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ホワイトヘッドコミュのホワイトヘッドと廣松渉

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ホワイトヘッドのプロセス哲学と廣松渉の事的世界観って、一見、よく似ている感じがしますが、比較研究はされているのでしょうか?
どちらも仏教哲学や西田哲学(ホワイトヘッドの場合)と比較されることはありますが、この両者を直接比較した本というのは見たことがない気がします。
廣松氏の場合、マルクス解釈の物象化論の基盤となる共同主観性の哲学が、仏教的な世界観とアナロジカルだという話ですから、ホワイトヘッドとは出発点がまったく異なり、相対性理論や量子論に関する科学哲学から導き出された両者の結論部分が偶然似ているだけなんでしょうけど、そういった部分、例えば認識論の比較研究もできそうに思えるのですが…まるで見当違いな話なのでしょうか。

コメント(11)

こんにちは。

個体という実体はなく環境との緊張関係だけがあるとするフロイトや、素粒子という点粒子はスピンネットワークという構造の結節点にすぎないとするペンローズは、実体論から関係論へというパラダイムチェンジであるという意味で、実存主義から構造主義へというレヴィ=ストロースと共通の志向を読み取ることができるものだと僕は思います。

もちろん構造主義やポスト構造主義の思想的源泉と見なされてきたハイデガーの名詞から動詞へというパラダイムシフトも、そこに付け加えてもいいと僕は考えています。

ハイデガーの世界内存在の概念は、自分という名詞的なモノも世界という名詞的なモノもなく、あるのは自分と世界の動詞的な関係だけだ、という考え方だからです。

名詞が「〜というモノ」で動詞が「〜するコト」であるとすればモノ的世界観からコト的世界観へという廣松渉も、フロイトやペンローズやレヴィ=ストロースやハイデガーと、一連のものとして捉え得る思想家としていいと思います。

名詞が主語で動詞が述語だとすれば、まず物があってついでそれが動く、というふうに、主語について述べる判断は成り立たない、とする西田幾多郎も、「運動はある。運動する運動体はない。変化はある。不変化的対象はない。」と説くベルクソンも、実在は過程であるとするホワイトヘッドも、以上の思想家たちの思想と重なり合うものと見ていいと思います。

ただし、廣松渉は、ホワイトヘッドと違い、すべての物に心があるとする、土着のアニミズムと習合した仏教や、華厳経などを拠り所とする仏教とは、相容れないと思いますけど、仏教における心識説で言えば唯識説となら親近性が高そうですね。

脳以前である最初からすべての物に心はあるとするホワイトヘッドにとっては、廣松渉と違い、人間だけが主観であるのでなく、すべての観測対象が同時に観測主体なので、相互作用全般が観測し合う行為であるがゆえに、観測が世界を生み出しているとする主観的観念論と、人間の観測以前から世界はあるとする客観的観念論が、両立するような、統一として、ホワイトヘッドがプラトン主義を標榜したのに対して、廣松渉は、個人唯識や人々唯識という用語で唯識説が説明しているように、人間の数だけしか世界はないとする西洋近代的な人間中心主義に囚われていた、という違いは、あると思います。

ただし、主客の統一というスローガンを打ち出しながらも、主観主義と、それが必然的に陥る独我論を回避するための隠れ客観主義を、取っ替え引っ替えする、すり替えに、終始していた、廣松渉は、主客の二項対立の乗り越えというおのれのスローガンに反する形而上学である唯識説は、表向きは首肯しかねていたのだろうとは思います。
>>[1]

コメント、ありがとうございます。

>廣松渉は、ホワイトヘッドと違い、すべての物に心があるとする、土着のアニミズムと習合した仏教や、華厳経などを拠り所とする仏教とは、相容れないと思いますけど、仏教における心識説で言えば唯識説となら親近性が高そうですね。

確かに、廣松はホワイトヘッドみたいに、「すべての物に心がある」という結論までは行ってませんよね。

ただ、

廣松渉, 吉田宏晢『仏教と事的世界観』(朝日出版社 エピステーメー叢書 1979年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8C16Y/
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51635168.html
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/429151ce49a2bafdb1341a9a4ba86d39

※吉田 宏晢(よしだ こうせき/ひろあき、1934年2月25日[1] - )は、日本の仏教学者で、真言宗の僧侶、大正大学名誉教授、川崎大師教学研究所相談役。真言宗智山派菩提院結衆、集議。埼玉県本庄市栗崎の宥勝寺住職。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%8F%E6%99%A2&oldid=57217368

という対談本があるくらいですから、廣松自身は仏教との親近性を意識していたのではないでしょうか。


>廣松渉は、個人唯識や人々唯識という用語で唯識説が説明しているように、人間の数だけしか世界はないとする西洋近代的な人間中心主義に囚われていた(のではないか)

なるほど。


>(廣松渉は)主客の統一というスローガンを打ち出しながらも、主観主義と、それが必然的に陥る独我論を回避するための隠れ客観主義を、取っ替え引っ替えする、すり替えに、終始していた

松ぼっくりさんの見解では、そうなるんですね。
僕は疎いのですが、これは他の哲学研究者の批判的見解でもあるのでしょうか?
お手数ですが、この部分、もう少し詳しく説明していただけると助かります。



【廣松哲学と仏教関連の資料】

もの・こと・ことば:廣松渉の事的世界観|知の快楽 - 東京を描く
http://philosophy.hix05.com/Japanese/Hiromatsu/hiromatsu16.koto.html
唯識哲学と廣松哲学についての一考察と事的世界観|国際秘密力研究 2015/09/14
http://kokuhiken.exblog.jp/24679638/
木村清孝『華厳経をよむ』(NHKライブラリー 1997年)より|劇場国家にっぽん(岩井國臣)
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kegon02.html
カテゴリー:廣松哲学|母系社会研究会blog
http://blogs.yahoo.co.jp/icbm2629/folder/1048053.html
【共同主観性】廣松渉【事的世界観】
http://itest.2ch.net/awabi/test/read.cgi/philo/1326274280



>>[2]

ホワイトヘッドの有機体の哲学においては最初からすべての物が有機体という観測主体であるのに対して、廣松渉の相互主観性の哲学にとっては地球上に38億年前に誕生した者以外は有機体という観測主体ではないですからね。

廣松渉の説からは38億年前の主観の成立以前に地球は存在していなかったという結論が導かれます。

ところが、地質学でも考古学でも、45億年前から地球は存在していたとされています。

そればかりでなく、宇宙論によれば、138億年前から宇宙は存在していました。

以上の科学的な諸事実との矛盾を、糊塗するために、廣松渉は、相互主観性の哲学を、隠れ客観主義にすり替えるわけです。

単なる客観主義にでなしに、あくまでも隠れ客観主義なのは、主客の二項対立図式の超克というスローガンを掲げている以上は、二項対立図式を前提とした上で二項のうちの一項を優位項としてもう一項を劣位項とする客観主義を表立って標榜することはできないからです。

したがって、科学的な諸事実との矛盾に突き当たったときだけは隠れ客観主義へとこっそり転向して、表向きは相互主観性の哲学を打ち出していた、という意味で、思想的立場の取っ替え引っ替えに終始していたわけです。

それに、相互主観性の哲学が自我以外に他我の存在も認めるからには、外界の中にしか他者は存在しないので、外界を客観的な存在として認めることを前提にしなければ独我論に陥ります。

したがって、結局のところは、廣松渉の相互主観性の哲学というのは羊頭狗肉で、正体は、独我論回避のための隠れ客観主義だった、と僕は考えています。
>>[3]

ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から落とした石や、ニュートンが見た木から落ちるリンゴは、地球の万有引力に引っ張られ続けて、1秒間にgメートル毎秒だけ加速するので、落ち始めてから1秒後の速度はgで2秒後の速度は2gで3秒後の速度は3gになるわけです。

たとえば、1秒後から1+h秒後までの平均速度は、hが正の数ならばgより大きく、hが負の数ならばgより小さくなります。

hに0でない値を取らせながらhを0に限りなく近付けていくと平均速度は限りなくgに近付いていくのですけど、h=0にならない限りは平均速度は瞬間速度にはなりません。

hの正負に関わらずhが0でない値を取りながら0に限りなく近付けば平均速度はgに限りなく近付くという前後関係と落下速度の変化は連続的であるという観察事実とから、h=0のときの瞬間速度は0/0=gであることが明らかになるわけですけど、この式は、分子の0に分母の0のg倍の大きさがあることを、意味します。

ここに、大きさがない0に大きさがあるという矛盾があるわけです。

このような、大きさがない0に大きさがあるという矛盾を、無限小と言い、無限小を無限小で割った分数値0/0を微分値と言います。

2秒後の瞬間速度は0/0=2gで3秒後の瞬間速度は0/0=3gだから、同じ0/0の大きさが2倍3倍…と同じでなくなってしまう、という矛盾も、微分値は内包しているわけですけど、微分というのは微小な増分のことで、dという記号が次に書く量の微小な増分を表すとすれば、時間tの連続的な経過は、t→t+dt→t+dt+dt→t+dt+dt+dt→…というふうに書き表されます。

ここで、もしもdt=0に大きさがないとすれば、時間は流れることができず、現実に反して世界は不変不動の静止空間にとどまることになってしまうので、0に大きさがあるという矛盾を仮定して初めて現実の運動を説明できるという意味で、「運動は矛盾である」とヘーゲルは言いました。

つまり、現時点0というモノがあるのでなく、あるのは現在がおのれを異化して過去になるコトと現在が未来を同化しておのれにするコト、つまりプロセスだけです。

プロセス神学は、まず物があってついでそれが動くというコトがあるのではない、ということを、言い換えれば、現在という実体はなく過去と未来の関係だけがある、ということを、言い立ています。

まず動くというコトがあって、ついで矛盾を許さない数学という営みがそれを物象化して捉えるのです。
管理人NecさんとのQ&Aより。


Necさん


ホワイトヘッドと廣松渉の近さはしばしば指摘されていますし、論文もあったと思います。

特に、ホワイトヘッド学会会員の塩谷賢さんという方は、東大の数学科出身ですが、廣松渉の哲学を継承している方です。







塩谷賢(しおたに けん、1962年9月27日 - )は、日本の哲学者。東京大学理学部数学科卒。厚生省(当時)に勤務したのち、東京大学大学院総合文化研究科(科学史科学哲学専攻)に進学、廣松渉に師事した。同大学博士課程単位取得退学[1]。
日本学術振興会研究員、千葉大学リサーチアソシエイト[2]などを経て、法政大学(「科学哲学」[3])、早稲田大学(「哲学表現基礎論」[4])非常勤講師を務めるほか、中島義道が主宰する哲学塾カントでも教壇に立つ[5]。
早稲田大学郡司ペギオ幸夫研究室セミナー係[6]。
日本ホワイトヘッド・プロセス学会会計監事[7]。
専門は科学哲学、時間論[8]。https://www.youtube.com/watch?v=jGW4CLlFnS4
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A1%A9%E8%B0%B7%E8%B3%A2&oldid=59881482


塩谷賢bot
@shiotani_bot
塩谷賢さん関連の非公式botです。
さまざまな講義の簡単なまとめを当アカウント上で更新中。
哲学塾カント( http://gido.ph/ )@笹塚で「塩谷賢の哲学道場」(月1回)。
2017年度、早稲田大学で「哲学表現基礎論」を開講予定。中の人→ 太田和彦 https://twitter.com/otakazu
http://siotani.net
※全面リニューアルのため、2013年3月31日をもって一時閉鎖。再開の目途が立ち次第、トップページとTwitterアカウントで広報。
https://twitter.com/shiotani_bot

無とは数理科学ではプラスマイナスゼロのことで、無がプラスの存在とマイナスの存在に自己分裂することによって宇宙は生まれたとするビッグバン説によれば、運動する物質がプラスエネルギーを持っているのに対して膨張する空間がマイナスエネルギーを持っていて、無というエネルギープラスマイナスゼロから生まれた宇宙のエネルギーはエネルギー保存則に従って合計プラスマイナスゼロのままに保たれているのだそうです。
宇宙というマクロの領域のみならず、素粒子というミクロの領域においても、何も無い真空から、プラスの電荷の粒子と、マイナスの電荷の反粒子が、対生成しては、電気的引力で引かれ合って対消滅しているのだそうです。
プラスを陽性と、マイナスを陰性と、漢字に書き換えることができるので、陰陽が入り混じった未分化な混沌という一元が再び一つになろうとして努力する陰陽二元へと分化したことによって、この世は創られた、とする、古代中国の創世神話は、現代物理学が論理によって後付けた結論を直感によって先取りしていたものである、と考えていいと思います。
脳の視覚野を損傷した患者は、その程度の進行に応じて、まず七色が四色程度に、ついで白黒二色に、しかるのち灰一色に、脱分化するのですが、人が死ぬということが視覚野だけでなく脳全体が機能しなくなることによって色だけでなく心という意味構造全体の分化が未分化へ退行することだとすれば、灰の内に白も黒も混在しているように、人が死んで帰する無の内に存在は内蔵されていることになるから、もしも廣松渉が脳にしか心は無いというふうに考えていたのだとしてそれに対してホワイトヘッドが脳以前である最初からすべての物に心は存在するということを言っているのだとしても、廣松渉の言い分はホワイトヘッドと相反しない、ということになります。
僕は思考が頑なで、無いということは有るということと相反しない、ということに、思い至っていながらも、そのことの廣松哲学の理解への応用が利かなくて、曲解に基づく批判をしてしまったことに、やっと今、気付いて、恥じているところです。
もしかしたらこのトピを見ていたかもしれない廣松ファンの皆様には、お詫びして、訂正します。


CiNii Articlesで「ホワイトヘッド 廣松渉」で「論文検索」してみましたが、ヒットしませんでした。
http://ci.nii.ac.jp
※電子図書館(NII-ELS)の事業は2017年3月頃に終了したようですが、現在も検索はできるようです。

ちなみに、「全文検索」でヒットしたのは、次の2件でした。

・概念としての文学 : 起源における東西詩学の伝統の相違をめぐって
テレングト アイトル
年報新人文学 6, 42-131, 2009-12-31
CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ

・情報の身体性(2)(鎌田信夫名誉教授就任記念号)
小和田 正
経営情報学部論集 22(1/2), 245-253, 2008-03
CiNii PDF - オープンアクセス

CiNii Articlesで「塩谷賢」で検索した結果です。
http://urx.blue/FfT0

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