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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六回 おたけさん作 「カウントダウン」

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センスに欠ける落書き。それが、私の最初の感想だった。 

千葉県の西船橋という、西東京に住む人には馴染みのない土地に住む私は、ある日、いつも通る地下道で、妙な落書きを目にした。西船橋には、JR総武線が通っていて、西にある市川駅から延々とまっすぐ高架橋が続いている。その高架は、三階建ての家の高さほどもあり、雨に打たれて薄汚れてしまったコンクリートの壁が地平線の向こうまで続く様子は、少し気味が悪く、最近流行りの巨人の漫画を彷彿とさせるものがある。しかし、駅全体を高架にすることはできなかったのか、西船橋駅の近くの線路は高架になっておらず、私が妙な落書きを見つけた地下道は、駅近くの線路の下を通っている。全国に存在する数多くの地下道の例に漏れず、この地下道にも、落書きが多数存在する。猥褻なイメージを彷彿とさせる抽象画、ポップでデザイン性に溢れるものの英単語の綴り〈スペル〉が間違っているデザインフォント、時間はかけていて上手いのだが誰なのかが分からない似顔絵〈カリカチュア〉、そして、ヘタクソでどうしようもない本当の意味での落書き。他にも、いろんなジャンルの落書きが、この薄暗い地下道〈ギャラリー〉に現れては、定期的に市の委託業者の手によって、無慈悲に消されていく。そんな出展料無料で、後片付け不要の地下道〈ギャラリー〉が、西船橋にもあるのだ。しかも、ここは全長百メートルもあるので、なかなか立派な展示会場といえるのではないだろうか。
私が見つけたセンスのない落書きは、そんな地下道の側壁の上の方に、でかでかと真っ赤なスプレーで書かれていた。その“9”とだけ書かれた落書きは、今まで見た落書きの中で最もシンプルだが、面白みに欠けるものだった。きっと、これを描いた少年は、仲間内でも、話がつまらない奴として通っているのだろう。そんなイメージを抱かせる退屈な落書きだった。
だが、翌日の仕事終わりに、この地下道を通った時、私は、その落書きに退屈さではなく、面白さを感じた。“9”の文字は消え、新しく“8”に変わっていたのだ。つまり、落書きがカウントダウンをしているのである。この斬新な発想と、誰が見るか分からないのに、労力をかけて落書きを消して、新しい数字を書き込む努力に、私はすっかり感心してしまい、明日、“7”に変わっているのを見るのが少しだけ楽しみになった。
 
だが、その翌日、私は地下道を通らなかった。仕事帰りに買い物をしない限り、地下道を通る必要は無く、この日は、職場のチームで飲んで帰ったので、疲れているのもあり、まっすぐ家に帰ったのだった。
帰宅後、私は、シャワーを浴びながら不機嫌だった。上司から、まだ結婚をしないのかと、また言われたからだ。後輩の藤原君が、「課長。セクハラになりますよ。」と止めてくれたから良かったが、私はその話が続くのなら、人事に文句を言おうかと思っていたところだった。結婚するかどうかなんて、別に職場の上司に言われることではないし、私だって焦りは感じているのだ。ちょうど、もうすぐアラフォーになる。結婚について考えていないはずがない。
そのとき、ふと、例の落書きのことが頭をよぎった。今日は見てあげられなかったが、“7”の数字になっていることだろう。
7〈なな〉。私の背筋に冷たいものが走った。7日後は、12月20日だ。それは、不気味なことに、私の誕生日だった。私は、背後に誰かいるような気がして、振り返ったが、当然、誰もいなかった。急いで、シャンプーを洗い流し、身体を拭いて、バスローブを着た。その温もりが、恐怖で冷えた身体を温めてくれたが、誰かに見られているような感じは消えなかった。
私は、戸締まりを確認した後、髪を乾かそうとして、ドライヤーのスイッチを入れたが、そのゴーゴーという大きな音が周囲の音をかき消すことに、私は恐怖を感じ、いちいち周囲を見渡しながら髪を乾かした。しかも、髪を乾かしている間、鏡を見ることはできなかった。何かが映り込む気がしたのだ。
髪を乾かした後、私は、嫌なことがあった日だけ飲むことに決めているウィスキーをグラスに注ぎ、一気に飲み干すと、そのまま床に就いた。
頭から布団を被りながら、私は、数年前、別れた男にストーカーされたときのことを思い出していた。もしかすると、今回は、その続きかもしれない。私の誕生日を知っていて、そんな不気味なことをできるとすれば、あの男しかいないと思われる。奴は、私の現住所を知らないはずであるが、何らかの方法を使って、個人情報を入手したのかもしれない。そう考えると、ますます怖くなった。だが、だんだんとアルコールがまわってきて、私はゆっくりと眠りについてしまった。

ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
意識を取り戻した私の耳に、インターフォンの音が谺〈こだま〉する。窓の方を見たが、外は真っ暗なようである。スマホで時刻を確かめたところ、深夜の2時25分となっている。私は、急いで警察に電話し、名前と住所を伝え、昔、ストーカーをしていた男が、家に押しかけてきて、扉を叩き、開けないと殺すと叫んでいる、と嘘を伝え、電話を切った。嘘も方便だ。緊急事態だから仕方がない。私は、寝室の扉が開かないように、本がどっさり入った段ボールをそこまで移動させた。そのあと、ヘッドホンを付けて音楽を聞こうとしたが、あることに気がついてしまった。
インターフォンが、リズムよく7回鳴ってから、その後、時間をあけて、再び7回鳴るのだ。しかも、計ってみたところ、インターバルは7秒のようである。
気持ち悪い。
私は急いでヘッドホンを装着して、音をシャットアウトし、枕に顔を埋めると、酒が残っているのか、なんとか再び眠ることができた。

朝起きると、インターフォンの音は無くなっており、スマホには警察からの着信が入っていた。私は、警察に感謝をしつつも、面倒くさいと思ってしまい、連絡は返さず、そのまま出勤した。総武線の車窓から見える景色は、何だか、いつもと違っているように思えた。目に見える全てが不安を掻き立てる。誰かに連絡しようと思ったが、メッセージで、こんなおかしなことを話しても無視されると思い、晩まで待つことにした。
その日、私は、仕事を早めに切り上げて、落書きを見に行った。案の定、“6”の数字が書かれていたが、犯人と遭遇することはできなかった。監視カメラの映像でも見せてもらえれば何かが分かると思ったが、ちょうど修理に出しているようで、私は諦めた。
今までの流れからすると、今日は落書きを見てあげたから、インターフォンは鳴らないはずだ。私は心を落ち着けようとして料理を作る。無心で野菜を切る。サラダを作るのにトマトを6等分したとき、再び不安になった。
自分の心が数字に蝕まれている。
私は、台所で、ウィスキーを飲んで気分を落ち着け、味のしない食事をした後、大学からの友人であり、今は主婦になっている由香に電話してみた。
「もしもし、ケイちゃん?久しぶりねー。どうしたの?」
いつもと変わらない由香の声に、私は安心する。
私たちは、近況を話し合って、笑いあった。そして、楽しくなってきたところで、私は例の話を持ち出した。
「7年前、私が、彼にストーカーされたの覚えてる?」
「もちろん、覚えているわ。一緒に、警察に相談に行ったよね。」
「覚えていてくれたんだ。あの時は助かったわ。ありがとう。」
本来は、家族とでも行けば良いのだろうが、父と母は離婚し、母は当時、持病で入院し、弟は常に海外を飛び回っていて、家族のことには構ってくれなかった。
「最近、どうもまたストーカーされているみたいで。」
その後、由香は昔と同じ優しさで話を聞いてくれた。だが、昔と違って、彼女にも家庭がある。そのためか、話は聴けても時間を割くことはできないという感じが電話越しに伝わってきた。さらに追い打ちをかけるように、子どもがぐずる声が聞こえてくる。私は、それは仕方の無いことだと思い、お風呂のお湯が溜まったと嘘をついて、電話を切った。最後に、由香は「困ったら、いつでも相談してね」と言ってくれたのが、人間不信になりそうな私の心を癒してくれた。

私は、ストーカーと対峙することを決心し、翌日、“5”をちゃんと見に行った。見に行けば、何も起こらないのだ。だが、これが“0”になったとき、一体何が起こるのだろう。色々想像しそうになってしまうが、心を弱くするだけなので、私は相手と対決することだけを考えた。
その晩、珍しく弟から連絡が来た。番号からして、国際電話だ。
「久しぶりじゃない。2年も連絡をよこさないでどうしたの。」
「それは姉貴も一緒だろう。こっちには連絡をよこさないくせに、久しぶりに連絡をしてやったら、これなんだから。」
弟はいつも通り、自分の仕事について語り始めた。彼は、商社に勤めていて、現在、中央アジアの開発に携わっている。カザフスタンという国名は聞いたことがあるが、具体的に何があるかは分からない。私が、「おそらく砂漠があるんでしょう」と言ったら、弟は「大学の同期のとこの幼稚園児が、同じことを言ってたよ」と言って、電話の向こうで楽しそうに笑っていた。
弟も私と同じく、両親の離婚を引きずっているのか、愛というものを信じずに独身を貫いている。だから、仕事に打ち込むのだろう。その人自身の人生には決していい影響はないだろうが、ワーカホリックの人間というのは会社にとってはありがたい存在である。
「それで一つ最悪なことがあって。」
いつも明るく悩みの無さそうな弟が、声のトーンを落とす。
「何なの?珍しいわね。あなたが元気無いなんて。」
「それくらい最悪なことさ。」
「一体なんなの。話すんなら、さっさと話しなさいよ。」
「いや、今日ね、来年から始まる街の東側の開発計画の打ち合わせに行ったんだけど、奴に遭ったんだ。」
私の鼓動が早くなる。それは、あってはならないことだった。
「近藤雅喜だよ。あのストーカー野郎。元の会社ではないけど、同じくらいの規模のゼネコンの現場代理人の一人をしていたよ。なんで、あんな奴を雇うんだろうな。そんな見る目のない会社に開発を任せたくないよ。」
私は黙っていた。奴でないとしたら、このカウントダウンは、誰の仕業なのだろう。見えない存在に、私は悪寒を感じた。
「姉貴、気分を悪くしてごめん。話すべきじゃなかったよな。」
「いいのよ。奴が、どこにいるか分からないのも不気味だから…」
私は、不意に泣いてしまった。気を置けない弟が相手だからだろうか、気持ちが緩んだようだ。その後、弟は幼い頃の優しさを取り戻したように真摯になって、私の話を聞いてくれた。だが、彼も私のために東京に戻って来れるはずが無く、警察に相談することを勧めてくれるだけに留まった。

近藤〈ストーカー〉は、中央アジアのどこにあるか分からない国にいる。つまり、奴の犯行は不可能な状況だ。
だが、真っ赤な”4“の数字がそこにあった。私は、地下道で立ち尽くした。犯人は、奴ではない。私は不安で、その夜は眠れなかった。何かが私に迫っている。だが、それは何なのだろうか。逃げることもできるのだろうが、私の性格上、それをやりたくない気持ちが未だに優っていた。
次の日、出社すると、藤原君が心配そうに声をかけてくれた。
「最近、顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
藤原君は、私の6歳下であり、彼が新入社員のとき、私は横に座っていて、2年間面倒を見てあげた。なので、今では、本当の姉弟のような関係になっている。
「大丈夫よ。それより、自分のプロジェクトの心配をした方がいいんじゃない?」
せっかく心配してくれたのに、私はこんなことしか言えない自分に幻滅した。ストーカーされてから、優しい気持ちを見せる男に厳しく当たる傾向にあると、以前、由香から遠回しに指摘されたことを思い出した。
私の言葉を聞いて、真面目な藤原君は「ですよね。いつも迷惑ばかりかけてすみません。」と謝る。
そこから、どういう話の流れでそうなったのか思い出せないが、その晩、私は藤原君と一緒に例の地下道にいた。やはり、そこには真っ赤な文字で“3”と書かれていた。
「これが毎日、カウントダウンしてるんですか。不気味ですね。」
その後、彼は、駅前の居酒屋で私の不安を延々と聞いてくれた。そして、気がつくと彼は、私を見つめていた。理由があるとはいえ、男が女の部屋がある場所に誘われて、サシで飲んでいるのだ。そういう気分になっても仕方ないだろう。私もそうしたかった。
「先輩。引っ越した方がいいんじゃないですか。でも、すぐには難しいだろうから、別のところに泊めてもらうとか。」
彼は、自分でそう言っておいて黙ってしまった。
その後、私は、そんなことしなくていいと言い切る彼を駅まで送ってから家まで帰った。明日は休みだったので、彼が駅のあたりで、どこかに連れて行ってくれることを少しだけ期待したのだが、彼も理性が働いているのか、何も無く終わった。そして、私は一人孤独に帰路につき、眠りについた。

ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
私の部屋に、再びインターフォンのリズムに乗った音が響き渡る。何がいけなかったのだろう。藤原君と2人で見に行ったのが、犯人の逆鱗に触れたのだろうか。
私は再び警察に連絡し、扉の前にバリケードを作ると、再び枕に顔を埋めて眠りについた。これが続くのも、あと数日だ。それだけが心の支えだった。

 翌朝、鏡に映る私の顔はやつれていた。私は弟の提案の通り、私は最寄りの交番に相談に行った。匿名で話をしたのだが、内容を聞いて、警官たちはやっぱりな、という顔をした。どうやら、110番を受けて、彼らが私の家の見廻りに来ていたようである。警官たちは、私の相談を一通り聞いた後、また同じことがあれば連絡をするように言い、その後は、同じような説明を繰り返した。彼らにもこれ以上打つ手は無いのだろう。その堂々巡りの中で、一人の警官が、相談を記録しながら、その間中、机の上を指で小突く。
1、2、3。1、2、3。
そのリズムは、昨日のインターフォンのリズムを私の脳裏に呼び起こす。
「すみません。止めてもらえますか。」
警官たちが顔を見合わせる。
「ええと。どうかなさいましたか。」
「机を小突くのを止めてもらえないか、って言ってるんですよ!」
警官たちは再び、納得したような表情を浮かべ、顔を見合わせた。どうせ、彼らは、私が狂っていると思っているのだ。私が、呆れて席を立ち、帰ろうとしたその時、一人の警官が、
「今後の対策として」そう言って、真剣な顔で提案する。「インターフォンの音を消音〈ミュート〉にしてみてはいかがでしょう。」
私は、その素晴らしい解決方法のコンサルタント料として、パイプ椅子を思いっきり蹴ってやり、交番を後にした。彼らは、常に暴力を執行する立場だから、襲われる恐怖が分からないのだ。私は、悔しくて唇を噛み、血が出てしまった。 
家に帰る前に地下道に立ち寄ると、数字は既に“2”になっていた。犯人は、いつ書き換えているのだろうか。私は、そこに超自然的な存在、つまり、怨霊の類いの存在を感じてしまう。
私がやるしかない。私はそう決意して、帰宅後、クローゼットの奥からスタンガンを取り出して、動作確認をし、バッテリーを取り替えた。これは、近藤のときに護身用に買ったものだ。
「結局、最後に頼れるのは自分だけなのよ。」
私は、死の淵で母が漏らした言葉を何度も噛み締めた。

“1”の日も何事も無く過ぎ去り、“0”の日の月曜日を迎えた。つまり、私の誕生日である。その日、私は有休を取得して、異常者との対峙に備えた。ワーカホリックだと思われている私が、誕生日に有給休暇を使用したことは、職場で様々な憶測を呼んでいることだろう。そして、ある晩、突然、さし飲みの相手をさせられて、思わせぶりな態度を取られた藤原君は、私のことを酷い女だと思っているかもしれない。
しかし、今日、私は、数字と対峙しなければならないのだ。今日迎えた“35”という数字と、“0”を迎えると思われる地下道の数字とに、である。もしかすると、今日は、数字ではなく、いつもの緋文字で“Happy Birth Day”とでも書かれて、電飾と折り紙でデコレーションでもされているかもしれない。私は、自分の妄想に一人笑ってしまう。
ふと、私は、部屋の隅に置かれた姿鏡を見る。そこには、狂気に満ちた笑みが映し出されており、私は笑うのを止めた。今日で終わりにしなければならない。でないと、私は全てを失ってしまう気がした。 
私は、ソファーから立ち上がり、黒のジャージに着替えて、キャップを被り、黒とピンクであしらわれたランニングシューズを履いて外に出た。近くの公園のあたりでもジョギングでもして、問題の時間が来るのを待つ方が、狂気に包まれず済みそうだと思ったからだ。
私は、ジョギング中、全てのものを疑った。駅前の自販機の前でたむろする若者たち、公園の遊具で楽しそうに遊ぶ子どもたち、ベンチに腰掛けて旧友と語らう老人たち、公園の隅で一人コーラスの練習をするおばさん。全てが、狂気の犯人に思えてしまう。途中、石垣に腰掛けてペットボトルの水を飲もうとしている孤独な老婆が、それを開けるように丁寧に頼んできたが、私は無視をして走り続けた。人間不信になってしまった私には、彼女が犯人かもしれないという考えが拭えなくなっていたのだ。そして、私は孤独に走り続けた。

私は、そのジョギングの流れで、例の地下道へと降りていった。その方が、不安に包まれず済むと考えたからだ。
走り続けて、脳内にエピネフリンが充満している私は、恐怖を感じること無く、下まで降りることができた。
階段のすぐ下で、私は何かが来るのを待った。心臓の鼓動が聞こえる。私はその数を数えてしまう。本当に、この数日で、数字とリズミカルなものに敏感になってしまった。
平日の昼間であるためか、いつも人通りの少ない地下道には全く人が来なかった。しかし、5分ほどすると、向こうから誰かが階段を降りてきた。
それは見知らぬ老人であった。
中肉中背で、顔はどこにでもいそうな好々爺、真面目そうな眼鏡をかけているが、頭に工事現場で被るようなヘルメットを被り、サッカーの日本代表の真っ青なユニフォームを着て、少し黄ばんだ白の短パンを履き、同じく白いハイソックスを膝まで上げて履き、さらに、満面の笑みを浮かべたミッキーマウスがプリントされたポシェットを肩からかけて、何かぶつぶつ独り言を呟いている。
如何にも狂気に包まれた格好は、私を萎縮させると同時に幻滅させた。
彼が犯人なら、今まで怯えていた自分が馬鹿らしい。どう考えても、私でも取り押さえられる相手である。
相手は無表情にこちらへと向かってくる。私は、いつでも警察に連絡を取れるようにスマホを片手に持ち、もう一方の手には、スタンガンを忍ばせ、老人が歩いているのとは反対側の壁に寄って待ち構えた。
一歩、また一歩と、老人は行進でもするかのようにリズミカルに歩いてくる。
コツコツコツ。
老人は、短パンに不似合いな革靴の音をリズミカルに響かせる。そのリズムは、神経質で感情の無さそうな例の警官が机を小突く様子を思い出させた。
コツコツコツ。
老人は、こちらに近づく。私は、唾を飲み込む。
もう少しで、すれ違う。
私は彼の手を凝視した。何かを取り出して、襲いかかってくるかもしれない。
そのとき、とっさに躱して、スタンガンを打ち込めるだろうか。私は、スタンガンが動作するかを、スイッチを押して確かめる。
コツコツコツ。
すれ違うぐらいの距離になってから、老人は私の顔を見つめ、凝視し続けた。
そして、突然、老人は笑顔になって、
「こんにちは」
と震える声で叫び、私の隣にあった階段を、先ほどとは異なる早いスピードで、逃げるように上っていってしまった。
これでは、おかしいのは私の方だ。
よく考えると、この時間にすれ違った人が犯人である可能性なんて、相当低いだろう。思い込みが激しくなっている自分のこと、そして、無益に老人を恐怖させてしまったことを激しく後悔した。
気を取り直して、いつもの場所まで、トボトボと歩いていき、意を決して今日の落書きを見た私は、その結果に失望した。
そこには、“0”でもなく、“Happy Birth Day”でもなく、“9”の文字があった。
つまり、最初に戻ったのだ。
何か、新しいステージ進めるという期待は、儚くも崩れ去り、後に残ったのは、今までの不気味さが繰り返されるという事実と、スタンガンを持って街中をうろつくようになってしまった狂った女だけだった。
いろいろと疲れきった私は、家に戻り、シャワーを浴びた後、ネットで新しい物件を検索し、散らかったモノをカラーボックスにしまい込んで、引っ越しの準備を進めた。
よく考えてみると、あのメッセージは、私個人に向けられたものではなかったのかもしれない。たまたま、私が落書きを見つけ、それを見た異常者の餌食なってしまった。そして、偶然、私の誕生日とカウントダウンが一致してしまった。きっと、それだけのことなのだ。
私が逃げることによって、次の犠牲者が出るかもしれないのは心苦しかったが、私は警察に報告したし、あちらが何もしない以上、私が頑張る必要は無い。
それに、逃げることは悔しかったが、気が触れるよりはマシだと自分に言い聞かせた。

今回の経験は、私に、時には逃げることも必要だという教訓を与えてくれた。
それが活かされているのか、職場の上司は、最近、取引先との駆け引きがうまくなったと褒めてくれた。引くべきところは、ちゃんと引いて、メリハリをつけて交渉できているというのだ。
思わぬ結果に、私は元気を取り戻し、少しずつ正気を取り戻していった。
しかし、この大局を一人で乗り切ってしまったことで、ますます一人で生きていけるという自信がついてしまったのも事実だ。亡き母が、このことを知ったら、嘆き悲しむだろう。そう考えると、今回の恐怖体験は、天国にいる母が、私に送った結婚のチャンスだったのかもしれない。しかし、そんなトラウマになるようなチャンスを送る親なら、天国ではなく、地獄に堕ちてほしいものである。
私は、そんな親不孝なことを考えながら、職場から帰宅するために、今日も渋谷駅から深夜の道玄坂の方に向かって歩いていく。私は、この先の神山町にあるオートロックのマンションに引っ越したのだ。
ふと、この賑やかな渋谷の街を自分が選んだのは、心がまだ弱っているからかもしれないと考える。やはり、誰か頼る人が欲しい。それには、結婚相手を探さないとな、と思う。どうやら、結局、母の策略に乗せられているようだ。そう思うと、悪夢の記憶が、少しだけ緩和されるように感じられた。

そんな妄想をしていると、信号が変わりそうになる。私は無理に走ることなく、道玄坂下の信号に捕まり、立ち止まる。
最近、冬の寒さが黒々とした空から降りてきているように思える。私は、そんな寒さをもたらす空を見上げた。すると、昔から建っている、有名な商業施設のネオンライトが目に入る。
そこで、私は違和感を感じる。
なぜだろう。
私は、ネオンで浮かび上がる数字を凝視した。そして、違和感の原因に気付き、思わず苦笑してしまう。
と、いきなり後ろからの衝撃を感じ、私の身体が車道へと飛び出す。
スローモーションになる世界の中で、私の耳に届いた最後の音は、通行人の悲鳴と車の急ブレーキの音が奏でる二重奏〈デュオ〉だった。

仕事で疲れた人も、恋人と楽しい時間を過ごして帰路につく人も、久々に友人と会い思う存分飲んで酩酊している人も皆、猛スピードのワゴン車に突然飛び込み、撥ね飛ばされた、哀れな女の前に集まった。そして、遠くでは救急車のサイレンの音が早速、虚空に鳴り響いていた。
しかし、誰もこの女が助かるとは思っていない。なぜなら、首が180度廻りきっているからだ。具体的には、うつぶせになっている身体に反して、彼女の頭は空の方に向いていた。
そんな哀れな彼女の視線は、やはり、例のネオンライトの数字を見つめていた。
本来あるべき“1”と“9”の数字のネオンが消え、その真ん中で唯一不気味に輝いている“0”という数字を。

コメント(14)

恐怖を煽るのに、カウントダウンという方法は実に効果があるなと思いました。
理由が判然としないのも、怖さを募らせる一因でした。(主人公の誕生を祝うのか、命を奪うのか)そしてカウントダウンの落書きは元ストーカーの仕業なのか、怪奇現象の類なのか。
数字がカウントダウンされていくため、テンポにスピード感があり読みやすかったです。様々な謎が解けて、引っ越し、幸先が良さそうだけども、ラストの展開へ誘うのも、破綻なく良かったです。
肉さんもおっしゃっていますが、「カウントダウン」という手法が見事でした。
ホラーは、相手の姿が見えてしまうと恐怖が薄れてしまうものですが、怪異の片鱗だけを匂わせつつ、「私」の頭の中だけで物語が進むのに、緊張感が途切れない仕掛けでした。
トマトを六等分してしまう箇所が、見えざるものが脳内にまで侵食したようで、もっとも不気味に感じました。
読ませていただきました。
とても面白かったです。ずっと緊張感があって、最後まで読みたい、と思う話でした。読みやすく、描写も見事でした。
読ませる作品ですねほっとした顔

偶然見つけた「カウントダウン」の落書き。必ずしも自分に向けられているものではないはずなのにさまざまな要因で心理的に追い詰められていく。
そのあたりが無理なく展開されていて、しかも読者の興味を殺ぐことなく最後までストーリが走り抜けていく。
もう十分怖い話でした。


個人的な「注文」をつけるなら…。

「私」が男からストーカー行為を受けたことが記述される段になってはじめて主人公が女性だと気づいたので(私だけかもしれませんが)、主人公は具体的名前か早いうちに女性とわかる仕込が欲しかったです。

チャイムが鳴ったことで二度ほど警察に電話していますが、そのことの警察のリアクションが書かれてないのはちょっと不自然かなと感じました。
>>[1]
お読みいただき、ありがとうございました。
理由のない怖さというのに共感いただいて嬉しいです。怖さというのは正体が分かってしまうと怖くないというか、分からないからこそ、自分の想像の中で増幅していくもののような気がしています。

最後の展開も、理解してもらえないかと心配していたのですが、受け入れてもらえたようで良かったです。よくなっていくと思いきや最悪な事態が起こるという、僕の大好きな「世にも奇妙な物語」にありがちな展開をイメージして作りました。

次回の泣ける話でも、カウントダウンのような、何かしらの枠組みを見つけて書ければ良いのですが、そういうのが作るのは難しそうなジャンルなので、悩ましいところです。
>>[2]
ほめていただき、ありがとうございます!
登場人物たちを犯人だと疑ってもらえたのも本望でした。気づいてもらえて良かったです。本当はもう少し伏線みたいにできるとよかったのですが、技能が足りませんでした。勉強したいものです。

フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の〜』のように、主人公が、自分が狂っているのかとか、自分が信じられないという狂気に陥っていくのは個人的に好きな展開です。意識の混乱や内面というのは、映画や漫画では表現しづらく、小説向きだと思い、使いました。

犯人が分からないところを気に入ってもらえて嬉しいです(^^)これは映画『殺人の追憶』を観て、最後まで犯人がわからず、生きていることだけ分かって、気持ち悪かったので使いました。個人的には、正体が分からないのが一番不気味だと思ってます。
>>[3]
頭のなかだけで物語が進むというのは、映画『シャイニング』を参考にしました。この映画は、身近な狂気を表現している素晴らしい作品だと思っています。

トマトのシーンは僕も気に入っているので、嬉しいです!ふとした拍子に、頭のなかでぐるぐる回っていることが行動にも出てしまうというのは、日常でもあることだなと思い使ってみました。
>>[4]
最後まで読みたいと思ってもらえる作品だといってもらえて嬉しいです。ありがとうございます。
それもカウントダウンという枠組みがあってこそのものだと思うので、次の作品でも何か最後まで興味をもって読んでもらえる仕掛けを用意したいです。
>>[5]
ご指摘ありがとうございます。
サリーさんのおっしゃる通りで、これでは主人公が女性かどうかは、結婚の話のところぐらいまで分からないですよね。そこで作品に入り込めなくなることは往々にしてあることだと思うので、次回作では改善します。

警察のリアクションが無いのも、まずいですね。さすがに電話があって、本人から反応がなければ家にいったり、何らかのリアクションがありますよね。読む人が疑問に思ってしまうようなところを直していきたいです。1ヵ所つまずいたら、もう作品には入り込めなくなるでしょうから。
教えて頂いて良かったです。ありがとうございました(^^)
>>[6]だよ?さん
西船橋に共感してもらえるとは思ってなかったので、ビックリしました!

そして、主人公が元々不安を抱えているというのは、葵さんに言われて明確に認識できました。主人公が少しずつ狂っていくことに一定の説得力を持たせるためには、こういう設定が必要なのでしょうね。よく考えると、映画『シャイニング』のお父さんも、小説が書けないという不安を抱えていますし。

上記のことは本当に自分の中で理解できてなかったので、人に読んでもらうということの重要性がよく分かりました。貴重なコメントありがとうございます!非常に勉強になるので、また是非、コメントください(^^)
>>[7]
こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします!

出だしのことに触れていただき、嬉しいです。出だしは読んでもらえるかどうかのポイントの一つだと思っているので、どうするか、いつも悩んでいます。作品によっては、どうしても風景描写から入る形でしか書けないことがあるので、どうにか、より魅力的な出だしを書けるようになりたいものです。

全体として楽しんでもらえたようで良かったです(^^)次回作も頑張ります!

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