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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八十四回 JONY作 「今、ここにある五円玉」 (三題噺 梅雨・へびつかい・五円玉)

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 雨の天気予報のせいか、夜の9時なのに、客が一人もいないので、今日はもう店を閉めようかと思っていたときに、初めての女性客が一人で、ふらりと入って来た。美人であった。年齢はよくわからないタイプの女だった。つまり、30前と言われればそうなのかと思うし、40以上と言われても、そうなのかと納得できる年齢不詳の女だった。彼女は、カウンターで山崎のロックを舐めながら、ただ無言で、店に流れているチャーリーパーカーのアルトサックスを聞いている。話をしたい様子が見られないので、俺はカウンターの中で、小さな電気スタンドの灯りを点けて読書会の課題図書を読んでいた。 
 しばらく本の中に入り込んでしまって、客がいることを忘れていたようだ。
「そんざいとじかん?」
 突然、女の声がして、自分の店のカウンターの内側にいたことに気づく。
「ああ、この本?そう。読書会の課題図書なんだよ」
「何が書いてあるの?」
「タイトル通り、存在に、ついて、ぐだぐだ考えていることをそのまま書いてあるって感じかな」
「存在について考えるって?」
 俺は、本を伏せて、彼女の飲んでいるロックグラスの横のカウンターテーブルの上に、レジにあった『五円玉』を置いた。
「これは、五円玉だよね」
「うん」
「『ここに五円玉がある』ってことはどういうことなのだろう?をひたすら考えるってことみたいなんだ」
「バカみたい。五円玉は五円玉でしょ。いくら考えても五円玉が五十円玉に変わるわけじゃないじゃない」
「あ、そこじゃないんだよ。五円玉は存在物であって、存在そのものじゃないんだよ。つい、俺たちは存在する対象物に着目しちゃうけど、存在現象そのものの説明、つまり、五円玉が『ある』の、『ある』ほうの説明にはなっていないでしょ」
「え?」
「そう、『え?』なんだよ。3+2=5の『=』を数式で証明せよと言われてもできないように、『存在する』という概念を説明するのは難しいと思うんだ。神とはなにかと同じレベル? でも、この本は、そこをぐだぐだ考えるんだよ」
 彼女は、グラスのウイスキーを一口すすると、
「『存在』よりも世の中に無限にある『存在物』について考えたほうが役にたつのにね」
と言った。
「まあ、そうなんだけど、この本も特殊な存在物に焦点をあてて、それについては結構なるほどと思えることを言ったりしてるんだよ」
「特殊な存在物って?」
「君自身だよ」
「人間ってこと?」
「そうなんだけど、ちょっと違う。『人間』っていう言葉を使うとさ、理性的動物とか、遺伝情報の伝達装置とか、神の似姿とかなんらかの先入観が入るけど、そういう先入観のない、まさにそこにある君、この店で酒を飲んでいる『自分』について考えるんだよ」
「わたしの存在とは何かっていうこと?」
「うん。例えば、椅子は『座るためのもの』だろう?じゃあ、君は、何のためのものなんだろうね?」
 彼女は、初めて、俺のことをしっかり見据えた。一呼吸おいて口を切った。
「そんなのわからないわよ」
「そうだよね。俺も自分が何者なのかは、わからない」
 俺は、自分用に入れたノンアルコールのライムソーダを一口飲むと、話を続けた。
「それを解き明かすカギとしてこの本では、『時間』が出て来るんだ。時間と言っても、過去ー現在ー未来という 直線上の時間ではなく、過去とは、『いままで私や世界はどうあったかという事実の引き受け』のことだと言うんだ。つまり、自分は何者であったかという過去の認識によって、現在の自分が決まり、将来に何者でありうるかが決まる」
「主観で決まるの?」
「そう主観で決まるってことなんだろうね」
 俺は、ポケットから、スマホをだして、彼女に見せた。
「これは21世紀の人間にとっては、情報機器であり通信機器でもある。だが、坂本龍馬にとっては、時計かも知れないし、せいぜいカメラだということになるかもしれない。そして、源頼朝にとっては文鎮でしかない」
彼女はスマホの重さを測るように手に取り
「まあ、そうだけど」
と言った。
 俺は彼女からスマホを受け取ると話を続ける。
「君の未来がどうなっていこうが、一つだけ確実な予言をすることができる。それは、君が確実に死ぬことだ。この未来についての考察というのは、言葉を変えれば、自分はいったい何なのだ?何だったのか?の考察と言っても良い。そう思うと、目先のことや世間のことはどうでもよくなる。それが、この本の効果かも知れないな」
 彼女は俺の話に興味を失ったみたいで、
「ふーん。どうでも良くない?あ、そろそろ楽しみにしているドラマの『へびつかい』の時間だわ。じゃ、また来るね」
と言って、会計をして、店をでていった。
 俺は、一人取り残されて、誰もいなくなった店内で、再び、「存在と時間」の続きを読もうとし、巻頭言のプラトンの言葉の引用が目に入った。
 「というのは、『存在する』という言葉を使う時に、自分でいったい何を言おうとしているのかを、君たちならばずっと前から良く知っているに違いないのだが、われわれのほうでは、ひところでこそそれがわかっているつもりだったのに、今では途方にくれているありさまなのだから…」(プラトン「ソフィステス」244a)
 彼女の言うように、自分が、今「ある」ことの意味を、考えるのは、どーでもいいことなのかも知れない。プラトンですら分からないことをグダグダ考えるのは、単なる趣味の領域なのかも知れない。
 でも、こんなどーでも良い本を読みまくっているのが、誰でもない今の俺だ。自分の選択には失敗という愚はあったろうが、後悔という下品さはないつもりだ。この本の言い方で言えば、「交換可能性の無い」自分の時間を、まごうことなく自ら選びとってきたとは言える。それは、川の流れのような人生で、一見ただ成り行きにより漂ってきただけのように見えるかも知れぬが、その流れの中で、俺は流されながらも、微力ながら自分の意思で泳いできたつもりだ。
 俺は、独身主義だったのに何故か学生結婚してしまい、その結果、金に関わらず静かに生きる積もりが何故か金のために起業し、金稼ぎに生きることになった。それだのに、気がつけば家を出て別の女と暮らし、会社も自分が病気になって長期入院している間にクーデターをおこされて失い、唯一の生きがいだった趣味の船も売った。しかし、病気で100日入院したことは、無駄ではなく、俺に未来の死を自覚させてくれ、金稼ぎなんかしている場合じゃないと気づかせてくれた。俺はその結果、金の掛からない美術と文学だけに生きることに決め、幸せな貧乏生活をすることにして今ここにいる。
 この本の言い方に従えば「死への先駆」(死を自覚的に受け入れること)を、長期入院という一見挫折に見えるアクシデントで、偶然手に入れる事ができた。今流されている川はいつ海に出て終わるのか、流されている俺自身に先は見えないが、もう上流ではないことは確かだ。しかし、たとえ下流域を流されていても俺は急流を流されていた頃と同じ激しい変化をしていたい。
 「駆け落ち」
 そんな言葉を口に出してみた。
 店に流れていたチャーリーパーカーをとめて、替わりに、ザ・クラッシュのパンク「白い暴動」を音を大きくして流し、壁にかけてあった楽器を掴み、適当に見当をつけたコード進行で、16ビートに合わせて頭を振りながら、裏声で叫んだりしてみる。
 店の外は、暖かく湿った空気が『梅雨』前線に流れ込んで、積乱雲を発生させて、いっそ気持ちの良い雷を伴った激しい豪雨になっていた。
                                      終わり

※ 作中の引用は、筑摩書房刊 ちくま学芸文庫 マルティン・ハイデッカー著「存在と時間」に準拠。但し文言引用や、内容の理解が、正確かどうかついては保証しない。

コメント(6)

何だか昨晩6月8日の哲学カフェの後で読み返すと「駆け落ち」の一言が妙に重いです…

「存在と時間」は酒呑みながら薄手の枕代わりに、翌朝には内容すら忘れてしまう酔っ払いには自己の存在証明は本当は大切なのかもしれません。
時間を感じさせない女性というのは、そういう点では稀有な存在なのでしょうね。
哲学、難しかったです泣き顔
が、その難しい哲学を、わかりやすく説明してくださる、JONYさんの理解力と表現力がすごいのだなぁと思いました。
そして主人公、なんだか粋でかっこいいです。その人の人生経験でしか語れない、貴重なことが描かれていると感じました。
読書会でお会いする方の作品へのコメントは控えようと思っていたのですが、あまりによすぎて感動しちゃいました…
なんなんですかJONYさん!(混乱

こちらに興味があるんだかないんだかわからない女性。彼女と主人公の、哲学を通じたコミュニケーション(一種の愛情表現にも似た)。がとても魅力的で引き込まれました。
>>[1] >>[2]かとうさん>>[3]そんなことも秋緒さん
コメントありがとうございます。優しいお言葉心に沁みます。書く元気と勇気を頂きました。文芸部がきっかけになり、皆さんとの交流ができることが、とても大きな喜びです。御健筆を。
>>[5]
お褒めいただき、面はゆいです。種明かしすれば、最近行ったUさん司会の読書会の課題図書「存在と時間」を読むのに、結構時間がかかったので、一回の読書会だけでは惜しい気がして、ちょうど文芸部の小説を書くので、これを流用してやれと使っただけなのです。

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