させた。合戦は天王寺辺りから展開されたが、最終的に高国が大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑されたために大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。

敗戦の混乱の中、細川高国は戦場を離脱。尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠していたが、三好一秀に6月5日に捕縛された。そして、同月8日、仇敵細川晴元の命によって高国は尼崎広徳寺で自害させられた。

永正の錯乱から始まった細川家の養子三兄弟の争いは、大物崩れで最後の養子高国が自害させられた事により終わる事となる。

戦争:両細川の乱
時 :享禄4年6月4日(1531年7月17日)
場所:阿倍野の森、中津川一帯
結果:三好元長・赤松政祐の勝利

→れ、ら行


※大物くづれ戦跡と案内板
蓮華山城(れんげやまじょう)

周防国玖珂郡(現在の山口県岩国市周東町)にあった日本の城。

1555年(弘治元年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した。その際に城主であった椙杜隆康は、毛利氏の侵攻前後に毛利元就と誼を通じており、即座に降伏。近隣の杉隆泰も降伏したが、隆泰は大内氏とも連携を取っていたとされ、最終的に毛利氏の攻撃を受けることとなった。蓮華山城は、鞍掛山城のすぐ北にある隣山だったため、毛利軍は蓮華山城から出陣。鞍掛方は混乱の最中に壊滅、鞍掛山城は落城した。

その後、玖珂は完全に椙杜氏の領するところとなった。蓮華山城はこの後も玖珂の中心として栄えたが、後に廃城となった。廃城年は不明。

→ま
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)

元亀4年(1573年)7月に織田信長と室町幕府の将軍・足利義昭との間で行われた戦い。この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。その後、義昭は河内の若江城、次いで和泉の堺、 紀伊の興国寺へと移るなど、各地を流浪し続けた。そして、備後の鞆にまで落ち延び、毛利輝元の庇護を受けて鞆幕府を樹立し、信長への抵抗をなおも続けた。

→ま


※槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑
益富城(ますとみじょう)

福岡県嘉麻市中益にあった城である。永禄期(1560年頃)には毛利元就が領有し、城番に杉忠重を置いた。戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城の一つとなった。その後、関ヶ原の戦いで筑前国を与えられた黒田氏が筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つとして位置づけ、家臣を居城させた。一時後藤基次が城主を務めたが、慶長11年(1606年)に基次が出奔した後、六端城の一つであった筑前国鷹取城より母里太兵衛が移されたが、 元和元年(1615年)に発布された一国一城令により、他の六端城とともに廃城とされた。

→み
三河一向一揆(みかわいっこういっき)

戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。

→わ


※「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年)
若松城(わかまつじょう)

福島県会津若松市追手町にある城跡。別名は鶴ヶ城で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城とも呼ばれる。さらに文献では黒川城や、会津城とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡として国の史跡に指定されている。

1384年、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。1589年、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年より近世城郭に改造して城下町を整備、町の名を黒川から「若松」へと改めた。1598年、氏郷の子・秀行は家中騒動のために下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。翌1601年には蒲生秀行が再び入城したが、1627年、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。

代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は、1611年に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

→つ、づ


※若松城天守(外観復元)
筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)

永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)の間に筒井順慶と松永久秀によって大和筒井城周辺で3度に渡って繰り広げられた攻城戦を含む合戦。同時期に大和では東大寺大仏殿の戦いも起きている。

→い、あ行


※(左)筒井順慶画像
 (右)松永久秀画像
茨木城(いばらきじょう)

大阪府茨木市にあった日本の城。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。建武年間(1334年 - 1336年)に楠木正成が築いたという説がある。戦国時代に、茨木氏、中川清秀、片桐且元が城主となった。元和2年(1616年)、「一国一城令」により取り壊された。

→き、ぎ


※旧茨木城搦手門(茨木神社東門)

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