ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

読書会(仮)コミュの読書会part1

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
このトピックで、読書中の感想をやり取りしようと思います。

また、コメントがたまり読みにくくなったら、part2を新たに作る予定です。

コメント(14)

こんにちは。以下「心の社会」第1章を読み直しての覚書みたいなものです。まとまった、体系的な記述が苦手なので、断片的な箇条書きになるかと思います。(前もって断っておくと、ちょっと緊張しています。読書会久しぶりなので)

2頁。
・「心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考を全く必要としないような簡単なことしかできない。」
僕はこの本を読む際に、この本とは割と無関係な問いを立てて読むようにしているのですが、具体的には、小説とは何か、思考の伝達とは何か、社会とは何か、音楽とは何か、表現とは何か、といった具合です。知能とは何か、心とは何か、という問いはわりと僕には関心が薄く、ただ心と知能を問う本書を読みながら、自分の関心事を思案すると考えが進むので、興味深く読んでいるという具合です。で、上記引用文なども、自分の問いに引きつけて考えてしまう。(当たり前といえば当たり前なことですが)心のエージェントたちに言えることは、文字などにも当てはまり、或る文章中の文字ひとつひとつには、大した情感も宿らなければ、描写でもありません。おそらく文字ひとつひとつには、指示機能さえない。じゃあ、文字ひとつひとつは無意味なのか、というと、それはよくわからない。ひとつひとつの文字は、他の文字との関わりの中でさまざまな意味を付加されていく、と捉えても良い気がするけれど、それだとなんだか(うまく説明できないけれど)意味ってものが、言葉の外側に用意されているみたいで気持ちが悪い。
流石に、「心の社会」から話が逸れてしまった(上に、明確な結論も示せてない)。
また、ふっと思ったことだけれども、「心のエージェントたちを、ひとつひとつとりあげること」は、不可能なのかな、と思う。人間は何事にも意味を見出す生き物だから、心をどんなに小さなプロセスに分解しても、そのプロセスに意味を見出すんじゃないかな、と。と書いたけど、何書いているのか自分でもよくわからなくなった。たぶん、あほな勘違いの羅列。
・「そんな説明のしかたんいなってしまうのは、実際には、私がうまく順序立てて説明できないからなのかもしれない。しかし私としては、そうなってしまうのは、どちらかといえば心の持つ性質そのものせいだと思っている。」
これは二つの見方で捉えた方が面白いかな、と思う。心の持つ性質そのもののせいで順序立てて説明できないし、また、心の持つ性質そのもののせいで、仮に順序立てて説明されても、われわれは順序立てて理解できない。これは同語反復だとは思うのだけれども、説明と理解は一体として捉えると、コミュニケーションがより面白くなる、気がしています。

・読みながらふと考えたこと。
人格の独立性と心がエージェントたちの社会でできていることは表裏一体かもしれない。おそらく、一人一人の人間の心がもつエージェントたちはかなり共通していると思います。が、そのエージェントたちは、或る社会性を持たないと心という現象を生み出さない。うまくいえないのですが、一人一人の人間がそれぞれにことなる社会性によって心を作り出しているがゆえに、他者の心と事故の心が融合しない。
・上記に書いたこと発想の根本には、こんな疑問があります。
そもそもの疑問として、仮に、心を構成するエージェントたちが、人間一般に共通のものだとしたら、淡水と海水を同じコップに入れたら混ざり合ってしまうように、人間の心と心も混ざり合ってしまいかねないのではないか、という疑問です(あるいは、人と人との心がトランス状態というか、ある種融合しているように見えることがあるけれど、そうした現象を、心の社会の考え方だとどう捉えるのかなあ、と)。しかし、水と塩水は混ざり合っても、たとえ同じ物質でも構造がしっかりしていれば混ざり合うことはないです。例えば、同じガラス製品でも、常温なら溶けて混ざり合うことはないです。となると、エージェントたちの社会というのも、液体ー個体の比喩で捉えたらいいのかなあ、と。

なんだか、適当に書いてしまいました。(もしかしたら、自分は読書会に向かない人種なのかもしれない。)本文四頁までいけなかった。。。

また、明日あたり何か書きますー。初日は失敗。
この頃、気落ちしており、予定通りに進めなかったのだけれども、一章残りの覚書。

「1・1心のエージェント」
本書に書かれていることを反復するだけかもしれないけれど、知能とは何か?という主題から、心を構成するエージェントとは何か、また、心の理論へと主題が移っていくのが面白く感じた。というより、初読時はよ見逃していました。
知能と心を使い分けている点も、改めて読むと興味深い。知能とはその名の通り知性を発揮する機能のことだと思いますが、この知能は知能を持たないエージェントたちが互いにうまく作用し合うことで現れる現象です。しかし、心の定義には、知的である、という条件はない気がします。すると、心を構成する一つ一つの小さなエージェントも、小さな心、心の一部とみなせるが、一方、エージェントを小さな知能、知能の一部とみなすことは、定義上おかしい。上記のように心と知能との差異を際立たせられるのは、この理論の面白いところかもしれない。
本節に描かれたことの反復に過ぎない気もし、また、当たり前のこととも思いますが、(心の)理論も心同様、知的でない小さなプロセスによって構成されるのかな、と思いました。「確かに
、問いそれぞれをバラバラにしてしまうと、どれもむずかしそうに見える。しかし、心をエージェントの社会とみなしたとたんに、一つひとつへの問いへの答えが他の問い全てに対して光をあてることになるのである。」とありますが、個別の問いが難問なのは、その問いが実は、あまりに単純すぎるからかもしれない、知的でないからなのかもしれない。(これは僕の直感ですが、問いとは、全体を俯瞰しないもの、物事を部分に分けるもの、な気がします。例えば、或る人に様々な質問をぶつけ答えてもらうことで、その人の個性が浮き彫りになります。)で、理論そのものも、様々な問いという単純なものの社会として成り立っている、だから、問いを個別ではなく綜合して捉えると、「一つ一つの問いへの答えが、他の問い全てに対し光をあてることになる」だろうな、と。(こうした考え方は日常生活にも実践的に応用できるかもしれない。具体的には、一つの問いにこだわるのではなく、同じ主題にまつわる問いを大量に作り俯瞰することで、何かわかってくるかもしれない。ひたすら問いを作り続けたら答えが見える、ということなので、とても楽でありがたい方法論。)
また、だとすると、それぞれの問いを結びつける何か、があるわけで、それはなんだろう、と思います。
また、知能とは、確固たるものとしてそこにあるのではなく、燃え盛る太陽のように、常に運動し続ける活動としてそこにあるのだと思います。だとすると、理論とは、知能のあるスパンでの運動なのかな、と思ったり。(我ながら、話がわき道へそれ、かつ、文飾がわちゃわちゃしている。)
本節の謎として、第一段落と第二段落に飛躍があるように感じます。読者も作者と一緒にその飛躍を軽々と超えることが、読解、だと思うのですが、やや難しい。

「1・2心と脳」
この節は、なんだたとてもとっつきにくい、と感じました。「そして、これからこの本で示すのは、どうすれば《心のエージェント》と呼ぶ小さな機械が、長い間私たちの求めてきた理論の《基本的な要素》になれるのかということなのである。」という表現から目に見えないものを探求するとはどういうことなのか、を学んだ気がします。目に見えないものを探求する以上、その目に見えないものは機械的でなくてはならない、完全にランダムな運動をされたら目に見えない以上捉えようがない。あれこれ考えたけれど、うまくまとめられない。

「1・3心の社会」
以下、二、三日に1回程度、僕のあれこれ考えたこと〜を書き込むことにします(半読書日記化)。
気楽にやりますー。
久しぶりに、続きを書こうっと。今日はまだ、最高気温29度とさほど暑くない。

「1・3心の社会」を、ここ数日繰り返し読んでおり、読むたびにあれこれ考え面白いのですが、うまくまとまるかどうか。完全にわき道にそれることも書きます。

心のエージェントについてあれこれ考えていたら、ふと、知能は脳ではなく、音に宿り、心のエージェントたちも音の中に存在していると捉えてもいいのではないか、と妄想が膨らみました。個人的な特質なのですが、僕は人の話し声やある場所の音をある程度の長さ聞くと、その音がしばらく頭にこびりつき、自分の思考をよく言えば融合、悪く言えば侵食していく気がします(学生の頃修学旅行が終わっても数日間修学旅行の音が聞こえて学校行くのが嫌になったり)。心のエージェントというのは、知能を持たないプロセスの社会から知能を見出そう、という発想だと思います。じゃあ、物質性?を持たない音の連なり、音の社会から脳、というか知能を見出そう、と妄想しても面白いかも、と。

エージェント同士が互いに無関心、という記述から、エージェントの社会は、行政組織のように縦割りなのだろうかなあ、と連想。縦割りの組織とは、お互いに無関心でもあるが、お互いに依存しあえる(役割分担ができている)のだなあ、と今更な理解(縦割り組織には、悪いイメージが強かった。反省)。役割分担や住み分けと(というのは僕の一つの解釈に過ぎませんが)依存という言葉が結びつくとは思っていなかった。しかし、同時に、「平衡を取ること」や「のどがかわいていること」などが、互いに依存している、というのがどういうことなのか、いまいちイメージが浮かびません。「平衡を取ること」と「のどがかわいていること」は僕の常識では、かなり隔たりのある互いに無関係そうな事柄だからです。ただ依存関係と事柄同士の親近性?とは無関連だよなあ、とも。依存とは何か、という理解が深まりました。少し。

「科学では、最もつまらなく思えるものを研究することによって、最も多くのことが得られる。」この言葉に対し、特別な感想はないのですが、単純に、次節以降の展開が楽しみです(二度よんだことのある本ですが、大体忘れているので。)。ふっと思ったのは、知能というのも最もつまらなく思えるものの一つだな、と。

まるでよくわかりませんが、知能について考えるのが興味深いです。うまく、形ある思考に結実すれば良いな、と思っています。
だいぶ日が経ってしまったのですが、読みながら思ったこと考えたことの続き書こうと思います。
ここしばらく「1・4積み木の世界」を繰り返し読んでいるのですが、「1・3心の社会」で出てきた「エージェント同士の依存し合っている」という考え方に強く心が惹かれています。まだ言語化が難しいのですが、依存関係というのは、強いつながりのようでもあり、同時に、双方が互いについて無関心な関係でもある、ということに混乱と思索の可能性を感じています。なんて言えばいいんだろう。相関関係とか、関数とか、依存という語から、ごちゃごちゃと様々な言葉を連想します。
自分という存在も無数の何かと依存し合っていると考えると(それはただの縁起思想かもしれませんが)、なかなか面白いです。ありとあらゆる物事が互いに関係し合っているというのが仏教でいう縁起だとして、「心の社会」における依存は、あらゆるエージェントが互いに依存しあうことで、何か総合的な働きをする、という発想だと思うので、縁起のようであり、縁起でないようであり、興味深いです。
依存、という発想は、人間や個人の可能性を開く発想だと感じます。


「1・4積み木の世界」
面白い節なのだけれども、具体的な感想は引っ張り出せませんでした。

これは、完全に混乱した理解ですが、プロセスが無数に分けることができる→膨大なプロセスが存在している→山のようにあるプロセスに対して無自覚である、というのはちょっと逆説っぽくて面白いな、と思いました。
ちょっと話は逸れますが、なんで、この世の中に80億程度しかいない人間は視認できるのに、この世の中に数え切れないほどある無数の水素原子は視認できないのだろう、などと思ったりします。数の上では多いのに。ただの混乱です。

これは妄想ですが、人間の内部にエージェントを見出すと同時に、人間の外部にエージェントを見出すのも面白いかも知れない、と思いました。神の知性も心の社会の理論で解明してみる、という発想です。

「エージェント小さな部分に分ける」とは、どういうことか具体的にイメージがわきません。考え中。

よくわからないですが、人間の能力を無数のエージェントに分割して人間の知性を俯瞰するという発想には、時間の流れが存在しない気がします。この世の全ての出来事を記述できた場合、その記述に時間の流れは内在?するのか、みたいな。

ちょっと適当に書きました、暑いですね。
追記、
多分なんですが「依存」というのは力の論理、国際社会におけるバランスオブパワーに似ているのではないかな、と思います。まだ理論的には説明し難いので比喩的な説明になります。
「1・5常識」
だいぶ時間が経ちました、けれど、この「1・5常識」という節はとても興味深い節だと感じています。何に興味を膨らませたか、全て書けるだろうか、不安です。

・夢の中、と、漢字の成り立ち、に付いて連想しました。
僕たちは夢の中で、この物理世界の模倣を展開します。しかも、リアリティたっぷりに。しかし、夢の中の世界は一見臨場感に満ちているようでいて、細部に複雑さは宿っていない気がしています。物理世界では、小川の流れや葉っぱの揺らめき一つ一つが複雑系で、1)次の動きが予測できない、かつ、2)膨大な情報が同時多発的に展示されています。その一方で、夢の世界はズームインズームアウトが自在に行えます。夢の世界で一枚の葉っぱの揺らめきが気になったなら、ずっとただその葉っぱの揺らめきだけを注視することができます。なんというか、この、夢は現実の複雑さを再現していない、にも関わらず、細部をいくらでも追求できる、という夢の性質と幼児期の学習がどこかで重なり合うような気がしました。
漢字の成り立ちは、単純な連想です。漢字とはもともと事象を表す絵でした。しかし、時代とともに記号としての側面が強くなり、もともとの絵がなんであったかがわからなくなるほど単純化されました。この様は、幼児期の学習→常識、という流れに似ている気がします。

・心の世界。
夢の話と繋がる気がしているのですが、常識とは、心だけの世界、と捉えると理解が進むのではないか、と思っています。なんというか、物理世界とは直接の繋がりのない、心の中だけで完結した社会=常識、という捉え方です。「1・5常識」の記述を読んだ印象ですが、ここでは、エージェント同士をどのように関係付けるか、という問題に終始しています(というより、心の働きとは元来全てそうなのかもしれませんが。)。エージェントは心を構成するプロセスであり、となると、常識とは、心を構成するプロセス同士をどのように組織化するか、という問題になります。人間の常識とは、物理的世界と直接の関わりを持たない。となると、1)常識を探求することは、純粋に心を探求することである。2)常識と物理世界における現象とに齟齬が起こることは十分にありうる。3)心の有り様によって、常識の運用のされ方は変わりうる、変わっていく。

・常識はゾーンではないか。
ゾーンを中庸と言い換えてもいいと思います。ただ、中庸では、道徳的な意味づけが付きまとうので、誤解を招きやすい。子供の頃のことを思い返していたのですが、積み木遊びにしろ他の遊び(例えば将棋)にしろ、常にあたふたしていた気がします。そのあたふた感を別の言葉で表現すれば、あっちも見ないといけないし、こっちも見ないといけない、あっちをなんとかしようとしていたら、こっちがうまくいかなくなって、全体としてめちゃくちゃになる、です。将棋で言えば、攻めばかり気が向いていたら、逆に攻められてしまっていて、じゃあ、攻めも守りも同時に注意を払おうと思ったら、考えることが増えすぎて、頭がパンクしてしまう、みたいな感じです。こうしたあれもこれも考えなくてはならない状態だと脳が過労してしまい、立ち行かなくなるという状況を解決する方法が常識かな、と。だとすると、常識とは、あれもこれも考えなくて済む状態のことです。で、ちょっと説明が飛躍しますが、あれもこれも考えなくていい状態とは、ある一定の枠内に収まっている状態のことではないかな、と思うのです。積み木遊びで言えば、見るからに危なっかしい積み木と積み木がズレズレの塔を作るより、全ての積み木が下の積み木の枠内にだいたい収まっていれば、細かいバランス感覚なしでも安定して積み上がっていきます。なんというか、細部こそ情報量が増す、という実感があります。0.1倍速で映画を見たら、映画の様々な細部に気がつくと思うのですが、とんでもなく手間だし、処理する情報量もバカみたいに増える。そうじゃなく、細部を切り落とした上で、これくらいが妥当だろうと思われるゾーン内に自分の行動を制限するそれが常識なんだろうな、と。少し長くなりました。ただ、そうして自分の行動を制限した上でなお、さらに自分の行動の可能性が開きうるのが不思議でもあります。(例、積み木の積み方という常識を手に入れた結果、壮大な積み木作品が作れるようになる。など)

・その他
常識と感受性について考えて見たいところです。
常識と空想の世界はどこか繋がっている気がします。空想とは自分の好き勝手に思い描ける世界のことだし、常識とは人間が思うがままに活動するために習得する何かだから。
常識と欲望の充足について。
常識と客観について。
常識と内部表現について。
しばらくかけそうにないので、駆け足ですが、1・6節も書いておきます。

「1・6 エージェントとエージェンシー」

「この本の目的は、知能をもっと小さなものの組み合わせで説明することである。」という方針に、改めて考えさせられました。分析とも綜合とも違う考え方なのかな、と。ある対象を細かく分解して、その分解した一つ一つのパーツについて研究する、ではなく、知能とは別のより小さなものの組み合わせの中に知能らしさを見出そうとしている?と解釈しました(ただ、この解釈間違っている気がします。でも、面白い解釈だと思う。)。この研究方法は、説明という概念を覆すものだと思います。いわゆる説明とは、〇〇には××という性質がある、みたいな、〇〇は××だ、という形式だと思うのですが(実は哲学知識がかなり半端なので、だいぶぼんやりした表現になってしまっています。)、「知能をもっと小さなものの組み合わせで説明すること」は、「知能とは、もっと小さなものの組み合わせである」ではない、からです。(うーん、つまらないことを書いている気がしてきました・・・)ラフに今考えていることを述べると、組み合わせとは比喩に他ならず、比喩とは無数にある組み合わせのうちのある一組みにすぎない。で、そうした比喩を極めることが、科学の最前線となっている。

・エージェントとエージェンシー
実は初読時、エージェンシーという概念がよくわかっていませんでした。今もよくわかっていません。それはさておき、エージェントとエージェンシーの関係を考えると、自意識というものを連想します。自意識とは、自分自身の存在を意識に上げること、ですが、自分自身の存在を意識にあげていながら、自分についてまるでよくわかっていない状態が自意識であります。例えば、僕は今、暑い夏の昼下がり部屋でPCを操作している、という自分の現状を意識にあげ見ます(自意識)、しかし、だからと言って、僕は自分について何もよくわかりません。「ふーん、暑い中PCを操作してるんだー」くらいの感想しか湧かない。痒さや痛みに意識を向けた場合も、同様で、「痒い」「痛い」という感想くらいしか浮かびません。なんというか、僕たちは、自分自身の存在や自分自身の行動様式に意識を向けたところで、わかったようで、わからない、のではないか。で、エージェンシーというのも、その程度のことではないか。エージェンシーとエージェントに、わかるーわからないという軸で、本質的な差異はないのではないか。
一方、僕たちの内省は、いつだって部分的?です。心の一部分しか一度に内省できない。それも僕たちの心が無数のプロセスによって構成されているから、ではないか。特定のプロセス(エージェント)をエージェンシーとして一時的に活性化させること、が内省で、だから、心の一部分しか一度に内省できない。
22日に入院が決まったので、書けるうちに感想書き進めておきます。前回で一章を終え、二章に入りました。

二章の小扉には、以下の引用があります。
「人間は心の性質によって同じ仲間に属するかどうかが決まるのであり、複雑に関係しあって心を構成している物質としての原子の輪郭や形やふるまいの違いは、全く取るに足らないものである。」
なかなか考え深い言葉だと思います。第一に差別の論理として、第二に孤独の説明として、また、仲間と共同体の違いについて考えるとっかかりにもなる気がします。(ちなみに、僕は、ここでいう心の性質は人間なら誰でも備えている均一の性質、ではない、と捉えました。人間には様々な心の性質があり、その性質のいかんによって同じ仲間に属する華道家が決まるのであり、と。ただ、一方で、心を構成している物質が複雑に異なっていても、同じ心の性質を持つことは可能だ、とも読みました。このように読むのは、これまで、僕が、他者の相互理解に達せられなかったことにも由来していると思います。)
上記の文章は、非キリスト者は人間ではない、という大航海時代の論理でもあるし、心の性質には様々なバリエーションがあるから、人は孤独なのだ、という孤独の一応の説明でもあるし、たとえ所属する人たちの心の性質が異なっていても共同体は成立しうる、と僕は考えているので、仲間とは別物としての共同体、共同体とは別物として仲間とはなんだろうか、と考える縁になります。
しかし、これを書きながら、仲間、とは心の性質ではなく、環境によって育まれるので、という疑問も沸きました。自分と同じ機器的状況に陥っている人に対して僕たちは仲間意識を持つだろうし、自分と一緒に生まれ育った仲間(環境を共にした仲間)が、不当に扱われたら憤る(例:欧米における非黒人によるblack lives matter運動)。しかし、これも卵が先か鶏が先かという話で、様々な環境要因の結果、同じような心の性質が人々の間に共有され、結果、仲間意識が生まれた、という説明が妥当な気もします。話が脇道に逸れますが、だとすると、心の性質とは、個々人にとっての問題ではなく、いかに多数の人々によって、その心の性質を共有するか、という問題になる。よく心の世界はその人独自の治外法権自由空間、のような捉えられ方をしますが、実は、心とは本来、個人の宝物、ではなく、皆で共有するものなのかもしれない。

「2・1 要素と接続」

・前回の感想への補足ですが(というか前回書いた気もしますが)、自意識をエージェンシーと結びつけて理解しているのですが、自意識の特質とは、自分で自分を意識をしているにも関わらず、自分の中身について一切感知できていないという特徴があります(例、私はアイスを食べたい、と思いっているという自意識があったとしても、なぜアイスを食べたいと思っているのか、と問う自意識は想定しにくい気がします。適当な直感ですが、自意識とは、心の働きの外面をなぞる行為であり、無意識とは心の働きに対して問いを発すること、なのではないか、と思います。なんというか、問い、というのは、伏せられたトランプカード、という連想が働くんです。伏せられたトランプカードをひっくり返すと、どの数字のカードかわかります、これが問いに対する答えに相当します。しかし、表へひっくり返されることなく、ただ、裏向きに伏せられたカードは、永遠に問いのままです。この永遠に問いのまま、というのが、無意識、という語感と繋がる気がするのです。完全に連想ゲームですね。意識とは本質的に何にもわからないからこそ、無意識という概念が要請されたのかもしれませんね。)。このように自意識についての特徴を念頭におくと、本文の反復になりますが、エージェント=内面、エージェンシー=外面という捉え方の違いも理解できるのでないかな、と思います。

えっと、何を書きたかったんだっけ?忘れてしまいました。

(つづく)
(つづいた)

・僕は、社会でうまく泳げていない人間であるため、以下の記述を深く考えてみたいと思いました。
「私たちのコミュニティで何が起こるかを予測するには、一人ひとりのできることがわかるだけではだめである。個人同士が組織としてどう関係しているか、つまり誰が誰に話をするのかを知らなければならない。」
第一に、僕自身は、誰に話をするのか?を知りたい。第二に、僕の周囲の人々が誰に話をするのか?を知りたい。という欲望、というか、課題を感じました。この人間のコミュニティを一旦伝言ゲームとして捉えてみて、伝言ゲームとして、僕の言葉はどこからどこまで届くのか。
しかし、一方で、この人間のコミュニティは、伝言ゲームとしてだけ捉えては短絡です。「個別のインタラクションが組み合わさって」外側から見て、何がどう行われているのか、を知らなければならない。この社会を外側から見る、というのも、社会の自意識だと思います。
そして、その自意識は、ただ因果律を把握するだけ、ではない。というか、因果律の把握、ではない。社会全体としてA→Bとなった、という観察=社会の変化に因果を見出す、ではなくって、個々人間のインタラクションの結果、今回は、こういうことになった、という認識だと思います。適当な霊が思い浮かびませんが、個々人間のインタラクション(個々人間のインタラクションって同語反復ですか?今更ながら)の結果、Aという機能が発揮されることもあるし、Bという昨日が発揮されることもあります。同じ木材からでも、家を作ることも船を作ることも本棚を作ることも可能、というのと本質的に同じです(たぶん)。で、こういう認識法って因果で世界を見る、とは少し違うんじゃないかな、と思うんですね。

雑記、
・常識とアプリオリ
幼児期の学習により常識を形成すること、と、この世の中にはアプリオリな真理が存在するんだという信念とは、必ずしも重ならないはずです。僕は、人間の悩みとは、アプリオリな真理が存在するんだという信念に由来すると思うのですが、となると、常識にがんじがらめでも、アプリオリな真理を否定することは可能で、悩みから逃れることも可能なのでは、と思うわけです。

・創作
創作においては一応の完成があるため、上記の因果律を超えた社会認識を作品全体にわたって敷衍することは、できないかもしれない。

ちょっと背伸びして書きました。僕は人から尊敬されたくて尊敬されたくてたまらない人間なので、背伸びしたがるのです。背伸びが成功しているか失敗しているかはわかりません。自己を客観視できるほど頭が良くないので。我ながら何書いてんだかよくわかっていません。
「2・2 新説論者と還元論者」について書きます。この節は、かなり好きな節で、頭の中がアイデアとアイデアでぎゅうぎゅうになるくらい連想が働きます。

・「過去の考え方を適用し続けるべきか、それとも新しい考え方を試してみるかを決めなくてはならない。どちらに決めるかは、私はパーソナリティの問題だと思う。」この文章がとても心に引っかかります。1)個々人は生来、新説論者、還元論者どちらかの(あるいはより一方の傾向の強い)人格を有しているのだろうか、という考えがまず魅力的です。2)また、人間はそれぞれ新説論者の人格、還元論者の人格を有しており、場合により使い分けているとすれば、その使い分けは、人生という後戻りできない旅の舵取りに相当する気がします。人生のどの場面で、新説論者となるか、還元論者となるか、その組み合わせによって、同じ人間の思想も千変万化する。おもしろい。

・「ふつうは、還元論者の方が正しいーー少なくとも科学の科学たるべき中心部分ではーー。なぜなら、そうした中心的部分では、ただ新しいというだけのものがずっと生き残ることはほとんどないからである。しかし、そういう部分から一歩外に出ると、新説論者のほうが強くなる。」この記述から僕は大航海時代前の新大陸発見を連想しました。新世界(南北アメリカ大陸)が発見されたからと言って旧世界(ユーラシア)が消えて無くなるわけではない。しかし、旧世界を離れ、大西洋を横断しなければ、新世界は発見されなかった。ただのアナロジーにすぎないかもしれません、が、手触りあるイメージが浮かびます。どんなに新しいものが出てきても、今ある、物・事は永遠である、という発想を還元論者にみることはできないだろうか、とも思います。それは、今ある物・事を、相対評価を離れて評価することかもしれません。僕の好きな漫画に「ワールドトリガー」という少年漫画があるのですが、その16巻に「新しい連中がどれだけ派手に追い抜いて行っても それであいつらの価値が消えて無くなるわけじゃねえんだ」という台詞(モノローグですが)があります。だいぶ本筋がずれていますが、還元論者とは科学を探求するスタイルと同時に、そのような世界への向き合い方でもある気がします。

・新説論者の探求方は、星座探しのようだ、と連想しました。夜空には無数の星々が輝いています。今の僕らにはそれら恒星へアプローチする方法が(たぶんですが)ないはずです。でも、その手の届かない領域に思考を伸ばしたい。だから、てんでバラバラに存在する星々にその位置関係から何らかのパターン性(星座)を見出し、そのパターン同士にもまた、大きなパターンを見出そうとする。なんというか、親切論者とは、遠くにあるもの、未知のものを、多数ピックアップして、そのかき集めた、「未知」の間の関係性や類似性を見出す姿勢なのではないかな、と。となると、古代の占星術の研究も新説論者的だったのかもしれない。神話などもそうで、雷、地震、噴火といった「未知」なものを寄せ集めて、それぞれの間に社会を見出す。神話の創造と、「心の社会」でM・ミンスキーが提示しようとしている思考は、同構造かもしれない。

続きます。
続きました。

・物理化学では、物質をどんどん小さく分析して研究を深めています。分子→原子→電子陽子中性子→クォークと。実は、心理学などで扱う(だろう)物理的空間を持たない情報も、物理化学同様にどんどん小さく分解可能なのではないか、と思うのです。例えば、TV画面は、映像という情報を映し出しますが、ブラウン管をすぐ近くで凝視すると、三原色の小さなつぶつぶが見えます。まあ、コンピュータは0と1で表現できるって話でもあるのですが、僕が言いたいのは、コンピュータの0と1や、DNAのアデニン、グアニン、シトシン、チミンという情報の最小構成要素のことではなく、最小の情報のことです。情報とは、関係性なんだろうと思っています。ABCという文章があったとして、Aの次にBがきてBの次にCが来るという順番(関係性)が、情報なのだろう、と思っています(なんか違う気もしてきましたが)。関係性であるから関係の構成要素より関係性が小さく?なることはできないように直感的には思われます。ですが、実はそうではなく、関係性も関係の構成要素同様、究極の小ささ?まで追求可能なのではないか、と根拠なく考えています。根拠ないです。その究極の関係性とは、be動詞のようなAはBである、とかそんな二者関係のことではないです。
で、この関係性(情報)の究極の小ささと物質の最小構成要素のあり方には何らかの違いがあり、その違いが、心理学と物理学の理論の複雑さの差にツンがっている気がします。
なんというか、例えば、個人的な心理的葛藤って、物理学で研究されているクォークなんかより、はるかに極小でしょうもないもののような感じがしません?しょうもない感じ、とは所詮主観的判断ですが、心理的機微って、クォークより微細な気がするんです。

・「〈一般〉法則は確かに何にでも当てはまる。しかし、ということは、一般法則はどんな物事に対してもほとんど説明の役に立たないということなのである。」この記述も面白かったです。要は、存在のあり方の記述は、物事の説明にはならず、物事の説明とは、存在同士の関係性の記述である、ということじゃないか、と思います。1)関係性とはそもそも何か?2)何が関係性を見出すのか?3)普遍的な(誰の目にも見出される)関係性はありうるか?4)関係性は不変か?5)関係性は、変化するのか、消滅するのか?6)あらゆる関係性いずれが変化、あるいは、消滅するとすれば、全ての関係性が同時に?変化あるいは消滅してしまうとはどういうことか?なんだか、適当な疑問が湧きます。

・心理学の法則が物理学の法則に矛盾するものであってはならないとはどういうことか。人間の心がどれだけ変化しても、変わらないものがあるってことか。

・「物理学のように、これまでほんの少しの原理で対象を記述するのに成功してきた科学があった」とは、つまり、原理(理論)の構築の目的は、対象を記述できるようになること。ところで、心理学では、物理学と違って、「何百もの小さな理論を組み合わせなければならない。」だとすると、その記述の「文体」が、だいぶ根本的に変わってしまう。小説における文体も様々な理論複合体、とみなすことができる、と思う。例えば、夏目漱石はよく、男女間のあれやこれやを書くわけだけれど、すごく雑に説明すれば、男の行動原理(男の振る舞いとはこういうものだ理論)と女の行動原理(女の振る舞いとはこういうものだ理論)の併用によって、男女間のあれやこれやを記述しただと捉えられます。もちろん、夏目漱石はもっと複雑で多様な理論を構築していたと思いますが。小説では、多数の複雑な理論の併用によって文体が練られる、としたら、詩や短歌などはどうだろう。詩は段落ごとに変調することがままある。それはあたかも、使用している理論を段落ごとで使い分けているようでもある。短歌はたった一つの理論で対象を記述しているようでもある。また、そのような詩や短歌作成者の態度は、新説論者なのか還元論者なのか。僕は、還元論者として捜索することが可能(絶対条件ではない)な創作物が、伝統的創作物(法、伝統的形式)となりやすい、と何となく思います。

適当に書きました。まだ未読だけれど、Cubさんがnoteに短歌論書かれていたのをチラ見し、触発され、こんなこと書いたのだと思います。電波です。ゆわんゆわん電波が飛んできました。
「2・3 部分と全体」

やはり、じっくり繰り返し読むと得るものが大きいですね。とても、明瞭な、思考と視界を開く内容が展開されているように感じました。

・なぜ全体論とかゲシュタルトとかいう考え方が要請されたかといえば、それは私たちの視野が狭かったから、に過ぎないと思います。例えるなら、私たちは小人で、そんな私たちの前に富士山くらい背の高い巨人が立っているわけです。あまりに身長差があるので、私たちは彼の足元くらいしか見えません。ゲシュタルトという考え方が生まれるまでは、巨人の足首を見つめあーだこーだ議論し、次に巨人のふくらはぎを見てあーだこーだ議論していた。だが、もし、私たちが小人ではなく、相手の巨人と同じだけの背丈を持っていたなら、巨人の全体を視界に収めることができ、相手を一つの個物として扱うことができる、そうすべきだ、というのがゲシュタルト主義?だと思います。しかし、ここで問題があります、私たちはあくまでも小人であり、ドラえもんのビッグライトがない以上、巨人にはなれないということです。巨人になれずともなんとか巨人的視野を得ようとしたり、相手の巨人の全体像を「視覚以外」の方法で捉えようという試みが、たぶん、構造主義とか、そこら辺の哲学の潮流なのではないかな、と思います(てきとー語ってます。てきとーにそれっぽいこと?語るの得意(なつもり)なので。)。

・私たちは小さい、しかし対象はとっても大きい。そして、その対象には物理的なものと心的なものとがあるようです。私個人としては、物理的なもの心的なものと単純に二分したくはなく、心的なものもさらに様々な角度から分類可能だろう、と直感しています。物理的な対象には、上記のようになんとか自分自身も巨人になって巨人の視野で対象を捉えようともがいてきました。しかし、心的な対象は、心的なので、目に見えません。見えないものの全体をどう見る(捉える)か、が問題となるわけです(うわ、冷静に考えると、めっちゃむつかしい)。私は本文に即してこう考えます。視野も一つの形式である。イメージとしては額縁です。あるいはカメラのフレームです(同語反復かも知れませんが、イメージを伝えようとしているだけなのでどうぞお許しを、ってなんか今回は一人称を私にしているためか、ちょっと女教師?っぽい人格で書いています。うわー。)。心の対象を捕らえるに際しても、そのような心のフレームが個別にありうるのではないか。ただし、注意を喚起しておきたいのですが、それはただの枠組みであり、その枠組みから心的対象は必ずはみ出します(だから、こそ、ゲシュタルトという発想が生まれるわけですから)。しかし、どのような対象(物理的対象、心的対象ともに)に対し、どのようなフレームが適当か、を半ば経験的に模索し探り当てることが、ゲシュタルト主義に取って代わる、新しい対象認識へのアプローチ法だと思います。そのそれぞれの対象にそれぞれ適当なフレームとは、対象そのものを包含できなくても、対象を測る単位にはなるわけです。身長を測るためにたくさんのセンチを積み重ねるようなものです。

しかし、私たちはもう一つの課題を考えなければなりません。なぜ対象を細分化せず、一つの連続体として捉えられるのか。幼児期において、私たちは、鎖を、ここバラバラの無数の鉄の輪ではなく、鎖という連続体として捉えられるように自分の認識を訓練します。(なんか、疲れてきた。ふへえ。文体や論旨がくずれてたらごめんなさい。)1)なぜ、バラバラな世界のままじゃ生きていけないのか。2)連続体として認識するとはどういう認識か。3)連続体として認識することと対象同士の連関を認識することとはどのような関係にあるのか。4)連続体を認識できない赤ん坊はなぜ気が狂わないのか。5)赤ん坊は世界を一つとして認識しているのか。6)赤ん坊の視野とは。
なんか後半、思いつくままって感じに、頭に浮かんだことを書きました。

ともあれ、この2・3節はかなり重要な節だと思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

読書会(仮) 更新情報

読書会(仮)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング