ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

<吉本隆明・戦後最大の思想家>コミュの「吉本隆明論」という書名のない吉本論を教えてください。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
明確に『吉本隆明論』という書名はないけれど、そのなかに吉本論が入っている書籍などご存じの方はぜひ教えてください。

 いつもすみません、よろしくお願いいたします。

(例)
*直接吉本論と書名がないが、実質的に吉本論であるもの

竹田青嗣『世界という背理ー小林秀雄と吉本隆明』河出書房新社1988.1.20

*吉本論が目次のなかしかに入っていないもの

三浦雅士『批評という鬱』〜「批評という鬱−吉本隆明ノート」岩波書店2001.9
井口時男『批評の誕生/批評の死』〜「吉本隆明-失語者の思想」 講談社2001.5.
笠井潔 『外部の思考・思考の外部』〜「エロスそして超越ー吉本隆明」作品社1988.6

*アンソロジー系
疋田雅昭『戦後史のポエティクス1935-1959』「吉本隆明―思索と詩作の間で」
和田博文編世界思想社2009.4

コメント(83)

鷲田小彌太『10年後の「幸福」を考える技術』PHP研究所






世界の思想家の中で、それを唯一いっているのは吉本[隆明]さんだけなんだよ。…第三次産業だけで成り立っているところ、その一番いいところに、障害者も含めた福祉の対象者が暮らして、そしてそこで、さまざまな訓練を積んでいくということがなければ、福祉自体が後退せざるをえなくなるんですね。








後藤仁敏「吉本隆明氏の講演(「三木成夫について」)を聞いて」







吉本氏は、三木とマルクスがともにその対象の分析において、根源的な原型からはじまり、それに順次いろいろな条件を加えていき、複雑な実体の本質まで解明している点が共通していると述べられた。筆者は、三木がそのような方法をとったのは、三木自身が何度も述べているように、やはりゲーテ形態学=原型論のつよい影響であることを指摘したい。
『モルフォロギア・特集ゲーテと自然科学・第16号』1994.11.3所収






『宮城賢詩集』国文社よりその「あとがき」を部分引用。






見ず知らずの作者から私家版『亡郷歌』を送りつけられた『言語にとって美とはなにか』の著者[吉本隆明]は、すぐさま葉書で感想を返してこられたのであるが、箇条書きふうにしたためられたその手短かな評言は、私をして、二、三日茫然と過させるほどの魔力をもつものであった。









加藤典洋「誤り」「遅れ」から戦後思想築く・吉本さんの死に際して」『毎日新聞(夕刊))2012.3.19





吉本隆明。この人がいなければ、戦後思想がいまある明瞭な姿を取ることはなかったはずだ。その一つの特徴は「誤り」を、「正しさ」よりも深い経験だと見たことである。戦後、誰もが戦前の誤りを反省し、「正しく」軍部に抵抗した人を手本にしようとしたとき、二十代の吉本さんは、戦時中に愛読した高村光太郎という「誤った人」から眼を離さず、この深い経験をもった知識人がそれでもなぜ「誤った」のかについて考えた。誰もが沈む船から去る鼠たちのように「誤った人」を離れ、「正しかった人」に移ったとき、沈む船を動かず、そこを出発点にした。


(メモ)倖か不幸か深入りせずに引返したが、ぼくの敗戦体験はマルクス主義(吉本はロシアマルクス主義とかソフトスターリン主義といっていたが)党派体験だ、そして、その裏返しとしてのこちらは人生の大半を使ったが公務員体験といってもよい、その誤りから考えるということだ。それは、気づいたときからやればいい。





吉本隆明『マスイメージ論』講談社学芸文庫(新刊)2013.3.16





大ざっぱな言葉でくくってしまうと、『マス・イメージ論』において吉本が引用した個々の作品の断片は、そのことごとくが「全体的な暗喩」として、『現在』という共同幻想のありようを示唆しているということになるのである。いいかえると、「現代」という共同幻想は、そうした「全体的な暗喩」を「介して」、それを「迂回路」として用いることで、「現代」にアクセスを試みることである。p330鹿島茂「解説」


メモ)
『マスイメージ論』が鹿島の解説がついて再刊された。鹿島は吉本がまったく評価することのなかったヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』と相似していると述べる。「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」と。
しかし、依然としてこの論を読み解くことはむづかしい。





吉本隆明『マスイメージ論』講談社学芸文庫(新刊)2013.3.16






しかしそれにしても、いや、それにしても、一九八〇年代初頭に、この必敗の戦いに、それまでのすべてを捨てて踏み切ろうとした吉本隆明はやはり偉大なる思想的ファイターであったというほかはないのである。
なぜならば、二十一世紀もすでに十三年を経過し、いよいよ、世紀をまたぐ三十年という決定的な過渡期が終わろうとしている今日においてさえ、「現代」という共同幻想の実態は依然として見えてきてはいないからである。p331p332鹿島茂「解説」


メモ
『パサージュ論』で述べているように、世紀をまたぐ三十年という過渡期がおわろうとしている、それはいまこそが「目覚め」の瞬間であり、現代を捉えるときであろうと鹿島はいう。刊行からほぼ三十年を経た今日、若い世代によって「現代」からの目覚めの契機として読まれることを切に願ってやまない、と。






『群像2012年5月号』講談社2012.5.1







「正しさ」の絶対喪失に直面する場面で、どこかに「正しい」思想があるはずだという強迫観念から、日本の知識人はまだ脱却できていないのだ。吉本は、そういう場面で、この喪失体験自体を思想化する以外には、決して普遍的な思想を作り出すことができないことを示した稀有の思想家だった。(略)しかし、その本質的な継承は、まだどこにも現れていないかも知れない。竹田青嗣「正しさから見放される体験」



(メモ)
竹田は加藤のいう、吉本の方法の特質は、思想は必ず「誤りうる」(可謬性)と言う場所から出発して普遍的なものへ届きうる可能性の条件を見いだした。ということについて、これが西洋近代哲学が普遍的認識の問題について長く格闘してきたプロセスのエッセンスなのだ、哲学からみてもこれは極めて妥当という。






三浦雅士「鮎川信夫のレンズ」『吉本隆明代表詩選』あとがき思潮社2004.4.25







だが、『日時計編』は乗り越えられない。『固有時との対話』も『転位のための十編』も乗り越えられるだろう。だが、『日時計編』は乗り越えられない。なぜならばそれは決意でも宣言でもないからである。ひとつの時代の、痛む様に染み入る感性の記録、すなわち詩そのものだからである。三浦雅士「鮎川信夫のレンズ」p237『吉本隆明代表詩選』思潮社2004.4.25

メモ:
三浦は、ここで「吉本さんは一九五〇年にまさに言葉の肉体に触ったということだと思います」「きわめて強烈な恋愛体験と、その結果の婚約をまるでキルケゴールのように破棄してしまったという重要な事件があった。」「一九五〇年の段階でそれがぜんぶ一緒に来てしまったというのが「日時計編」からは滲み出てきている。」と述べている。






見田宗助VS加藤典洋「吉本隆明を未来へつなぐ」2012.4.26対談『中央公論特別編集吉本隆明の世界』中央公論新社2012.6.25





見田:僕にとって吉本さんの魅力の核は、あの人の文体なのです。吉本さんの文章はとてもゴツゴツと節くれだっていて、深みや澱みを作りながら決して流暢に流れていかない。その文章が、僕には何より信頼できるものなんです。そうなるのは吉本さんの内部に矛盾があるためだと思います。「矛盾」というのは僕にとって褒め言葉で、シェイクスピアでも、ゲーテでもマックス・ウェーバーでも巨大な思想家の仕事には必ず矛盾がはらまれています。


メモ:自分の中にある処理に窮する大きな情念を、明哲で強靭な論理で押さえつけるような文体がどこから来るのか。この問題を解かなければ自分は生きていられないのだというような、切実な問題に真正面から取り組んでいる葛藤や拮抗から、それは立ち現れている。内容以上に、その文体が僕には信頼の理由だった。と見田はいう。





宇野邦一×瀬尾育生「吃音・身体・共同性〜『戦後詩史論』の現在性」《現代詩手帖》2005年9月号






瀬尾:吉本[隆明]さんが「修辞的現在」と名指したもの、それは主体が言葉につまずいている、言葉に苦しんでいる、なおかつ同時に、言葉で何かを言おうとしている…吉本さんの肉声や書き方のなかに、じつはそれと同じものがあるんじゃないかと思ったわけです。吉本さんも…日本語のなかで吃っているんじゃないか。










瀬尾育生『吉本隆明の言葉と「望みなきとき」のわたしたち』言視社 2012年9月







吉本さんは『母型論』のなかで「母音言語」とか「母語論」という議論を展開するのですが、それは父系社会以後の時間の中で成り立っている西欧的な言語観や宗教観、心理学のすべての構築を、言語の母型的な起源を持ち出すことによって転倒するという構想があるからだと思います。










>>[55]

「吃る」っていうようなことを、言語の事柄として考えられるのは、吉本さんの理論だけじゃないか。
そんなことを妄想しました。
>>[057]


言語論に留まらず、吉本さんの思考法、立論の仕方、問題へのこだわり方などに、ワタクシの吃音論は多くを負っていると思います。うれしい顔










三浦雅士『青春の終焉』講談社




吉本隆明はしかも、自己の自己自身への関係の仕方、自己意識へのこだわり方に、強度とでもいうべきものを設定し、それこそが時代の表現の水準を決めるものだとした。…この観点に立てば、自己意識とは個人にではなく、むしろ時代に、社会に属するものであるということになる。とすれば、作者とは実体ではなく関係であるということになるだろう。










宮城賢「<冬>の危機」:『生と詩』国文社 所収







彼が<秩序>のからくりを透視したその巨大な射程をもつ認識によって、「遠くまで世界はぼくたちを檻禁している」と絶句し、「だからちひさなやさしい群よ/みんなのひとつひとつの貌よ/さやうなら」という訣れをおのれにしいることによって、<秩序>の構造の解明へと直進したことは、私には、時代が吉本隆明にしいた分裂として哀しく映るのである。











磯田光一「吉本隆明論」『戦後批評家論』河出書房新社1969.9.10








「告白」は「告白」なるがゆえに真であると信じている者は、そう信じている度合いだけ、かえって真実から遠ざかる。そして逆に、「告白」がついに「体験」を覆うにたりないことを知っている者だけが、「告白」聖化のナルシシズムに足をすくわれることから免れるのである。戦中派」と呼ばれる人々のなかで、吉本隆明の存在がひときわ目立っているとすれば、それはおそらく、彼が「告白」につきまとう陥穽について、他のだれよりも凝視を怠らなかったという一点にかかっている。磯田光一「吉本隆明論」『戦後批評家論』河出書房新社1969.9.10







水無田気流編「解説・エッセンス吉本隆明」『現代詩手帳7月号』








戦後の「国語の教科書に掲載された高村光太郎」が、いかに詩魂を除かれ、無毒化されていることか。その過程すら見えなくされていることに、改めて震撼する。西欧への留学を経て逆説的に「父なる自然」を歌い、自然律を智恵子との生活理念とし挫折した高村の思想そのものが、日本の詩史の最中、今なお矛盾に満ちたなお空白地帯として読み込まれずに放置されているのである。







上野千鶴子『女という快楽』勁草書房 1986年







[吉本隆明言うところの]対幻想が共同幻想に拮抗しうるのはなぜか…異質な他者に同一化しようとすれば、自己幻想はたんなる同心円的拡大を許されない。…こうやって一度構造変容した自己幻想は、共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す。










>>[0]

>竹田青嗣著『世界という背理ー―小林秀雄と吉本隆明』


僕は吉本さんより前に竹田先生のファンだったので、
ご案内いただいたこの本でまさにお二人が接合し、
さっそく手に取らせていただきました。
とてもいい本です!

どうもありがとうございます。
>>[66]


 そうですか・・・20年ほどまえに読書会フッサール『イデーン』の読書会に誘っていただいたことがありました。体力的な限界でお断りしましたが、残念でした・・。

 わたしとは、気があう人でしたよ・・・。

内田樹・名越康文・橋口いくよ『本当の大人の作法』メディアファクトリー 2013年3月








内田:すごい人[吉本隆明]の文章っていうのは、止める場所が見つからないんだよね。
名越:それにずーっとついていくと、その忍耐力と読解力の練磨によってどんどん自分の中の未熟な攻撃性がおさまって、成熟されてきて。
内田:読んでるうちに、リテラシーが上がってゆくんだよ。











◆北川透連載評論第一回 「吉本隆明の詩と思想」


北川透編集・制作 ひとり雑誌『「KYO(峡)」創刊号』

序章 最後の根本的問題 吉本隆明の死とその後



あとがき
「KYO(峡)」創刊にあたり、必要なことを書きます。まず、これは北川透が執筆
し、みずから編集・発行する季刊の詩と批評の雑誌です。
発行月は9月、12月、3月、6月。
直接購読を基本とします。
一冊の売価は送料含んで400円。予約購読される方は、5冊分2000円ご送金
下さい。もし、終刊することがあれば、その号より先の予約金は、必ず、返金します。
二〇一三年九月一日発行 編集・発行者 北川透
  
 〒七五二―〇九九七
   下関市前田町一―一五―三三
   前田コーポラス四〇四
 
DTP 加藤邦彦
 印 刷 東京カラー印刷
 価 格 四〇〇円(送料込)


◆お願い:畏友、菅谷規矩雄、松下昇からの書信やそれに類するものを、連載で掲載したいので直接購読を願いたい。
引用
直接購読者が100名に近づけば、かつて思想的にも交流の深かった、畏友、菅谷
規矩雄、松下昇からの書信やそれに類するものを、連載で掲載できます。そのために
は、発行費の基盤が安定することが不可欠です。資料の整理と、著作権などの困難の
解決のために、少し時間もかかります。これはわたしの以前からの宿題ですし、少し
でも余力がある内に実現したい、と考えています。

『春秋 2013年11月号』春秋社 2013.10.25


連載 菊谷倫彦「無名なものの詩(うた)と革命―孫世代から見た吉本隆明 」





この連載は6回程度の予定だそうです。

 ※春秋社ではバラ売りはしていないようですが、1年分800円で購読も可能
  なようです。http://www.shunjusha.co.jp/magazine/553/

 なお、大手の書店店頭などでなら無料で配布しているかもしれません。




鷲田小彌太『学者の値打ち』ちくま新書






吉本〔隆明〕が、ジャーナルな世界にとどまるのは、知の大衆的形態をはじめから志向したからに他ならない。…しかしそれにしても、消費社会論、高度消費社会論が、マス・イメージ論、ハイ・イメージ論として展開される分析と叙述の的確さ、鮮やかさはどうだろう。…吉本は、日本ばかりか世界においても、影響力を行使できる思考の力を発揮しているのである。











加藤典洋「吉本隆明の世界認識・再説」:小路田泰直編『戦後的知と「私利私欲」』柏書房 所収







「関係の絶対性」というのは私が学生だった頃は何かジャルゴンのように、多くの学生が譫言のように唱えている言葉でした。どういう意味なの?と聞いても、誰もちゃんとは答えられない。吉本さん自身がしっかりとは答えていない。答えられない、そういう「発見」の言葉だったのです。しかし、その時発見されていたことは、実は、「内在」と「関係」という基軸に関わるものだったのではないか。









加藤典洋『日本人の自画像』岩波書店







「常民」とは「いわば歴史的な時間を生活史のなかに内蔵し、共時化している存在をさ」す。〔吉本隆明によれば〕柳田のほかに、誰もそこに生じる「<空隙>や<亀裂>」の感覚を露出させたものはいない。この内外の視線のとらえる像の間の「空隙」と「亀裂」の感覚の露呈は、柳田により、意識的にめざされたものと、考えられる。





上原隆「吉本隆明さんの住む街」:『雨にぬれても』幻冬社アウトロー文庫 所収






<なんだか、いいな>と思った。
それは、吉本さんの本を読んだ時にも感じたことで、なんといったらいいだろう。
言葉にすると、「気取らないやすらぎ」といったものが、そこにはあった。
たぶんこの街の良さって、そういうことなんだろうな。




梶木剛『古代詩の論理』試行出版部 1968年






かくてわたくしたちにとって、古代文学史的主体=政治史的主体の等式関係の成立している稀有の一時期、まさしくこの一時期の呼称こそが<初期万葉>でなければならなくなってくるのである。そしてこのようにみていけば、右の等式関係の成立が、天武天皇をへて持統天皇までにわたることは、言をまたないことになってくるのである。







加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社






無機物が生命をもつ。すると、なんだか変だな、と生命体は感じる。この生きていることへの違和感が、人間のタナトス欲動―「死への欲動」―の根源だとフロイトはいうのだが、ここで吉本〔隆明〕は、フロイトのようには考え進めない。…フロイトは、人間から発想し、人間に帰る。そこから人の名づけようのない無意識の動きが「死への欲動」として取り出されもするのだが、吉本は、その考えは「古い」のではないかと、と考えている。そして、いわばアメーバの場所にとどまり、そこで、この名づけられない動き、力を、「生きていることへの違和感」として生命種に普遍の心的現象の根源と考えようとする。それが、吉本のいう、生あるものが生きているゆえにもつ、「原生的疎外」という概念である。





内田樹『街場の文体論』ミシマ社 2012年





翻訳されるものと、されないものの違いはどこにあるのか。どう考えてみても、作物のクオリティとは関係がない。なんでこんなに優れたものが訳されていないのかと思うものがいくつもあります。たとえば、吉本隆明。


吉本隆明の思想は世界性を獲得できなかった。本質的には世界的な思想だったのだけれど、世界各国の地域性がそれを受け入れるだけの成熟に達していなかった。そういうかたちで「翻訳されない」ということもあるんです。丸山眞男は翻訳されるが、吉本隆明は訳されないのは、吉本のほうが「ローカル」だからではなく、吉本が「あらゆる国の人々が目を背けようとしている事象」を扱っているからなのだと僕は思います。







「日本語・言語を考える本質軸」末尾「☆山本自註ノート」:吉本隆明×山本哲士『思想を読む 世界を読む』 所収

吉本さんの思想的裁定は、実に肝心なところをおさえきっている、そこを「意味された」答えとしてみていくとこちらが見誤るにすぎない。何を「意味するもの」において吉本さんは考えているのかは、いかなる学者・研究者たちからも学びえないものとして正鵠な指標をだしている。「意味されたこと」だけを追っている大学人の言説からは、絶対的に語られえないことが開削されているのである。
主語制言語の概念空間と述語制言語の概念空間の差異は、近代社会国家言語の歴史編制のなかで前者優位になされていくのだが、述語制言語に言語の原初を観ていく視座を見落とすと、言語論が浮き足立つ。自然言語・内臓語と後に吉本さんが言う意味するものは、述語表出にかかってこよう。

『宮城賢詩集』国文社よりその「あとがき」を部分引用。

見ず知らずの作者から私家版『亡郷歌』を送りつけられた『言語にとって美とはなにか』の著者[吉本隆明]は、すぐさま葉書で感想を返してこられたのであるが、箇条書きふうにしたためられたその手短かな評言は、私をして、二、三日茫然と過させるほどの魔力をもつものであった。
北川透『詩的スクランブルへ〜言葉に望みを託すということ』思潮社 

創刊号の後記で彼は《「試行」はここに、いかなる既成の思想、文化運動からも自立したところで創刊される》と書いている。…わたしは多くの寄稿者たち、特にその長編評論の幾つかにすぐれた達成があったことを忘れているわけではないが、まず何よりも「試行」は、吉本隆明の思想の砦だったことを思い返すのである。 





 

ログインすると、残り50件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

<吉本隆明・戦後最大の思想家> 更新情報

<吉本隆明・戦後最大の思想家>のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング