半蔵門かきもの倶楽部コミュの第93回　かとう作　「海（仮）3」

　翌日、暁が覚まして起きてきたのは昼すぎだった。リビングの隣の、もともとは祖母の部屋であった和室の襖が開いて、ほぼ目が開いていないような暁が出てくる。ソファでテレビを観ていたあさひは、つい笑った。よく寝ることも、寝起きの顔がいかにも不機嫌なことも、幼児のころからまったく変わっていない。
「おはよう」
　そう言いながら暁はあさひの隣に座り、
「おやすみ」
　そう言ってなんの躊躇もなくあさひの膝を枕にしてまた眠ってしまった。
　そうだ、このパターンも、同じだ。暁はよく、あさひの膝枕で二度寝した。
　でもそれはもう十年以上前の話だ。今この瞬間自分の身に降りかかると、ぎょっとしてしまう。今膝の上にある頭は立派な青年のそれだ。髭が昨日よりさらに濃くなっている。それでも、
　耳のかたち、変わってないなぁ。
　そういうことを感じて初めて、あさひは暁の耳のかたちまで記憶していた自分に気がつく。今ここにある肌感覚）動揺の奥から、込み上げてくるような懐かしさと、時間を一気に飛び越えて蘇る記憶の鮮やかさ。心が不思議な揺さぶられ方をした。目の前にいる、というか膝の上で眠っている男は確実に知らないのに、記憶には彼の残したものが色濃く残っている。しかもそれはあさひの人格を練り上げた、人生における核心的な記憶だ。
　どうしよう。
　単純にあさひは困惑した。
　やめてよ、と膝から暁を落としてしまえばいいか、それともこのまま何事もなかったようにテレビでも観ていればいいか。その「どうしよう」と、今と過去の間を行ったり来たりして混乱している気持ちをどう捉えたらいいのか、の「どうしよう」。
「あら、さとちゃんまた寝ちゃった？」
　そのとき洗濯物を干すために、リビングに面した庭と洗面所を行ったり来たりしていた母親が、ソファの後ろを歩きながら言った。
　それであさひは、どうしようもないのだ、と思った。暁はまた寝息を立てて、深い眠りに落ちたようだ。あさひはテレビを観ても内容が頭に入ってこないので、とりあえず脇にあったスマホを取り出して、意味もなくネットニュースを観たりする。
　大物政治家の収賄容疑だとか芸能人の不倫報道の間に、不妊治療のコラムなど仕事に関わる記事を見つけたりして、それをタップしていると気が紛れた。
「ねえ、さとちゃんごはん食べるわよね？」
　今度はシーツを抱えて洗面所から戻ってきた母親が、ソファの裏で言った。
「うん」
　あさひは頷くしかないのだが、シーツを左手に抱えて右手でがたがたと庭に続く網戸を開けている母親の背中を眺めて思う。この膝枕にどきどきしているのは、あさひだけのようだと。
　週末のいつもの習慣としてはして、午前中は二階にある書斎にこもっていた父親も起きてきた。あさひの座っているソファの近くにＬ字の配置、テレビの正面に置かれている一人がけのソファ（あさひの父親がこの家を建てたとき、彼の強い希望で、母親がしぶしぶ購入を許したものだ）に座って新聞を広げる。
「なんだ、さとちゃんはまた寝ちゃったのか」
　新聞から顔もあげずに言った。
　昨日、一人娘が家から出ていって寂しいと泣いていた父親でさえ、膝枕についてはスルーだ。あさひは自分が過剰反応なのか、家族がよっぽど鈍感なのか、わからなくなってくる。暁が幼少期にこの家に入り浸りで、あさひとはまるで姉弟のように育ってきたとは言っても、この距離感はどうなのか。成人すれば、本物の姉弟だって、膝枕なんて普通はしない。
　いや、私たち家族が歪なのかもしれない。あさひはそう考えた。
　あさひの父親も母親も、そして祖母も、異様に暁を可愛がった。あさひにももちろん愛情をかけてくれたが、あさひとは五歳差で突然現れた乳児が、ものすごく可愛く思えたらしい。父親にとっては待望の息子のような存在だった。そして、結局は他人の子どもであり、丁重に扱わないといけないという遠慮もどこかにあったのかもしれない。暁は中村家のアイドルだった。
　そういう状況にあさひが嫉妬したかと言えばそうではなく、なによりもあさひ自身が、これ以上ない愛おしさと責任感で以って、暁に接した。それは、暁が産まれる前から始まっていた。
　あさひたち家族と茜の交流が始まったきっかけは、単純に家が近所だったことだ。もともと茜が暮らしていたアパートは、あさひの家の国道を挟んで向かいにあった。アパートの大家はあさひの両親の昔からの顔見知りで、彼女もまた近所に住んでいた。
　アパートの住人の中で、家賃を滞納している人間がいる。若い女の一人暮らしで、しかも妊娠しているようだ。
　そう大家があさひの母親に愚痴っだのが始まりだった。
　その後、あさひの母親は、仕事帰りに、初めて茜の姿を見た。いや、家が向かいなのだから今までも何度も見かけていたのかもしれないが、大家の愚痴を聞いたことで、
　ああ、あれが家賃を滞納している妊婦か。
　と初めて認識した。そして、もう一つ気づいたことがあった。
　もしかしたら、野良妊婦かもしれない。
　これはあさひの母親の、職業的な経験からくる勘であった。妊娠したのに病院を受診せず妊婦健診を受けない未受診妊婦、いわゆる野良妊婦は、当時から問題になっていた。健診に行かないのに出産となると救急車を呼んで、あさひの母親が当時働いていたような総合病院に担ぎ込まれるのだ。
　受診歴がない、カルテが存在しない妊婦には、いろいろなリスクがつきまとう。妊婦健診で必ず行われる性病などの検査を受けていないから、出産の際に医療関係者がなんらかの感染症にかかるリスク。そして、当然エコー検査など胎児の出生前検査も未受診なので、お産そのものがハイリスクでも突然対応しないといけないリスク。多くの場合その背景には経済的困窮があるので、出産にかかる費用が支払われないリスク。
　未受診妊婦というだけで、受け入れを断る病院も少なくなかった。しかし、あさひの母親が働く産科では、基本的に妊婦は受け入れるようにしていた。
　あさひの母親は、気がついたら声をかけていたとのちに振り返っている。
　とにかく、あさひの母親や父親と、暁の母親・茜との交流は、最初はぎこちないものであった。が、その距離感をぎちぎちと詰めていったのが幼いあさひであった。あさひの母親が茜に声をかけたそのとき、母親と手を繋いで歩いていた保育園帰りのあさひは、いきなり茜に駆け寄ってその腹を撫でた。
　赤ちゃんが産まれるのね。
　当時年中だったあさひが満面の笑みでそう言ったのだと、母親がたびたび言うが、このことについてはあまり記憶がない。とにかく、その日から大人の目を盗んでは、あさひは勝手に茜のアパートを訪れては、彼女のお腹を撫でたり、腹に耳を当ててその音を楽しんだり、中にいるであろう胎児に話しかけたりした。
　赤ちゃんが産まれるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった、そういう記憶なら、あさひの心にもうっすら残っている。とにかく、暁は産まれる前から既に、ものすごく可愛かった。
　そういう存在だった暁が、今立派な大人になってあさひの膝枕で寝ている。そしてそのことが、あさひの母親や父親には自然なこととして受け止められている。あさひはつい暁の髪を撫でた。その瞬間ぱちっと暁の目が開いた。今度こそ、あさひは身じろぐほどどきりとした。
　そんなあさひにはお構いなしで、暁は仰向けになりあさひのスマートフォンをとりあげる。
「ちょっと。なに？」
「連絡先教えて」
　あさひの答えも聞かずに、暁はあさひのスマートフォンを操作し、どこかに電話をかけたようだった。ぷるるると着信音がスピーカーから漏れる。そしてすぐに切る。自分の電話番号にかけたようだった。
「はい」
　満足そうに薄く笑ってスマホをあさひに返し、また目を閉じる。今度は仰向けに、あさひの手をとって、自分の胸の上で握りながら。
「ねえ、起きてよ」
　あさひは流石に自分の手を引き抜いて、暁を揺さぶった。
「もう昼だよ。お母さん焼きそば作ったから」
「うそ。焼きそば？」
　暁が伸びをしながら聞き返した。やっと起き上がってあくびを隠しもしない。
「おじさん、おはよう」
　暁が声をかけると、あさひの父親は新聞から顔を上げて応じた。
「焼きそば、食べなさい」
　そう言う父親の下がる目尻に、愛おしさがだだ漏れしている。あさひはそのように受け取る。普段ソースで味をつける中村家の焼きそばが、暁がくる日には必ず塩味になる。暁が子どものとき、そのほうが好きだと言ったからだ。あさひの母親は子どもたちに対していつも淡々と接していたが、焼きそばの味つけを変える母親の行為にも、暁への変わらぬ愛情が滲んでいる気がした。
　暁は台所のほうへ向かい、ダイニングテーブルに座って焼きそばを食べ始めた。ダイニングチェアはソファと同じ向きに並んでいるので、食事をとりながらリビングのソファを観ることができる。暁はただ、テレビを眺めながら焼きそばを黙々と食べる。
「温めなくていいかい？　冷めてるだろう？」
「いいよ、べつに」
　父親が体をねじって、暁と言葉を交わす。こうしてみると、本当の親子のようだった。
「あら、さとちゃん起きた？」
　洗濯物を終えて家の中に入ってきた母親も、暁に声をかけた。
　あさひが驚くほどに、皆自然だった。暁が当たり前のようにそこにいて、当たり前のように家族と接している。両親と暁の間に流れる空気に自分だけが入り込めていないような感覚を覚え、あさひはまるで透明人間になったような心地がした。
　どうして両親は、久しぶりに帰ってきた実の娘ではなく、他人の息子にばかり構うのか。
　そう考えつつも、そのことにさして傷ついたりもしないし、それは妙なことのようでいて、実は普通のことのようにも思えてきた。
　暁はそういう子なのだ。昔からずっと。それが今でも変わっていないだけなのだ。
　あさひはそのように結論づけた。
「おばさん、おれしばらく泊まっていい？」
「いいよ。お父さんも、いいよね？」
「もちろん、大歓迎さ」
　あさひと両親の間でこんな会話が交わされることはないだろう。両親も暁の滞在を本当に喜んでいるようではあるが、その喜びを暁のためにやや大げさに表現することが、やはり他人の息子への気遣いなのだろうか、とあさひはぼんやり考える。
「じゃあ生活費入れるね」
「そんなのいいのに」
「でも、変な気、遣いたくないもん」
　暁の言葉と口調は、ある意味図々しく受けとられかねないとあさひは思ったが、母親は意に介していないようだった。
「ほんとにいいよ。さとちゃん来てくれるとたくさんお手伝いしてくれるし、助かるのよ」
　まるで子どもに言うような口調だ。しかし暁も暁で、その言葉で納得してしまったようだった。
「じゃあおれ荷物とってこようかな」
「うちの車で行くよね？　買いもの頼んでいい？」
　そう言って母親はメモをとりだす。
「お父さんのビールとか、ちょっと重いんだけど」
「いいよ」
　確かに母親は、暁にことあるごとに用事を頼んでいるような雰囲気があった。
　遠慮なく頼むことで暁との距離を詰めているようにも見えたし、同時にあさひは、自分がいない間に両親と暁の距離が再びこんなに縮まっていたのだと、疎外感を感じないでもなかった。
「あ、さとちゃん、おばあちゃんのとこ、もしかして最近行ってくれた？」
「いや。先月から行ってなかったから、そろそろ行こうと思って」
「じゃああさひも帰ってきたし、みんなで行こうか。ねえ」
　先月って、結構最近じゃないか。
　あさひは暁がどうやら思って以上に頻繁に、祖母の入居している施設に顔を出していることにも多少なりとも動揺を覚える。実の孫であるあさひ自身の足が、祖母のいる場所から遠のいてしまっていたからだ。
　それで、母親の「ねえ」の言葉が自分に向けられているものだと気付かず、母親はあさひが単にぼーっとしていたと捉えたようだった。あさひの顔を覗き込んで、繰り返す。
「ねえ、あさひって」
「え、うん」
「あ、あさひちゃん、俺の家来てみる？」
　いつの間にか、焼きそばを食べ尽くした暁が、ダイニングチェアでコーラを飲んでいる。あさひのほうを向いて言った、
「もう食べちゃったの？　早食いだね」
「ねえ、俺の部屋見せてあげるよ」
　暁の問いを咄嗟に流してしまったが、暁はめげずになぜか恩着せがましく言った。
　この流れだと、暁の一人暮らしの部屋で、密室で二人きりになってしまうだろう。それは避けたい。
　が、この場であからさまに嫌がって断ることもできない。「用事があるから」という逃げ道もない。
　あさひは両親の顔色を伺おうとした。目の前にいる父親は相変わらず新聞に顔を突っ込んでいる。母親は、皿を洗っている。それが暁の座っているダイニングに面したカウンター越しに見えた。特にいつもと変わりのない様子だ。
　おそらく両親は私と暁の間にあの日起きたことを知らない。
　今まであくまであさひの予測として存在したことが、ここで確信に変わった。知っていたら、子どもたちを二人きりにすることは避けるだろう。
　あさひは次に、暁の顔を見た。暁はただ、にこにこしながらあさひを見ていた。あさひが部屋を見にくるものとだと思って疑っていないらしい。
　部屋を見せてあげる。
　その表現の仕方にはどこか、レジャー的な響きがある、とあさひは思った。そしてどこか牧歌的で懐かしい。
　新築お披露目だとか職場見学だとか寺院見物だとか。なにかをただ見に行くというのは、心の余裕がある人でないとできない。だからきっと、暁の部屋で間違いが起きることはないし、暁はあの日のことすら忘れているというか、それどころかあれは起きなかった出来事で、私の妄想ではないのか。あさひはそんな気持ちになってきた。
　なにより、あの可愛い甘えん坊だった暁が、今自立してどんな暮らしをしているかが気になる。
「お父さんも行くよね？」
　あさひは保険として父親を誘ってみたが、父親はやっと新聞から顔を出して答えた。
「え、なにが？」
「聞いてなかった？　暁の部屋見にいくの」
「今日？　今から？」
「そう」
「今からか」
　暁の自宅はあさひの実家の隣の市にあった。ここからだと車で三十分かからないくらいだろう。
「お父さんは駄目だ。これからテニスだから」
　そう言われてあさひは、父親が半袖短パンのスポーツウェアを着ていることに気がついた。
　そうだった、父親はほぼ毎週日曜日、午後になるとテニスをしに出かけていく。特別な予定がない日はいつも。
「二人で行ってきなさい」
　父親は言った。
　あさひは結局、今まで避けてきた暁と二人きりになるという状況に、自分を押し込んだだけだった。

コメント(5)

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[1] mixiユーザー 02月15日 16:32

連作の続きを投稿しました。
すみません、誤字発見しました。
上から3段落目くらい？「耳のかたち変わってないなぁ」というあさひのモノローグのしたのほうに、「今ここにある肌感覚」というよくわからないキーワードがいきなり出てくるんですが、これは無視してください。
ちょっとこれから推敲する予定のものをアップしてしまったので、誤字があったり表現が雑なところが多々あると思うんですが、お許しくださいmせ

[2] mixiユーザー 02月16日 17:25

　「少年」から「大人の男」に成長した曉。
　その曉の部屋に二人きりで行くあさひ。
　関係性は姉弟のようでもあり、膝枕で二度寝するなど夫婦のようでもある。
　そんな二人の次回の海辺の町でのエピソードにドキドキです。

[3] mixiユーザー 02月16日 17:37

　前回では「自分を女と実感できるできごと、つまり恋愛が、あさひの身にふってきたことがなかったからだ。」とあります。

　そして「おそらく両親は私と暁の間にあの日起きたことを知らない。」とあり、にもかかわらず、あさひは彼と部屋で二人きりになることに踏み出してしまいます。

　女と実感できる恋愛沙汰ではない何かがあさひと曉の間で過去に起きたということになります。それも、もう二人きりになれないような何かです。

　あさひの過去に何があったのか？　これからどうなるのか？　ミステリー的恋愛小説的、先が気になる展開に引き込まれます。

[4] mixiユーザー 02月16日 17:41

がんばれ！　あさひ！

（何にがんばれだかよくわかりません。多分初老の父の老婆心です）

[5] mixiユーザー 02月16日 20:03

>>[3]
今回も読んでくださり、早速感想いただけて嬉しいです！ありがとうございます。
なんだか仰々しく引っ張ってしまいましたが、申し訳ありません、ミステリーでもない、本当に大したことのない過去の出来事です

たぶん次回あっさりと判明します。でもそんなに面白エピソードもなく淡々と進む物語になりそうです。
今回過去と現在を行ったり来たりという物語を書いてますが、書き慣れないのでどうにも下手です……書きながら考えている部分もあるので、矛盾が多々ありあとから直す可能性大です。
あさひの言う「恋愛」とは、いわゆる告白して両思いになって付き合って～みたいなのを本人は想像してるようです。

あさひへの応援も嬉しいです！ありがとうございます。

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