半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八十八回　みけねこ作　『うろこ雲』

　父が倒れて入院してから一月が過ぎた頃だった。母から大阪の実家に帰るようにと指令が来た。ラインで『近々家に帰ってきて』という一言があっただけだった。
私は実家の近所に住んでいる弟に電話をした。
「お母さんからラインきたけど、お父さんどう？」
「うん、あんまり変わりないように思うけど、先生が会える人にきてもらうように言ってた」
「そうか。私は東京にいるから、何かあったときにすぐに行けないからなあ」
「せっかくやし、家族で集まろうか。今度のことも話さないとあかんし」
「そうやね。じゃあ、来週帰るわ」

私には二歳年下の弟と八歳年下の妹がいる。長女の私は、頑固な父、気の強い母、生真面目な弟、マイペースな妹の間の調整役だった。
私が幼い頃から母は自宅で小学生の書道の先生をしていて、家には常にたくさんの小中学生がいた。自宅を開放してのびのびと遊ばせていたのでとても人気があり、一時は生徒数が百人近くいて、毎日、数十人の小学生が学校帰りに来ていた。私が小学校から帰って自分の部屋にいると、窓の外から小さな声がする。カーテンを開けると、同じクラスの男子がわあっと言って逃げる。プライバシーなんてあったものじゃなかった。今から思うと児童館の代わりに遊びに来ていた子も多かったと思う。
忙しい母に代わって家の手伝いをするのはいつも私で、弟や妹は、私の指示待ちだった。父はというと、母が自宅で書道教室をしていることに大反対だった。いつも人がいるし、家の前には子供の自転車が並び、玄関は子供の靴だらけだった。中学生は部活が終わってから来るので、終わるのが夜九時頃になることもままあった。
夕食の支度は、小学生のときから、私と弟でやっていた。父はそれも気に入らなかったようだ。妻が家を綺麗に片づけて、玄関に水を打ち、お風呂と食事を用意して待っているような家庭が理想だったようだ。
書道教室なので、書道用の部屋は壁もフローリングも墨だらけだったことも、いつもイライラしていた。私はピアノが書道の部屋にあったので、練習できないことが不満だった。
あるとき、生徒が私のピアノに墨で落書きをしたので、母に苦情を言ったところ、「同じ黒やし、わからへん」といわれて終わりだったこともあった。今から考えると、書道教室の収入はそこそこあったし、母はすごく頑張っていたと思うが、当時はそう思えなかった。それに、家族は私に頼る割に、報われないことが多かった。
ある日、書道の先生の研修で母がいないときに、夕食のカレーを作っていたら、父はちらっと私を見てからデパートに出かけ、缶詰のカレーを買ってきた。
「お父さん、今日、カレーやねんけど」
　父は、妙に優しい笑顔で言った。
「あ、お父さんは、これでええから。みんなはお姉ちゃんのを食べてな」
　私がかき回しているルーとは格の違う高級ホテルのカレーの缶詰だった。
「あ、そっちが食べたい！」
　まだ幼い妹が無邪気に言うと、弟も追従した。
　結局、父と弟、妹が缶詰のカレーを食べ、私は自分で作ったカレーを仕方なく食べた。もっとも水を入れすぎて、とろみがなくなったので、こっそり片栗粉を入れてごまかしたのだが、父はそれを見てしまったのかもしれない。

　私が結婚して東京に行き、弟家族、妹家族が実家の近くに住んでも、まず長女の私に親からの連絡が来るという方式は変わらなかった。
父は病院が嫌いで、体に異変があっても自分は健康だからと病院に行くことをしなかった。本当に体調が悪くなって病院に行ったときには、完治することは難しいと医者に告げられた。入院しても父の頑固さは変わらなかった。家から離れたところに農園を借りていて、お見舞いに行っても、野菜のことばかりを気にしていた。
「きゅうりはどうなってる？」
「ちゃんと育ってたよ」
「今度は、写真も送って」
「わかった」
　私たちは、父の病院に行く前に、農園に行き、草抜きをし、写真を撮ってから行かなければならなくなった。畑に行って感じたことだが、野菜も生き物なのでどんどん成長するし、周りの草はそれ以上に成長する。何気なく口にしている野菜など、手をかけて作ってもらっているんだと改めて感じた。
　ある日、父の病室に行くと父の頬がこけ、元気がなくなっていた。私は、時々しか会わないので余計に感じるのかもしれない。
「お父さん、来たよ」
　父は、ベッドから勢いよく起き上がった。
「新幹線で来たんか？」
「うん」
　父は唐突に話し始めた。
「ホルモン焼きってなんでホルモンっていうか知ってるか」
「内臓肉とか、ほうるもん、捨てるものを焼くからそういうんと違うの」
「それは間違ってる。もともとホルモン料理っていうのは、内臓肉だけやなくて、納豆や山芋なども言われてたんや」
「そうなんや。てっきり、ほうるもん　からホルモンになったんやと思ってたわ」
「そうやって、すぐに東京の人は、大阪のことを馬鹿にしよる。ほんま東京に魂売ってしまったな」
「は？　別に馬鹿にしてないし、そもそも東京に魂売ってないし」
「じゃあ、これ知ってるか」
　父は、そばにあったメモ用紙に『A　「」　C』と書いた。
「B？」
「ちゃうわ、ええかっこしいや。すっかりええかっこしいになってもうたな」
　私はベッドの横の椅子から立ち上がり、バッグを持った。
「もう、帰るわ」
　病室を出ると涙が出た。悔し涙なのか、父が弱ってしまった悲しみなのかわからなかった。実際のところ、東京での生活は刺激的で楽しく、実家のことはあまり考えていなかった。父は寂しかったのかもしれない。実家に帰って顔を見せてくれというサインだと思うことにした。それにしてもひどい言いぐさだ。病院の廊下の窓から空を見た。うろこ雲がうっすらと赤く染まっていた。

　そんな父も、病魔には勝てず、家族で集まろうと決めていた前日に亡くなった。母が弱っているのではないかと心配だったが、意外にも気丈にふるまっていた。母は、私たち兄弟に向かっていった。
「とにかく、明るく送り出しましょう。お父さんからもそう言われたので」
「わかった。明るく笑顔で送ろう」
「あと、お父さんからみんなへ手紙を預かっているので渡すね」
　母は封筒を三つ持ってきた。弟だけは、分厚い封筒だった。中を開けると、『家族仲良く』と手書きで書かれたコピーが一枚入っていた。
父の筆跡は、震えていてこれを書くのもたいへんだったのだと思うと、胸が締め付けられた。私と妹の封筒にはお礼として二万五千円が入っていた。弟の封筒には十万円が入っていた。
「二万五千円は、にこにこ過ごすようにとお父さんからのお礼」
　弟だけ、なぜ金額が多いのか突っ込みたかったが、口には出さなかった。母をよろしくという思いもあるのだろう。
　父の死に目には、遠くにいる私は間に合わなかった。母と妹が父のそばにいて看取ってくれた。
「お父さん、なんか言ってた？」
「うん、畑の白菜とじゃがいもをお願いって言われた」
「それが最後の言葉？」
「うん。まかして。って言ったら安心してたよ」
　本当に野菜のことが気になっていたのだろう。
「あ、それから葬儀屋さんとの打ち合わせで、生前の趣味や好きな食べ物は？　って聞かれたから、野菜作りと気象とカレーって答えといたよ」
　父は、気象学が好きで、気象予報士の勉強もしていた。
「カレー？　他にもあっただろうに。でも、どうしてそんなことを聞くんだろう」
　私は、幼い頃のカレーの缶詰のことを思い出した。
「お寺さんとの打ち合わせでも、生前の職業やら趣味など聞かれたよ。戒名の金額が三ランクあったけど、一番下のにしといた」
「それでいいと思う。そんなことにお金を使うより、これからのお母さんの生活が大切やからね」
　
　母が思いつきのように言ったカレーは思わぬところで登場した。葬儀が始まる直前に葬儀屋の人が近所のお弁当屋さんでカレーを買ってきて祭壇に飾ったのだ。それには私たちも驚いた。
　弟は苦笑した。
「そうか。こういうことやったんか。自分が死んだら、ステーキが好きでしたって言っといてな」
「お寿司とかね」
　葬儀が始まり、戒名が読み上げられた。はっきりとは聞き取れなかったが、くうしんさい　という言葉が聞こえた。
『〇〇院△△空心菜大居士』
　葬儀が終わって、弟が母に言った。
「やっぱり、戒名の金額ランクを下げたから適当につけられたんかな」
「空心菜はないよな」
「カレーもびっくりした」
「しばらくカレー食べられへんわ」
　父の希望通り、明るく送り出したが、弟や妹がそれぞれの家に戻ると寂しくなった。二日滞在し、銀行、保険などの手続きを手伝い、東京に戻る日、仏壇に手を合わせた。
「また、大阪に来てお母さんのお手伝いするから、安心してな」
　心の中で父に話しかけると、立てかけていた線香がはらりと倒れた。心臓がどきっとした。父が怒っているように感じた。
「大丈夫。東京に魂売らへんから」
　私は空心菜と書かれた仮位牌に向かって話しかけた。

コメント(6)

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[1] mixiユーザー 10月16日 23:03

『A　「」　C』で「」内は　B　で　ないとしたら、何が入るのでしょうか？　東京人では解けない大阪の謎です。
また、〇〇院△△空心菜大居士って、結構、高い戒名かもです。「院」「大居士」ですから。

[3] mixiユーザー 10月17日 16:36

父のキャラクターからだと思いますが、向田邦子のエッセイを思い出しました。
こちらのお父さんは、頑固というより、とにかく自分本位なへそ曲がり（…すみません

）な感じですね。
私から見たお父さん像を中心に描かれているので、もう少し彼の別の側面の描写があると、キャラクターの印象ががらっと変わるのかなと思いました（狙ってそういう風にされたかもしれませんが…）。

＞「あ、お父さんは、これでええから。みんなはお姉ちゃんのを食べてな」
＞私がかき回しているルーとは格の違う高級ホテルのカレーの缶詰だった。
→こういうの、悪意がなかったとしても、やられた側としてはめちゃめちゃ傷つきますよね(笑)

[4] mixiユーザー 10月18日 23:10

遅い感想でスミマセン。
ホルモン焼きは放るモン説が浸透してて、そうなんだと私は思ってたんですが、違うんですね！
精の付く食べ物ということから男性ホルモンをイメージしたのでしょうか？
8割実話とのことですが、カレーが祭壇には実話なのですか？だったらスゴイ！
自作のカレーを食べてもらえずホテルカレー缶が実話だったらヒドイですぅ

とはいえ、うちの父(故人)も、よその家では娘が作ったものなら不味くても父親は完食すると聞くのに、美味しくないと残されました。うちは共働き家庭ではなかったのですが、母が時代を先取りの自分の遊び優先娯楽優先のチャラ女だったので、遊びで遅く帰るからと家事を押し付けられてきました～。
要はレア度の問題かもですね。。

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