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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第百五回 文芸部A 大邦将猛作 ダディ  テーマ選択:追悼

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「なむあみたぶ なむあみだぶ」
と最後の『つ』が聞こえないような、漢字の南無阿弥陀仏よりは
すこしひらがなを思わせるような発音で
いつも母が父の仏壇に向って唱えるのを聞いていた

南無阿弥陀仏は10回唱えるのが浄土宗らしく
あれこれしきたりを知るようになったのは私が40歳になって以降だ。
父が亡くなって初めてうちが浄土宗だと知った
そのころ仏壇も墓も死者のためにあるものではない、そんなことを思った。
いなくなった人をあたかもいるように形にするために人は仏に手を合わせるのではないか。

そろそろ16年。最初の5年くらいは毎年帰省するたびに仏壇に手を合わせ
自転車でないといけないくらいには遠い墓のある寺に線香と花をおいていた。
だんだんと億劫になり、墓にも行かなくなってきた。
帰省しても実家にある仏壇に手を合わせることもつい忘れる。

たまに思い出したように仏壇の前にろうそくを立てる。
もう仏の存在を感じないのだから、墓や仏壇が残された生者のためにあるものだとすれば
処分してもいいのでないかと思えた。

時がたって誰かの死を忘れないようにしようというとき我々は追悼という言葉を使う。
父は記憶の中にしかいない。
仏壇に手を合わせてもそこにある遺影をみても記憶の中でだけよみがえらせることしかできなくなった。

父は脳内出血で倒れ、手術をしたものの数週間病院で寝たきりで過ごして死んだ。
不摂生な人だったので、そこらへんにピンピンしてる人がうようよいるようなそんな年齢で死んだ。

死ぬ前の10年でだんだん歩けなくなり、帰省するたびに弱っていった。
TVばかりみて、動かない。それでどんどんと症状が進んだのだろう。

男親と息子の悲しさであまり話すこともなく孫である息子を見せてあげるのが精一杯の薬だった。
とはいえ、手もあまり動かず力が入らなかったので父は孫を抱いたことない。

孫をもっと頻繁に見せられれば・・・(よかったのかも)
くだらないTVを一緒に見てやれば・・・(よかったのかも)
聞き分けのいい子どもでいるよりもボケたり病気になる暇も
与えないようなドラ息子であったほうがよほど・・・(よかったのかも)

こうだったらという話を頭の中で繰り返してしまう。

先日実家に帰ったとき、父にあげたパソコンにはパスワードもなく中身が見れた。

ワードで書かれた「高橋家の一族」と題された小説の書き出し・・・というにはあまりに稚拙な作文を見つけた。
「である」と「ですます」が混在し、誤字が多い。

「ちゃんと学校行かなくたって作家になった」と生前父は松本清張を誉めそやしていた。
後述するが、父は高等学校にも行っていない。

血は争えぬ。私が下らぬ駄文をこねくり回してるのはDNAがなせる業か
自分の稚拙な文芸趣味とこのペンネームを思い出してたまらなく哀れに思えた。

父は自分史のようなものを書こうとしていた。
苗字は架空のものだが東北の富農が豪邸に住んでるという設定は父の両親のそれと重なる。
生きた証として書こうとしたのだろう。

意味があるのかわからないが、私の手で父の自分史を書くことで父を追悼できないか。。。と私はたくらむ。
父と母から聞き、葬式の時にあった親戚や父の旧友からの言葉をつないで、私が直に父と話したことを
つづればひとりの人間の姿が書けないか?

誰が読もうが読むまいがよい、私は書くことで父の手助けをし、追悼したいという欲望を抱いた。
文芸表現と呼べるのかわからないがこれを書くという親への愛の表現もあるのでないかと私は思う。

【父の笑顔・性格と生い立ち】
父の遺影を探すのに苦労した。
死の直前の写真に笑顔がまったくなかった。
晩年は笑顔の頻度が少なかったのと、マンネリ化した日常が
写真をとる機会を奪っていた。

車椅子に乗り始めたころ、通っていた介護施設で
遊んでる父が幸せそうに笑っている写真が気に入ってそれにした。
それでも死ぬときの5年くらい前のことだった。晩年は行き苦しかったに違いない。

会社勤めをしてたころの父のやせてて古い写真はたくさんの笑顔がある。
私が生まれる前の小さくてシアン色やセピア色した写真を見ても笑顔が一杯だった。

本来、陽気な人だったのだ。と思うと同時に子は親のことはあまり知らないものだと思う。

秋田生まれで5人の兄弟に囲まれて野山で駆け回って育ったそうだ。
私の印象からは信じられないが親戚は小さい頃はとても優しくて穏やかな子だったとみな言う。

何が捻じ曲がったのか私が知る父は意地っ張りでとても仲良かった人でも一度けんかすると
いつまでも仲直りしないつまらない人だった。

怒られた記憶も親としての立派な見地よりも感情っぽくよその子よりできないとか、
不明でしでかしたことを取り上げて恥ずかしいとか。

幼少の頃は秋田でも有数の大金持ちの家で育っている。
釣堀のある大屋敷に住んでいて幸せだったなどと言っていた。
廻船問屋の一族だったのでさもありなん。
終戦後に解体されて事業召し上げ、土地を接収され就職せざるを得なくなった。

金の卵などと言われて上京した集団就職世代の人だった。中卒。
食品の卸問屋に勤めて菓子職人の修行をしてたという。

【子供に対する教育の願い】
よく幼い頃に「勉強だけはしておけよ。大学に行け」と恨み節のように聞かされた。
いけるんだったら借金しても行かせてやると。

小学校のときに算数のドリルの丸付けしてもらって
回答に小数がのってるところを同じ値の分数(逆だったかもしれない)
で書いたら×にされて、「あってるよ」と抗議したらかんかんに怒って、「駄目なもんは駄目だ」とノートを
放り投げたことがある。
大人げないと腹が立つとか、正当性を主張したいとかの前にただ驚いてしまった。
自分もできないことをやらそうとしてくれてるんだとただただ理解できた。
子供の時分だったが、「大学に行け」という言葉は大切な願いだったのだろう。それだけがわかった。

偏屈だが子供には甘かった。おもちゃもいろいろ買ってもらった。
小学生のころねだって一眼レフのカメラを買ってもらったこともある。
カブトムシが好きだと言ったら、どっからか100匹も貰ってきて
平屋だての家の庭を網で囲って放し飼いにしてくれたことがある。
何をするのも極端で、たまに自分も影響受けてるかもしれないと思い返す。

教育熱のようなものはあったが、子供の勉強には成果を求めていなかったようだ。
大学と名のつくとこにどっか入ってくれれば自分のような苦労をするまいと思ってた。

高1の頃、最初「筑波大学を目指してる」と言ったらたいそう喜んで、「目標を大きく持つのはいいことだな」と言っていた。
成績が上がって「東京工業大学にしようかと思う」と言ったら、工業という文字の印象でそう思ったのか、
たぶん父は難関だと知らなかったのだと思うけど「なんでもいいから自分なりの目標でがんばれ。」と憐れむ様にかつ励ますようにいってくれた。
勉強に熱が入ったような頃に目標下方修正に見えたようでそれに対する思いやりだったのだなとしみじみ後から思う。

会社の人には「俺の息子はとにかくよく勉強してるよ」みたいなことを言ってたようだ。
モテないくせによその高校の女の子追っかけまわしたり、勉強ばかりしてたわけでもないが
定期的に机に向かう姿くらいでも「とにかくよく・・」になんだろう。

3年で最終的に京都大学に願書をだしたときはさすがに知ってるらしく
「東大とあんまり変わんないんだってな。」と驚いていた。

【母との出会い】
母から昔聞いた話だ。四国から出てきた同じく金の卵世代で小売店のレジ打ちの母と出会い顔を覚えあうようになった。
まだろくに話もしないときにレジ並ぶ振りして、大枚はたいた貴金属のネックレスをぶっきらぼうに渡したそうだ。

今は見る影もないがその頃の母の写真を見て、昔の人と思えないほど母は美しかったと思う。
高校の頃まで、友達や先生に母が美人だと言われるのがとてもうれしかった。

朴念仁風で田舎風な父がそんな口説き方で
どうやって母を結婚する気にさせたのかいまだにわからない。
ストレートに言うのが一番ってのを地でいった感じなんだろう。

貧乏な4畳半一間で結婚生活が始まったらしい。
食品関係の仕事では割が合わず、当時好きだった車に
いくらでも乗れるということで自動車教習所の先生へ転職し
そのまま勤め上げた。みんなの給料が右肩で上がる時代に
長くいたので一軒家を買ってそのまま住んだ。

【会社生活】
組合の委員長などやるブルーカラーの代表。
飲みニケーションが大好きだったようだ。
これで体を壊したんだろう。
高校のころ、予備校のコースの後、同じ電車で乗り合わせたことがある。
ポケコンみたいなサイズのマージャンのゲームをピコピコやりながら
「あー、ホンイツだった。・・」とか一人で実況中継みたいにごちゃごちゃいいながら、立って夢中になってたことがあって、
「父さん。恥ずかしいから、やめて・・・」と近くによっていったことがある。

30年近い勤めの間、満員列車で1時間半×往復がそうとういやだった
らしく、定年間際になって「はやく引退したい」とよく言ってた。
結婚したばかりで、大企業の部長職を経験してる義理の父と席を囲んだときにもそんなことを言うので
「あーあやめてくれよ」と思ったことがある。
今思えば、秋田で一家がそろって暮らす環境で育った人には
東京の満員電車通勤はさぞかし辛かったんだろう。

【大学院から就職までの父】
大学院の修士に上がった後、一回帰省したときに
「博士進学はやめてくれ、金が続かない・・・」
と言われた。

ある教授は大した額ではないけど、博士に給料出すという構想もあるので
博士進学は歓迎だよと言ってくれた。とりあえず学費なくても大丈夫と。
(私に京大で理論物理学を専攻する博士がつとまったかどうかは別にして、ポスドク難民でのたれ死んだかもしれないが・・。)

「じゃあ就職するよ」と言って、いろいろ探した。
とある都内の大企業に決まりそうと言ったら、父は複雑な雰囲気の顔をしていた。
あとで母が私は埼玉の実家から通うようなところに仕事がある人間ではないと父に言いきかせておいたと聞かされた。

家族は一緒か近くに住むもんだ・・・そんな思いがあったんだろうといまでは思う。父の生い立ちを思い返して感じた。
老後の心配いらないくらいには稼ごうと思ってたけど、金ではないかかわりを求めてるんだなと実感した。

【その後の父】
孫を早く作れとか、結婚して嫁と二人で過ごしたかったのにそういう干渉をよくしてきた。
私が出張で出かけてる間に嫁を実家に呼んで泊まらせるとかとにかく妙な関わりを持とうとしたり。
じいさんが死んだら突然、じいさんの写真を実家にかけて拝みだしたり。将来の孤独状態が不安だったのだろう。

私の仕事が変わって埼玉のマンションに住んでた頃尋ねてきたことがある。
パソコンがいじってみたいというのでフローリングに直においていたパソコンの前に座椅子に「どうぞ」とすわらせようとしたら、
転げた。
「どうした?」とは思ったけど異常には気づかずそのままにしてた。

「孫のことは言わないでくれ。俺は好きで二人でいるんだ」と言い放ったことがあって。
とても寂しそうにしてた。
パソコンの前で父が転んだ2年後くらい。
その嫁もけして私にとって女であろうとしてるようにも見えないのだったが私は私の幸せを築くべくもがいていた時期だったと思う。

そのとき母が父が病気だと告げてくれた。
神経に異常の出る病気で振えがでたり、足が前に進まなかったりする。脳にもいくつか空包ができてだんだん症状が重くなると。
それにかこつけては「父さんは死ぬ前に一度は孫を見てみたいといってるのよ」などと母からも言われた。

病気は父の不摂生も遺伝的な原因も両方あるようだった。私にもそういう因子があるのだろう。
その後の症状がかなり悪くなるようだということは聞かされた。

そのことを嫁には言う気にもなれなかった。

メーカー系の大企業をやめた理由がある。保守的な九州の工場での研究職だったのだが
古い体質の会社で土日に家族で運動会やったり社宅の付き合いがあったり。
最悪会社の推している県会議員の選挙に社員の妻がお茶出しをするなど当たり前だった。

希薄な関係で結婚後にうまく男女になれてないと思えてた関係だったから私は子供をもつより妻を恋人としたかったのだと思う。
それは結局かなわなかったが、少なくともそのような微妙なところで都内で外資系のベンチャーでもいって二人の時間を作ろうとした。
孫についても不安定な会社への転職には思うことがあったので、足を引っ張るようなものがいやだった。

そうこうしてる内に父が義理の父母の家にお邪魔する機会があってさらに症状ひどくなって玄関の段差が踏みあがれないほどになってる
のを知られてしまい。「お義父さん、何があったの?」と。

子をなしたとしても育てていくのは私と妻であった。二人でいることがひとつの幸せだと
思っていたので父の一方的ないいようで子供をつくる気はなかった。

ただできてしまったので父に見せることにはなった。
できてしまえは子供は本当に可愛い。だが親が子供に作れというモノみたいなものでは決してない。

【最後の追悼】
私は父にいろいろな愛情と恩を受けたのだと思う。
多少屈折してるものもあったけど・・・、愛されてたと思う。
何も返せないまま父は亡くなってしまった。

父が盲目的に「大学に行け」といってくれて、それにしたがって
人生がいろいろと開けた。
父は自分でもあまりちゃんと認識してなかった「私を大学に行かせる」ことで
本当は望んでいたかもしれない家族の団欒を失った。
学ばず遊び惚けて父の近くで高卒で土方仕事なりする人生が不幸せでなかったかもしれない。
それは私と両親の家族にはなかったストーリーで、父が求めたであろう家族に囲まれてひょっとしたら野山で幸せにのんびりくらすという
生活。それを父は孫という象徴の形で求めたのかもしれない。
とにかくそれは起こらなかった。

父の晩年の症状も書いておきたい。劇場化するつもりもない。これが文芸とも思っていない、ただ間違いなく私が見た父あるいは私自身に降りかかった事実であり真実でもある物語の一部である。架空でも事実でもいいのだが真実を書くことでしか私は意味のある文章を為すことができない。

脳内出血で倒れたときは体の右半分がまったく力の入らない状態だったと母から聞いた。
もともとかなり前から言語を操る能力を失っていたがくるものが来たんだと思った。

母が119番、かかりつけの病院ではそのとき脳外科は深夜でいなかった。
救急で脳外科がある病院を探しながら、あちこち6つくらい回って車で1時間以上ゆられ、やっと受け入れ病院を見つけました。

私が駆けつけたとき、手術は終わっていて、説明を受けた。
「元々腎臓の病気から、○○病、○○病・・・大変からだが
 弱っているところに脳の視床下部という思考や言語をつかさどる
 大変重要な部位で大規模な出血がありました。血腫があってその周りが
 圧迫されて機能を失っています。
 血腫を取り除いたら、血腫のところの機能は失われますが
 そのほかの部分の機能が回復すると思います。
 しばらく意識が戻ることはないでしょう。
 また脳の左側が出欠部位なので体の右側が麻痺する可能性もあります。
 脳の右側はまだそのまま残っていますが普通の人は言語野が左です。
 左利きと伺ってるのでひょっとしたら言語野が右にあって残っている
 可能性もありますが、言語は失う可能性が高いです。」

呂律が回らない期間が長かったのでおそらくこの左の血腫が原因だったのだろうと推察した。言語はもう操れまい。
これまでの父の様子と先生の説明がきちりと合って合点がいった。
気をつけろといってたが、TVと食うことのほかの楽しみのない父が
節度もって体調コントロールできたとは思わない。当然の推移でこの状態になったのだろう。

ICUで見た父は荒い息を繰り返してて、喉に穴開けられ、腰に穴あけられ、点滴と人工呼吸器につながってて、手術で開頭されたところが包帯でぐるぐる巻き。尿も機械で吸い取られている。
寝ていて、1−2週間は目を覚ますこともないと聞き
ならば、これ以上ここで見ててもしょうがない、後はお任せします。
と言ってその場を去った。

翌週どこかでお見舞いだと思っていたら
数日後母から電話。
「いま父の腎臓の様子が悪くなって手術した病院では
 対処できないのでかかりつけの病院に移送した。
 このままだと尿毒症で死んでしまう。」
腎臓が悪いと血の中の不純物が高まって死んでしまう(尿毒症)。
これは人工的に血をきれいにする「透析」という処置がないと死ぬ。
脳内出血がきっかけになったのか腎臓も一気に悪化。

透析をするかどうかの判断を医者から言われて母は内容がよくわからないので子供の判断も仰ぎたい。と私も呼んだらしい。
最初電話があったので父の意識が戻ったのではないかと思ったが大間違い、「明日行くよ」と連絡し、土日の予定を全部つぶした。

病院の医師の説明はこう
「手術前の状態では透析まで必要ではなかったぎりぎりの状態でしたが
 大変悪い状態でクレアチンが10になってます。以前は4.8でした。
 8超えると透析がなければ生命活動を維持できません。
 脳外科の見立てでは意識が戻ることはほとんどありえないと思います。
 透析をして臓器の状況を戻し、さらに脳の容態を乗り越えてしまえば
 とりあえず生き延びますがベットから動けない
 植物人間のようになる可能性が高いです。
 このまま自然な経過として処置をすることを控えることもできますが
 ご家族が支えていくのもたいへんだと思います。」

言葉で書くとこんな感じだが、こちらが透析やりたいと言ってるのに
まるでそれは無駄だ迷惑だといわんばかり。この医者は循環器・透析の専門で父のかかりつけでもう10年くらい見てもらってる人。

透析しないという選択肢はありえない・・・みたいなことを言って妹など泣き出す始末。
私はいろんなことが頭をめぐって不思議と冷静だった。ただただ哀れな父を思った。

父は障害者手帳の保持者で、病室を多人数部屋でかまわないとすれば医療負担もあまりなく療養を受けられるはずの人間。
私には埼玉県の厚生関係が障害者の無償医療を無駄に増やすなという冷徹なお達しがこの医者に吹き込まれてるんじゃないかと思った。
金で困ることはない。家族も父に生き延びて欲しいと思ってる。どんな形であれ。

ただ手術後の様子を見たときのもう帰ってこない感があって、寝たきり
というのがもう二度と表情もない死に体であればそれもかわいそうだと
思ったりもした。

「とにかく父に合わせていただきたいです。それと息子。父にとっての孫にも様子を見せておきたいです。
 12歳以下ですが特例でICUに入れていただけませんか?」

で会いに行ってみると、うつろな目で体が右側に倒れている。
目が開いていて、あまり見えないはずだが、私と嫁と息子(4歳)に反応したようだ。体が動いてる。
目はひょっとして以前より魂を感じられる。血腫を取り去って一部の機能が回復したところがあるのではないかとも思った。

医者がいう「けいれん」も駄目なりに父がからだを動かしてベットの上でまだ生き延びたいのだと言ってる様にしか見えなかった。

嫁の第一声「意識あるわよ。生きてるじゃない。」
息子に「おじいちゃん元気になってね」と言わせる。
声を何回かかけてると目がだんだん開いてきた。麻痺してる右目も少し開いた。
右目はやや意思の光が弱かったがまぶたは開いた。
小さな子供には恐ろしく見えたことだろう。ほとんど怪獣のようにみえたに違いない。
力づけられればと思って言わせた。反応はまちがいなくある。

父は生きてると確信した。血をきれいにして回復を待つしかない。
病状を刺激してもいけないのでそこで退室することにした。

「何が何でも透析です。それをしないでその先の改善はないし、
 間違いなく父は生きてると思いました。脳外科が何を言おうが僕には生きてて
 回復の見込みがあると思えます。」

というより、その医者にお前の親父がこうなったら、「尿毒症で殺す」のが自然な経過だと
思えるのかと聞いてやりたかった。
10年もこの哀れな人間に向き合ってどの口からさっきの説明と「アドバイス」が出てくるんだ。馬鹿が。

自分が父の状態になったら、迷わず死を選ぶようにも思う。
ただ父はそういう考えをする人ではない。
哀れなほどに弱く、自分のことを大事に思うわがままな人だ。
死の恐怖に怯えていることだろうと思う。

この人に無理を言って大学行かせてもらって今の人生をもらったのだ。
背中を見て、育って、追い越したと思うことも少なくないがこの人に貰った人生ということは間違いない事実だ。

答えはない問いがこれまで発せられてきたが、どうにもならないとこまで来た。
やはり家族というのは逃れられぬ煩悩だ。
しばらく見舞いに行くようにしよう。息子にも祖父の姿をなるべく見せておこうと思う。そのときそう思った。
数週間でその望みは絶たれてしまったが。

人はどうしたら苦しまないでいられるのか。
自分自身のことに関する欲望を捨てて苦悩を解脱することはできたような気がしていた。
明日死んでもいいと思えるほどにいろんなことを自分なりにやってみたし、楽しんでも見た。
家族が苦しむ姿はみたくないし、子供のことを考えると死にたくても死ねない。
人は決して一人にはなれないものだとつくづく思う。

子供の将来と家庭維持の収入源としてはなにがあろうと会社に行って外せない打ち合わせや出張がある。
その間にもかかわれない家族はかってにボロボロに崩れて行く。

ICUで「さらばだ・・・」と涼しい目をしてるような父であったなら、今ここまで病状が悪化することもなかったのだろうな。

この絡みつく業が断ち切れるとしたら私と息子の間だろう。潔く死にたいと思った。
ここ数年うまい死に方がないものかとぼんやり考えていたように思ったものだ。
誰にも哀れまれず、誰にも憎まれず、愛するものへの負債も負わせずに

自分のことについては悔いがないのだ。
後悔のない失敗をしてなんとか食えている。気の済むまで世界を巡ってみた。
今は別の感情もあるがかつて愛した女性を妻にし、子供ができた。
日々のつまらない欲望はあるが満たされなくても結構だ。そのときはそう思っていた。

自分ではない人間が辛い思いをするのをみるのが辛い。
人は決して一人では生きられないということをいやというほど理解させられた。

同一の個体でない人物がお互いをそれぞれの勝手な了見で
思いやってたように思う。それが私の家族だった。

それは煩悩と呼ばれたものかもしれない。
親子が思いあう気持ちは性欲や食欲よりもたちが悪く人を苦悩に落とし込めることがある。

お釈迦様の時代から同じような苦しみがあったのだと想像している。
出家すればそれは消える・・・みたいな結論もありえる。
人との縁を切り、功徳を与え続ける・・・それが本来の出家だったのだろうかと。

父は弱かったと思う。病気を遅らせるような努力も少なかったし、
子供にエゴを押し付けるのもためらいがない。
私の都合も気持ちも斟酌などせず、孫が欲しいと言い放つ。

その弱さが卑怯だと思いつつも、
愚直な卑怯さが哀れみと愛おしさを感じさせる。
やはり家族で血がつながってるのだとつくづく思う。

葬式では涙を流さぬように父の納棺・焼却・納骨までを眺め続けた。親不孝の侘びとして・供養として。
というより、悲しいのか哀れなのか親の死に目に意外と人は泣かないのかもしれない。

思い出したように仏壇に線香をくべるとき私はこのように卑怯で弱かった父を思い出す。

コメント(4)

実際の御尊父に対する追悼でしょうか。実感がこもっているように感じました。死は必ず訪れるものですが、自分自身の死であれば、無痛で速やかに逝きたいですが、家族を送る場合には複雑ですね。色々考えさせられました。
>>[1] ありがとうございます

実話書いてどーすんのよ
と思いつつ
かなり実でありながら
一応文芸を意識しては書いてます
生き死に思うことをきちんと思い出すことで次の作品に深みがでればなともおもいます
コメント遅くなりました…!

読みながら、追悼って何のためにするのだろうか、考えさせられました。
いろいろ欠点はあっても、憎めないお父様への愛情が伝わってきて、少し涙腺が緩みました。
>>[3]
ありがとうございます
欠点もあえて書いて
確かに生きた人を書いてみるのも
文芸にもなりうるかと
愚直に書いてみました

親はどんなでも記憶から離れないし
しがらみゆえに愛せるのを書いてみようとしました

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