ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

哲学 Φιλοσοφιαコミュのウィトゲンシュタインをめぐる考察

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ウィトゲンシュタインの遺した言葉は私たちにさまざまな思考をもたらさずにおかない。哲学というものが他人の考えを鵜呑みにして自分に移植するような行為ではなく、何よりも自ら汗をたらして考えることだとしたら、ウィトゲンシュタインが私たちにもたらしたこうした効果は一つの真の恵みだと言える。
ウィトゲンシュタインに絡んで考えたこと、浮かんだことなどを自由に気軽に書いてみましょう。互いに語り合ってみましょう。


「何かが善だとしたら、それは神的でもあるのだ。不思議にもこの言葉は私の倫理学を要約している。」
(ウィトゲンシュタイン『所感集/反哲学的断章』より)

コメント(466)

>>[427]

「理由といっても、女の理由なのです。そう思うからそう思う......だけのことです」というのは女の人に対してちょっと失礼のような気がします。
「a=7,b=5/∴a+b=12」は私にも正しいとしか言いようがないように思えます。ペアノの公理と加法の定義により、ア・プリオリに正しいのは間違いありません。誰にとっても正しいのだから、「女の」と関するのはやはり不適切であるように思います。
問題は、やはり自然数論の完全性(というよりこの場合は無矛盾性)ということなのでしょうが、自然数論の無矛盾性を証明できないのは自然数が無限集合であるからです。 「a+b=」の式の変形は無限にありますから、もしかしたら、「a+b=‥‥‥‥‥=13」となるような式があるのではないかという可能性を否定しきれないというだけのことです。
自然数が実無限でさえなければ数論は完全です。だから例えば、一兆を越える計算は必要でないことが分かっていれば、一兆=0という式を公理に追加してやると、数論を完全にすることができます。上限はいくらでも大きく設定できるのだから、現実問題として、「a=7,b=5/∴a+b=12」は誰にとっても正しいと言って問題ないように思います。不完全性定理を理由にそれが正しくないこともあり得るような言い方には違和感があります。

当該論文の、40頁「自然数論は決定可能でないどころか、完全でさえないことが証明されている。」という表現は明らかに間違いです。多分この論文の筆者は不完全性定理を十分理解していないと思われます。
もし、自然数論が不完全であることが証明されれば、それはそのまま自然数論が無矛盾であることの証明になります。すべての数学理論は完全であるか無矛盾であるかのどちらかであるのは明らかです。
もし数学理論が無矛盾であれば、その理論内で完全性も無矛盾性も証明できないというのが、不完全性定理の趣旨です。

※※※※※※
[428]は次の個所が間違えていたので削除しました。(「完全」とすべきところを「不完全」としていました。)

すべての数学理論は完全であるか無矛盾であるかのどちらかであるのは明らかです。
[429] の補足として不完全性定理について少し説明します。

第1不完全性定理:自然数論を含むような数学理論は無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理:自然数論を含むような数学理論は無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

証明も反証もできない命題のことを「決定不能命題」と言います。つまり、自然数論が無矛盾であることを前提とすると、決定不能命題が存在することを証明したのが第1不完全性定理です。ここで言う数学の完全性とは、正しい命題は必ず証明でき、偽命題はその否定が証明できることを意味します。
もし、理論が矛盾していれば、どんな命題も証明できてしまうはずですから、矛盾した数学理論は完全であるはずです。逆に言うと決定不能命題が存在するということ、つまり不完全な数学理論であることは、その数学理論が無矛盾であることの十分条件になります。
しかし、数学理論の無矛盾性を前提としなければ、決定不能命題が存在することを証明できないというのが第2不完全性定理です。

ちなみに、ウィトゲンシュタインはゲーデルの理論には全く関心を示しませんでした。彼は数学に関しては構成主義で、実無限の概念を認めなかったからです。
 「6・031 集合論は数学では全くよけいである。」(論理哲学論考)
「2+3=5」はア・プリオリに正しいということについて、

ペアノの公理と加法の定義から、
「2」は「1」の次の数ですから、「1+1」と表記できます。
同様に「3」は「2」の次の数ですから、「1+1+1」と表記できます。
すると、「2+3=5」は 「(1+1)+(1+1+1)=1+1+1+1+1 」ということになり、我々の直観(論理)はこれを受け入れざるをえないのです。これが「女の論理」であるならわれらはすべて女であります。

もし、自然数論が矛盾しているということであれば、なんらかの式の変換を施すと、2+3=4 というような結論が導き出せるということになります。つまり、「(1+1)+(1+1+1)=1+1+1+1 」という受け入れがたい事実も我々自身の論理から導けるということを認めなくてはならないことになります。
同一律も無矛盾律も否定しなくてはならない。これはカオスを意味します。A≠Aもあり得るし、A=非Aもありうる。正は不正でもあるから、いかなる言明も無意味ということになります。

>>[424]

>ルイス・キャロルのパラドックスは、「論理はア・プリオリである」をくつがえしたというよりも、私たちの日常言語の下に横たわる論理を掘り起す際に、今まで「これが掘り起こした成果だ」として閲覧されてきたものが、「いやいや、そんな掘り起こしの仕方じゃあまだまだ不十分であり、こんなパラドックスが生じうるよ」 と苦言を呈されたものだと思います。

率直に言って見当違いであると思います。ルイス・キャロルのパラドックスは、我々にとって「論理はア・プリオリである」ということを強調しているのですよ。論理は規則として教えようとするとパラドックスが生じる。つまり、論理は規則として教えることはできない、ということを端的に示していると解釈すべきでしょう。
>>[433]
「完全性」と「決定可能性」の定義が論文内でなされているのですね。きちんと読まないで、即断してしまいました。全くお恥ずかしい話です。
ご指摘ありがとうございます。
御坊哲さん

「我々の世界は本来「無矛盾な世界」ではなく、「無矛盾な世界」+「有矛盾な世界」だったと考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される」という考えはどう思われますか?
>>[438]

� _罅垢寮こΔ蓮嵬橘圭發弊こΑ廚任△襪塙佑┐襦�
�◆_罅垢寮こΔ蓮嵬橘圭發弊こΑ�+「有矛盾な世界」であると考える。

同じ世界を見つめながら解釈が分かれる。もしかしたら言葉だけが上滑りしている可能性もあります。�,鉢△篭饌療�にどう違うのですか? それをきちんと説明できない限り、そのような問題提起自体が無意味だと思います。
>>[438]
そもそも「無矛盾な世界」とはどういう意味でしょうか?
「矛盾」という言葉もいろんな意味に使われます。西田幾多郎に言わせれば、そこらじゅうなにもかも矛盾だらけです。社会的な公平性を求める人から見れば、貧富の差があるのも矛盾だというでしょう。

あなたの言う「無矛盾な世界」とはどういうものであるかを示してくれなければ、私には答えようがありません。

哲学は先ず自分の考えていることを的確な言葉で表現しようとすることから始まります。自分の言葉が一体何を意味するのかが分からない状態では、哲学は始まりようがないではありませんか。
>>[438]

shinwoodさんからの返事がないので、「矛盾」は論理学でいうところ「矛盾」であるとして考えてみたいと思います。

そうすると、『無矛盾な世界』とは、どんな盾も突き破る鉾とどんな矛も撥ね返す盾が同時に存在し得ないような世界、という意味になりますね。そのような解釈で良いでしょうか?

だとしたら、我々の世界は『無矛盾な世界』と言ってもいいでしょう。
論理的な矛盾がもし存在したとしても、我々はそれを認識することはできない。400メートルリレーで第一走者がスタートする前最終走者がゴールした、というような事態が起こったとしても、おそらく我々はそのような事態を認識できません。
今、先生がピストル構えて「位置について、用意!」と言おうとしているのに、どかどかと最終走者が走り込んできた。一体どこに? いつ走り出したの? 第2、第3走者は一体どこ? 感性の形式である空間と時間を無視したような事態を私たちは受け止めようがありません。つまり、論理矛盾な事態は起こらないということです。

後半の、「『無矛盾な世界』+『有矛盾な世界』だったと考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される」という言葉使いはとても不可解です。そもそも、「『無矛盾な世界』+『有矛盾な世界』」というのは単に『有矛盾な世界』と言うべきでしょう。

「この世界が『有矛盾な世界』であればアポリアは解消する。」というのはどう考えてみても魅力的な考え方ではありません。矛盾が一つでもあれば、どんなこともあり得ます。つまり、『有矛盾な世界』はなんでもありだから、当然アポリアは解消されます。でも、そんな考え方をすることに意義があるとは思えません。哲学上のアポリアは一つひとつ向き合って頭を悩ませていただくのが哲学のだいご味ではないかと思います。
それ以前に、「この世界が『有矛盾な世界』である」と考えることができないし。
>>[441]

すみません。ある掲示板でそのようなことが議論になっていたものですから御坊哲さんならどうこたえるかなと思ったまでです。私も何のことかわからない命題なのでもう無視していいです。
>>[442]
そうでしたか。
私も最初は何かくだらないこと言っているなくらいに思っていましたが、考えてみると、そのくだらなさについて考えてみるのも面白いということが分かりました。ありがとうございました。
>>[432]

>論理は規則として教えようとするとパラドックスが生じる。つまり、論理は規則として教えることはできない


もちろん論理はある程度、言語化して「私たちの思考や言明はこういう規則を守ることで、より正確にお互いの意思疏通を可能にするのだ」と教えることはできます。
しかしルイス・キャロルは、「いやいや、こんなふうな人が登場したら、私たちはどうしたらいいんだ」という限界事例を小噺にしてるんだと思います。
ルイス・キャロルは茶化しているのか、自ら面白がっているのかわかりませんが、そういう限界事例を突き付けること自体は、論理学にとっては受けて立つべき正当な問題提起だと思います。
現に「ああ、パラドックスが生じてるねえ。やっぱり論理って規則として言葉で教えることはできないんだなあ」で終わらずに、真面目にここに論理学の対応すべきありようを考えた人たちもいらっしゃいました。
>>[444]

>真面目にここに論理学の対応すべきありようを考えた人たちもいらっしゃいました。

どのように対応すべきであると考えたのでしょうか。具体的に説明してください。
ルイス・キャロルのパラドックスは理解するのが結構難しい。たぶんそれは論理をア・プリオリに持っていない異星人の立場というものを想像しにくいからだと思う。我々は無意識に論理を適用する、それが「論理はア・プリオリである」ということなのだが、そのことを実感していないと論理をもたない状態というものが想像できない。

おじいちゃんから「夕焼けを見たら、次の日は晴れだ。」と教えられ、それが正しいと信じている僕は、今日夕焼けを見たら「明日は晴れだ」予想する。P=「夕焼けを見る」、Q=「次の日は晴れ」とすると、ぼくは(P→Q)という法則を知っているだけで、Pに遭遇するとQを導出する。ここで知っている法則は(P→Q)だけである。しかし、ぼくのした操作を結果から見ると、{((P→Q)and P ) ⇒ Q }ということになる。ぼくは(P→Q)という法則をPという現実に対して適用してQを導き出した、という自覚しかない。決してモーダスポネンスという法則を知っていて、それを適用したわけではない。

何を言いたいかと言うと、ぼくは(P→Q)という法則を現実Pに適用したのであって、{((P→Q)and P ) ⇒ Q }という法則を適用したのではないということなのだ。結論として何を言いたいかと言うと、推論規則の{((P→Q)and P ) ⇒ Q }はぼくが無意識のうちにやった操作を超越論的な視点から記述したものだということ。

形式論理学の論理式における論理式の展開は確かに論理法則を法則として適用しているように見える。それはやはり紙の上でそれを超越論的に見下ろしながら操作しているからだろう。例えばモーダスポネンスの適用については実際は{((((P→Q)and P ) ⇒ Q ) and P) ⇒ Q }という操作をしていることになる。

推論規則をア・プリオリに持たない異星人は、(P→Q)という法則を教えられても、現実のPからQを導くことはできない。だから、推論規則の{((P→Q)and P ) ⇒ Q }を教えてやるのだが、それを教えても現実のPに遭遇しても、Qを導くことはできない。{((P→Q)and P ) ⇒ Q }という法則と現実のPからQを導く操作は{((((P→Q)and P ) ⇒ Q ) and P) ⇒ Q }だからである。つまり、推論規則をア・プリオリに持たないと、どんな法則を教えても実際に適用することはできないのである。

ルイス・キャロルのパラドックスを理解するには、論理がア・プリオリであるということを実感とともに理解し、かつ超越論的な視点から論理を反省する視点がなくてはならない。
「論理とは何か?」のトピックで、ルイス・キャロルのパラドックスのよりシンプルな説明、を思いついたのでこちらにも転記します。

おじいちゃんから「夕焼けを見たら、次の日は晴れだ。」と教えられ、それが正しいと信じている僕は、今日夕焼けを見たら「明日は晴れだ」予想する。
「夕焼けを見たら、次の日は晴れだ。」という法則を教えてあげれば、誰でも、今日夕焼けを見たら「明日は晴れだ」予想する。

*----------------------------------------------------------------------------------
ある日、ぼくは宇宙人にあった。それで天気の予想の仕方を教えてあげた。

ぼく  :「地球では、夕焼けを見たら、次の日は晴れなんだよ。」
宇宙人 :「へえーっ、そうなんだ。」
ぼく  :「今、夕焼けが出ているよね。じゃあ明日の天気はどうなる。」
宇宙人 :「‥どうして?」
ぼく  :「夕焼けを見たら、次の日は晴れって言ったよね。今夕焼けが出てるから
      明日は晴れに決まっているじゃないか。」
宇宙人 :「分かった、そういうことか。でもそれならそうで、『夕焼けを見たら
      次の日は晴れで、かつ、『今夕焼けを見たら明日は晴れだ。』と言って
      くれなきゃ分からないよ。」
*----------------------------------------------------------------------------------
ぼくは宇宙人に言われて気がついた。ぼくは自分では(P→Q)という法則に従っただけだと思っていたのだけど、ぼくたちと同じ論理をもたない宇宙人の目から見れば、ぼくが{((P→Q)and P ) ⇒ Q }という操作をやっているように見えたのだと。
そして、新たに推論規則を法則として宇宙人に教えても無駄だということを覚った。推論規則をア・プリオリに持っていない限り、いくら法則を教えてもそれを適用することができないからである。
だから、新たに{((P→Q)and P ) ⇒ Q }を法則として教えたとしても、それをもとにPからQを導き出すことはできない。この次は{(((P→Q)and P )→Q)and P ) ⇒ Q }を法則として教えねばならないことになるだろう。

私達は論理法則なるものを学んだわけではありません。しかし、思考の後を振り返ってみると確かに論理法則に従ってものを考えている。つまり、論理は思考の可能性の条件です。そういう意味で論理はア・プリオリであり超越論的であると言っています。
( 論理哲学論考より )

6.1 論理学の命題はトートロジーである。
6.11 論理学の命題は何も語らない。( それは分析命題である。 )

論理学の命題は何も新しい知見をもたらさない。結論はすべて前提に含まれているからである。数学が論理学の延長であるとするならば、数学における定理はすべて公理と同値である。
久しぶりにmixiをのぞいてみました〜

>>[449] きのこの荒魂さん

「論理と言ってもア・プリオリなのは古典論理だけで、そうでない論理もあるから、一概に『論理はア・プリオリだ』とは言い切れない」ということでしょうか。
多少、テーマからそれているが、ウィトゲンシュタインのスレを発見。
「論考」以外の著作について書こうと思います。

ルイス・キャロルの「亀さん」は本来の「アキレスと亀」かな。
「私の『論理哲学論考』には素晴らしい真正の箇所とならんで、まがいもの箇所、つまり、言ってみれば私が自分自身特有のスタイルで空所を埋めた箇所も含まれている」。が、どこかはわからないと続く(「哲学宗教日記」45ページ)
###
写真をみると、自分の髪型とか角度にかなり、こだわりがあり、多分著作にもこだわりがあるとわかります。
「ウィントゲンシュタイン『哲学探究』入門」(中村昇、教育評論社)
『哲学探究』の「第1節は、アウグスティヌス『告白』の引用から始まる」(26ページ)。
アウグスティヌスは敬愛する学者らしい。
「人々があるものの名を呼び、そして、その声に応じて身体をそのものの方へ動かすのを見ました。そこで、私は彼らが発する音によって呼ばれることを記憶にとどめたのです・・」。
「アウグスティヌスが回想しているのは、自らがことばを覚えた時のことである」(27ページ)。
「ウィントゲンシュタインは、言語ゲームのモデルとして言語習得の場面を重視した」。(28ページ)
ことばを習得し終わった時点でなく、習得の過程から言語の本質を探ったといえる。
アウグスティヌスの言語論に関する言及は、「哲学探究」以前の「青色本」の段階ですでになされている。

今現在、参加している哲学の読書会で鬼界彰夫の訳による「哲学探究」を読み始めてはいるが、そこでは彼自身の「論理哲学論考」の言語論が批判されている。

そうした批判はよいのだが、それに代わる「言語ゲーム」については徐々にそれについて言及されているので未だその全貌が把握できず、心理的に宙吊りにされたような状態に陥っている。
>>[456]
小論にしてまとめたりするところまで行ってないですが、基本的には以下のサイトに書かれているようなことだと私も思います。
https://miraibook.jp/researcher/mp0504
>>[456]
ヴィトゲンシュタインの小学校での経験にポイントがある気がします。
良く例に挙げられますが、小学生が放課後、「やっと来た」といった場合、夏休みが来たのか、お母さんの迎えが来たのか、状況見ないといけないというところかも知れません。
「論考」の言語論は西洋哲学におけるアウグスティヌスの言語論の系譜にあるとウィトゲンシュタインは考えていたのだろう。
ちなみにJ・L・オースティンのパフォーマティブとコンスタティブの区別は成立しないとしたのはジャック・デリダだった。(デリダ・サール論争)
>>[458]
それは単に主語が省略されているから、意味の多様性が生じているだけではないのですか?
>>[462]
レスをありがとうございます。
確か解説は夏休みが来るのか、友人が来るのかという、例として、入門書に出ていたと思います。主語の省略例だったかも知れません。探してみます。
>>[463]
見ました。AIが自分たち独自のことばを持つようになるという特色ですね。
ChatGPTやGROG、Geminiなどの町、社会を作ると単一でも混合でも独自のことばを用いるようになる。その理由は隠語作成でなく、共有にあるという。
まあ、人間の場合は独自のことばは、中学時代のモク(煙草)みたいに隠語の要素がある場合が多いのでそう思いがちだが、AIのばあは共有(短縮)が理由というのはわかる。どちらかと云うと、ポケベルの数字言語かな
言語行為はより合理性を求める。

ログインすると、残り438件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

哲学 Φιλοσοφια 更新情報

哲学 Φιλοσοφιαのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング