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世界史・日本史・歴史好きコミュの第一次世界大戦前後の軍事史2

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第一次世界大戦、あるいは帝国主義時代と第一次世界大戦に至る道のり、あるいは第一次世界大戦戦後処理と第二次世界大戦に通じる道!これらの事を話し合って行きましょう!!

まずは、第一次世界大戦史の簡単な動画!!

【ゆっくり解説】第一次世界大戦の歴史がほぼわかる動画
https://m.youtube.com/watch?v=0ecIgYjc_1Q&pp=2AEAkAIB

以下、ウィキより!!

戦争:第一次世界大戦
年月日:1914年7月28日 〜 1918年11月11日[1]
場所:主戦場はヨーロッパ。他東アジア、中東など。
結果:協商国側の勝利、ベルサイユ体制の成立。

交戦勢力

協商国
イギリス帝国
フランス共和国 
ロシア帝国 
セルビア王国 
モンテネグロ 
ベルギー
イタリア王国
ルーマニア王国
ポルトガル
ギリシャ王国
大日本帝国
中華民国
タイ王国
ヒジャーズ王国
アメリカ合衆国

同盟国
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
オスマン帝国
ブルガリア王国

指導者・指揮官

協商国
イギリス ジョージ5世
イギリス ハーバート・ヘンリー・アスキス
イギリス デビッド・ロイド・ジョージ
フランス レイモン・ポアンカレ
フランス ルネ・ヴィヴィアニ
フランス アリスティード・ブリアン
フランス アレクサンドル・リボ
フランス ポール・パンルヴェ
フランス ジョルジュ・クレマンソー
ロシア帝国 ニコライ2世
セルビア王国 ペータル1世
セルビア王国 ニコラ・パシッチ
Montenegro (1905–1918) ニコラ1世
Montenegro (1905–1918) ヤンコ・ヴコティッチ
ベルギー アルベール1世
ベルギー シャルル・ド・ブロクヴィル
イタリア王国 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
イタリア王国 アントニオ・サランドラ
イタリア王国 パオロ・ボセッリ
イタリア王国 ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド
ルーマニア王国 フェルディナンド1世
ルーマニア王国 イオン・ブラティアヌ
ルーマニア王国 アレクサンドル・アヴェレスク
ルーマニア王国 アレクサンドル・マルギロマン
ポルトガル ベルナルディノ・マシャド
ポルトガル シドニオ・パイス
ギリシャ エレフテリオス・ヴェニゼロス
大日本帝国 大正天皇
大日本帝国 大隈重信
大日本帝国 寺内正毅
大日本帝国 原敬
中華民国 段祺瑞
タイ王国 ラーマ6世
Hejaz 1917 フサイン・イブン・アリー
アメリカ合衆国 ウッドロウ・ウィルソン

同盟国
ドイツ ヴィルヘルム2世
ドイツ テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
ドイツ ゲオルク・ミヒャエリス
ドイツ ゲオルク・フォン・ヘルトリング
ドイツ エーリヒ・ルーデンドルフ
オーストリア=ハンガリー帝国 フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア=ハンガリー帝国 カール1世
オーストリア=ハンガリー帝国 レオポルト・ベルヒトルト
オーストリア=ハンガリー帝国 シュテファン・ブリアン
オーストリア=ハンガリー帝国 オトカル・フォン・チェルニン
Ottoman Empire (1844–1922) メフメト5世
Ottoman Empire (1844–1922) メフメト6世
Ottoman Empire (1844–1922) エンヴェル・パシャ
Ottoman Empire (1844–1922) タラート・パシャ
Ottoman Empire (1844–1922) ジェマル・パシャ
ブルガリア フェルディナント
ブルガリア ヴァシル・ラドスラホフ
ブルガリア アレクサンドル・マリノフ

戦力
協商国
詳細は不詳。
同盟国
詳細は不詳。

損害
協商国側戦死者・犠牲者
イギリス90万8000人
フランス135万8000人
ロシア17万人
セルビア4万5000人
モンテネグロ3000人
ベルギー1万3800人
イタリア65万人
ルーマニア33万6000人
ポルトガル7200人
ギリシャ5000人
アメリカ11万7000人
日本300人
それ以上[2]
同盟国側戦死者・犠牲者
ドイツ177万4000人
オーストリア120万人
トルコ32万5000人
ブルガリア8万8000人
それ以上[3]

第一次世界大戦の主な戦線
バルカン戦線 西部戦線 東部戦線 ルーマニア戦線 イタリア戦線 マケドニア戦線 中東戦線 アジア・太平洋戦線 アフリカ戦線 海戦


第一次世界大戦史(年表)
以下は日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より!

1914年(大正3年) 6月28日 オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻、セルビアで組織された暗殺団に属するプリンチップによってサライエボで暗殺される(サライエボ事件)
1914年(大正3年) 7月28日 オーストリア・ハンガリー帝国(以下オーストリアと略記)、セルビアに宣戦布告
1914年(大正3年) 7月30日 ロシア、総動員令を発令
1914年(大正3年) 8月1日 ドイツ、ロシアに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月2日 ドイツ、ベルギーに対し領土通過を要求、ベルギーが拒否。ドイツ・オスマン帝国間に秘密同盟条約調印
1914年(大正3年) 8月3日 ドイツ軍、シュリーフェン・プランに従ってベルギーに進攻。ドイツ、フランスに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月4日 イギリス、ドイツのベルギー中立侵犯を理由としてドイツに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月5日 オーストリア、ロシアに宣戦布告。ドイツ軍、ベルギーのリエージュ要塞を攻撃
1914年(大正3年) 8月6日 セルビア、ドイツに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月7日 日本の参戦を決定する閣議で外相加藤高明の主戦論大勢を制する(〜8月8日)
1914年(大正3年) 8月10日 フランス、オーストリアに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月11日 イギリス、オーストリアに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月15日 日本、ドイツに、ドイツ軍艦の東アジア撤退と膠州湾のドイツ租借地の引き渡しを求める最後通牒を交付
1914年(大正3年) 8月23日 日本、ドイツに宣戦布告
1914年(大正3年) 8月26日〜8月31日 ドイツ軍、タンネンベルクの戦いでロシア軍を敗走させる
1914年(大正3年) 9月3日 フランス政府、パリからボルドーに移る
1914年(大正3年) 9月5日 イギリス・フランス・ロシア3国、ロンドン宣言を発表
1914年(大正3年) 9月6日 マルヌ川付近でフランス軍が反撃を開始し、マルヌの戦い始まる(〜9月12日)
1914年(大正3年) 9月11日 ドイツのフランス進攻軍右翼、エーヌ川の線まで後退を開始し、西部戦線の膠着化決定的となる
1914年(大正3年) 9月14日 ファルケンハイン、小モルトケにかわってドイツ陸軍参謀総長に就任
1914年(大正3年) 9月19日 イギリス軍、ドイツ領南西アフリカに上陸
1914年(大正3年) 10月14日 日本海軍、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領
1914年(大正3年) 10月29日 ドイツ巡洋戦艦に率いられたオスマン帝国海軍、ロシアのオデッサ(現、ウクライナのオデーサ)、セバストポリを砲撃
1914年(大正3年) 11月1日 ロシア、オスマン帝国に宣戦布告
1914年(大正3年) 11月3日 イギリスおよびフランス、オスマン帝国に宣戦布告
1914年(大正3年) 11月7日 日本軍、膠州湾岸の青島を占領
1914年(大正3年) 11月22日 イギリス軍、ペルシア湾岸のバスラを攻略
1914年(大正3年) 12月8日 イギリス・ドイツ海軍、アルゼンチン沖のフォークランド諸島付近で戦い、ドイツが大敗する

1915年(大正4年) 1月18日 日本政府、中国政府(大総統袁世凱政権)に「対華二十一か条要求」を提出
1915年(大正4年) 3月18日 イギリス・フランス艦隊、ダーダネルス海峡を猛砲撃
1915年(大正4年) 4月22日 イーペル(ベルギー)の戦い(〜5月25日)でドイツ軍史上初めて毒ガスを使用
1915年(大正4年) 4月25日 イギリス軍、ダーダネルス海峡のゲリボル半島に上陸
1915年(大正4年) 4月26日 ロンドン密約調印され、協商国(三国協商)側がイタリアに参戦の代償として南チロールなどを提供することを約束
1915年(大正4年) 5月3日 イタリア、三国同盟条約を破棄
1915年(大正4年) 5月7日 イギリス商船ルシタニア号、ドイツ潜水艦に撃沈され、128名のアメリカ人乗客死亡(ルシタニア号事件)。日本政府、「対華二十一か条要求」のうち「希望条項」としての7か条を削除した残りの要求の受諾を迫って、中国政府に最後通牒を交付
1915年(大正4年) 5月9日 中国政府、日本の最後通牒を受諾
1915年(大正4年) 5月23日 イタリア、オーストリアに宣戦布告
1915年(大正4年) 8月10日 外相加藤高明、元老山県有朋の圧力によって辞職。後任は駐仏大使石井菊次郎
1915年(大正4年) 8月17日 イギリス商船アラビック号、ドイツ潜水艦に撃沈され、2名のアメリカ人乗客死亡
1915年(大正4年) 9月5日 スイスのツィンメルワルトで国際社会主義者会議(〜9月8日)
1915年(大正4年) 9月18日 ドイツ政府、アメリカ政府の抗議を受けて潜水艦作戦の自制を決定(アラビック誓約)
1915年(大正4年) 10月12日 ブルガリア、同盟国側で参戦
1915年(大正4年) 10月19日 日本政府、イギリス・フランス・ロシア3国のロンドン宣言に加入
1915年(大正4年) 10月24日 イギリスのエジプト駐在高等弁務官マクマホン、アラブ王国の独立を約束した「マクマホン書簡」をメッカの知事フサインに渡す(フサイン‐マクマホン協定)

1916年(大正5年) 1月1日 ドイツでスパルタクス団結成。袁世凱、皇帝に即位
1916年(大正5年) 1月6日 イギリス議会で義務徴兵法成立
1916年(大正5年) 2月21日 ベルダンの戦い始まる(〜7月12日)
1916年(大正5年) 3月24日 フランス船サセックス号、英仏海峡でドイツ潜水艦に撃沈され、アメリカ人乗客負傷し、アメリカ・ドイツ両国の関係悪化する(サセックス号事件)
1916年(大正5年) 4月24日 スイスのキーンタールで国際社会主義者会議インターナショナル開催(〜4月30日)
1916年(大正5年) 5月4日 ドイツ政府、ふたたび潜水艦作戦の自制を約束し、アメリカ・ドイツ間の関係一時修復に向かう
1916年(大正5年) 5月16日 サイクス‐ピコ協定、最終的に成立
1916年(大正5年) 5月31日〜6月1日 ユトランド沖海戦。イギリス海軍は14隻11万トンを、ドイツ海軍は11隻6万トンを失うが、イギリスの制海権は不動
1916年(大正5年) 6月24日 ソンムの戦い始まる(〜11月18日)
1916年(大正5年) 7月3日 第4回日露協約成立
1916年(大正5年) 8月27日 ルーマニア、オーストリアに宣戦布告
1916年(大正5年) 8月28日 イタリア、ドイツに宣戦布告
1916年(大正5年) 8月29日 ヒンデンブルクがファルケンハインにかわってドイツ陸軍参謀総長に就任
1916年(大正5年) 9月15日 イギリス軍、ソンムの戦いに史上初めて戦車を投入
1916年(大正5年) 10月9日 寺内正毅内閣成立
1916年(大正5年) 10月21日 オーストリア首相シュトルク、社会主義者フリードリヒ・アドラーに暗殺される
1916年(大正5年) 11月7日 ウィルソン、アメリカ大統領に再選
1916年(大正5年) 11月21日 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世死去し、カール1世即位
1916年(大正5年) 12月5日 ロイド・ジョージ、アスキスにかわってイギリス首相に就任
1916年(大正5年) 12月12日 ドイツ首相ベートマン・ホルウェーク、同盟国側の講話提案を発表

1917年(大正6年) 1月22日 ウィルソン、「勝利なき平和」を提案
1917年(大正6年) 2月1日 ドイツ海軍、無制限潜水艦戦開始
1917年(大正6年) 2月3日 アメリカ、ドイツとの国交断絶
1917年(大正6年) 2月26日 アメリカ商船ラコニア号、ドイツ潜水艦に撃沈される
1917年(大正6年) 3月12日 ペトログラードで労働者兵士ソビエト結成される
1917年(大正6年) 3月15日 リボフを首相とするロシア臨時政府成立。ロシア皇帝ニコライ2世退位し、ロマノフ王朝滅亡(三月革命。ロシア暦では二月革命)
1917年(大正6年) 4月6日 アメリカ下院、対独宣戦を可決。アメリカ、ドイツに宣戦布告
1917年(大正6年) 4月16日 レーニン、「封印列車」で亡命先のチューリヒから帰国
1917年(大正6年) 4月17日 レーニン、「四月テーゼ」を発表
1917年(大正6年) 4月26日 ロイド・ジョージ、イギリス海軍に商船の護送(コンボイ)実施を命令
1917年(大正6年) 5月10日 ジブラルタルからイギリス本土向けの初めての護送船団出発
1917年(大正6年) 6月27日 ギリシア、同盟国側に宣戦布告
1917年(大正6年) 7月19日 ドイツ国会、平和決議案を可決
1917年(大正6年) 8月14日 中国、ドイツとオーストリアに宣戦布告
1917年(大正6年) 9月5日 スイスのツィンメルワルトで国際社会主義者会議ふたたび開催される(〜9月12日)
1917年(大正6年) 11月2日 バルフォア宣言。石井‐ランシング協定成立
1917年(大正6年) 11月7日 ロシアのペトログラードでボリシェビキの軍事蜂起成功(十一月革命。ロシア暦では十月革命)
1917年(大正6年) 11月8日 レーニン、「平和に関する布告」を発表
1917年(大正6年) 11月16日 クレマンソー、フランス首相に就任。親ドイツ派への弾圧を開始
1917年(大正6年) 11月26日 ソビエト政権、全ロシア軍に停戦を命令
1917年(大正6年) 12月22日 ブレスト・リトフスクで、ロシアと同盟国側との講和交渉開始

1918年(大正7年) 1月8日 ウィルソン、「十四か条」を発表
1918年(大正7年) 1月28日 フィンランドにロシアからの分離を求める内乱起こる
1918年(大正7年) 2月10日 ブレスト・リトフスクでの講和交渉中断され、ソビエト代表トロツキーは戦争状態終結のみを宣言して引き揚げる
1918年(大正7年) 2月18日 ドイツ軍、ロシアへの攻撃を再開
1918年(大正7年) 2月23日 ボリシェビキ党中央委員会、ドイツの新しい講和条件の受諾を正式に決定
1918年(大正7年) 3月3日 ソビエト政府、ドイツ側とブレスト・リトフスクで講和条約(ブレスト・リトフスク条約)に調印
1918年(大正7年) 3月21日 ドイツ軍、「ミヒャエル作戦」によってイギリス軍に対し大攻勢を開始。第二回目のソンムの戦い始まる(〜4月5日)
1918年(大正7年) 4月14日 フォッシュ、連合軍最高司令官に就任
1918年(大正7年) 5月7日 ルーマニア、同盟国側に降伏し、ブカレスト講和条約に調印
1918年(大正7年) 5月26日 ロシア軍の捕虜になっていたチェコ軍団、チェリャビンスクでソビエト政府に反乱を起こす
1918年(大正7年) 7月15日 マルヌ川方面でドイツ軍大攻勢(第二回目のマルヌの戦い)
1918年(大正7年) 7月18日 英仏の連合軍、フォッシュの作戦に従って反撃開始
1918年(大正7年) 8月2日 日本政府、シベリア出兵を宣言。英仏軍、アルハンゲリスクに上陸し、対ソ干渉戦争本格化
1918年(大正7年) 8月3日 イギリス軍、ウラジオストクに上陸
1918年(大正7年) 8月19日 アメリカ軍、ウラジオストクに上陸
1918年(大正7年) 9月12日 パーシングの率いるアメリカ第一軍、ベルダン付近で初めて単独で戦い、ドイツ軍に大勝
1918年(大正7年) 9月15日 バルカン半島での連合軍の大攻勢始まる
1918年(大正7年) 9月29日 ブルガリア降伏し、サロニカで休戦条約に調印
1918年(大正7年) 10月3日 ヘアトリングにかわり、マックス・フォン・バーデンがドイツ首相に就任し、「十四か条」に基づく休戦を求める覚書をウィルソンに送る
1918年(大正7年) 10月8日 ウィルソンのドイツ政府への回答、ドイツ軍の連合国領土からの撤退を求める
1918年(大正7年) 10月12日 ドイツ政府、ウィルソンの要求を受諾
1918年(大正7年) 10月26日 参謀次長ルーデンドルフ罷免
1918年(大正7年) 10月30日 オスマン帝国、レムノス島沖のイギリス巡洋艦上で休戦条約に調印
1918年(大正7年) 11月3日 ドイツのキール軍港で水兵の反乱起こる。オーストリア、休戦条約に調印
1918年(大正7年) 11月9日 マックス・フォン・バーデンがドイツ皇帝ウィルヘルム2世の退位を宣言、エーベルトに政権を委譲
1918年(大正7年) 11月10日 ウィルヘルム2世、オランダへ亡命
1918年(大正7年) 11月12日 ドイツ代表エルツベルガー、コンピエーニュの森で休戦条約に調印し、第一次世界大戦終わる。オーストリア皇帝カール1世退位

1919年(大正8年) 1月18日 パリ講和会議始まる
1919年(大正8年) 6月28日 ドイツ、ベルサイユ条約に調印
1919年(大正8年) 9月10日 オーストリア、サン・ジェルマン条約に調印
1919年(大正8年) 11月27日 ブルガリア、ヌイイ条約に調印

1920年(大正9年) 1月10日 国際連盟発足
1920年(大正9年) 6月4日 ハンガリー、トリアノン条約に調印
1920年(大正9年) 8月10日 オスマン帝国、セーブル条約に調印(1923年のローザンヌ条約で、セーブル条約は廃棄)

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◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉒】

ところで国王が軍隊を召集している理由の一つ、パリで第二の「レヴェイヨン事件」の発生を防ぐというのを、第三身分側は取ってつけたような理由であって、兵力を集めるための口実であると考えました。そしてかき集めた軍事力を使用して議会を解散させるのではないか?第三身分側このような疑念を持ち、それは確信へと変わっていきました。他方で王権側から観るならば第二の「レヴェイヨン事件」を防ぐというのは紛れもない事実でした。というのも4月の「レヴェイヨン事件」が、パリの警察力では最低限の治安維持すら確保できないことを証明していたからです。



ではパリでの暴動を予見する王権は、いったいどのようなキッカケによって暴動が発生すると考えていたのか。第三身分側は、この理由を議会解散に求めました。つまり王権は軍事力によって議会を解散させるだとう。これに不満を持つパリ市民が暴動を起こす、その鎮圧のためにパリ周辺に軍を集結させているのだと。
>>[959]、

実は密かに「軍隊と糞」ってのも大変なんじゃないかと??
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉓】

国王は、議会への特権身分の合流を容認するなど第三身分へ歩み寄る姿勢をみせつつ、他方で軍隊を集結させるという謎に満ちた行動に出ていました。アルトワ伯や王妃を中心とする守旧派から激しい突き上げを受け、王権維持のためにどのような措置が必要かを散々聞かされていた国王は、決断だけを先送りしてきた訳ですが、遂にその限界に達します。



キッカケはフランス衛兵隊の不服従事件とパリの選挙人の介入、そしてミラボー伯を中心として作り上げた議会からの上奏文でした。というのも王権神授説を信奉し伝統的国体観を持つ守旧派が、議会の要求(軍の撤兵)を受け入れることが不可能であったからです。さて軍隊の集結完了は15日か16日までかかるとされ、それに合わせ、――アルトワ伯や王妃が強く望む――、ネッケルの解任準備が極秘裏に進められます。白羽の矢が立ったのは国王と王妃からの信頼厚いブルトゥイユ男爵でした。



国王は、ブルトゥイユに対してネッケル解任の是非を諮問して、長時間の相談の上で、この決定をただちに実行することにします。というのも、この週末というタイミングはことを起こすのに絶好の機会であると考えられたからでした。土曜日に解任さえしてしまえば、日曜日には議会は開かれないし、月曜に議会が再開されるまでにはネッケルを国外に追放することも可能であろうと。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉔】

7月11日土曜の午後3時過ぎ、ネッケルが気の合う仲間と食事を摂っているところへ、国王の親書が届けられます。それは簡潔な内容で「ただちにヴェルサイユを出て、秘密のうちに故国スイスへ帰るよう」求めるものでした。ここで彼は自身が解任されたことを知ります。ネッケルは、手紙をポケットにしまうと、夫人に二言三言そっと話しかけて、馬車を呼ばせます。午後5時過ぎ、馬車に乗り込むネッケルは、国王へ「パリを通らずにそのまま出発したします」との返書を書き上げて、夫人とともに立ち去ります。



フランスを追放されることとなったネッケルにはまだやるべきことがありました。彼はオランダの銀行家宛てに手紙を書き始めます。自分は解任されてしまったのだが、穀物緊急輸入のために借り入れた二百万リーブルは心配ないという内容でした。財政破綻状態のフランスは、諸外国の銀行家から緊急融資を受けてギリギリ生き延びている状況であって、これは銀行家であったネッケルの人脈や信用を利用したものでした。



ゆえに彼は、欧州金融界に対して自分は故あって解任されてしまったがフランスは破綻しない、返済は大丈夫だ、安心してくれと手紙を書いた訳です。これは自分を追放した国王とその国家に対する最後のご奉公でした。国王は日記に次のように記します。



*******************
『七月十一日、特になし。ネッケル氏出発。』
*******************
>>[965]、

結構大変なんじゃないかなぁと思います!戦線が膠着状態になると衛生状態が!!

マジノ線とかどうしていたんですかね?
>>[964]、

なんか、ちょっと感動しました!スイス出身だと言うのも知らなかった!
>>[966]

マジノ線は水洗便所と思ってましたけど、違うんすかね。気にしたことというか考えた事なかったですね。
>>[968]、

こんなのがありました!まあ、正確な事はわからない!今でも見学できるようですね!途中トイレ小の写真はあります!

戦跡散歩Home
マジノ線
Maginot Line / Ligne Maginot
http://oldbattlefield.web.fc2.com/1930_MaginotLine.html
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉕】

国王と新政権首班ブルトゥイユ男爵らは、7月12日の日曜日がネッケル解任(ほかリベラル派のモンモラン、サン・プリースト、ラ・リュゼルヌらもみな解任)のニュースが一般に広く知れ渡る良い機会であると考えていました。日曜日であるならば、議会の反応がすぐに示されることがないからです。計算外であったのがパレ・ロワイヤルでの反応でした。



というのも日曜日ともなれば繁華街であり反政府活動の中心地であるこの地区には、買い物客にぶらぶら歩き回る見物人、演説を聞きに来た者など、何か新しいことを求めて人々がどっと押し寄せるからです。ネッケルが解任されたとのニュースがパレ・ロワイヤルに届いたのが7月12日の午前9時頃。最初はデマ扱いであったこの知らせが、どうやら本当らしいに変わり、やがて事実であると確認されたのが正午頃のことでした。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉖】

その結果、差し当たり三つの事態が予見されました。第一に議会が解散させられるであろうこと。これは政治的関心を持つ層にとって許しがたい暴挙であると考えられました。第二にパンの値上がり。ネッケルが悪徳業者を押さえていると考えられていたので、失脚すればパン価格が高騰すると考えられました。当然、生活に困窮する貧民層はこれに反発することになります。第三にフランスの破産。従って債務不履行となることが予見され、利子生活者の生活もまた破綻するものと思われました。



また投機家も投資家も、議会による改革と財政再建の成功によって株式相場が上昇するものと妄信していました。ところがネッケルが解任されたとなれば全てが下落するはずで、そうなれば残されているのは破滅と破産でした。そこで株式や国債等の債券を保有する富裕層や年金生活者もしくは投資家や金融業者もまた猛反発することになります。



要するに政治的・経済的打撃によって誰もかれもが多かれ少なかれ被害を受けるのでネッケル解任に対して憤慨し怒りに火がつくのです。。そこでパリの証券取引所は翌13日(月)からの取引停止を決定し、抗議の意思を示すことになります。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉗】

ネッケル解任はあらゆる悪い出来事の始まりと思われました。解任の噂が広まるとパリ市民はニュースを求めてパレ・ロワイヤルに殺到します。この状況に無名の青年がフォア・カフェ(パレ・ロワイヤルにある多くのカフェのうちの1つで主に反体制派が集まるお店)を飛び出してテーブルの上に飛び上がり群衆に呼びかけます。



*******************
『市民諸君よ!彼らはネッケルを解任した!彼らは愛国者に対して聖バルテルミーの虐殺を準備しつつある!シャン・ド・マルスのドイツ兵が今晩にもパリに入って来て市民を虐殺するだろう!我々がとるべき手段はただ一つだ!武器をとれ!武器をとれ!』
*******************



群衆は熱狂し、それを受け熱弁を振るう青年は敵と味方の識別のために記章をつけることを提案する。「希望の色、緑だ!」とネッケル家の従僕の仕着せの色である緑が選ばれて、誰かがこの無名の青年に緑色のリボンを差し出すと、これを帽子につける。そして彼は叫ぶのです。



*******************
『戦いの用意をせよ!そして全員が緑の帽章をつけようではないか!』
*******************



これを聞いた誰もかれもが緑色の何かを着けようとして、手当たり次第に、――布はもちろん木の葉や枝全体であろうとも――、もぎとってそれを帽子や上着につけたので木々はあっという間に裸になる。そして「武器をとれ」の声はパレ・ロワイヤルにこだまするのです。
>>[973]

財政悪化による売官制で政治腐敗は極まって朝廷大いに乱れ、飢饉と重税に苦しむ民衆が…あれ
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉘】

この無名の青年の名はカミーユ・デムーラン[1]。ピカルティ地方ギーズ生まれで父は公務員。子供がより良い地位に昇れるようにと教育熱心な父は、親戚のコネを利用し、奨学金を得てパリの名門校であるルイ・ル・グラン学院へ進学させます。学友にはロベスピエールやフレロン(のちダントン派、テルミドール9日のクーデターに参加してロベスピエールらを処刑する)など。



彼もまた優秀な学生だったけれども、啓蒙思想に感化され自由主義思想に興味を持ちのめりこんでいくことになります。この頃、後に妻となるリュシルと恋に落ちるも、彼女は高級官僚の娘で身分違いから彼女の父親から交際を反対される。1785年に資格を得て卒業。既にロベスピエールは郷里の町アラスで開業し成功していたので、デムーランも故郷へ帰り弁護士として開業するか悩むものの、パリの残ることを決意。しかし、外見がぱっとしない上に吃音症であったため、パリで弁護士の依頼は少なく貧しい生活を送ります。



そして全国三部会の招集が決定すると故郷に戻って第三身分議員として立候補するもあえなく落選。友人ロベスピエールの当選を羨みつつ失意のなかパリへ戻ります。こうして行き詰まった彼は、自分の才能を発揮する別の手段として執筆に目を向けることになります。言論による政治活動です。かくして数々のパンフレットを執筆するものの、あまりに過激な内容に当時のパリの出版社は印刷を拒否。こうして極貧のなか悶々とした日々を送る彼を一躍有名にしたのが、パレ・ロワイヤルでの「武器をとれ演説」でした。





―――――――――――――――――――
[1] カミーユ・デムーラン(1760-1794年)。のち国民公会パリ選出議員。ダントン派。友人ロベスピエールと政治的に対立し、恐怖政治の実体を暴露してダントンと共に恐怖政治を終わらせようと寛容を主張するも反革命容疑にて逮捕。裁判ではロベスピエール派の面々を「殺人鬼」として糾弾した。裁判ののち処刑。夫の無実を信じて助けようと奔走した妻リュシルも「共和国を破滅させようと」した罪により逮捕、夫の処刑から8日後に処刑される。なおこの二人の結婚の証明人はロベスピエール。また二人の子供の子供の名づけ親もロベスピエールであり、彼とは家族ぐるみの付き合いであった。
>>[974]、

まあ、政治の流れはどこの国でもあまり大差ないですよね!コメントは平安??ただ、フランス革命と比較して幕末は財政的にやばくなかったのが幸いです!

はっきり言って、実はルイ14世や15世が原因なんですけどね!ルイ16世は可哀想ですね!ただ、この人、やっぱり、ダメな人だ〜あ!!って思います!
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉙】

7月12日午後3時半頃、演説を終えたカミーユ・デムーランがテーブルから飛び降りると、群衆は彼を祀り上げ、握手を求める手に揉みくちゃにされます。7月12日は日曜日であって午後からパリ市内の各劇場では興行があり、群衆のなかから「このような日に劇場にいくとは何事か!」との声があがります。かくして4時頃、約三千名のデモ隊がパレ・ロワイヤルを出発。オペラ座へと押しかけて、ネッケル解任という国民的厄災日に観劇は相応しくないこと、またネッケル追放を悼んで喪に服す日であるということ宣言し、劇場閉鎖を求めます。支配人は直ちにこれに従い、これを知った市内の他の劇場も一斉に閉館。劇場につめかけていた観衆は大通りへと出てデモ隊の波に吞まれていくことになります。



この約八千名にも膨れ上がるデモ隊には主役が不在のままでした。ネッケルは国外追放されていたし、オルレアン公は市外に居たからです。そこである人が、フォーブール=デュ=タンプル通りにある彫像店に駆け込んで、店主に国王とネッケル、それにオルレアン公の胸像を貸してくれと言います。店主は、群衆の要求に従ってネッケルとオルレアン公の胸像を貸し出したものの、国王像についてはその存在を隠し通します。というのも、国王像を群衆に渡して万が一、落としたりして破損させてしまった場合、不敬にあたるだろうし、貸し出した自分も後日何かしらの罪に問われるかも知れないと考えたからでした。ところでデモ隊が国王像を要求したことは、今だ多くの民衆にとって国王への信頼が失われていない証でもありました。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉚】

デモ隊はいったんパレ・ロワイヤルへ戻った上のち、午後5時過ぎにシャンゼリゼ通りへむけ再出発。ネッケルとオルレアン公の胸像を先頭に、黒い旗を振り、黒い服、黒い帽子をかぶり喪に服す集団のデモ行進が始まります。このときパリ守備隊を指揮するブザンヴァル男爵は、パリの警察力(約六千名の警察隊)では増大する群衆のデモに対抗できないと考えました。となれば軍隊の出動しかありません。



軍は、パリ郊外に点在し、市内においては廃兵院、陸軍士官学校、ルイ十五世広場(現在のコンコルド広場)、シャンゼリゼ大通りに配備しており、またシャン・ド・マルスにはいくつかのスイス人連隊などが戦闘態勢を整えていましたが、フランス衛兵隊は先の不服従事件もあり使用するのは危険と考えられたし、そもそも軍司令官ブロイ公から明確な指示はありませんでした。



悪化していく状況に何もしなかったことを責められるのを恐れたブザンヴァルは、ルイ十五世広場に駐屯する王立ドイツ人騎兵連隊の司令官ランベスク公に対して、ヴァンドーム広場からデモ隊を排除させるよう命令します。このような暴徒制圧の場合、騎兵の突入によって群衆を分断して突破口を開いて蹴散らしていくというのがごく普通の手順となるのですが、多勢に無勢であって、彼らの馬は群衆に取り囲まれてしまい身動きができなくなります。
>>[977]、

あー、これちょっと面白い!実は本当は国王像があった方が良かったって事ですね!
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉛】

ランベスク公は、部下に命じてヴァンドーム広場で身動きできなくなった竜騎兵を救出しルイ十五世広場(現在のコンコルド広場)に後退。いっぽう、ヴァンドーム広場にいたデモ隊はテュイルリー宮殿に殺到してここで再び竜騎兵と衝突し、デモ隊の先頭にいてオルレアン公の胸像を持っていた男が馬の後ろに引きずられサーベルによって刺される。これに怒った群衆が投石をはじめます。さらに竜騎兵が強引にテュイルリー庭園内に突入しようとすると群衆は「やっちまえ」と叫びながら手当たり次第に物を投げつけたので、衝突はますます広がっていきました。



1787年以来、フランス各地で暴動が続き群衆と軍隊の衝突は珍しいものではありませんでした。手に負えなくなり始めた状況にブザンヴァル男爵は決断を迫られ、ランベスク公に対して暴動鎮圧の命令を下します。そしてこの何気なく出された命令こそが、デモ隊を暴徒へ、暴動を革命へと変えていきます。



命令を受けた王立ドイツ人騎兵連隊はテュイルリー庭園へ向けて一斉に前進を始めるも、群衆は椅子や建設現場の石、さらに石像を壊してその破片を雨あられと投げつけたので双方ともに負傷者が続出します。このような小競り合いが続くなかでパリ市内に噂が一気に広まります。『ドイツ兵とスイス兵がフランス人をなぶり殺しにしているぞ!』と。
>>[980]、

次も立てておきました!よろしくお願いします!!

第一次世界大戦前後の軍事史3
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6360699&id=101214149&comment_count=0&from=community_list

>>[976]

コメントは何のひねりもなくて黄巾の乱の直前、霊帝の時代をイメージです。後漢の財政難も半端じゃなかったらしいですしね。
>>[982]

ようやく始まるというところまでたどり着きました。
>>[985]、

続きもかなり期待しております!&個人的にシャルロット・コルデーについて少し詳しく触れて欲しい、資料とかあれば!!
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉜】

王立ドイツ人騎兵連隊が民衆を虐殺しているとの噂に色めきだったのがフランス衛兵隊でした。彼らはもうずいぶん前から民衆に同情的となっていたし「レヴェイヨン事件」の顛末、――オルレアン公妃の馬車の通行を許した軍曹が責任をとらされた――から下士官は団結して命令への不服従を誓っていました。何より同じフランス人として同胞が虐殺されているとなればこれを見捨てる訳にはいかないとの空気が彼らを支配します。こうして完全武装のフランス衛兵隊の数部隊が現場に駆けつけることになります。



これまで国王の軍隊が対峙してきたのは、デモ隊であり群衆であった訳で、完全武装の正規軍と向かい合うのはこれが初めてでした。さらに驚くべきことにそれが数十人の離反グループとかではなく、部隊単位で丸ごとやってきたことでした。こうして戦闘が始まるのですが、兵力で勝るフランス衛兵隊はテュイルリー庭園内の王立ドイツ人騎兵連隊の分遣隊を追い散らしました。悪化し続ける事態にルイ十五世広場のランベスク公はブザンヴァル男爵に救援を要請します。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉝】

ルイ十五世広場で包囲されてしまっている王立ドイツ人騎兵連隊に救援が必要であるのは明らかでした。当時、廃兵院、士官学校、シャン・ド・マルスに多数の軍隊が集結しており、そのなかでスイス人連隊のサリス・サマド連隊がこの任務にあたることになります。



彼らは、7月12日夕刻にルイ十五世広場へ向かえとの命令を受けると、橋を渡ってフランス衛兵隊が態勢を固めているセーヌ川対岸にいくのではなくて、二隻の小舟を使って渡河するというこれ以上ないほどの骨の折れる方法で現場へ向かおうとしました。そのため川を渡るだけで二時間もかかってしまい、現地への到着は夜10時となるのです。



ここで軍は態勢の立て直しを図るものの、彼らを照らす明かりと言えば、シャンゼリゼ通りに陣取るフランス衛兵隊が時折放つ銃火とテュイルリー庭園の群衆が掲げる松明の明かりでした。相手の人数があまりに多すぎて、騎兵ではどうにもならないことを聞かされたサリス・サマド連隊長は、この場所を守り切れないと判断していました。深夜1時、ブザンヴァル男爵は撤退を決断。諸部隊がシャン・ド・マルスにたどり着いたのは翌朝5時。軍も混乱していましたが、パリも同様であって混乱と無秩序の始まりでした。
>>[987]

行き当たりばったりで何も考えていないのでフランス革命をどこまでやるかによりますし、いつになるやらですが、流れ的には外せないような気がします。
>>[990]、

まあ、ゆるりと待っていますので!!
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉞】

パリで鳴り響く銃声に、危機感を持つ人々は4月に起きた「レヴェイヨン事件」を想起します。もしあのとき我々に武器があれば…と思うのは当然の成り行きであって、人々は軍に抵抗するための武器を求め鉄砲鍛冶、武具製造、馬具製造人の店を襲い、マスケット銃、拳銃、サーベル、狩猟用ナイフなどを強奪していったし、警官を襲ってその武器をも奪いました。この様々な武器、――これに加えて包丁や棍棒など――で武装した無数の群衆は、憎むべき象徴である「城門」の破壊を開始します。これは徴税請負人組合がパリの周りに建てた城壁のところどころにある入市税の徴収所で、パリに入る商人たちからの徴税を目的として建設されたものでした。



人々この「関税」が物価高騰の原因の一つと考えており、その存在は生活苦と飢餓の象徴となっていました。こうして五十四の城門のうち四十か所が襲撃され書類や徴税の帳簿、関税領収書はもちろんのこと入市税関事務所もまた焼き払われました。この破壊は全くの組織的行動であって、パレ・ロワイヤルの過激革命派による扇動によって引き起こされたものでした。というのもオルレアン公に属する、あるいは繋がりが深いと言われていた「城門」は破壊を免れたからです。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㉟】

人々が「城門」を襲撃している頃、古くハンセン病患者の療養所として王室の保護を受け、当時は孤児や病人・身寄りのない高齢者収容施設であり貧民への給食事業を行っていたサン・ラザール修道院が襲撃されます。食糧や武器が保管されているという噂が原因でした。



押し寄せた群衆が期待した武器はなかったものの、大量の穀物をはじめ、ワイン、油、チーズなどが見つかると、貴族が民衆を飢えさせて屈服させようとしているとの疑念は決定的となります。かくして荷車五十三台分にも及ぶ穀物は中央食糧市場へと運ばれて売られることになります。群衆はあらゆる物品をも持ち去りましたが、約2万冊にも及ぶ貴重な蔵書もまた持ち去られるか、焼却されてしまいます。こうしてパリで最も美しいと言われた図書館の一つが消滅します。修道院の次は監獄の番でした。



危険を察知したラ・フォルス監獄は、ブザンヴァル男爵に救援を要請していましたが返答は「そっちでなんとかしろ」というものであって、群衆に囲まれると抵抗を諦めます。7月12日から13日にかけ警察力が消滅しパリは無政府状態となってほとんどやりたい放題の略奪と破壊が行われました。他方で軍を撤退させる決断をしたブザンヴァルは、翌日以降に態勢を立て直してパリ市内へと侵攻し秩序回復を行うだけの戦力がまだ手元にありました。ところが混乱を極めた夜間の軍事行動の結果、彼はほとんど自信を失っていたのです。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊱】

混乱と無政府状態が支配するパリで権威があったのは、全国三部会へパリの議員を選出した選挙人たちでした。彼らは選挙が終わったあとも度々会合を重ね、政治運動の中心でもありました。パリが混乱しつつある7月12日(日)夕方に、何人かの選挙人が市役所にかけつけて、対策本部を立ち上げて群衆を鎮めようとしましたが、「武器をよこせ!」と叫ぶ群衆が押し寄せることになります。武器を求めるパリ市民は自分たちの運命に不安を募らせていました。市内は既に無政府状態で随所で略奪と破壊が行われていたし、いっぽうでパリ周辺には軍が集結しており、いつ市内に侵入してきてもおかしくないハズでした。



もちろん出所不明の真偽のほどが分からない情報が飛び交っていました。7月12日(日)夜11時、市庁舎における選挙人の会合で、彼らは翌朝にパリの六十の地区本部のそれぞれで緊急会議を召集することを決定します。このことを通知できる唯一の方法は、緊急時に認められている合図、――警鐘――、を鳴らすとともに、大砲を発射して太鼓を打ち鳴らし念を押すことでした。7月13日(月)朝5時、パリ市民は教会の鐘、大砲の射撃音と非常太鼓の乱打によってたたき起こされることになります。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊲】

パリ市役所に集まる選挙人にとっての課題は、昨晩から続く無政府状態にある現状をどう収拾するかでした。そこで事態をコントロールすべく臨時政府ともいうべき常任委員会を作り、その議長にパリ市長フレッセルが就任することになります。彼らには解決すべき問題が山積していましたが、最優先で取り組まねばならないと考えられたのが市民の武装状態でした。特に昨晩の「城門」の焼き討ちとサン・ラザール修道院の略奪で重要な役割を演じた貧民や失業者、浮浪者が勝手気ままに武装している状況を野放しにするのはパリ市民の生命と財産を脅かす恐れがあると考えたからです。



このような状況を解決する手段として、フランスの他の無数の都市と同じように、住民のうち選挙資格を有する者、――納税資格と居住資格――、に限定した民兵組織の結成を決定します。各地区で200名を動員すればパリに六十地区あるのだから総兵力1万2千名(のちに計画は各地区800名の動員、総兵力4万8千名に変更された)。



もちろん一般市民に戦闘経験なぞある訳ないですが、協力を承諾してくれたフランス衛兵隊を加えるならば、――彼らの訓練や指導をも期待できるので――、国王軍に抵抗してパリを守り、他方で無政府状態に起因する略奪から市民の生命と財産を守るという二つの任務を十分果たせるだろうと考えられました。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊳】

市民軍(民兵組織)の結成が決定されたとしても、身元が保証された正規民兵と一般市民の区別がハッキリとわかる記号が必要でした。というのも常任委員会の計画では、身元が保証された者以外、つまり治安を乱すと考えられる失業者や浮浪者の武器所持を許さない方針であったからです。正規民兵であるという証のための制服支給というのは、どう考えても時間的に無理でした。そこで上着と帽子に記章をつける案が出ます。



前日パレ・ロワイヤルでカミーユ・デムーランが提案していた緑色の記章は有力候補でした。ところが緑は希望の色ばかりではなく、アルトワ伯の従僕の仕着せの色でもあることが判明し除外され、パリの色である青と赤が正規の民兵=市民の証として採用されることになりました。



このようにして机上の計画として約4万8千の兵力を擁する市民軍が誕生した訳ですけれども、記章だけで戦える訳ではなく、彼ら全員にいきわたるだけの武器はまだありません。しかも群衆は、市役所に詰めかけて「自衛のための武器を!」と全市民の武装を要求していました。群衆からの要求、――武器をよこせ!――に対して市長フレッセルは、なんとしても時間を稼ぐ必要がありました。まず勝手に武器を所持している市民の武装解除、優良な市民により組織される市民軍への武器・弾薬の分配、その市民軍の巡回パトロールによって秩序を回復するまでの時間稼ぎのために彼は嘘をつきます。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊴】

市役所は群衆に包囲されており困り果てた市長フレッセルは、武器のありかとしてリュクサンブール宮殿近くのカルトジオ会修道院やシャルルヴィルの兵器製造所などをあげたものの、群衆が大挙してそこに向かい捜索しても武器や弾薬はありませんでした。というのも弾薬や兵器類の類は、数日前にブザンヴァル男爵の命令によってバスティーユ監獄や廃兵院へと移されていたからです。フレッセルは何とか誤魔化そうとしていましたが、そのうち群衆側も、――市内をくまなく探し回り、あるいは目撃事例を積み重ねて――、バスティーユに弾薬が、廃兵院に武器が保管されていることが分かってきます。



言を左右にして曖昧な返答で時間稼ぎするにも限界がありました。こうしてフレッセルは、群衆の求めに応じて、廃兵院の守備隊長ソンブルイユ侯に三万丁の小銃を引き渡すよう要請することを承知しましたが、これを受けたソンブルイユもまた武器の引き渡しは独断で出来るものではなくヴェルサイユからの許可が必要であるとして、回答をぐずぐず引き延ばして時間稼ぎを試みます。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊵】

群衆の要求をのらりくらりとかわしつつ、パリの常任委員会は行動の合法性を勝ち取るべくパリ選出議員ギヨタンに依頼して市民軍結成のための協力を議会へ要請しようと考えました。そこで選挙人のうち2名を急ぎヴェルサイユへと派遣することに決します。



ところで7月13日(月)の朝から開かれていた議会は蜂の巣をつついたような騒ぎでした。前日にネッケルが解任されたこと、パリが無秩序状態に陥っていることが判明していたからです。球戯場の誓いを提案したムーニエは、王権を激しく非難してネッケルの復職を要求し、また改めて憲法制定のその日まで議会を解散させないとの誓約を提案します。



続いてパリからの依託に従ってギヨタンは、パリの市民軍創設に関する動議を提案し、議会はただちにこれを可決して、国王とパリの両方へ代表団を送ることを決定します。
◎ロシア南下政策の展開

【バスティーユ襲撃㊶】

かくしヴィエンヌ大司教ルフラン・ド・ポンピニャンらは、パリの騒乱状態の報告と、国王軍の撤退およびパリ市民軍創設の許可を得るため国王の元に派遣され、同時にパリへの使者も準備します。国王の承認を得たならば、国王軍撤退と市民軍創設に関する許可をすぐさま同市に伝達する必要があったからです。ところが国王の返答はにべもないものでした。



*******************
『…パリにおける不穏な状況に対して、やむを得ずとっている手段について、余の意思は既に告げてある通りである。そのため既にとっている諸手段を変更することは出来ないし、その手段が必要か不必要かを判断し得るのは余のみであり、余はその手段の変更を認めてはいない。そのため議員がパリに赴くのは何ら意味を持たないであろう。…』
*******************



ヴィエンヌ大司教らが持ち帰った国王からの回答に議会は衝撃を受けます。国王はパリを無政府状態に任せたままにする気か!と。
という訳で、続きは第一次世界大戦前後の軍事史3へと思います!

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