半蔵門かきもの倶楽部コミュの第93回　かとう作　「海（仮）」6

　実家に泊まるのはやめたほうがいいのではないか。
　あさひは控えめな拒否をしたが、暁は聞く耳を持たなかった。
「なんで？」
　と聞き返すが、なにも答えないあさひを前に、さっさと宿泊用の荷物を詰めていく。黒いボストンバックをリビングの床に置き、奥の寝室からとってきた衣類を乱暴に入れる。
「おれしばらくあさひちゃんちから仕事通うね」
　これは加賀屋に向けた言葉だった。加賀屋は聞いているのかいないのか、生返事を返す。ソファに横になりながら、スマートフォンでゲームをしているようだ。まるで自分の家のような寛ぎようだとあさひは思い、暁と加賀屋の関係性をそこから見てとった。
「今日はお仕事だったんですか？」
　あさひは加賀屋に聞いてみる。加賀屋はスマートフォンを脇に置いて、あさひを見た。
「今日は休み。駅前通ったら美海がお天気レポートしてたから、一緒に暁んち行こうってなって」
「なんの仕事なんですか？　暁と同じ会社なんですよね？」
「駄目、言わないで！」
　寝室から叫んだのは暁だった。
「なんで？」
「いいから。絶対言わないで」
　加賀屋の問いに対して、暁は寝室のドアから顔を覗かせて、強い口調で告げる。
「わかった」
　加賀屋があっさり承諾し、暁はまた寝室の奥に消えていった。
「言えないような仕事なんですか？」
「そんなことないと思うけど。このへんじゃ普通の仕事よ。正社員だし」
「じゃあ教えてくださいよ」
「でも、本人が言うなって言うしなぁ。おれの口からはちょっと」
　加賀屋の言葉で、あさひはますます不安になる。言えないような仕事ではないけれど、絶対に言いたくないような仕事とはなんなのか。
「別に、そのうちわかるでしょ？　あさひちゃん、職場遊びにくる？　連絡先交換しとこうか」
「よっさん、あさひちゃんナンパしないで。職場にも呼ぶな」
　そう言って暁がまた投げるように荷物をボストンバックにつめた。暁は今度はリビングを横切り洗面所へ消えたが、ボストンバックから荷物がこぼれていた。
　あさひは立ち上がり、床に散乱した白い紙袋を拾い上げる。
「あ」
　あさひの背中に加賀屋の声が届いたが、既にあさひの目に「心療内科」「精神科」の文字が飛び込んでいた。同じような処方箋の袋が十はあった。すべて確認すると、それぞれ違う医療機関の処方箋が二、三袋ずつ。近い日付に複数の医療機関をまわり、薬を溜め込んでいるのだと、あさひは瞬時に判断した。
　中には知らない薬もあったが、助産師のあさひには見覚えのある名前のものもあった。これは確か睡眠薬と、向精神薬ではなかったか。そもそもどの処方箋も、心療内科や精神科を標榜している医療機関のものだ。
　加賀屋のほうを振り向くと、彼は起き上がってソファに座っていた。なにも言わずに唇の前で人差し指を立て、あさひをじっと見る。
　加賀屋はその袋を遠くから見ただけで、なにかわかったのだ。彼はおそらく、あさひが知らない暁のことを、多く知っている。
　あさひはその瞬間に思ったが、洗面所から響いてくる暁の足音に気づき、慌てて処方箋を元の場所に戻してからソファに座った。
「交換しとこう、連絡先」
　加賀屋が再びスマートフォンを取り出す。
「ちょっと、あさひちゃんに手出さないでって。あんた既婚者でしょうが」
　洗面用具を手にリビングに戻ってきた暁が抗議した。しかしあさひには、加賀屋に連絡をとらないといけない理由ができた。あさひも躊躇わずスマートフォンを取り出す。
「もう。油断も隙もないなぁ」
　暁はそう言って何事もなかったかのように荷造りを再開した。あさひと連絡先を交換した加賀屋は自宅に帰っていった。
　暁の家から実家に帰る車内では、暁と二人きりにならずに済んだ。暁が通勤のために、自分の車に乗っていきたいと言い出したからだ。あさひは自分の父親の車を、前回の帰省から約半年ぶりに運転した。
　久しぶりの運転にあさひは緊張した。しかしそのおかげで、暁の真意もこれからのことについても、深く考えずに済むのはありがたいことだと、あさひは思った。
　海沿いの道に出ると、水平線に沈んでいく夕陽に目が痛い。あさひは慌てて車のサンバイザーを下ろす。
　夕陽に向かって帰路を走りながら、あさひは茜を飲み込んだ海を思った。見ていたたわけじゃない。しかし、彼女が海に消えた日は、波はこんなふうに穏やかではなかっただろう。
　暁はどんな思いで、母親が消えた海辺を走るのだろう。車窓から暁の運転している車を見て考えたが、バックウインドウごしに見える暁の後頭部からは、なにもわかるわけがなかった。

　あさひは、朝に産まれたからあさひ。
　父親は幼い朝日に対して、そのように語った。たとえば初日の出を家族で見たときだとか、キャンプ場でテントから朝日を拝んだときだとか。
　あさひの朝日だ。
　父親が何回も言うのを、あさひは聞きながら育った。
「じゃあ暁は？」
　あさひが問うと、父親は小さな娘にもわかるように、丁寧に説明した。
「暁は、あかつきって意味だ。あかつきってわかるか？」
「わかんない」
「あかつきっていうのは、夜明けって意味だ。朝日が昇って、夜が終わる時間帯のことだな」
「じゃあ、暁は夜明けに産まれたから暁なの？」
　あさひがそう尋ねると、父親は照れたように笑った。
「そうだな」
「お父さんってたんじゅんすぎ」
　あさひは当時覚えたての言葉で父を罵った。父親はその通りだと言わんばかりに、「ふふふ」と笑った。
　なぜかそういうやりとりの数々が、あさひの今まで生きてきた記憶の中で鮮明だ。
　夢は、切れ切れにそういう記憶をあさひの脳に再生させた。
「あさひちゃん、もう髪は伸ばさないの？」
　そう聞いてきたのは確か、十七歳の暁だ。あの日、暁が肉体的にあさひを求めてきた夜。暁があさひに覆い被さる前に、ベッドの中でぽつりと言った。
　伸ばさないよ。
　そう思ったのに、なぜか声にならなかった。
　髪は伸ばさないと決めた。もうスカートは履かない。
　そう思っても、暁はあさひの服の中に手を突っ込んできた。
　やめて。
　暁の胸を押す腕は、なぜか空を切った。驚いて目を開けると、そこには見慣れているはずなのに、いつもとは違う天井があった。向かって伸びている自分の手をしばらく眺めて、あさひは今実家にいるのだとやっと気がつく。
「おはよう」
「うわっ」
　ベッドの脇から暁の声がして、あさひは心臓が飛び上がりそうなほど驚いた。ずっと暁はあさひの寝顔を見ていたのだろうか。どういう状況だ。父親と母親はなにをしているのか。
「おじさんもおばさんも、もう仕事行っちゃったよ」
　そう言ってから、暁はあさひの頭を撫で、頬に軽く唇を寄せる。
　やめて。
　あさひがそのように言う思考力を取り戻す前に暁はもう立ち上がって、ドアに向かっていく。
「おれも仕事行くね。朝ごはんテーブルの上にあるから食べてね、だって」
　暁がそう言ってドアを閉めるまで、あさひの口は塞がらなかった。
　なんなのだ、この帰省は。
　悪夢のせいか暁のせいか、ばくばくと高鳴る鼓動を押さえつつ、あさひは思う。休職とはいえ、働き出してからこんなに長い休暇を得たことはなかった。あさひは助産師という自分の職と向き合ったり、のんびりと思い出の土地を巡ったりして、静かな時間を過ごしたかった。そのはずだったのに、帰省してきてからほとんど休まる時間がない。
　暁はいつまでこの家にいる気なんだろうか。私は大丈夫だろうか。
　その懸念は、ある程度実現した。どうしても、暁と二人きりになってしまう時間が発生してしまうからだ。
　定年間近の父親は、毎朝早朝に車で出勤する。母親は今はパートタイマーで、基本的に夜勤はないようだが、父親を送り出してからやはり朝早い時間帯に自転車で出掛けていく。両親は毎朝決まった時間に外出するが、暁は日によっては夜明けごろ誰よりも早く出掛けていったかと思えば、午前中にのんびりと出掛けていくときもある。ごくたまにだが、夜の呼び出しもあるらしい。なんの仕事をしているのか聞いても教えてくれないので、暁のスケジュールは読めない。
　いずれにしてもあさひは朝はのんびり寝ているつもりだったが、油断をしていると、出勤の準備を整えた暁がベッドに入ってくるときがある。
「何してるの？」
「二度寝」
　あさひが聞くと、暁は悪びれる様子もなく答える。満足げに目をつむったまま。あさひがそろそろと出て行こうとすると、がちっと抱きしめられホールドされてしまう。
「やめて」
　そう言って肘を動かし逃れようとするが、さらに強く締め付けられ身動きがとれない。
「大丈夫」
　暁の声が生温かい息とともに耳元に吹きかかる。
「なにもしないから」
　もう既にしてる。
　言おうと思ったときには、もう暁が寝息を立てていた。

コメント(5)

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[1] mixiユーザー 02月23日 17:16

なんだかとても長くなってきてしまってすみません。読むのが大変だと思うので、部会ではスルーでも大丈夫です。

[2] mixiユーザー 02月25日 13:29

4～6まで読ませていただきました！

新キャラ、いいですね～
あさひと最悪な出会い方をした美海とよっさんの二者二様な反応が面白いです笑笑
他にもいろいろ聞きたいこと感想などあるんですが、今言うと中途半端になりそうなので、最後の完結まで読んでから改めてお伝えしようと思います（そんな大したことも言えないと思いますが…）

命の話や主人公に一方通行な片思いを募らせる暁との恋愛ドラマ、それに関わる新キャラたちがこれからどのように絡んで物語が帰結するのか、すごい楽しみです

[3] mixiユーザー 02月25日 14:19

>>[2]
ありがとうございます！ここまで読んでいただいただけでも嬉しいです。なんだか10万字超えてしまいそうな予感なので、また公開方法を考えようかなぁと思います。
結末、ふんわり浮かんではいるんですが、どう帰着させるか模索中で、調べものも必要なので、もしかしたら完結も結構先になるかもです

がんばります～

[4] mixiユーザー 02月25日 21:49

まさかお天気お姉さんとの三角関係になるとは予想外の展開です。
続きが気になります！
大作の予感。

[5] mixiユーザー 02月26日 05:40

>>[4]
ありがとうございます！ここまで読んでくださり大変ありがたいです。
お天気お姉さん、これはあさひに「こんなに可愛くて頭のいい子があんたの彼女なのに」みたいなセリフを言わせたくて、お天気お姉さんにしただけで、あんまり深い意味はなかったりします汗。
客観的に見てハイスペックな女子が（でもローカルにおさまっている点で多少くすぶっているような）、年下の、言ってしまえばスペックの低い暁を飼っている風味なのが面白いかなぁとか。

でもいろんな要素を詰め込んでいて自分でもよくわからなくなってきました……
初心を貫徹すべくがんばります。

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