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沖縄学コミュの尚真王について

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第二尚氏の尚真王について 色々と知りたいです

知識は「中学生レベル」でしかありません
例えば 琉球王朝で一番栄えた 体制を整えた とかです

しかし 50年間の治世でいろいろあったといいますね
(例えば 正妻や側室の問題があったとか(玉稜の碑文から)聞きました)

出生やエピソード等あれば楽しく歴史が学べるかな とうまい!

宜しくお願いします

コメント(9)

尚円王が没した後、弟の尚宣威が王位に就きます。
しかし王に神託を与える君手摩りの百果報事の儀式で尚宣威王ではなく尚真に神託を与えたため、尚宣威王は半年で退位しました。
これは尚真の母により仕組まれたと言われています。
>てだこ(・ω・)光♪ さま
>T・ランタ さま

早速のお答え ありがとうございます

尚宣威王は半年で退位 させられたのですか  やはり なにか母親だけでなく
まわりの不穏な動きもあったのでしょうね

中央集権主義的な政治をおこなったり 刀狩りのような事もしたのですか...
結構 強権を発行したのでしょうね

そういえば 「鉄」は沖縄にあったのでしょうか?
そこも 中国からの伝来でとても貴重なものだったのでしょうね

聞得大君の制度も尚真が形作ったのでしょうか?
政治のサポート体制もしっかりさせたかんじですね

その後の王位継承はスムーズにいったのでしょうか
goyogiさん、

 尚徳のの死後、家臣たちはその非道な政治を反省し、国家は人民のものであり、ひとり国王のものではない、「物呉ゆす者ど我が主(ムヌクユスムヌドゥワガシュ)」であるとして、1470年、尚徳に退けられていた金丸を国王に推挙したといいます。
 金丸は伊是名島の出身で、突出した才能を妬まれ、島を追われたといいます。沖縄島に渡った金丸は、その才能を越来王子(満寿久)に認められて仕えるようになり、そこで頭角を現しました。
 金丸は即位して尚円と称しました。これを先の王統と区別して、第二尚氏王統と言います。
 しかし、この王位継承も、これまでの王朝交替制と同様に,正史の論理で描かれた王位争奪の結果だと考えてもいいでしょう。尚円王誕生の背景には、那覇を中心に海外交易で権威を高めてきた金丸と、彼を支持する官僚や久米村出身者たちによる、新たな権力構造の形成を目指した動きがありました。
 尚円が死亡した後、弟の尚宣威が後継者となりましたが、わずか半年で退位して尚円の子・尚真に王位を譲りました。尚真は、50年に亘って国王として君臨し、第二尚氏王統による琉球王国の基盤を確立しました。
 尚真は12歳で即位しましたが、その背後で母后オギヤカの力が大きく働いていたようです。また、尚真には妃の他に2人の夫人がいましたが、そのうちの1人が「銘苅子(めかるし)の娘」で天女の子だと伝えられていて、察度と同様、権力者の神秘性を強調するために粉飾されたようです。
 尚真は、中央集権的な支配体制を整えるため、各地に割拠する有力按司を首里に住まわせ、地方には按司掟(あじうっち)という役人を派遣してその管理を任せました。諸按司には旧領からの得分権(相応の収入)を保証し、版図(支配下の土地・人民)は王府の支配下におきました。これによって、国内の軍事力も全て王府が握ることになり、その勢力圏も、北は奄美諸島からは南は八重山諸島まで拡大しました。地方の行政区画も整備され、現在の市町村にあたる区域を間切り、字をシマと呼びました。
 按司には位階が与えられ、身分に応じて帕(はちまき、後にターバン式の冠に似たようになる)の色や簪(かんざし)の種類が決められました。神御名職も、王の姉妹を最高神女とした聞得大君(きこえおおぎみ)のもとに組織化され、各地のノロもその統制下に置かれました。このように、尚真王朝に王をと頂点とした身分制度の基本が確立し、中央集権体制が整えられていきました。
 尚真の特筆すべき事業として、1509年に建てられた首里城正殿の欄干の碑文・「百浦添欄干之銘(ももうらそえらんかんのめい)」に、11綱目の事蹟が書き記されています。簡単に紹介すると、?仏教を奨励し、多くの寺院を建て、仏教ならびに仏教芸術を盛んにした。?民を愛し、租税を軽くしたので,君臣上下が和睦した。?八重山のアカハチ・ホンガワラの乱を平定し、先島の支配を確立した。?華麗な衣服、金銀の器具を用いた。刀剣・弓矢を集めて国の防衛につとめた。?はちまきと簪の色を決めて、職制・位階制を定めた。?首里城一帯の環境を整備し、緑豊かな王都づくりを目指した。?王宮の内園に庭園を築き、宴を催す場とした。?芸術を奨励し、美酒を備え、賓客をもてなす体制を整えた。?中国への進貢を、3年1貢から1年1貢に改めて交易を盛んにした。?中国の優れた文化を積極的に取り入れた。?中国の宮室精度に習い、青石を削り、首里城正殿に石の欄干をめぐらせた。以上が、「百浦添欄干之銘」に刻まれた尚真の事蹟です。
 他にも尚真を讃えた碑文はたくさんあり、殉職を禁じたり、王宮から豊見城に至る道路や真玉橋を建造するなど、大規模な土木事業が営まれました。
 王家の墳墓である玉殿(タマウドゥン)をはじめ、園比屋武御嶽(そのひやんウタキ)石門や弁ケ嶽石門など、多くの石造建築物が作られたのもこの時期の特徴でした。文化事業では、「おもろそうし」の収集と編纂を始めたことが知られていて、尚真の時代は、琉球文化の黄金時代とも呼ばれています。もちろん、これは首里・那覇を中心とした王朝文化で,一般民衆にまで浸透したものではありませんでした。
Wikipediaの尚真王の項に大幅加筆しました。ほとんど書いてありませんでした。

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