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哲学 Φιλοσοφιαコミュの善(と悪)について

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wikiは善と悪について以下のようにいう。
善と悪の事。
宗教的な善悪は、神という存在を仮定して人が授かった“ 教え ”に従うか反するかであるが、科学的には人類が発明した概念であり、精神文明の肯定と否定で“ 理想 ”と“ 理想否定 ”である。

善は、道義的に正しい事。または倫理に沿った行いや理想的目標。正義とは違い何かや誰かを裁くための概念ではなく、護り目指すべき理想としての概念。

悪は、古語では荒々しく猛々しい様を表し、道義を持たない事で、“ 動物的本能 ”からくる欲求を行動基準にする事。・・
善と悪一般
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/140725Research_Ethics05.html

私は聖書とアウグスチヌティスを哲学的に書きたいと思います。

アウグスティヌス
入門
https://www.rei-yumesaki.net/%E5%93%B2%E5%AD%A6/%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE-%E6%82%AA/?mobile=1
基礎はやはり、wikiだと思います。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9%E7%A5%9E%E7%BE%A9%E8%AB%96
応用
本多論文
http://www8.plala.or.jp/mihonda/ProblemOfEvil.htm

コメント(956)

>>[917]

正しいとはあるべき姿がありそれに合致している様を言う。

道徳的正しさは善という。
善は道徳的に正しい事、またそのような行為とあります。
ゆえに正しい事は群れの安寧秩序を守ること、そして群れを守る行為で最も正しい行為は「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」である。

何か問題が起きた時、最も正しい行為は「私欲を抑え公の為と考えることである、略して公の為」である。

ですから道徳的正しさは、絶対的なあるべき姿に合致していること。絶対的なあるべき姿が「公の為」です。ですから「公の為」に論理的、道理的に合致していれば自信を持って自分の考えは正しいと言えるのです。
>>[919]

>絶対的なあるべき姿とは何か?<

NO918に書いてあるだろう。

正しいを辞書で引けば「あるべき姿がありそれに合致している様」と書いてある。それでが絶対的に正しい事は絶対的なあるべき姿に論理的に合致していることである。
絶対的に正しい事が絶対的なあるべき姿であり、これに合致していることが絶対的に自分の意見は正しいと言えるのである。

あなた達の意見はこのあるべき姿がない。ただ自分が考えたことが正しいと言うばかり。それは自分は神であると言っているのと同じである。神なら根拠(あるべき姿)を示さないでも絶対的に正しいと言える。でもあなた達は神ではない。ゆえにあるべき姿を考えそれと合致しているから自分の考えは正しいと言うのが論理的なのである。

道徳的正しさで、絶対的なあるべき姿は「公の為」である。これに論理的に合致しているから自分の考えは正しいと言えるのである。
憲法改正問題も「公(国民みんな)の為」に合致している考えが正しいと言える。全ては「公の為」に合致していないものは悪である。現憲法も「国民の生命」を守れないから悪の憲法である。
>>[921]

>どうして「道徳的正しさで、絶対的なあるべき姿は「公の為」である。」と言えるのか?<

まあ、簡単には語れないからね、私のHPをよく読んでそれでも分からなければ質問してね。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html
何故人を殺してはいけないのか?の論理的な答えはまだないって書いてあったけど、何故人を殺してはいけないと思います?皆さん。
>>[924]

相手が自分を殺しにくる歯止めがなくなるから。
同様に、不倫や盗みや偽証がダメなのは、
自分がそれをされる危険性が爆上げするからだ。
>>[926]

もし戦争になれば人を殺しても騙しても情報を盗んでもいいのは何故?
>>[927]

民間人が勝手にやったら、殺人罪やスパイで、その場で射殺されてもおかしくないぞ。

あれは軍服を着て、どこの国かを明確にした場合に限り、交戦規定や戦時国際法に沿うなら許される、いわば特例に等しい。

対戦車砲みたいな、口径の大きな砲で人間を撃ったら、戦時国際法違反で刑罰を受けたりするぞ。

軍法会議は今の日本にないから分からないかもしれないが。
ドイツ軍が大戦末期に、連合国軍の制服を着た部隊を送り込んで撹乱する作戦を実行したが、
そいつらは犯罪者として捕虜にもなれず殺されたし、ドイツ軍も分かってて送り込んだ。

日本国民は、学校で法律、特に国際法を学ばないから、
戦争=殺戮許可場とか思ってるから困る。

第一次大戦で、ドイツの為にスパイ活動をしてた民間人がいたが、
連合国軍に捕まった時、捕虜にもなれず犯罪者として銃殺されてる。
まあ、マタハリのことだが。
>>[929]

人は殺してはいけませんと教えながら戦争になれば人を殺してもいいなんて矛盾じゃないか?人は殺してはいけないのか、いいのかどっちなんだ!
>>[931]

ダメだってば。
最近じゃ戦争自体犯罪だ、つー考えすら出てるぞ。
つまりだね、今までの道徳というのには矛盾があるのよ。人殺しはいけませんと言いながら「戦争や正当防衛なら人を殺してもいいのよ」なんて矛盾のあることを言う。

しかし私の善の定義で考えれば何の矛盾もない。公の為なら人殺しも善であり、公の為でないなら人殺しは悪である。このように私の善の定義ですべては調うのよ。
理性で作られた正しさ(法や規範)は全て相対的であり極限状態になれば善も悪になる。
しかし私の善は本能より来る感情から考えられたものだるから絶対的である。絶対善こそが絶対的なのであり、その他は全て相対的である。理性で考えられた「レイプは絶対悪である」も数十人を救うためならレイプさえも善になるのだ。つまり公の為であればレイプさえも善であるとなる。このように絶対善には何の矛盾もないのである。
>>[934]

誰が公の為の殺人だと認定するのか。

「皆」で話し合っても正しい結論が出るとは限らん。
「皆」が間違う事もある。
>>[935]

>「皆」で話し合っても正しい結論が出るとは限らん。「皆」が間違う事もある。<

その通り、バカたちが公の為と話し合っても正しい結論にはならない。どんなに人類の英知を結集してもこの世の中何が起こるか分からないから間違うこともあるのさ。人間には未来は予知できないから正しい結論にならないこともあるだろう。それでも「私欲を抑え公の為と考えること」以上に正しい行為はないのだから、これをやり続けることが正しいのだよ。
何十億年も「公の為」が正しいとして続けられてきたのだ、その中には失敗もあったろうがこれをやり続けることが絶対に正しいと生物たちは知っているのだ。だから遺伝子に書き込み本能とした。公の為は今後も未来永劫ただしいとして変わらず続けていくだろう。
「私より公を優先する行為。つまり愛や思いやり」は生物界において絶対善とすでに決まっているのだよ。誰もそれを否定できないのだよ。
>>[936]

ライオンのオスは、群れのリーダーになるとき、前のリーダーの子供を殺す。

これは遺伝子の保存に関しては正しい。
では、絶対善か?
個々の事例で沈黙するから、こいつはつまらない。

お前は日本の野党かw
>>[937]

>ライオンのオスは、群れのリーダーになるとき、前のリーダーの子供を殺す。これは遺伝子の保存に関しては正しい。では、絶対善か?<

群れを保存することは非情なこともあるのだ。ライオンにとって弱いオスの子供を殺すのは善であるのだ。そういう群れこそ生き残ってきたのだから。もし弱いオスの遺伝子が残っていけばライオンはやがて絶滅する。他の猛獣に負けてしまうかもしれない。数頭の子供ライオンを殺すのはライオンの種族保存にとって善であるからそのような行動をとるのだ。

人間だって飢餓状態のときは姥捨てもやるだろう、子供を間引くこともあるだろう、それを悪と言っても致し方ないのだ。その群れが生き残ることは非情なこともしなければならないのである。
>>[939]

なんだ、あんたの絶対善は単なる衆愚主義か。
>>[940]

馬鹿なお前が理解できないだけだ。絶対善は真理でありその群れにとっては絶対的に正しい事なのだよ。
>>[941]

それはおかしい。

何故なら、一方の群れが生き残る為に、少数派を排除する必要があると認定した場合、
排除するのが善とされる。
そうなると、行動はレイシストと同じになる。

レイシストと同じ行動をとれば、
あなたはレイシストなのだ。
>>[939]

>もし弱いオスの遺伝子が残っていけばライオンはやがて絶滅する。他の猛獣に負けてしまうかもしれない。数頭の子供ライオンを殺すのはライオンの種族保存にとって善であるからそのような行動をとるのだ。

これだと、知能指数の低い子供や虚弱な子供を、殺すまたは去勢することは善ということになってしまいます。

>人間だって飢餓状態のときは姥捨てもやるだろう、子供を間引くこともあるだろう、それを悪と言っても致し方ないのだ。その群れが生き残ることは非情なこともしなければならないのである。

姥捨てはともかく、子どもを間引いて種族繁栄というのは矛盾している。どうしても子供を間引かなければならない状態になる前に、まず自分自身を間引くことが善だということになりませんか。あなたの言い分を聞いているとそういう結論にならざるを得ないと思います。
「公のために尽くすのが善である」という定義はかまわないと思う。ただ、「公」の意味があいまいだと「善」の意味もあいまいになる。
あるときは「国のために戦争で敵を殺すのは善である」と言ったり、「日本人が日本のために戦うのも、アメリカ人がアメリカのために戦うのも共に善である」と言ったり、「アメリカの場合は侵略戦争で、日本の場合は西洋の植民地主義に対抗する戦争だから善である」と言ったりする。そのようないいかげんな結論を平気で導き出せるのは「公」の定義があいまいだからだろう。

たいていの悪徳には私欲が絡んでいる。「国のために敵を殺すのは善である」には、ナショナリズムという私欲が絡んでいるとどうして考えないのだろう。「公」という言葉を過剰に振り回すと偽善に陥りやすいということは肝に銘じておくべきことと思う。
独断的になることそのものが悪徳と言ってもよいのではないかと思う。つまり、自分の信念を絶対視している時点で、広い意味で私欲を優先していると考えられるのではないだろうか。
仏教が中庸ということを重要視するのもそういうところにある。ロールズが反証的均衡ということを訴えるのも同じ理由だと思う。

単純な正義はダメッ!!
>>[944]

もし飢饉があって家族四人はこの冬を越せないとなれば父と母と健常な子供と身体障害の子の内どうしても一人は間引かなければならないとなればだれを間引くの?
父母を間引けば働き手がいなくなり子供たちは死んでしまう。父母がいればまた子供はできる。さあ健常な子供と身障者の子供とどちらを選びますか?
>>[947]

>ただ、「公」の意味があいまいだと「善」の意味もあいまいになる。 <

私はブログで公の為を長々説明しているから読んでくれと何度も書いたよね。それも読まずに同じ質問ばかりする。もう一度リンクを載せておきます。そこに詳しく書いてあります。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12278474538.html?frm=theme


>あるときは「国のために戦争で敵を殺すのは善である」と言ったり、「日本人が日本のために戦うのも、アメリカ人がアメリカのために戦うのも共に善である」と言ったり、「アメリカの場合は侵略戦争で、日本の場合は西洋の植民地主義に対抗する戦争だから善である」と言ったりする。そのようないいかげんな結論を平気で導き出せるのは「公」の定義があいまいだからだろう。 <

私の言うことに何の矛盾もないだろう。

「国のために戦争で敵を殺すのは善である」・・当たり前に善である。群れを守るのは善である。

「日本人が日本のために戦うのも、アメリカ人がアメリカのために戦うのも共に善である」・・・自分の群れを守るのはどちらも善である。

「アメリカの場合は侵略戦争で、日本の場合は西洋の植民地主義に対抗する戦争だから善である」・・・日本は他のアジア人のように奴隷になりたくないと自国を守る為に戦ったのだから善である。しかしアメリカは豊かであり領土を広げてもっと豊かになりたいと言う私欲による戦争だから悪である。もしアメリカが日本の立場であればアメリカも自国を守る為に戦争するのは善となる。


>「国のために敵を殺すのは善である」には、ナショナリズムという私欲が絡んでいるとどうして考えないのだろう。<

国を守る為敵兵を殺すのは正しいと思うがあなたは何故そう思わない?世界の歴史は自国を守る為には敵兵を殺してきた歴史ではないか。
>>[948]

>自分の信念を絶対視している時点で、広い意味で私欲を優先していると考えられるのではないだろうか。 <

あのね、私の善の定義は恣意的なものではなく論理的に導かれたものなのです。内包的定義で導いたのです。下記のHPを見てね。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html
他に適当なトピックが見当たらなかったので、もっともテーマが近そうなここにしました。

倫理学思想の歴史 1

 これからしばらくの間は倫理思想史を取り上げていきたいと思います。
 言うまでもなく、倫理学は美学と並んで哲学の一分野であります。

 倫理学とは、道徳哲学とも言い、規範の根拠について考える学問です。
 規範とは「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」といった文で表現されることがらであり、規則、ルール、戒め、金言、法律、倫理、道徳などの内容をなしています。また、それは「権利」「義務」「責任」などの言葉によって表現されることもあります。
 規範の根拠について考えるとは、どうして「〜はわるい」のか、なぜ「〜はよい」のか、どうして「〜してはいけない」のか、なんで「〜してもよい」のか、なぜ「〜すべき」なのか、なんで「〜すべきではない」のか、というようなことを考えることです。

 どんな主張でも、その根拠(理由)が示されなければ説得力はありません。根拠(理由)を示さずに「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」と主張したとしても、それはただそう言い張っているだけで、ほんとうに「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」のかどうかはわかりません。根拠(理由)が正当と思えるならその規範は説得力をもつし、正当とは思えないなら説得力をもたないことになります。


西洋倫理学の誕生
 古代ギリシャの倫理思想は、西洋倫理学の源流であります。なかでも、これを産み出したギリシャ精神は、つねに、ヨーロッパの優れた、新鮮な、力強い文化の源泉であり、推進力でした。この精神のもつ、鋭く、卓越した洞察力は今一つの勝(すぐ)れた性質なのです。倦(う)むことを知らない探求心とあいまって、ギリシャ人を駆(かる=追い立てる)って、真実なものの探求に向かわせました。
 倫理の世界においても、この精神がソクラテスを出発点に人間の本性(自然)、とくに、理性を中心に、人間の生き方を、自覚的に、理論的、学問的に問題にさせ、ついに倫理学を誕生させるに至りました。
 ソクラテスは倫理学の祖師であります。
 彼によって点ぜられた、倫理についての真理認識のための火は、都市国家=ポリス時代のギリシャから、ヘレニズム=ローマ時代に至る、古代の倫理思想を形成させるに至りました。彼を中心に、これを概観すれば、ソクラテス以前の倫理的思考、ソクラテス以後の、すなわち、ソクラテス、小ソクラテス学派、プラトン、アリストテレスの倫理思想、および、ヘレニズム・ローマ時代の倫理思想と大別することができるのです。

 次回は「ソクラテス以前の倫理的思考」。

参照・参考図書
 『ギリシア倫理学史 上巻―倫理学成立史』
   オットマール・ディットリッヒ (著) 橋本隼男 (訳) 内田老鶴圃
 『西洋倫理学史』
   アラアスデェアー ・マッキンタイヤー (著) 深谷 昭三(訳) 以文社
 『西洋哲学史〈第1〉古代 』
   ヒルシュベルガー (著) 高橋 憲一 (訳) 理想社
 『倫理学概説』 小坂国継・岡部英男 (編) ミネルヴァ書房
善悪、愛、自由、平和、など抽象概念について、現実実態にその同一性を求めようとするとき、あるいは同定しようとするとき、どこにその根拠を求めればいいのだろうか?
非常に曖昧で、事象に対してあまりにも相対的で、およそ客観的とは言い難い根拠しか見出せないのではないか?

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