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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第九十七回 大邦将猛 作 ア・バオ・ア・クゥーの見せる海 (テーマ選択『海』)

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インディアのラージャスターン州にある要衝チットゥルガルに勝利の塔という建物がある
中には、透明な魔物「ア・バオ・ア・クー」が訪問者を待つ。

魔物といっても人を襲うわけでない。勝利の塔を訪れるものを支え、死ぬことを繰り返すそういう生き物だ。もともとは透明だが塔に訪問者が現れるとだんだんと色と光を放つ。
訪問者の心が美しければどこまでも塔の頂上に近づける。ア・バオア・クーが力を失わず助けるからだ。訪問者の心の洗練に応じた高みに達したら、魔物と訪問者はそれが頂点でなければ足場がなくなりともに地上に落ちて死ぬ。

ジャイナ教という持たざる者を聖者とよぶ宗教がある
インドに現代も全裸で町をあるく老人がいるがあの手のものがジャイナの聖者だ。
彼らは焼け付く日差しにも衣服の覆いをたよらず、野の草を食とし、川の水をすすり
定住せずに生きる。その生き方でしずかに死を待つことが至福なのだそうだ。

ジャイナ教徒はそのように生きようとするがそれでも醜い欲にとらわれていると思うのだそうだ
食わない、飲まない、他人にモノも愛も求めない・・・

ついに欲がないと言える境地に至ったと信じるジャイナの行者がここ勝利の塔を訪れ、
ヒマラヤの山嶺よりも高く感じるというそのえんえんとつづく塔内部のらせん階段を上る。
勝利の塔は修行の勝利を証明するための塔だ。

頂点には円形のテラスがあると言われている。
誰も帰ってきた者はいない。始祖のマハーヴィラがそういったのかもしれない
円形のテラスにいけばとにかく美しい海が見えるのだそうだ。
この世の果ても見える。地球は丸くなくて、果ての先になにがあるかは浅はかな人類には見えぬ
人の世の欲が人に求めさせるものは一切消え去ってしまうのだそうだ。

30年前に訪れたかの地で褐色の肌をした恋人から、たどたどしく英語を使って聞いた話だ。

「チットゥルガルにそんな高い塔がそもそもないじゃないか」

そういいたいのをぐっとこらえてお互いにジャイナ教の聖者の格好をして話をつづけた
漆黒のきめ細かい肌をなぜながら、
「勝利の塔のテラスでは君のその裸をみても、何にも感じないってこと?」
笑ってみた。その実なにも面白くなかったが。
僕が学者さんならいざしらず、学生の自由を勘違いして大学サボって
ふらついている遊び人だ・・・。宗教などまったく興味ないし、哲学みたいなのは
近代のも中世古代のも全く受け付けなかった。

「ばかね。だから無宗教の日本人は話すことがないわ
 目に見えないから、話すことでそれは生まれたり、ありつづけるのよ。
 見えてるものと触れるものがその中のものを定めてると思ってるの?
 Do you believe in what you see or physical things define what’s within?」

「・・・・」
インドという国の空気がなければ「なんのこっちゃ」と一蹴しておわってたかもしれない
しかしなにか僕の心をとらえてこの言葉はその後30年僕をときどき悩ませた。

あとからじわじわ意味を反芻したような言葉だった。

モノは相互作用する。ぶつかって押せばぶつかられて押されたものはうごく
うごかなかったらそのモノから反作用をうけて逆の相互作用を受けている
ニュートンさんのおっしゃる通り。

だが力を及ぼしたり、体にエネルギー取り込むために意思をもって食い物や飲み物を取り寄せる意思はこの体というモノの中で定義され閉じ込められ、すなわち定められているのだろうか

Physical things define what's within.
Defineって単語の使い方がしゃれてたのか
そういえば「私」の「中のもの(what's within)」はどうやって「私」になったんだろう
いやそもそもそれは「私」なのか?と・・・
そとの「私」は「肉体(physical)」だとして「それは外側」なんだろうか
中に「たましい」みたいなのがはいっててそれが「私」なんだろうか
この思考して、飯を食らい、女を貪る醜い「なにか」は
「なかのもの」なのか、それとも「私」なのか、
まわりの「肉」とか「外側」に「欲」を満たすものを与えなければ
「私」は「中のもの」になれるのか・・・
肉体がなぜか根拠もなく欲望であり、おのれという「私」はなににもとらわれていないなにかであるほうが幸せなのでないだろうか・・・
時間をかけて彼女に掛けられた呪いが魂に「おり」を形成し、僕は50歳を超えた今、ただの社会不適合者になった

インドという国は時の流れを忘れ、おのれが物体以外の何かになりうるのではないかという錯覚を起こしてくれる不思議な国である。
もう一度行かなければならない・・・・そうおもった
もうラギーニ(彼女の名前だ)にあうことはあるまい。探せる自信がないし。
あったとして彼女の呪いは解けない。

勝利の塔について調べてみた。もちろん伝説である。ア・バオ・ア・クーはどんな魔物なのかも知らねばならぬ。塔を上るために必要だからだ。

チットゥルガルに再訪してもおそらく伝説で言われてるような塔は見つかるまい。
ヒマラヤ山脈が世界最高峰をたたえることが勝利の塔の暗示なのだろうか?
頂点の円形のテラスで見える海とはなんだろうか・・・

さまざまは思いをはせて意味があるのかないのかわからない蔵書を読み漁り、
書籍を出したら、インドのあらゆる伝説の謂れの情報が集まってきて
僕はしがない大学のすみっこで席をもらい、やっとインドに定期的に行ける身分になった

飯をあまり食わないようにしていた。肉に満足を与えると
アバオアクーに会えなくなる

アバオアクーは勝利の塔に入ると訪問者にまとわりつくのだそうだ。はじめは透明で見えない。
しかしらせん階段を上るにつれてだんだんと階段の石のいろになっていつのまにか
本当の塔の階段が尽きていてもアバオアクーが薄く硬い皮になって階段をその訪問者に見せてくれる
アバオアクーはもうなくなっている塔をどこまでもどこまでも階段となって行者を高みに連れて行くのだそうだ。

そして十分に高くなったら、アバオアクーが光りだす、
まばゆいばかりに。
この世は無限に広くて美しいと教えてくれるのだそうだ。
アバオアクーが光りだすほどに高くなるとひょっとしたら宇宙にいるのかもしれない。

知らぬ間に肉を俗世においておいて「おのれ」が昇華させられるならどんないいだろう
「海」はどんな美しさだろうか・・・・

そして僕は55歳のときにインドをまた訪れた
なんども来たがたぶんこれが最後だ。

チットゥルガルでまずは一番外側の衣服を脱ぎ捨てた。
このようなモノに「私」をdefineされてたまるものか

やせこけた体を支えるために杖をもった。僕を包んでないのだから「外側」ではない
もう体力がなくて普通にあるけない。
聖者様たちがみな杖をもって裸なのもこういうことなのかもしれない。
ジャイナの経典を一冊もまともに読まずに僕は行者になった。

歩き始めた。インドはどんな人間もあるがままにうけいれる。だから日本人の顔で
彼らの中ではまっしろな肌であるが全裸で杖に寄りかかる僕を
見るとジャイナの行者だとわかるようだ。
何かを求めてる僕を理解してくれてることが心地いい。
日焼けの痛みも感じるのだがここちよい。
弱った足があまり進まないがあてどなくあるくしかない

勝利の塔が見える日が来るか
小さな塔でもらせん階段があれば入ってみよう
そこが勝利の塔なら、アバオアクーが階段になってくれる
上がっていけばいい、
塔は須弥山あるいはエベレストかもしれない。
全裸では寒くて登れないと考えるのは俗物の浅はかな考えだ
アバオアクーが僕を包んでくれることをマハーヴィラが階段と呼んだのかもしれない

僕の外側が訴える空腹や寒さには答えない
それは僕ではないから・・・・
光るまで階段を昇ればいいんだ

そう僕は「海」がみたい

コメント(4)

一応・・・ジャイナ教の始祖はほんとはヴァルダマーナといいます
勝利の塔って説話をでっちあげた人がマハーヴィラとなぜか違う名前で呼んでるので
オマージュでその名前をお借りしてます

元ネタがありますが適当に味付けしてます・・・(たぶん知ってる人も「おおだいぶんいじったな」くらいいってくれるとおもう^^)
幻獣。何とすてきな存在でしょう。インドの怠惰な空気と、悠久の歴史を感じさせてくれる石づくりのらせん階段の塔。涅槃が想像でしかないように、登りきることのできない塔の上の景色も見ることができないゆえに心を惹きつけてやみません。
>>[3]

わーいつもお世話になってます
もったいないお言葉いただきうれしいですー
小説になってるのかなと本人はひやひやしてますー
ありがとうございますー

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