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☆創価学会とはなんざんしょ?★コミュの初めまして

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自分は学会3世です。妻と子供がいますがどちらも入会させていません。
そこで質問があります。
僕らの様に内部の人間と外部の人間が結婚した場合外部を入会させようとしたり、子どもが生まれた直後に子どもの入会をさせようとする事って良くあると思うのですが、そういった方は一体どういったつもりでそんな事をさせようとしているのでしょうか?

信仰をする気のない人間を家族だからという理由で入会させる意味がわからないです。

是非学会員の方に御意見を頂きたいので宜しくお願い致します。

コメント(106)

>64

私はこのコミュには新参者です。全てのレスとメンバーを掌握してる訳ではありません。

逆に何を伝えてもらいたいですか?
>69さん

そうですネ、このトピはがっちさんの・・。でしたネ。

退散しま〜すm(__)m
>やはり違うようです。

なるほど。これは簡単でいいですネ。
>αさんへ

> 普通に見れば「信仰体験は不要だ」となりますよ。
> 自分の発言を客観的に見る能力を身に着けてください。
> いちいち指摘するのは酷く面倒です。

ディベートの小手技ですな。(*^^)v
「いちいち指摘は面倒だから」
「普通ならば…」云々。

というより、反論不能ということになったということですか?

私の立場では、子供が成長する為には「信仰体験」もしくはそれに準ずる「実体験」は必須だと思っています。さもないと、俗に言う「甘ったれ坊ちゃん」が出来てしまう可能性は大です。

もちろん可能性を論じているわけですから、逆の可能性があることも否定はしません。

> 言わねば解りませんか?
> 「信仰体験」と「苦しい経験」です。

言わねばわからないのではありません。
相互の認識の確認ですよ。こういう議論では当たり前ではないですか。

互いに認識を確認しあうのは重要です。だから曖昧にするのは危険。勝手な解釈や曲解、中には意図的に行うような下衆な人間もおりますからね。
よって確認する意味で尋ねたのです。さもないと「口先だけの誹謗中傷」に陥りますから。

…で、その「双方」ですが、実質的には変わりはないと思います。なぜなら、「信仰体験」というもの自体、「苦しい経験」に他ならないからです。苦しむから、そこから逃げ出したいと考えたり、それを自分の中で解決して乗り越えようとしたりするわけですよね。
ただ、「信仰体験」の場合、後者で先達たちが解決した「手法」の゜ひとつとして「宗教」があり、それを使ったというだけの話です。

> 子供は実験台ではありませんよ。
> そんな考えの人間に教育を語る資格はありません。
> 問題は「どれだけ確率を上げられるか」です。

でも結局はその親からすれば、どのように育てるかは子供をみて育てるしかないわけで、確率論としてというより、頼りになるのは親自身の経験でしかないのではないですか?

だから「親」として、自ら信じる「宗教」が子供にとって「良い」と確信できるならば、たとえ、子ども自身が嫌っていたとしても「強制」してやらせることが在ってもいいし、最終的には子供が自我を持ち、判断できるようになってから「やる」か「やらない」か判断させればいいことだと思うんですよ。

貴方は「教育を語る資格はない」と仰せですが、そんなにすぐ一般化して教育云々を言い切れるとはたいしたお方ですな。なにかとすぐ「一般化」されるようですが、そういうのを「客観」とカン違いされてはいませんか。

人間はモノではない。パチンコの玉の形状を云々するような「確率論一本やり」で教育を語るのもまた、おかしいと思わなくてはならないと思いますがね。

パチンコの玉に宿る「命」と人間に宿っている「命」と同等視しているような考え方には賛同できませんからね。

> 「可能性があるだけ」ならば「適している」とはいえません。
> 99%だろうが0.000001%だろうが「可能性」は「あります」から。
> 「蓋然性があるかどうか」を論じないなら意味がありません。

だったならば具体的科学的統計値をもって示してください。貴方は自分の経験値をすぐ一般化して論じていらっしゃるようですから、そういう論じ方を徹底なさるのならばまず、自ら持って示すのが筋でしょう。

諺にも「まず隗より始めよ」とありますからね。

> 「別に親を優先することが悪いとは言わないが、結果の責任は取れ」と言ったのです。
> 責任が取れるのならば強制に問題はありません。
> 小中学校に行かせることの責任すら取れないとするなら、親失格です。
> 子供を産んだことを死んで詫びなさい。
> 下手すれば、施設の方が幸せでしょうから。

何の話をしてます?
親が自ら生んだ子の成長に「責任」を取るのは当たり前の話ですよ。
それを殊更に強調するところを見ると、失礼ながら貴方個人の経験がそういわせているように思えますな。

いうなれば、
「こんな私になってしまった責任を取れ。」
と実際、親に言い続けているような。

子供の教育は親の権利でもあり、同時に義務でもあります。その「権利」の中に、たとえば「子供を学会の庭で育てたい」と思うことがあってもいい。私はむしろ、自分が本当に「信じている」ならば子供は学会に預けるべきだと思う。それが言いたいだけです。

> 「当然」ではありません。
> 「理想」ですよ、それは。
> 子供の特性を把握できる親なんて、滅多にいないでしょうから。

「理想」ならば、其れに一歩でも近づくように努力をするのが「前向きな生き方」ではないでしょうか。「理想なんて追いつけないものだ」というニヒリズムこそ嫌悪すべき思想だと思うんですがね。

ニヒリズムをもった親に育てられた子供はやはりむ「ニヒリズム」に陥りやすいですよ。「子供の特性を把握できる親なんて居ない」と考える暇があるならば、自分が其れになってやろうという努力をすべきであると私は考えますね。

私はそうありたいと願ってますが…残念ながら未だ縁にめぐり合えず、独身でいます。

> 「わがままな親の駄々」ほど子供の成長を阻害するものもありません。
> その判断すらできないと言うのであれば、「できの悪い親」のレッテルを貼られても仕方ありません。

わがままな子供の話しをしているのにわがままな親に話を振る意味がどこにありますかね?

やっぱりαさんの実体験がそういう言葉に出ているのでしょうか?

無意味に何でもかんでも「強制」させたり、逆に「阻害」させたりする親ならば「わがまま」と評されるのもやむを得ませんが、子供のことを考えて我が信ずる道に導きたく、学会の未来部にわが子を預けるのは「わがまま」には入らないでしょう。

> 誤魔化しとしか見えないならそれは思考放棄です。
> 証明は面倒なので省略しますけど。
> どうせ貴方は読まないでしょうし。

ほら、ここでも肝心なことは「どうせ読まないし」だとか「証明はめんどくさい」などと、さも本当は「出来る」というようなことを思わせておいて、適当な言い訳を言ってその場を濁す。それをゴマカシというのですよ。

わかっていらっしゃいますか?

> どんなものであれ、「当面の困難」は超えられます。
> その後どんな問題が出るかは知ったこっちゃありませんが。
> そも、自分の生き方を真剣に考えるような人間であれば宗教などに頼ることはしないでしょうけどね。

そうではないと思いますよ。
こと仏法に関して言えば、やっぱりたとえ仏教に触れていなくても、たとえ他の宗徒であったにしても、困難を克服し何かを成し遂げた人物の思想と言うのは、仏法に通じるものがあります。

そもそも「宗教にたよるのは弱者」ということ自体、私はそこに人間の慢心を見る思いがします。「人間は常に未完成である」ということを知れば、何かそこに一本筋を通ったものを求めるのが普通です。でも「自分はそうじゃない。筋なんて要らない。」と思うは、その「人間は常に未完成である」を信じていないか、或いは「自分は完成している」と思い込んでいるかのどちらかだと思いますね。

> 自己で導き出したものと他人の受け売り。
> どちらの方がどれくらい尊いかは、言うまでもないでしょう?

単なる受け売りとは違いますよ。そこに「消化」という過程がないとダメです。
信心をある時期「離れる」「飛び出す」というのはそういう意味では「必要悪」ともいえます。

前回も弟の話をしましたが、彼の場合も「退転宣言」をして信心から飛び出していくという経験が「消化」の手助けをしたといえると思いますよ。

子供のときに「信心」を経験させるというのは、そういう意味でも重要なことだと思います。言うなれば「おたふくかぜ」みたいなもの。年を取れば取るほど「消化」にはエネルギーを必要とします。病気ならば「重症」になるようなもの。

だから、小さい頃から「信仰体験」を積み、そのなかで「消化」されれば其れはそれで理想的ですが、やっぱり多少なりとも「消化不良」をおこすのはやむをえないと思います。それを「軽く」済ませるためには「純真」な子供の頃に、その「過程」を経験させることが一番です。だから、私は「親が信じているならば子供にも早いうちに信仰につけてやったほうがいい」というんですよ。

受け売りだけならカラスだって九官鳥だってすることです。

> なぞってその経験を把握しきれる人間はまずいませんよ。
> 普通の人間ならば、できて1割以下。
> 特別それに特性がある人間でも、7割を超えることは出来ません。
> 質が全然違います。

「なぞる」というのは言葉の「あや」だったんですけど。
貴方が示したそのデーター(一割、七割)は具体的にどこから出てきたデーターですか?

自分が実測なされたんですかね。それを使って「反論」したのではないのならばその反論に「意味」があるのですかな?

> ええ。同時に、その判断を他人任せにしてしまうものは全員正しい道から外れていることも。
> 尤も、何を以って正しいとするかにも寄りますがね。
> ただ、盲目的なものでも構わないから幸福であればそれでいいというなら他人任せでも問題ありませんけどね。

べつに「盲目的に信じろ」といった覚えはないし、「自ら正しいと信じるならば」という前提条件も提示済みです。その上で他人に任せることがダメと言うならば、現在の社会における「教育システム」さえも否定しかねない考え方ですね。(*^^)v


> ではそれを理解すればアインシュタインの経験を承継できますか?
> 応用はできますか?できるならどこまで?
>
> これは「科学」の問題ですから問題は表面化しませんけど。
> 人生経験であれば、その問題は酷く大きなものになりますよ。

そりゃ当然の話です。
だから学会は「教えの正邪」に敏感なんじゃありませんか。
とくに「仏教」の教義における批判に容赦がないのも、貴方の仰るとおり、こと人生経験にかかわることだから「曖昧化」することは厳に戒めねばならない。

少なくとも学会が他宗(特に仏教系)批判をする理由は、これでお分かりいただけるものと信じますがいかがですか?

だから、子供の頃から「智慧をつける」「知性を磨く」「困難に打ち勝つ」ことをおしえるのが大事なのだと、学会の未来部では考えているわけです。教義云々なんかよりも。
教義なんてある程度大人になってからも勉強できますからね。

> 随分と曖昧ですね。
> 信じるものが自分や他人の場合は?
> また、「科学」などの場合は?

曖昧と言うか「抽象的」なのは認めますよ。なにしろ、狭義でいう「信仰体験」は信仰をもって行われますが、広義に捉えるならば「生活」そのものが信仰体験の一部であるとも言えますからね。

結果的に「信仰」に直結する機縁となる「生活現象」があるならば、信仰する以前であれ「信仰体験の一分」となることは、少なくとも我々には常識的なことですから。

「自分」であっても「科学」であっても「体験」という意味では同じ「信仰体験」としてあつかえるのでは?

> 苦痛が軽減されますから。
> 宗教は全ての苦痛を軽減する。
> 前にも書いたと思ったんですけどね。

「宗教は麻薬」といいたいのですかね。
でもそれは偏った見方であると申しあげておきます。
苦痛が軽減されるだけではなく、「苦を楽に転換する」ということもありますから。


> 考えられません。
> 「助長される要素」がありませんから。

貴方はそう思うかもしれませんが、わたしはそう思いません。「信仰」を通して世の中の理を悟り、其れに応じて自身の成長にも十分に益すると思っています。

事実そうでなければ、海苔屋の倅が世界の著名人と対談できたり、世界各国の諸機関から200もの顕彰を受けたりできるはずがない。わたしはそう思いますな。

> >宗教とは「幻想」なんですかね?
>
> ええ。証明可能ですが、聞きたいですか?
> 聞く意志はありますか?
> 理解する能力はありますか?
> 全てYESと答えるなら、証明して見せますけど。
>

興味がありますな。
自分勝手な妄想でなければ理解可能だと信じますが。

> 全ての宗教の共通項を把握し、それを否定してしまえるなら証明は容易です。
> 尤も、代償は大きいですが。

かなり宗教を極められているのですな。
私は全ての宗教をきわめていませんから、共通項なんて思いもよりません。

たんなる「やらずぶったくり」論議ではないんですかね。(^◇^)

> ちょっとどころではありません。
> 天と地どころの差ではありませんよ。

ならば言わせて貰いますが、貴方の話は其れに近いですよ。
所謂「思い込み」です。

> 私と貴方の前回のレスを100回読み直してもう一度返答してください。
> それでもなお自分の発言の問題点が把握できないなら説明してあげますよ。
> それまでに把握できたなら途中でやめていいですけど。

すいませんがお願いします。<m(__)m>

> ほぅ?未来部担当とは一人につき一人がつくのですか。
> 私の頃とかなり変わりましたね。
> で?何%の人がそれができているのです。
> 大体でいいですから、答えてください。

だれが「一人に付く」と申しあげましたか?
私は「一人ひとりが大切だから人を問題にすべき」といったまで。
貴方のように「一括りの思い込み」で即「組織」に責任を持っていく考え方に賛同できないだけですよ。

私は私の経験以上の話をしてません。だから、貴方も貴方の経験通りの話をしてくださいな。互いに自分の経験以上の話をしたところで結果は無意味ですよ。

足が地に着いた議論になりませんからな。

その中でお互いに共通認識を深めていくところに、この議論の意義があるとみていますので。

> 貴方の言う「無宗教」とは違います。
> 彼らは貴方と違い「一般的な意味」で使用しているのですから。
>
> 解りますか?私は「貴方の言う無宗教の場合」を書いたのです。
> まず、「自称」の意味を国語辞書で調べてきてください。

では、その「自称・無宗教」の話をここでする意味は?
わたしは、宗教を持たない人間より「自称・無宗教」の人の方が、心の中に「律する」ものを持たないから危険だという意味で申しあげたまで。

本当に「宗教を持たない人間」というのが居るのかどうかは想像できないのでね。「自称」と冠言葉をつけたのはそういう意味からです。

> しかし、貴方はそれを自分で言って矛盾点に気づけないのですか?
> 「苦」を「楽」にしてしまうのなら、「苦しい経験」が手に入りません。
> 即ち、成長が阻害されるわけです。

矛盾のようにみえて矛盾ではないんですよ。(^◇^)

たとえば「山登り」を考えてくださいな。重い荷物(食料や道具)を背負い、汗水たらして頂上を目指しますよね。まるで「無限」に続くような坂道を登っているときはものすごい苦痛を登山者に味合わせますよね。
しかし、一旦頂上に立つと其れまでの苦痛もどこへやら。爽快な気分を味あわせてくれるのは間違いない事でしょう?
さらに、そこまでの行程が「苦しければ苦しいほど」頂上に立ったときの「爽快感」「達成感」はひとしおになるはずです。

逆に簡単に登れてしまう山だったならばそれほど「爽快感」「達成感」というのはない。まさに「苦」が「楽」に転じるとはそういうことです。

そして、その行程が「苦しいもの」であればあるほど、その山行によって「体力」や「智慧」が身につく。これは明確な「成長」ですよ。

甘い和菓子なんかをつくるときも「少々の塩」を隠し味として入れるのも「譬え」としては適格でないかなと。「塩味」がほんのりあるからこそ「砂糖の甘味」が引き立つのです。

諺でも「苦あれば楽あり」と申します。

表層的に「甘いものにしょっぱい味を入れるのは矛盾だ」と理屈をこねる人は居ますまい。和菓子の達人に「それは違うよ。」とあしらわれるのではないでしょうか。

やっぱり貴方の考え方は「表層的」ですね。

> 「運が良くない人間(=普通及び悪い)はそうはいかない」という事です。
> 表面しか読めないのですか、貴方は。

貴方こそ表面しか読んでいないでしょ?私の言い分を。
言えた義理ではないですな。

人の客観性を云々する以前に「行間を読む」ということをもう少しなされたらよいかと考えますが。

「行間の読めぬ」人に「文字でのコミュニケーション」は不適格です。

> 貴方と違い私の発言のほぼ全ては一定水準以上の論理に基づいています。
> 私は他人の受け売りではなく、自己で導き出した答えに則り動いていますから。
> 合理的な説明、ほぼ全ての点において可能ですよ。

と、口先だけでは言っている?

> では無意識ですか。
> 摩り替えないように「意識」してください。

なるべく注意いたしましょう。(^◇^)

> 三度目ですけど。「だから?」
> 二度目ですけど。「論点を摩り替えないでください」
> 私は「思考できない人間が多い」と書いた。
> 貴方は「いい人ばかりだ」と返答した。
> 「思考できる人=いい人」という方程式が成り立つならば問題はありません。
> しかし、成り立たないことはこのやり取りで証明済みです。
> 言いたいこと、わかりますか?
> 「返答になっていない、論点を摩り替えるな」です。

これは異なことを。
私は貴方の言わんとした「いい人=思考出来ない人」というテーゼに対して「いい人=思考できる人」も成り立つとアンチ・テーゼを示したまで。
それを「すり替え」と読むことは単に「言いがかり」ではないですかね?

それに証明といいますがそもそも「いい人=思考できない人」の証明がどこでなされていますか?読む限り自分の経験で思い込みを吐露したとしか見えません。証明の箇所を明示してください。

> 貴方はつながらないものを無理やりつなげようとする傾向がありますね。
> もう少し論理的になれないものですか?

偏向論理について来いとは無理な注文です。

> つまり、「二世には経験が足りない」という事です。
> それが「宗教の英才教育」とやらの欠点であるといえるでしょう。
> それも、致命的な。

だから、「させる必要がある」というのが議論の主題でしょ?
それを「強制だから」とか「親のわがまま」とか何とか言って教育否定しているのは貴方の方ではありませんか?


どうやら、もう少しで「共通認識」にまでいけそうですね。(^◇^)

> 「ちゃんと育てられた二世」は機会を奪われ、「正しく(=論理的に)検証すれば」必ず否定されるのです。
> 証明可能ですが、相手の言葉を聞きその上で考えるだけの意思はありますか?

貴方はどうも全て肝心なところで「証明可能です」といいつつ、「逃げている」ようにしかみえません。

本当に考えてます?たんに自分自身にカルトチックになって、やっているつもり、なしているつもりになって言葉を羅列してはいらっしゃいませんか?

どれだけ立派な「論理思考」を持っているのか知りませんが、少なくとも今までの発言をざっと概観させてもらえば、「表層的で思い込みの羅列」でしかありませんな。どこに真の「志向性をもつ言葉」があるのか、私は暗愚にして貴方の発言から読むことは出来ませんな。

無理は言いませんよ。いっそのこと止めたら?

ここまでならば貴方も恥をかかないで済むでしょうし、私もくだらない議論に付き合う手間が省けますから。

> 「一般論」を言っているのです。
> 確率の問題ですよ。
> ごく一部の例外を持ち出すことに意味はありません。
> 今回の話題は、普遍的に効果がなければならないものですから。

「一般的に強制されたものは嫌いになる」ということを何処かで証明してますか?
ま、仮にあったとしても私が「反証」として自分の経験から「好きになることだってある」と言っているわけですから。
それを自らの「証明」を「正」とし、私の経験を「傍」とすることさえも「証明」がされてません。たんに貴方の「思い込み」であり「自らの経験」からの偏見です。

其れこそ、ここまで一般化、普遍化なさるならば具体的データーを上げるべきです。

私は「反証」をあげました。ボールは貴方にあります。それだけは確認の為に申し上げて起きます。

> 十分な蓋然性は確保できると見てますけど?
> 蓋然性を否定できるならしてください。
> できないならごく一部の例外を持ち出すことはやめるように。

其れはあなたの見方でしょう。私は「即決め付ける」それ自体を否定している。それは自らの経験がそうだからだし、周囲の活動家にも多く見られた話だからです。(といっても学会内に40余年在籍しても、直接接触できる人間の数は、全体から見ればごく一部の人であるとの見方は否定できませんが)

その蓋然性を主張する貴方は何年間在籍して、どのくらいの人間がそうだったか実際に数字を出せますか?

私の場合は、神奈川県と埼玉県に所属しましたし、縁あって牙城会や創価班の同志たちとも話が出来ました。牙城会に入ったことによって年間40名ぐらいの内部と話が出来ましたし、会館も変わって他の地区の人たちとも交流できましたから、単純計算すれば、20年間牙城会在籍すれば延べ800名。さらに、地元や地元周辺の未来部担当として100名くらいの人たちと交流しましたからね。これは、活動家としては少ないほうです。なぜなら、私は役職は男子部副部長と壮年部ブロック長ですから、地元では近接地域しか知りません。圏、区及び分県、総県といった幹部になればもっと多くの人と交流できたでしょうがね。

貴方はどうなんですか?
統計学で言うところの「母体数」はどれほど保持されています?

また、経験された年数は?

その中でさえ、私のように「強制されたけど結果的に活動家なった」人はほとんどがそうでしたよ。逆に「自由にやらせてもらって活動家」になった人は少なかった。「強制的」と「好き嫌い」に関連性があるという意見には、私の経験からいっても納得できない部分があります。それでも「例外」なんですか?

> せめて相手の事を考えるという能力が欠如していなければまだ救いがあったんですがね。

相手のことを考えるがゆえに必死に勧める、ということもありますからなあ。

> 宗教から理想を取ったら腐敗した組織しか残りませんよ?
> 何のための宗教か、よく考えるようにと伝えてください。

現実と理想は、結局はバランスが重要です。
高い位置に飛び上がるときも、自分の今居る位置とこれから飛び上がろうとする位置を見比べるという行為を必ずしますよね。

理想ばかり追いかけると足元をすくわれる。現実ばかりを追い求めていても、向上はしないのです。そのバランスが重要なんであって「理想」を理想だと退ける行為も、「現実」も現実なんだからといってこだわっているのも「宗教」としては失格ですよ。

何の為の宗教かといえば「人間のため」というのが本筋ですよね。

> 貴方の基準の「多少」を教えていただきたいですね。
> そこが最も重大な問題なのですから。

それは画一的には申しあげられない部分ですよ。其れこそ、ケースバイケースで、一番難しいところですから。
ただ、個人的には「仏の顔も三度まで」ではないですけど、三回誘ってダメならばそれ以上は別の機会を待つ、というのが適当と思っています。

> 500回読み直してください。
> あの問いに対し、そのような返答は在り得ません。
> 500回読み直しそれでもミスが理解できないようなら貴方との議論を諦めます。
> 貴方は議論するに値しないということが証明されますから。
> 言葉が通じない輩は議論するに値しないと考えます。

私はありのままに答えたつもりですよ。一世に比べれば、問題が大きいのも、功徳が大きいのも二世三世だというつもりでね。

貴方は結局、自分の思い込みと、少しの自己正当化が含まれている考え方をなさってますね。元から「相手と胸襟を開いて話し合う」というより、自分の主義主張を通して通じないならば話をやめるという、そういう姿勢を感じます。

まあ、これは私の経験で言うのですが、支部幹部、地区幹部の子供たちで、信心を嫌って担当者に会わない、あっても理屈をこねてわがままや不平不満をぶちまけているのと、非常に似通った「話しっぷり」に感じています。

最後には親に「俺は決して担当者には会わないぞ」と当り散らしてしまうような子供。

なんか、そのような感じがしてます。

私から話をやめることはしませんからご安心を。なるべく、貴方の話にあわせてまいる所存ですが、貴方が話したくないというのなら一方的に止めていただいても結構です。私は止める権限もなければ、意思もありませんので。

ご自由に、と申しあげるだけですよ。
>Lさん±0さんへ

返事が遅れました。申し訳ありません。
平日は何かと忙しいもので、なかなかその他の発言に目が届かないものですから。

> 古い発言に対しての疑問ですが、信心してる人はしてない人との差が「明確」に出るとおっしゃいましたがどんな差が出るのでしょうか?
>
> 権力者を非難し、民衆の味方であるような事を言う創価学会の会員が、何故信心してない人を差別し、見下すような発言をするのかが理解できません。
>
> 信心している人間はそんなに優れているのですか?

優れている、優れていないという意味ではありません。
歴然とした「差」が出来るということが経験的にわかってしまうということです。

そこに差別する意思なんて毛頭ありませんよ。

だって、「機会」は平等にあるわけですから。「信心」をするのも自由。しないのも自由。ただ、結果的に「差」が出来てしまう。

これは私が40余年入信して感じている「どうしようもない現実感覚」だといえます。

まあ、譬えは極端ですが「宝くじ」みたいなものですかな。

たまたま人に勧められて買ってみた「宝くじ」が、大当たりして一財産なすことができた。隣の人は勧められても「当たるわけない」と言う理由で買わなかった。結果的に一財産儲けた人が隣人に「買えば当たったかもしれないね」と言った時、「おまえは俺を差別しているのか」と逆ギレしている。

「買う」ことがあれば平等に「当たる可能性」はあるんですけど、結果的に「差」が生じてしまうのはどうしようもないわけですよ。

ここで「買っても当たらない人が居る」という「突っ込みどころ」はありますが、それこそそれは「宝くじ」の宿命ってことで理解してくださいな。(*^^)v

>それと、幼い時の体験うんぬんの話を伊能忠敬の例で説明していますが、伊能忠敬は
>「天文学」に対し自発的に興味を持ったのですか?それとも「誰かに無理やり」覚えさ
>せられたのですか?

私は「自発的」だったと信じたいです。しかし、結果として「測量」の道に入ったのは「師匠からの強い勧め」が在ったと聞いていますが。

> がっち=ミカドさんは、自発的に妻や子供が学会に入りたいといわないと限り、入信さ>せないと言っています。

それはそれで「それなりの見識」と理解はしますが、私個人の中では納得できる考え方でないと思っています。しかし、選択の自由は「がっち=ミカド」さんにあるので、自分の考えかたを押し付けるマネはすべきでないとも思っていますので、やんわりと「したほうがいいよ」ぐらいなことしか言わなかったんですよ。

> まぁ、つまりは伊能忠敬が無理やり「天文学」を教え込まれたのであれば、舞雨 寛さ
>んのたとえ話は成立するけど、そうでなく自発的に興味を持ったのであればとんちんかん
>な事を言ってる事になりますよ。

伊能忠敬の例はあくまでも「子供のころからの思い」を抱き続け、隠居の身になってからその夢を実現させた「例」としてあげたまでです。幼時体験の重要性を主張せんがために例としてあげたまでで、強制かどうかというのは二の次です。
>舞雨 寛さん

あなたのたとえを用いれば
その宝くじが「イカサマ」だと、親に買わされた人たちがいっぱい文句言ってるんだけど、彼らに言ってあげる事は何もないのですか?
それとも彼らの不満を聞く耳は40余年信仰してても持てないのですか?ここで理屈並べるほうが大事なのでしょうか?

アンチ化していようと脱会希望者でも学会員に変わりはなくて、あなたと同じ道にある人たち、しかもおそらく将来のある若い人たちですよ。
そしてあなたの言う「重要な」幼児体験をした人たちです。
あなたがいくらここで自前の理論を主張しても、彼らのような存在が、現実にはそこに嘘や矛盾があることを明らかにしているわけです。

彼らの言うことに耳を向けようと知らん振りしようとそれは部外者である僕らにはどうでもいいことですが、自分達への不満や都合の悪い事実に目を背けていては、人としての向上などいくら口では言えても現実には有り得ないですよ。
当然学会だってそんなんじゃ批判され続けるし、あなた方の理想論も空虚なものにしか思えませんよね。
>かーつ殿

> その宝くじが「イカサマ」だと、親に買わされた人たちがいっぱい文句言ってるんだけど、彼らに言ってあげる事は何もないのですか?
> それとも彼らの不満を聞く耳は40余年信仰してても持てないのですか?ここで理屈並べるほうが大事なのでしょうか?

だまされたといってもどういうだまされ方をしたのか私にはわからないし。
私は少なくとも「親」から「強制」されたのは其れこそ「小学生」の一時期でしかない。

さらに言えば、それをみずから「検証」し、その結果として「信ずるを足るもの」として現在の「宗教」すなわち、学会に在籍しているつもりですよ。

不平不満分子はどのような組織でもあることだし、その不満を聞いて欲しいと思うのであるなら聞いてやる耳くらいは持ちますが、ただ、不平不満の垂れ流しをわざわざ汲み取ってまで世話をする義理も意思も持っていない。

それは学会内だって同じですよ。自ら解決しようと言う意思と行動をもったものには真摯になれますが、ただ同じ位置に居て駄々をこねているような人間までは面倒は見切れないということですな。

要は「自ら助けるものだけを助ける」ってやつ?

だれも「御本尊様」の前に生の秋刀魚を置いて、「焼いてくれ」って祈ったところで「焼けない」のとおなじですなあ。

「焼けて欲しいならせめて、七輪でもオーブンでもいい。「焼こう」という努力をしなきゃね。


> アンチ化していようと脱会希望者でも学会員に変わりはなくて、あなたと同じ道にある人たち、しかもおそらく将来のある若い人たちですよ。
> そしてあなたの言う「重要な」幼児体験をした人たちです。
> あなたがいくらここで自前の理論を主張しても、彼らのような存在が、現実にはそこに嘘や矛盾があることを明らかにしているわけです。

わたしも凡夫(まだ悟りの開けぬ衆生)のひとりですから、同じ同志であっても現在不平不満の境界にあること自体、彼らにとっては「必要悪」な場合も考えられますし、どういう状況なのさえ分からなければ処置のしようもない事です。

矛盾なんていうのは学会のみではなく、一般社会にも普遍的にあるもの。その「矛盾」に対しても「理想と現実」のハザマで揺らぎつつも「生きていかねばならない」と四苦八苦するのは社会でも当たり前のことです。肝心なことは、今の自分に与えられた環境内で自分の「理想」と「現実」を如何に捉え、自分なりに消化して目的達成に向けて努力するかでしょう。

あえて言いますが、わたしは「外部」に対しては「寛大」であっても「内部」にあっては「厳格であるべし」と思っていますので、相手が「内部」であれば「言いづらい」「聞きづらい」事も平気で言います。但し、それはあくまでも「一対一の対話」の中でのみ。公然とは言いませんから。

だから、もし本当に自ら考えて「自己解決をしたい」と考えるならば、こういう場所でなく「メール」なり何なりして連絡してくだされば、できるだけのことはさせてもらいますよ。

しかし、こういう公然の場では「限定」されますのでそれは承知していただきたいと思いますな。
このトピでは立て主のガッツさんが「自分の妻子を入信させることで離婚問題にまで発展する可能性が大なのに、何ゆえに学会は成果にこだわるのか?」の活動の趣旨や意味を知りたい、ていうトピですよネ?

私は思う。ムリに入会させるべきではない。

トピ主の地元に質問出来る環境や信頼がおける人、そういう人がいないなら学会本部に指導を受けに行く際にこう言うといいかも。「私には勝負感がありません。従って単に数という成果を追求することは出来ません。これは間違っているのですか?」と。
自由だと思いますよ。信教の自由。
僕は先祖代々浄土真宗(念仏)でした。
でも、幸せではなかったので法華経に改宗し母も折伏しました。
 自分がやってみてよかったから創価学会に入りました。
いいと思ったことをすればいいと思いますよ。
私が思うにシンパさんは信心の確信を持っている。それに対してアンチさんにはそれが無い。
これを基本ベースにしながら考えてみると意見の違いや趣旨を読み取ることができるのだろう、て思った。
宗教に所属することがアンチやシンパを決定するものでは決してない。
では、どうやってその確信を得るのか?
「タマゴが先かニワトリが先か」の理論になってしまう。
「ニワトリではない親が生んだタマゴ」
    ↓
「孵ったのがヒヨコ」つまりニワトリ。
この突然的な今までとは違う変化に波紋が生じてくる。

折伏をするのに「自分が幸せになってー、成仏したらサー、そしたらヤルからー、」とかってのは「いつ?」になるのかわかったもんじゃないし、そうはならない。
がっち=ミカドさんへ

始めまして、Nenzaと申します。
私はアンチ新興宗教なので、あなたが本当に聞きたい意見を申し上げることはできませんが、がっち=ミカドさんの、奥様やお子様に対して強引な入信勧誘をしないお考えは、立派なことだと思います。


さて、
親族を入信させることに関連して、創価学会会員の皆さんにお聞きしたいことがあります。創価学会会員諸氏の信条の根本的なことになるかも知れません。

では質問です。

創価学会は、檀家制度を否定したのではありませんか?
結婚や出生によって“家の宗教”に自動的・強制的に入信しなければならないと言うのは“檀家制度”とまったく同じだと思うのですが、いかがでしょうか?

ところで、創価学会の公式HPの「新会員のために」コーナーの「儀典について」の中の「形骸化した“葬式仏教”」では
日蓮正宗(創価学会は日蓮の正統でないとして“日顕宗”と呼んでいる)に対して、 “食法餓鬼”とまで言って、檀家制度を悪用していると批判した後、次のように書かれています。

「ところで檀家制度とは、人々を強制的に、いずれかの寺院の檀家として所属させた制度です。これにより当時の幕府は、人々の統治を容易にした訳です。寺院は檀家制度によって、檀家の葬儀や年忌法要などの儀礼で得られる供養を寺院経営の基盤とさせていったのです。」(ホームページより抜粋。)

私が強調したいのは、「檀家制度とは、人々を強制的に、いずれかの寺院の檀家として所属させた制度です。」との記述です。とくに「強制的に」というところですね。

繰り返します。
創価学会は、檀家制度を否定したのではありませんか?
結婚や出生によって“家の宗教”に自動的・強制的に入信しなければならないと言うのは“檀家制度”とまったく同じだと思うのですが、いかがでしょうか?


ちなみに、江戸幕府の行った宗教政策は、上記のような単純なものではありません。
檀家制度については、キリスト教信者(いわゆる隠れキリシタン)を探すため、いずれの仏教寺院の信者かを明らかにさせた結果です。創価学会の言い分の逆です。
と言っても、いずれかの仏教寺院の檀家として所属する義務が生じたのですから、結果は同じですけどね。
>αどの


>なるほど。やはり貴方は言葉を交わすに値しない。
>これで返答は打ち切らせてもらいますよ。
>「無学者、論に負けず」と言いますからね。
>貴方が言葉が通じるほどにまで成長できたとしたら、そのと
>きは別ですが。
>まずありえませんし。

了解です。

私も正直疲れた思いですので、貴方とのお話は止めて「冷却期間」を持ちたいと思います。

私の方も、これで「打ち切り」させてもらいます。
>舞雨 寛さん

悪いけど、僕がリンク張ったトピ、読みましたか?
駄々をこねている人は居ましたか?

せめてざっとでも読んでからレスして欲しいものです。


あと誰に限らずですが、ただでさえ長ったらしい書き込みに無駄な引用までくっつけてわかりづらい書き込みはできればご勘弁願いたいものです。
言いたい事が沢山あるのであろう事はわかりますが、
いちいち「>」は必要ないのでは?

昨夜仕事中に携帯でここを開いたのですが、瞬時に読む気をなくしました。
こういうものは読んでもらってこそ価値のあるものですから、読む側の事も少しはご配慮願えないものかと思います。
レスにせよ資料としての貼り付けは大いに結構。
そしてその素材や何かを吟味することも結構。
また、自分の持ち合わせている知識を披露するも結構。
そして己が何を言わんとするその相手を相手にすることも結構。

そして、レス内容でその人間性とその全てを見る見れる、これもまた大いに結構なことだ。
>89

>そして、レス内容でその人間性とその全てを見る見れる、
>これもまた大いに結構なことだ。

ほんと、そうだね。
>理数系と文学。そして法学部。
それってなかなかいいですねー♪

どんな意味かって?

それは御指摘の通りに私にとって自国語である「ニホンゴ」の勉強になるからです。

(o(^ー^)o)ワクワク
そですねー、エジプトでゼロを発見しなくても済みますから。
>前借りキングさん

なかなか意味深ですな。(*^^)v
>96

いえ、私は幼稚園児くらいの発言なので、αさんが「そんなシモジモの人と会話をする気にはなれない」て、なんか怒ってるみたいなんですけど・・?
>96 & 97

二人合わせての「非常に高度なお笑いネタか何か」ですか?
シュールな笑いに鈍感な人間にはさっぱり理解できません。
何にせよトピに関係ない話をするのなら他所でやって欲しいもんですね。
その気がなくても結果として場を荒らしてるのと同じ事になりますから。
> 前借りキングさん

いえいえ、所詮気位の高い人間は貴方の発言の「真意」を理解しようとはしないはずですから。

私の方からも「やめたほうがいいよ」と申しあげておきますよ。MSNのアンチサイトと一緒にしては、それこそ「失礼」ってモノでしょうから。あそこの手合いはいろんな意味でここ以上ですから、そちらでやるべきであり、ここではやるべきではないと思います。Lさん±0やかーつさんなどの反応は「ごく自然の反応」です。

かれらを揶揄する意味はないと思いますよ。>キングどの
はじめまして、元学会員です。どうぞよろしく。
>>[102]

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戸田城聖一家全員 創価学会脱会
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日蓮正宗法華講員の立場とそれ以外の方の
交流の場としてコミュを作りました。
あくまでも前向きに聞く耳を
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活用できればと思ってますので
そんな思いのある方はぜひご参加を
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