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半蔵門かきもの倶楽部コミュの22回/まめや作/桜もみじ

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 頭に、玉ができた。
 右の耳の後ろ、小指の爪先ほどの大きさで頭の皮膚に一点だけ接している、正しく真ん丸い玉だった。
 わずかに温かい。玉に触れた指先に小さな振動を感じる。生きているみたいだ。右肘をついたまま、視線をあげる。黒くなったパソコンの画面に、斜め四十五度に傾いた姿が映っている。部長と同じだ。
 姿勢を正して、右手でマウスを動かす。休止モードだったパソコンが明るさを取り戻す。純子も意識を玉から取り戻す。
 部長は、いつも右に傾いている。パソコンを打っていても、電話に出ていても、会議中でも、傾いている。きっと教壇でも傾いていたはずだ。
 四十五度は平常、九十度は業務部と一悶着もしくは二日酔い。
 脇机に置かれた段ボールに見え隠れする姿は、今日はいつもより深い六十度だった。疲れているのだろう。
 部長はこの三月いっぱいで退職して、地元の栃木に戻る。四十半ばを過ぎて決意が固まったと、全体ミーティングで短い報告をしていた。
 純子が大学を卒業してすぐに入社してから半年後、部長はやってきた。「ご指導、ご鞭撻のほど、どうぞ、よろしくお願い、いたします」普通の挨拶なのに、間が独特だったことだけ印象に残った。しばらくして、それまでは中学校の教師をしていたと知った。社会の先生がどういう経緯で転職をして、このお客様対応を主とする部署に配属されたのかはわからない。最初のうちは純子の斜め前の席に座っていたけれど、前の部長が異動になったのを機に、あっという間に純子の上司になっていた。
 今まで三回席を移動したけれど、わずか六人しかいない部署では、どこにいたって部長が目に入った。
 出勤して九時十分、紙パックの牛乳を飲む。青いパッケージの低脂肪のやつだ。電話は右手でとって、左側の頬で受話器を受け取る。だから、電話の時だけは左に傾く。長引く電話に少しばかり機嫌が悪くなったときは「えー、えー」という相槌が三回続く。蛍光ペンは、黄色と青色の二色を使う。脇机の一番下の引き出しには、ファミリーパックのチョコレートを常備している。
 もう十年になろうとしている。十年間、毎日、部長を見ている。
 学生のころ、十年ぶりに友人と会うという周りの大人のことが理解できなかった。二十歳そこらの自分には、十年間という時間は重すぎた。
 けれど、今ならわかる。十年なんて、どうってことはない。
 部長がコーヒーカップを取って、まっすぐになる。すぐにまた、六十度に戻る。小さくくしゃみをする。眉間を左手で揉む。首を回す。六十度に戻る。
 パチパチ。パチパチ。
 線香花火が火花を散らす、そんな音がした。気のせいではない。部長から視線を戻して、音の在りかを探す。
 パチパチ。右の耳だけに小さな音が入ってくる。パチパチ。玉だ。玉が鳴っている。そっと右手の指で触れる。玉の中が、動いていた。

 違和感に気がついたのは、三日前だった。まだ、玉ではなかった。
 むずがゆい。セーターがチクチクする、あの感じがした。我慢できなくて掻いた人差し指が、濡れていた。透明な液体で、わずかにべとついた。もう一度、耳の後ろを強く指でこする。匂いを嗅ぐ。甘い。蜜の匂いがした。
 シャンプーをして、リンスをして、ドライヤーをかけた。かゆみも匂いもなくなっていた。けれど布団に入るころ、またしても、むずがゆい。どうにもこうにも、かゆい。掻いた指先には、甘い液体がついていた。
 昨日はシャンプーを二回してみたけれど、効果はなかった。そして、今日の朝だった。玉ができていた。ニキビでもかさぶたでもない。指でつまんでみても、その感触がわからない。確かに皮膚から生えているのに、自分の体とは別物だった。かゆみも甘い液体も、消えていた。
「木本さん」
名前を呼ばれた。傾いていた体を起こすと、前の席に座る島田さんと目が合った。
「やっぱり、今日一緒にきてもらってもいいですか?」
部長の餞別を買いに行くのに、ひとりでは心細いと言う。
 島田さんはちょうど半年前に事務所に入った。純子と三歳しか変わらないけれど、甘えるのが上手だ。
「いいよ」そう言って、背筋を伸ばす。業務部から催促が来ていた報告書の作成を再開する。
 一年浪人しても、現役のころと対して変わらない三流私立大学しか受からなかった。売り手市場と言われた時代だったはずなのに、就職活動はなかなか終わらなかった。中の中くらいのこの会社に内定がでたときは、心底ほっとした。
 今では電話の第一声から怒鳴られることも、肯定も否定もしない相槌を繰り返すことも、一時間に及ぶ電話内容をわずか数行の文章にまとめることも、どうってことはない。
 けれど、島田さんにはかなわないと思う。
 少しの粘りを見せれば対処できるクレームをあっさりと諦めたり、それを笑い話にしてみたり、前の日と同じ質問を笑顔で同じ先輩にしたり、小袋に入っていないお菓子を「食べます?」と言って回したり、純子にとって難しいことをいとも簡単にやってのける。
「木本さん、わたわめみたいです」
少し頬を赤くした島田さんに言われたことがある。入社してすでに一か月が過ぎていて、今さら親睦を深める必要もないような島田さんの歓迎会だった。
「わたあめ?」
純子より早く反応したのは、それまでいつもの角度で日本酒をおちょこで飲んでいた部長だった。飲み会が始まって一時間以上経過していたけれど、部長は初めて相槌以外の声を出した。
「わたあめです。ほら、お祭りの屋台で売っているあれですよ」
アニメの絵が描かれたカラフルな袋だけが浮かぶ。中身のわたあめがうまく思い出せない。
「あれ、一瞬じゃないですか。一瞬で甘くて一瞬でなくなっちゃう。ふわふわしてて、あ、もうないっていう」
島田さんのアイラインで縁取られたくっきりとした目から視線を横にやると、部長の垂れ下がった目とぶつかった。
「木本さんが、わたあめ。うーん。よくわからないけど。懐かしいな。わたあめ。子供のころ、レモン味のよく食べたな」
「レモン味?」
島田さんが身を乗り出して、部長のおちょこから日本酒が少しだけ散った。部長はかまわずにそのおちょこを勢いよくあおって、続ける。
「そう。レモン味。食べたことない? 地元では定番だったんだけどな。栃木はね、なにかとレモン味ってあるんだよな」
部長が夏に配っていたお土産を思い出した。レモン牛乳のクッキーだった。
「ちょうど今くらいの時期にね、お祭りがあったんだよ。うちの寺の近くで、もみじ祭りっていう小さなお祭りがあって、屋台も限られたのしかなかったんだけど。わたあめは毎年あったなあ」
部長は傾いたまま、口元を緩めてひとりで何度も頷いている。純子はお尻を少し右にずらして、空になったおちょこに徳利を傾けた。
 わたあめみたい。島田さんの言うことはよくわからなかったけれど、とりあえず笑っておく。どうってことはない。
 部長の言うレモン味のわたあめなら、悪くないと思った。
 純子は残り少ないコーヒーをすする。朝、会社の入っているビルの一階のコンビニで買ってきた。すっかり冷めていた。
 電話に出た部長が左に傾いている。玉の音は止んでいた。

 桜の開花宣言が出された翌日から、弱い雨が降り続いている。純子の頭の玉と同じ、もう三日目になる。電車の窓からは止んだように見えたけれど、勘違いだったようだ。
 純子は紺色の傘をさして駅からの道をまっすぐに進む。一つ目の信号の手前にあるドラッグストアで、フケ・かゆみ用のシャンプーを買う。家にあるシャンプーの半分の値段だった。
そのまま二軒隣のコンビニに寄って、チルド弁当のカルボナーラを買う。二つの信号を右に曲がって、アパートまで三分ほどの道を急ぐ。
 三月も終わるというのに、空気の冷たさがじんと染みる。ストールの結びをきつくする。ストッキングのふくらはぎまで、雨水が弾け飛ぶ。だんだんと雨脚が強くなってきた。
 部長の餞別は、紺地に小さな四葉のクローバーが金色の糸で刺繍されたハンカチとどこかのコンクールで賞をとったという日本酒を買った。
 賑わう地下の食料品売り場の一角、酒売り場の近くで北関東の物産展が行われていた。栃木の文字を目にして、純子は足が止まる。
「部長、地元に戻るって言っても、栃木なんてすぐですよね。同じ関東だし」
栃木限定だと言うレモンのお菓子を手に取って、仙台出身の島田さんは言う。
「すぐ? 栃木だよ?」
「えー、近いですよ。東京のちょっと上じゃないですか」
東京から栃木まで、電車で二時間くらいだろうか。いや、もっとかかるのだろうか。そもそも電車で二時間は近いのだろうか。遠くはない気がするけれど、島田さんが言うほどちょっと上というのは違う気がする。
「部長、お坊さんになるんですかね?」島田さんが言う。
「さぁ」
首を傾げるけれど、それが違うことは知っている。実家のお寺は部長のお兄さんがすでに継いでいる。今になって学校の先生に戻ることもないだろう。やっぱり、栃木は、ずっと遠い。
 これから彼氏とデートだという島田さんと駅ビルの入り口で別れた。買ったハンカチと日本酒は純子が持ち帰った。
 電子レンジで一分五十秒、追加で二十秒温め直したカルボナーラはソースが少し煮詰まっていた。
 島田さんは南口にできた新しいイタリアンのお店に行くと言っていた。今ごろワインで少し酔っているころかもしれない。純子はひとりで発泡酒の缶を傾けて、喉にひっかかるソースを流し込む。就職をしてすぐに一人暮らしを始めた。実家も都内にあるけれど、年末年始に帰ったきりだ。
 パチパチ。また玉から音がした。
 パチパチ。テレビの音量を下げる。パチパチ、パチパチ。音が早くなっている。耳の後ろをそっと確かめる。熱い。熱を持っている。
 化粧をするときに使っている大きな折り畳みの鏡を左手に持って、柄の部分が少し欠けている手鏡を右手に持った。何度か手鏡と首の角度を動かして、やっと成功した。
 なにこれ。
 玉は、緑色になっていた。いや、違う。よく目を凝らすと、玉の表面は透明だ。透けた膜から中身が見えていた。黄色と緑色の細かいいくつもの粒が、まるで生きているかのように動いている。
 鏡を置いて、そっと玉に触れる。パチパチ。音に合わせて、指先に振動が伝わる。玉から離した指先にはなにも付いていない。匂いもしない。
 テレビの音量をもとに戻す。玉のことは、気にしないことにする。すっかり固まった麺を無理矢理フォークで崩して口に運んだ。油の味しかしなかった。
 夜中に一度、耳に刺激を感じて目を覚ました。玉の音かと思ったけれど、窓を叩きつける雨の音だった。音は近づいたり遠ざかったり、止まったと思ってまた、窓を右から左に勢いよく流れていった。

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
カーテンの隙間からうっすらと光が入り込んでいる。ひと息ついて勢いよく体を起こして立ち上がる。そのままカーディガンを羽織って、ベランダに出た。
 雨は止んでいたけれど、まだ手すりにはたくさんの水滴がついていた。
 純子の部屋は三階の角部屋で、ベランダからはすぐ前の曲がり角にある児童公園の桜の木がよく見える。咲き始めたばかりの白っぽい小さな花は、いつの間にかなくなっていた。
 玉の緑色は、日に日に濃くなった。
シャンプーはフケ・かゆみ用でも、ダメージヘア用でも、同じように効果がなかった。中にある粒は夏の葉のようなはっきりとした緑色になり、ぶつかっては弾かれ、弾んではぶつかっていた。
 長雨からやっと解放された桜の蕾と張り合うように、玉は順調に育っていった。大きさこそ変わらなかったけれど、それはまさに成長だった。
 緑色が深くなってぐっと明度を下げたかと思うと、一気に赤くなった。
 絵にかいたような夕日の色だった。赤や橙といったあらゆる暖色の粒が集まって、玉の中で、見事に発光していた。
 パチパチ。音は変わらずに単調なのに、一音一音に張りが出てきた。玉の中の粒がひとつひとつ弾ける。意識を玉に向けなくても、玉の方が純子を呼んでいた。
 音に引っ張られるようにして、純子は部長に負けないくらいに右に傾いていた。四十五度のまま、電話で曖昧な相槌を打ち、島田さんの他愛のない話に頷き、ときどき六十度になる部長を見ていた。

 育って、育って、育って、そして育ち尽くした。
 熟して熟して、熟し切った。
 パチパチ。パチパチ。
 音の振動に殴られたような衝撃で目を覚ました。
 熱い。
 玉が熟れている。
 体を起こして、そっと右手を伸ばして玉に触れる。必死に膜を突く振動が伝わる。
 鼓動だ。玉が生きている、鼓動だ。
 パチパチ、パチパチ、パチパチ。これは鼓動だ。早くなる。玉の中で粒が駆けあがる。膜を突き刺す。駆けあがる。
 そして、弾けた。
 一瞬だった。突き刺す鼓動が止んだ。冷たい風が沸いたと思ったその瞬間、音もなく、玉が弾けた。たくさんの粒が、一斉に玉から溢れ出ていった。
 甘い。純子の体は蜜の匂いに包まれた。
 熟した赤く光る粒が宙を飛んでいく。
 純子はベッドを飛び降りた。カーテンを開けて、窓を開け放つ。白くなり始めた明け方の空をめがけて、無数の粒が広がり飛び出していく。
 甘い蜜の匂いがいっぱいになる。
 純子の伸ばした手の先で、ひとつの赤い粒が弾けた。それが合図だったかのように、次から次へと弾けていく。目の前が、赤く赤く染まっていく。
「もみじ祭りっていうんだけどね、イチョウではなくて桜なんだ」部長の声が聞こえる。
「桜ですか?」
「そう。桜。桜もみじ。秋の桜もいいもんだよ。桜って、しっかり紅葉するんだよ。イチョウみたいに光を吸い込むような感じとは違って、もっとこうしっかりと色づくっていうのかな。とくに、枯れ落ちた葉っぱが地面いっぱいになっているのがね、こうずっしりくるんだ」
わかるかな。そう言う部長は先生の顔になっていた。
「その落ち葉の道を歩くとね、なんとも言えない音がするんだよ」
桜もみじだ。桜もみじが、いま、宙を舞っている。
 揺れる赤色の中、右の方に黒い影を見つけた。
 パチパチ。
 控えめな音が聞こえる。右に傾いたまま歩く二つの黒い影がある。純子はそれを目で追う。並んだ影が傾いたまま遠くになり、見えなくなる。
 桜もみじが一気に上へ上へと舞い上がった。光を反射して赤く輝き、弾けて、消えていく。最後の一枚、燃えるように赤い葉が、純子の目の前で弾けて、そして消えた。
 すっかり明け切った空が広がっていた。
 甘い。蜜の匂いだけが残っている。
 もう、いいんだよ。
 桜もみじが弾けた先から聞こえる。
 そうだ。もう、いいんだ。
「す・・・・・・」
 声がかすれる。小さく息を吸い込む。甘い蜜が、体の中に広がる。
「・・・・・・」
 まっすぐと背筋を伸ばす。声にはせずに、口にしてみる。
 そうだ。もう、いいんだ。
「・・・・・・」
 もう一度、口を動かす。純子は、声に出さずに叫んでみる。
 やっぱり遠い。栃木は遠い。ずっと遠い。ずっとずっと遠い。
 もう、いいんだ。
「・・・・・・」
 叫んでしまえば、どうってことはない。
 純子の声が、乾いた青い空に吸い込まれる。
 雨に耐えた蕾が、目の前で咲き誇っていた。予報より一日遅れの、満開の桜だ。

コメント(14)

なめらかで読みやすい文章でスラスラと一気に読めちゃいました。
ラストきれいな色にあふれて少女マンガみたいな読後感ですね
おもしろかったです!描写が細かく、リアリティがあって、プロの短編小説を読んでいるようでした。
玉という設定が斬新だなと思いましたが、純子の淡い恋心が反映されているようで、玉が弾ける所に物語の盛り上がりが来ているのが効果的に思いました。クオリティの高いものが読めて、勉強になりました。
見えそうで見えない所に出来た玉…
深層心理を表しているのかな、と思いました。
恋に落ちた瞬間を「赤い実が弾けた」と表現した方が
いたのを思い出しました。
誰だったかな…
部長に寄せる純子の淡い想いに、なんとなく川上弘美の『センセイの鞄』を想起しました。
ただ、それよりも物語は内向的で、基本的に純子の頭の中だけで展開されてゆくのですが、それが玉、というモチーフを用いることによって、違和感なく読めました。

技術的なことを言ってしまうと、地の文の調子が基本的に一人称的に描かれているので、「純子は」と書かれた時に「誰だ?」と少々混乱しました。
ほとんどの文章で主語が抜かれているので、いっそ一人称で統一した方がすっきりするのではないか、と個人的には思います。
ちょっと風変わりな人に恋をする物語と雰囲気が『第七官界彷徨』という文学作品の感じを受けました。
島田さんとの対比が良いですね。島田さんの反応とかから部長が立体的に見えたのも良かったです。
人間観察も面白かったです。島田さんの人物が浮き出ていて、ああ、うちの職場にもこういう人いるな、と思いましたw
不思議な読後感のする小説でした。玉って何だろう?と思いながらずっと読み進めました。
展開されるオフィス内の話とかは、結構現実くさい感じがしましたので、個人的には、もっとその玉がミステリアスに生えるような表現にするか、オフィスの人間観察をメインにするか、どちらかに寄せた方が面白い気がしました。

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