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蝦夷(えみし)コミュのエミシて何ですか?

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古代東北地方の住民を大和朝廷側でそう呼んだだけで、九州の隼人と同じ類だと思います。

アイヌ=エミシは人種的にも異なっており、違っていると思いますが?

コメント(37)

エミシとは何かについては、この本の前半で詳しく体系的に述べられています。
http://mixi.jp/view_item.pl?id=888391

ちょっと堅めですが、大変面白く読めました。
蝦夷(エミシ)とアイヌ
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-22.html

個人的な感想では、アテルイのころまでの蝦夷は現在のアイヌに
非常に近い集団だったと思ってます。

・お互い言葉が通じなかった。(通訳が必要だった)
・人名が和名ではないことが多い。(モレ、ウクパウ、ケアル・・・)
・東北北部にアイヌ語地名が数多く残されている。
・マタギの言葉にもアイヌ語と共通点が多い。(ワッカ、セッタなど)

ただ、前九年のころの安倍や清原は混血がかなり進んでいて倭人と
区別がつかなくなっていたと思います。(もちろん”純蝦夷”もまだ
いたでしょうが)
アニメもののけ姫に出てくるような異民族風な東北人て、せいぜい平安時代までですね。奥州藤原氏の骨格も当時の京都人と同じだと言いますし、エミシと言う言葉自体が関西人が東北人を差別する為の言葉ですね。
以前もどこかのビール会社の社長がそう言って、大顰蹙をかっておりました。

アイヌ人て、恐らく縄文人とも違うと思います。
縄文人などは刺青の習慣があったようですし、ただし、古代に東北地方に暮らしていたのは事実かもしれませんが。
アイヌにも刺青の風習ありましたけど…(^^;。
>ハカイダーさん

>以前もどこかのビール会社の社長がそう言って、大顰蹙をかっておりました。
サントリーの亡くなった会長ですね。
蝦夷と言おうとして熊襲と言ってしまい余計に怒りをかってしまったオチつきです。
発言からちょうど20年なのでもう忘れてもイイと思いますが、今でも怒ってる人は
いるとかいないとか。仙台球場でサントリービール扱ってないなんて話も。
はじめまして。

蝦夷もアイヌも倭人も色んな血が混ざってるので、「何々直系の子孫」とは言えないと思います。縄文文化は日本列島全体で共通するみたいですし。

 学会の通説では、北海道〜北東北で”続縄文文化”が栄えた後”擦文文化”となり、北海道ではオホーツク文化の影響も受けて、13世紀に”アイヌ文化”が確立した、とのことです。
 平安初期の北東北の”蝦夷”の習俗は続縄文文化が倭人文化の部分的影響を受けて成立したようです。無論、平泉藤原氏の時代には既に日本化が完成したようですが。
突然ですが失礼致します。

岩手のGOさま
蘇我蝦夷の名ですか。これは私も不思議に思っております。それであくまでも一つの説なのですが、これは(恐らく蘇我氏を滅ぼした藤原氏や天智天皇系の人々の意向で?)後世の記録の中でわざとこの字を使ったのではないかという説をどこかで読んだことがあります。
ご参考になれば幸いです。
1.の ハチタロスさんが書かれた本「古代蝦夷の英雄時代」をやっと入手し読んでみました。内容は日記にも書きましたが、次の通り。

先ず、蝦夷の読み方は「エミシ」である。
後でこれがなまって”エビス”になった。
”エゾ”という読みは古い時代にはなかった。
この”エゾ”が「エミシ」のなまったものかは明らかでない。

又、蝦夷はアイヌに他ならないと言う「蝦夷アイヌ説」と、それを否定する「蝦夷日本人説」がある。
これは学会を二分して対立する学説だそうだ。

江戸時代の新井白石、本居宣長などは「蝦夷アイヌ説」を唱えているが
アイヌは稲作を行わないことが有力な根拠だった。

だが戦後東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行われていたことを
確認したことが「蝦夷日本人説」が唱えられる根拠の一つだそうだ。

戦前までは奈良時代末から平安時代の初めにかけて朝廷が岩手県地方まで攻め込んで政府の直接支配する地域になり、それ以降に入植した日本人によって稲作が導入されたと言うものだった。

その他考古学的な資料によって「蝦夷日本人説」が有力な学説になってきたらしいが、この説にもさまざまな問題はあった。
東北地方と北海道地方の古代文化の共通する側面を無視したり、古代蝦夷の中に北海道の住民も含まれていた事実も、殆ど無視されたと。

本書ではその他考古学的な資料、言葉、地名などいろいろな材料を用いて洞察しているが、蝦夷はアイヌか日本人なのかと言う二者択一の思考ではかたが付くものではないという。


古代の蝦夷はアイヌ民族の成立と日本民族の成立の谷間の存在であり、歴史の歯車がわずかに違った形でかみあっていたならば、その子孫はアイヌ民族の一員にもなり得た存在であったが、実際には最後に日本民族の一員になった人々ということになるだろう、と。


最後に「英雄時代」の説明
古代国家成立前夜という時代背景において、世襲的貴族や王への萌芽的な存在であるが、彼らは未だ統治権を持たず、共同体の意思を体現すべく人々の先頭に立って戦う。
このような時代は英雄時代と言われる。


初代征夷大将軍の坂上田村麻呂と対決した蝦夷の部族の先頭に立った「阿弖流為(アテルイ)」などはまさに英雄時代の英雄だった。

もし部族同盟段階からさらに一歩を進める事が出来れば、蝦夷社会にも古代国家が誕生し、その国家の成員として日本民族とは別の民族が成立していただろう。そうなれば阿弖流為のような軍事首長の後継者は国王に転化していただろう。

しかし実際には日本古代国家の圧力によって、東北北部における独自の国家と民族の形成は挫折し、この地域の人々は次第に日本国家の一員となり、日本文化とは違う側面を持つ文化は消え去り、彼らは日本民族化したのである。

早い話がエミシというのは大和朝廷から見た、東北人の蔑称の可能性が非常に高いわけです。彼らが大和朝廷に反発したために、野蛮人のような言われ方をされてきたようです。これが近世になって、関西人が東北人を差別する用語のようになっていったのでしょう。

エミシは日本書紀にも登場しますが、やはり蛮族のような書かれ方をされています。
エミシ方の資料となるアラハバキ王朝などはどうみても後世の捏造のような感じですしね。
蘇我蝦夷の名前の由来はいろいろあるようです。

? わざと悪いものを自分の名前にして逆に厄払いした。

? 当時大和朝廷に頑強に抵抗していた『強い人間』という印象が
  あるので付けた。

? 息子の蘇我入鹿と同様に、死後、中王兄皇子、藤原鎌足らの反対勢力
  にこれまでの名前を資料とともに消され、新たに卑しい名前を
  付けられた。

など等の説があるようです。

歴史は時の権力者によって書き換えられることが多々ありますからね。

今読んでいる本にも秦の始皇帝がやった焚書坑儒もそれまでの秦以外の史書をすべて焼き、この世から消し去った本当の理由は?

秦が古くから中国に存在したように記してある。 なぜ?

始皇帝は異国人で兵馬俑は中国人ではなく、ペルシア軍団だった。

という説もあるくらいですから。
『蝦夷』の『夷』とは『異民族(渡来人も含む)』を意味する言葉で、
(例えば『夷敵』とか…)
『蝦夷』の『蝦(えび)』は『蛇(へび)』から転化した言葉だという説が有りますねー。


つまりは…

大和朝廷から見たら異民族で、
蛇神を奉っていた縄文人の流れを組む一民族…
と素直に考えてます。
蝦夷(エミシ)が何であるかということは、厳密にはとても難しい問いだと思います。
以下、個人的な考えで、しかもいま一つまとまっていませんが、述べさせてください。

いままではほとんどの場合が、「蝦夷(エミシ)」という用語の定義解釈に終始しているか、現在の日本人またはアイヌ民族に直結する集団として、化石的に無変化で至ったような前提で論争される傾向が未だつようように感じます。
また、「エミシ」自体を、他者認識と自己認識が異なることを考慮せずごっちゃに論じられ、また「エミシ」集団を一枚岩であるかのように終始論じている傾向が未だ継続していることは、非常に残念な気がします。

当時の「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた人たちの自己認識がどうだったのか、集団意識はどうだったのかというのは、考古学等の文化的特徴から試みがなされているようですが、もっと総合的なアプローチが必要なのではないか、とも思ったりもします。

「蝦夷(エミシ)」と称された集団(私は大和王権の支配前から一枚岩ではなかったと思います(部族制社会、または文化・言語的に近似していても帰属意識の異なる集団が共存していた可能性)。

また、大和王権による支配後も、以下のように、新たな集団の成立または分化したと考えています
1.日本各地への強制移住(*)による移住先における各集団の変容の可能性。( * 「移配」は文字通り支配者側の視点からの用語だと思います。)
2.在地の実力者と日本の貴族層や国司クラス党の実力者との婚姻により、清原氏、安倍氏(証明する文献が確認されていないようですが清原氏と同様と考えられている)、そしてその子孫の奥州藤原氏といった「境界権力者」の台頭があり他の在地系住民と移民系住民とを支配下に置いていたと思っています。
奥州藤原氏は、天台系仏教(白山信仰も混淆)による強化支配に重きを置いており、これは大和王権が9世紀初頭に東北北半部(秋田北部〜盛岡辺り)を支配下に置いたときに、在地支配(同化支配)を強めるために天台系仏教を移植し、強制移住地にも天台系・白山系寺社が例外なくあるという指摘もありますが、歴史的に無関係ではないと思います。
確かに。

我輩も蝦夷(及び縄文人も)は単一民族ではなく、
むしろ現在でもアラブなどで見られる様な、
『同一の文化を持ちつつ、部族単位で異なる部分が有る集合体』
だと思っておりますが…
失礼します
馬子も入鹿も蝦夷も物部の侮蔑だと聞いた記憶があります
征服者が後々までそれらを動物かのように思わせる為と
どうあれ_人の名前〜それも権力を争う豪族の人々に
イルカやウマやエミシなんて名前は付けないでしょうしね
それぞれ元は立派な名前があったとか

当時東北の全ての盛り場でサントリーボイコットがありましたねえ
私はあれから今でもサントリー製品を飲みません
失礼しました
横槍恐縮です。

自分もあの発言以来サントリー商品は買いませんw

失礼しました。
こんばんは。

以下、いささかまとまりに欠けるものの、思うことをいくつか・・・

「蝦夷(えみし・えぞ)、戎(えびす)、夷(い)」等の呼称ですが、やはり大和王権国家側からの政治的な呼称だと思います。
日本各地に、「蝦夷」等の地名は散在しますが、「えみし」と読む事例は一度もお目にかかったことがありません。
従って、「えぞ」呼称が、11世紀末〜12世紀に成立したとされる「今昔物語」以降とされるのは個人的に疑問に思います。 地名も中世以前のエミシの強制移住地成立時にその地名がついていた可能性があるとおもいます。

ところで、岩手県立博物館 学芸員の女鹿潤哉さんが、『岩手県立博物館研究報告第19号 2002年3月』にて、「えみし」成立過程についての研究 ―「『えみし』『えぞ』とその系統」展示に向けての1視点 ―」という論文を発表されていますが、「エミシ・エゾとは何であるか?」ということを俯瞰するには、良い資料かと思います。
http://www.jomon.com/~emisi/semi/13semi/emisi-mega.htm
もちろん異論はあるでしょうし、私自身概ね首肯しますものの他方で(細かい部分で)首肯しきれないところもあります。

また、「エミシ」「エゾ」の呼称は元々政治的用語であり、「他称」であるのですから、呼称されてきた当事者の自己認識はその枠には規定されないのではと常々思います。
「他称」によって定義づけられてきたものが、「実相を正確に語っている」と無批判なる前提で語られていることに疑問を感じます。

このことはたとえば、「縄文人」にも言えると思います。
土器制作にあたり縄で文様を施した様式の土器を縄文式土器と呼び、その土器を製作していた人々を縄文人と呼ぶ、という認識ですが、 縄文時代と規定されている1万3千年間も無変容に、現代国家である日本国の枠という広大な地域にまたがる、単一な民族的グループが存在していたのでしょうか?
「縄文人」がその時代の当事者の自己認識とは無関係に一人歩きしているように思えます。
022神仏様クローバー

縄文人は敢えて文字を持たなかった…と考えております。

言葉→言霊、で、
言葉を文字に印すという行為は、
即ち呪術、呪いですから。
特定層(神官や呪術師、部族の首長)以外の人間には忌むべきもの…と考えられたのでは?


縄文人と弥生人は、全く別の人種でしょうね。
骨格がかなり違う。

縄文人の遺伝子が濃い東北人と、九州南部・沖縄人の骨格…
特に顔骨、顎に特長が有ります。
(因みに、南米先住民なんかとも、良く似てます。)
但し、子細に観察すると東北人と琉球人には差異が有り、
同じ縄文系ながら、別部族である事が分かります。


一方、弥生人の遺伝子が濃い北九州〜近畿人の骨格は、
朝鮮系に酷似してますし。


よく外国人が想像する日本人のイメージ…
『目が細く吊上がってて鼻が低く、出っ歯。』
ってイメージは、長いこと弥生人が日本を支配して来て、
明治以降も外交の表舞台に立ったから定着したイメージでしょう。
余談でしたが。


縄文人は広く、大陸方面との情報のやり取りがあった筈です。
文化的な面から考えても。

船でしたら、青森の『北方漁船博物館』に
アイヌの交易船(復元船。帆装・楷走。)が展示されていますよ♪

…載貨重量で2〜5トン位の船かな。最低でも6〜10人が乗り込む位。(楷の数や帆の操作からして。)

これで大陸方面との交易は可能だったろうと。
(先年も、北朝鮮から漁船で脱北した人々が青森の深浦まで辿り着いた事件もありましたし。/笑)


その船で、何が運ばれたか…

それは、限られた積載量(特に体積という点)で、
経済的にペイするもの。

例えば、宝石や金属材料。

でも一番価値が有ったのは『情報』であり、
その『情報』や『技術』を持っている、
『人間』を船で運ぶのが一番だったでしょうね★(操船にも使えるし。)


ぁ、それから。
ポリネシアの伝統的な『タ・タウ』(タトゥー。刺青。)の紋様は、
縄文土器の紋様に良く似てますよ♪
ちと余談ながら。

山形県の羽黒町(合併して鶴岡市の一部になったかな?)に
『蝦夷舘公園』という場所を発見致しました。

地名にどんな由来が有るのか(蝦夷の城が在ったか否か)は、
今後調査してみます。


羽黒町といえば…
言わずと知れた出羽三山、
山伏で有名な『羽黒山』の在る処ですからね〜
興味深いです。
>>[3]
あの発言に対してはいまだに怒り狂っております。サントリーの製品は飲み物、薬品、その他すべての製作品は一切買いませんし、サントリー美術館にも行きません。実に無礼な発言だったと思います。当方は伊達藩の出身です。
うーん、東北地方に於ける朝鮮人の数は、もう少し多いのでは無いかという感覚を持ちますね。

戦後の昭和40年代頃まで、秋田や岩手の鉱山、亜炭採掘で働いていた朝鮮人は多かったと聞きますから、
ひとつの県で数千人規模になるのでは無いかと。
古代で言えば。

秋田の男鹿に有る赤神神社には、漢の武帝が祀られてると言うし、
製鉄技術に於いても、少ないながら秋田の能代から米代川流域に製鉄跡が有り、出雲と別ルートの渡来と考えられる。

津軽・十三湊を拠点とした安東水軍、安東氏も、
大陸から造船技術者を帰化させて大型外洋船を造ったという事ですから、
東北地方は古代から西日本とは別個の大陸と直接交易が有ったと考えられますね。

おそらく、『蝦夷』という概念も、単に日本列島の中だけで捉えるのでは無く、
東アジア全体の中の部族移動や混血過程で捉える必要性が有ると考えます。
蝦夷と言えば、興味深い伝承が秋田に有ります。

秋田市のやや南側、岩城(藩政時代は亀田藩)には
『この地・天鷺郷は出雲から来た蝦夷の、天鷺速男という蝦夷が治めていて、朝廷軍と激しく戦い、討ち死にした』
という伝承が有ります。

『出雲から来た蝦夷』という事は。
倭人ながら蝦夷扱いされていた人物・統治者が居たという事。
…出雲から来た=越の国から来た??
(因みに秋田市内には越の王を祀る『古四王(こしおう)神社』が有り、関連性が有ると考えられる。)

秋田の南隣、山形県の庄内地方は『出羽(でわ)国』。
その由来は諸説有るが有力なのは『越国の出端(いでは)説』だが、
『出て行った倭』と考える事も出来る。

伝承や遺跡から推測するに『出て行った倭』の方が腑に落ちます。

…出端(いでは)説にせよ、出て行った倭説にせよ、倭(越国)が内部分裂し、畿内王朝(大和国)に組み込まれた人達と、
それに異を唱えて出て行き、東北地方に居た先住民(続縄文系部族)と融合し、大和朝廷から蝦夷と呼ばれる様になった人達とが居ると考えられます。

その時期は5〜6世紀頃では無いかと。

実際、この岩城・天鷺郷を取り囲む様に朝廷の城柵が築かれている。
天鷺郷の北に秋田城、南に由利柵。東に払田柵で西は日本海。

余談だが、秋田や青森の日本海側の方言では。
『わァ』という発音は『私』の意。
倭人・倭国というのは、私・私の国という発言が、意味を誤解されて倭人の国と記録されてしまったのかも知れない。
尚、蝦夷と稲作の関係性について。

弘前大の研究に依れば、弘前平野でも縄文時代末期には稲作が為されていたが、
その後の気候寒冷化により、2百年間程度稲作が途絶した時期が有り、
稲作が再開されたのは7世紀以降で、しかも色々な品種を試し、現在では観賞用に細々と栽培されてる赤米(古代米)に近い品種が選ばれた様だ。

実際、新潟県と山形県の境目の関川村に最初に稲作を持ち込んだのは出雲から来た人達で6世紀頃という伝承が関川村の大藏神社に残り、
山形県寒河江市に稲作を持ち込んだのも、6世紀頃に相模国・寒川神社近傍から来た人達と伝わる。
同じく、山形県最上地方・白川に最初に稲作を持ち込んだのは摂津国から来た兄弟と伝わる。
…これらの伝承は信憑性が高いと考えられる。
縄文時代に始まった稲作は、東北地方に於いて5〜7世紀に掛けて途絶しており、
蝦夷と言っても稲作をした時期・出来なかった時期が有る。
従って稲作文化が途絶せずの当時の大和朝廷からは化外の国なのは仕方無い。


この事が、朝廷が関所(勿来関・白河関・鼠ヶ関)を造り、東北地方と遮断する事になったのだろう。
…6世紀末以降、東北地方は都(朝廷)との関係が途絶し、それ以前の文化が色濃く残る事になったのは事実の様だ。

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