半蔵門かきもの倶楽部コミュの第93回　かとう作　「海（仮）」4

　茜は美しい人だった。もう何年も会っていないし写真もあまり残っていないから、記憶の中のぼんやりとした彼女の像を探るしかない。それでも、左右均等に「にかっ」という音が聞こえてきそうなくらい大きな口を開けて笑う彼女の笑顔が、あさひは好きだった。
　太陽のような人だった。それでも、太陽が燦々と輝いていたのはほんのわずかだった。
　茜の半生（あさひが知りうる限りでの）を振り返ると、そうなるのかもしれない。出会ったころの茜は、一切笑顔を見せることがなかったし、晩年はどこかいつも辛そうだったから。
　あさひが二十二歳を迎えた夏、看護大学の助産師の実習で忙殺されていたころ、茜は海に消えた。
　詳細は未だによくわかっていない。ただ暁に「台風の影響でいい波が来ているから、サーフィンをしにいく」とメールを残していた。その言葉どおり、ウエットスーツ姿でボードを抱えて、海に向かっていく茜の姿を見た人がいるらしい。浜辺にいた地元のサーファーだ。
　確かに、地元のサーファーには、台風が来ると海に向かう人間もいた。海が荒れると普段より大きな波が発生して、いつもは波が小さい日本でむしろサーフィンをするのに好条件が生まれることがある。しかし、茜を見たサーファーによるとその日は波がぐちゃぐちゃで、彼は波に乗れそうにないから諦めて帰ったという。
　それに、職場の仲間にいらなくなったボードやウエットスーツを譲ってもらい、サーフィンを始めて一年に満たない初心者の茜が、台風の日にサーフィンをしにいこうなんて思うだろうか？
　当時隣県に住んでいたあさひのアパートを突然訪れた暁が、そのように語った。
　茜が行方不明になり、一週間が経ったころの出来事だった。五年前のあの日、暁があさひのアパートにいたころ、地元では暁まで急に消えたと大騒ぎになっていた。

　暁はあさひの父親の車に、ずいぶん乗り慣れた様子だった。しかし、行きの車内では不気味なほど無口だった。
　運転に集中していると無口になるタイプなのかもしれない。
　話しかけると悪いかもしれないと思ったあさひは黙っていることにした。しかし、父親の決して大きくない車の中に流れる沈黙は、なんとも気づまりだった。やはり、時間と距離が暁との隔たりを産み、それは簡単に縮まらないように思える。
　暁が産まれてから十年あまり、まるで姉弟のように過ごした濃密な時間。そこから急速に離れていった暁。そしてまた、五年前のあの日、茜が行方不明になったあの時期、暁は急にあさひの前に姿を現した。そしてたった数時間を二人で一緒に過ごしたあと、また何年も会わない時期が続いた。
　あさひと暁の距離は、あの日に決定づけられて、もう一生会わない気さえしていたのに、今こうして二人で車に乗っている。あさひの気持ちと思考はまだこの状況に追いついていなかった。
　それにしても。
　妙に神妙な顔で運転をする暁の横顔を盗み見ながら、あさひは考える。
　再会して一日足らずで、あさひが知らない暁ばかりを発見している。料理をする暁、お酒を飲む暁、運転をする暁。彼の成長を見ることは、あさひにとっては微笑ましいことであった。
　しばらく海沿いの道を走っていたが、隣市との境界線を超えるあたりで視界から海は消える。四車線になり、通り沿いの店も急に増えてきた。同じ国道のはずなのに、市を跨ぐだけでこんなに栄えてくるとはどういうことだろう。あさひは帰郷するたびに疑問に思った。
　暁はこの県庁所在地の都市で、一人暮らしをしていると、母から聞いていた。
　ひたすら国道を走って三十分、ターミナル駅に向かう道を左折すると唐突に住宅地が現れ、しばらく行くと駅に向かう繁華街の中に住居が点在するような地域に入る。暁はその中にあるアパートの駐車場に車を停めて言った。
「ここです」
　家を車で出発してから、初めて暁が発した言葉だった。暁のあとに続いて、あさひも車を降りる。
　二階建で比較的築浅の、単身者向けのアパートだった。一階の一番奥に、暁の部屋があった。
　結構ちゃんとしたところに住んでいる、そういう事実にあさひは安心してしまう。
「どうぞ」
「おじゃまします」
　あさひは靴を脱いで暁の家に上がる。あさひはダイニングキッチンにあるソファに腰を下ろすように言われて、言うとおりにした。暁はソファの向かいに面したキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。お茶を用意してくれているらしい。
　ダイニングキッチンの隣にはアコーディオンドアで仕切られた部屋があり、半分開いたドアからベッドがのぞいていた。バストイレ別の一LDKだと検討をつけたあさひは、部屋の広さが羨ましくなる。あさひが暮らしているのは地元とは隣の県だが、首都圏に入るせいか、家賃がぐっと高くなるわりに狭い。そして予算内で病院の近くに住もうとすると、ユニットバスしか選択肢がなくなる。
「バストイレ別でいいなぁ」
　洗面所を借りながら、あさひはつい独り言を言ってしまう。キッチンに戻ると暁が換気扇の下で煙草を吸っていた。あさひはその隣に立ちながら、さりげなくキッチンを観察して言った。
「結構綺麗にしてるね」
　それは幼少期の暁からは想像もつかない姿だった。小学生の暁はどちらかと言うとだらしなくて忘れものも多かったし、茜のアパートも常に散らかっていた。
　そしてあさひは、暁の家に来てから間取りだとか水回りの綺麗さや部屋の片付き具合など、いちいち確認している自分を発見する。何年離れていても、独立した暁の暮らしぶりは気になる。果たして彼は人間らしい生活を送れているのだろうか。しかし、これではまるで母親だ。
　それでも、どうやら思った以上にちゃんと暮らしていることに安心した。あさひは安心ついでに、台所やシンクも観察する。ちゃんと自炊しているようだし、シンクの三角コーナーも清潔に保たれている。まず、三角コーナーがそこにあるということに、あさひは妙な感動を覚えた。
「彼女が勝手に掃除とかしてくから」
　隣で煙草の火を消しながら、暁が言った。そして、
「あっち座ろ」
　お茶を両手に持ち、ソファに向かう。あさひはそのあとを追って言った。
「彼女がいるの？」
　暁の背中に言いながら、あさひは顔が自然ににやけてしまった。
　暁の口から出る彼女という言葉、いきなり話が恋愛のほうに向かう気恥ずかしさと高揚感、そして暁に彼女がいるという事実からまた生まれる安心感。
　暁がローテーブルにお茶を置いたのを確認して、あさひは暁の肩を揺さぶりながら言った。
「彼女できたんだね、よかったじゃん！」
　自分でも思った以上に嬉しいし、思った以上に顔が笑ってしまう。だって、暁は自立して幸せに暮らせているのだ。しかも彼女がいる。同時に、あさひは今まで抱いていた危惧が自分の自惚れだったということに、安堵と少しの恥ずかしさを覚える。
　あさひはソファに座り、暁はその向かいの床にあぐらをかいた。そしてあさひの顔をまっすぐ見つめて言った。
「なんで？」
　あさひは一瞬問いの意味がわからず考えた。考えてもわからなかったので、そのまま聞き返した。
「なんでって、なんで？」
　あさひを見る暁の顔に笑みはなく、眼差しが鋭い。どきりとする。
「よかったって、なにが？」
「だから、彼女いるんでしょ？」
「もう別れるし」
　束の間の安堵があさひの胸から消し飛んだ。いや、でもまだ勘違いかもしれない。そう信じたい気持ちを抱きながら、あさひはなるべく平静を装おうとした。しかし、自分の早くなった心臓の鼓動が胸に突き刺さって、それを意識から離すことができない。
「別れちゃうの？　残念だね」
　暁はただ、何も言わずにあさひの目を見ていた。あさひは目を逸らしてお茶に手にとり、一口飲む。そして続ける。
「でも、暁モテそうだしまたきっと彼女できるよね。ていうか、なんで別れちゃうの？　どんな子なの？　写真とかないの？」
　あさひは、動揺したときは口数が多くなり、そして話す内容も精査してしゃべれなくなるので、結果意味のないことをべらべらしゃべっている自分が馬鹿のように思えてくる。そういう自分を自覚しながら言葉を止めることができなかった。
「どれくらい付き合ってるの？　出会いは……」
　しかし、その一方的な語りも、暁がソファの隣に座ってきたので、あさひが息を呑むと同時に消えてしまった。暁と距離をとろうとしてつい後ずさるが、これ以上下がるとソファから落ちてしまう。
「あのさ」
　暁が口を開いたとき、あさひは「この子声変わりが完了したな」と思った。そしてそれを自分でも妙なことだと捉えた。もう暁は成人しているのだ。こんなときに声変わりだなんて。
　しかし、あさひは記憶の中の幼い暁と成人した目の前の暁を、やはりうまく整理することができない。あの可愛い可愛い赤ちゃんの暁を打ち破って、いきなり大人の男が出てきたようにしか思えない。しかし、顔も姿も声も、やはり幼少期の暁と地続きであることを時折感じさせるから、なおさら混乱する。
　そして、声変わりを思わせるほどには、暁の「あのさ」は今までで発せられた暁の声の中で一番低いように思えた。
「おれはあさひちゃんと付き合いたい」
　きた。
　あさひはただそう思った。きてほしくないことが、きた。
　暁があさひの手を握る。あさひはそこから逃れて、暁の肩を両手で押す。
　今度こそはっきりと拒絶すべきだ。それだけはわかっていた。目の前にいるのはもう赤ちゃんの暁ではない。あの可愛い暁はもうどこにもいない。
「ごめん、無理」
　あさひは言った。

　五年前のあの日、暁があさひのアパートに来た日。あさひが助産師の実習から帰ってくると、暁はアパートのドアの前で座り込んでいた。もう夜だったので、あさひはそれが誰かわからず、警察に通報しようと思ったほどだった。しかし、
「あさひちゃん」
　暁がそう呼ぶ声でやっと誰だかわかった。
「暁？」
　暁はただ何も言わず、あさひを抱きしめて泣いた。あさひはその暁を抱きしめ返し、部屋の中に通した。
　高校生になりずいぶん成長した暁には戸惑ったが、その頃あさひはもう事情を知っていた。暁の母である茜が海で行方不明になってから、もう一週間経っていた。
　もう田舎に帰る終電は終わっていたので、あさひは暁を泊めることにした。暁には床で布団を敷いて寝てもらったが、夜中に暁があさひのベッドに入ってきた。
「一人じゃ眠れない」
　その言葉にやはりあさひは幼少期の暁の言葉を思い出し受け入れたが、そのうち暁の手があさひの服の下に伸びてきた。
「やめて。無理」
　そう言って突き飛ばしたら勢い余って暁はベッドの下に落ちた。
　暁はその勢いで、夜の街に飛び出していってしまった。