半蔵門かきもの倶楽部コミュの第九十一回　JONY作　「皇居の堀に落ちた女」　（テーマ選択『ロングコート』）

　コインランドリーの集金を終え、扉に施錠して帰ろうとしたとき、女に声を掛けられた。
「あのう、もう終わりでしょうか？」
振り向くと道端の街路灯のオレンジ色の光の中に３０代くらいの綺麗な女が立っていた。
「はい、１１時半までなんですよ」
と言って断ろうとしたが、女の様子がおかしい。大きめのモッズコートが身体に貼り付き、ボブの髪から水が滴り、全身を震わせている。俺は思わず、
「大丈夫ですか」
と声を掛けた。
　女は、うつむき、
「お堀に落ちちゃって」
と消え入りそうな声で言った。
　俺は、コインランドリーの横にあるカフェバーの入口に通じる鉄の門扉を指さして、
「わかりました。ランドリーは開けますので、このカフェバーは俺の店なので、中に入りませんか」と勧めた。
「すみません。ご迷惑かけて」
と謝る女を案内して、門扉の奥の店のガラスのドアの鍵を開けて、照明のスイッチを押した。店の明かりは調光になっていて、照明を落としてあったのだが、そのままにして、あえて明るくはしなかった。女が見られるのを嫌がっていると感じたからである。
　女は薄暗い店の中の様子を恐々伺っていたが意を決したように中に入ってきて、再び、
「ごめんなさい」
と謝った。
　俺は自分が着ていた黒のダウンの『ロングコート』を脱ぐと女の前に差し出して、
「濡れたものは、ご自分で洗濯して乾燥させてくれますか？洗濯の出来上がるまで良ければこのコートを着ていて下さい。着替えにはここをどうぞお使いください。俺はランドリーから洗濯籠を取ってきておきます」
と言って、洗面所のドアを示した。
　女はしばらく、俺の顔を見ていたが、
「ありがとうございます」
と言ってダウンコートを受け取った。
「あ、ちょっと、待って」
　俺は、カウンターの中の棚から、畳んでしまってあった手を拭くためのタオルを取って渡した。
「よければ、使ってください。洗面所はお湯が出ますから髪の毛とか洗うなら洗って下さい。タオルは、使ったあと、一緒に洗濯してくれますか」
「すみません。ありがとうございます。本当に」
　そう言って女は畳んだ数枚のタオルを俺が貸したコートを持った手で受取ると、洗面所に入っていった。
　俺は、また外に出て、一度閉めたコインランドリーの鍵をあけ、ランドリーの照明はタイマーで点灯するので、壁にある常時は施錠しているスイッチを押して予備の明かりを点けた。そしてランドリー内に置いてある一番大きなバスケットを持って隣のカフェバーに戻った。
　店に戻るとまだ女は洗面所から出てきていなかった。俺は洗面所のドアの前に隣のランドリーから持ってきた洗濯物用のバスケットを置き、カウンターの中のコーヒーメーカーのスイッチを入れ、オーディオをリストの夜想曲からマイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルーに変えた。
　コーヒーを淹れていると、女が洗面所から出てきた。俺のダウンコートを来て、脱いだ衣類・コートを入れた洗濯物のバスケットを抱えて、近付いてきた。タオルドライしたボブヘアーはなんとか形を取り戻し、店の暗い照明でもはっきり分かる美しさだった。
　俺は女に、
「そのコートはタグを見ると分かりますけれど綿と化繊でしょうからファーを外して洗濯機で洗えると思います。本当は陰干しがいいのですけれど、そうも言っていられないでしょうから乾燥機をかけてしまっても大丈夫でしょう。そのほかの服で乾燥機がかけられないものは洗濯脱水だけしてこの中に入れて持って帰ればどうでしょうか？」
と言って、ゴミ箱用にストックしている白いレジ袋を渡した。
　女は
「何から何まですみません」
と言って頭をさげた。
「ランドリーの中は寒いので、洗濯が終わるまでこの店で待たれたら良いですよ」
「でも、遅くなってしまいますから、ご迷惑じゃないですか」
「どうせ、ランドリーを施錠しなくてはならないし、それに、そのダウンを返してもらわなきゃいけないし」
「あ、そうですよね。何言っているんだろ私」
「コーヒー淹れて待ってますから」

　洗濯に34分、乾燥機は4台に分けて16分。この１時間弱の時間を、俺は、ダウンコートだけを羽織った女とほとんど何も話さず、読書用のスタンドの灯りで、読みかけのクリスティの文庫を読んで過ごした。女にはたまたま店の中にあったナショナルジオグラフィックマガジンを数冊渡して放置した。
　皇居の周りの道を歩いた者なら分かるが、堀はうっかり落ちるなんてことはあり得ない。ガードレールを乗り越えて故意に飛び込まない限り、堀の水に入ることは無理だ。しかし現にこの女は頭から水に濡れてここに来ている。堀で自殺しようとする者はいないだろうから、おおかた男との痴話喧嘩とかだろう（別れ話で女がここから飛び込んで死んでやる」とか言った挙句の結果だろう）が、一緒にいた男は一体どうしたのだろう。しかし、女が自ら話さない限り訊いてはいけないと思った。
　
　乾燥が終わり、女は再び洗面所で自分の服に着替えて、俺のダウンコートを両手に掲げて頭を下げた。女が着たモッズコートは見たところ普通に戻っていた。
　「ありがとうございました。何とお礼を言っていいか」
　俺は自分のダウンコートを受け取り、時計を見た。１時になっていた。
　「役に立てて良かったです。それより電車はありますか」
　「あ、もうこんな時間なんですね。どうかな」
　「どこに住んでいます？」
　「あざみ野です」
　「田園都市線ですね？あざみ野なら、ここから一本で行けるけど……」
　俺はスマホで調べて最終がとっくに終わっているのを確認してその画面を彼女に見せた。女は困った顔をし、俺に訊いた。
　「あのう。この近くにビジネスホテルとかあるでしょうか」
　「そうですね。近くに宿泊施設は結構ありますけど、よければ、俺、車なんで送りますよ」
　「マスターも横浜なんですか？」
　「いや、そういうわけじゃないけど、ついでだから」
　俺のマンションはここから１５分で着くのに、高速を使っても４、５０分はかかりそうな横浜の青葉区まで送るなんてことを、なぜ、俺はとっさに言い出してしまったのか。下心ではないと思う。単に目の前のこの女が心配だったのだ。皇居の堀に飛び込むなどということはよほどのことだ。そんな事件があった夜にひとり無機質なビジネスホテルに泊まらせることは可哀そうだと思ったのだ。
　
　俺は、店を仕舞って、再びコインランドリーの施錠をし、駐車場から車を出して、申し訳なさそうにしている女の背を押して助手席に乗せた。霞が関インターから環状線に入り、すぐに渋谷線に抜ける。六本木の街は午前１時過ぎでも明るい。三軒茶屋で少し混んだが夜中の首都高は良く流れて、あっと言う間に用賀を過ぎ、ここからは東名ということになる。そして、すぐに、東名川崎インターで、あざみ野は横浜青葉まで行くよりここで降りたほうが早いというナビの指示に従う。一般道にでるととたんに夜中の静けさを感じる。
「あざみ野の駅でいいですか？」
　それまでお互いに何もひとことも話さなかった沈黙を俺が破った形になった。
　「はい」
　と女は答え、しばらくして、
　「あのう」
　と言葉を継いだ。
　俺は、車のオーディオの音量を下げ、
　「はい」
　と答えた。
　「マスターは、何も聞かないんですね。どうしてお堀に落ちたのかとか」
　「聞いて欲しいのですか」
　女の返事は無かった。しばらくして女は無言で静かに泣き始めた。俺は黙って、ただ車を走らせる。
　信号機を通り過ぎる。信号機の下の表示に「美しが丘」と書いてある。このあたりの静かな住宅街にふさわしい名前だと思った。この女もたぶん本来はこういう静かな平穏な生活が合う人なのだろう。そして、たぶん、今人生のターニングポイントに立っている。
　俺は、沈黙を破り、独り言のように静かにしゃべりはじめた。女はただ黙って聞いていた。
　「俺は、学生時代に起業したので、就職ってしたことないんです。なので常識人からみたらおかしなことをけっこうやらかしてきました。陰でいろいろ言われることも多いです。でも、それを気にして萎縮していたら何もできないんで、人からの非難は聞かないようにしています。自分でも、自分の行為について後悔したりしない。『良心の呵責は下品なことである』と言う言葉がありますが、自分が何かやっちまったら、とにかくその行為を自分は選んだのだから、その選択には何かしらの意味があると思うのです。自尊心の問題と言っていいのかも知れません。もっとも、俺も馬鹿じゃないから、相手が俺に何て言って欲しいのかを推測する洞察力はあります。なので、表面上は自分の行為を否定し謝罪し後悔しているフリはしますけど、自分で過去の自分を見殺しにするようなことはしません」
　皇居の堀に飛び込むって行為は、誰かに何かを知らしめるためのものだろう。目の前の相手に対するよほどの感情の高ぶりのせいかもしれない。それをヒステリーと言って片付けるのはあまりに安易すぎないか。皇居の堀に飛び込むなんて「おかしい」人間だからだ、で済ませるのは、その姿勢自体が怠惰あるいは傲慢と言わざるをえない。俺は、自分が同類だからか、見ず知らずの女でも、「おかしな」行動を取ったこと知れば、排除には向かわず反対に守りたくなる。
　夜の住宅街を走る車の前を見つめたまま、あいかわらず女は何も言わない。しかし涙はどうやら止まったようだった。
　あざみ野駅の駅前のエリアになったが、明かりを消したチェーン店やファーストフード店が並んでいるだけで静かだ。駅前のがらーんとしたバス停の並んだ小さなロータリーに入る。駅はすっかり照明を消して真っ暗だ。タクシー乗り場には、１台のタクシーだけが暇たそうに停まっている。
　俺は駅のまん前の誰もいないバス停に車を停めた。
　女は何も言わずに動く気配がない。ただ、前を向いたまま固まっている。もう泣いてはいない。彼女の脳裏を占めているのは、おそらく、皇居の堀に飛び込むことの原因になった男のことだろう。ひょっとしたら彼女が今から帰ろうとする部屋に、その男が待っているのかもしれない。だが、君はすでに堀に飛び込んでみせるという行動をやらかしてしまったのだ。そして、その男は君を連れて帰りはしなかった。堀に飛び込む以前に時間を戻すわけにはいかないのだ。君は一つの賭けに負けたのだろうか。それともこの賭けで何かを得たのか。後戻りはできない。この先の人生は自分で選ぶしかない。
　俺も女と同じようにただ前を見て運転席に座っている。はたから見たらよくある男女のトラブルに見えるだろう。警察が通れば間違いなく不審尋問を受けるだろう。しかし、俺は、普段ならするであろう運転席から出てぐるっと反対側に回って助手席のドアを開けるということもせず、一言もしゃべらず、じっとしていた。女が車を降りるまでこのままにしてやるつもりだった。極端な話、女がこのままどこかへ連れて行ってと言えば、俺は東名に乗ってどこまでも西に車を走らせるかもしれない。そして、西伊豆あたりのさびれた漁村で、海の見える小さなバーをやりはじめるのもいいかもしれない。そんならちもない空想が脳裏をよぎる。
　しかし、女は相変わらずしゃべらず、俺もだまってあざみ野駅前の夜中の寂しい無人のロータリーを見ている。いつまでも、いつまでも。時間が止まったように、俺たちは、車の座席に座ったままでいた。時計は午前2時を指している。俺の帰宅門限まではまだ２時間の猶予があった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終わり

コメント(4)

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[1] mixiユーザー 01月13日 14:57

うーん。いいですね。ハードボイルドですね。無口でタフで優しい主人公の魅力が伝わってきます。
終わり方も、この先の展開への妄想が膨らみ、余韻が残り、インプレッシブです。
（ただ、ハードボイルドなマスターに門限があるのが、なんだか可愛いです）

西伊豆あたりのさびれた漁村で海の見える小さなバーを開き二人で暮らすなんて、すごくいいです。
いきなり。俺も「これまでの人生を捨てて自分も主人公みたいになりたい」と、ネクタイと上着を脱ぎ捨てて（ついでにバッジも放り投げて！　もっとも後から泣きながら探しにゆきそうですが……）、なんていう白昼夢を見てしまいます。

私の妄想の中では、西伊豆あたりのさびれた町で海の見える小さなバーをやっていたらナゾの男が訪ねて来て、事件が起きるなんていいですね。彼との痴話喧嘩かと思いきや、背後に大きな陰謀があり、女は実は自○党の代議士の公設第二秘書で永田町界隈から逃げてきたのであり、秘密を握っている秘書を追って追跡者（武装したマフィア）が西伊豆のバーに来るという展開なんかを、テンプレすぎるかもしれませんが想像します。

湾岸戦争の頃の話ですが、慶応大出身の日本人がフランスの外人部隊に入ったというニュースを思い出します。海外では、外人部隊は社会の底辺の犯罪者が刑罰を免れるための治外法権として外国の傭兵になるの場所なのに、日本は育ちのいいエリートが傭兵になると話題になったことを思い出しました。そうした日本人の傭兵は頭がいい上、日本で武道を極めてから行ったので、優秀な戦士として外人部隊でも上の方に出世したそうです。

マスターが実はそんなランボーのような（一人だけで一個師団相当の戦闘能力）伝説の傭兵だったという過去を持っているのだけれど、女も追っ手も、バーのマスターの中年のおっさんが色気に血迷って、女を囲ったと舐めてかかっているのを、過去の封印を解いて戦士としての本性を解き放つなんて面白いかもしれないと勝手に小説を頭の中で書いております。

ついでに西伊豆でマスターが日本の暗部に暗殺されても、それでエンドにはならず、そこから始まる異世界転生（転移）ものもアリです。

待望の第３部ですね。

最近石田衣良さんもコミックの原作者として異世界ものを書き始めたそうですしね。

ジョニーさんの書く小説は好きですが、今回のは、自分好みの渋い感じで、妄想が膨らむ設定で、とても楽しく読ませていただきました。

ありがとうございます。

[2] mixiユーザー 01月13日 15:12

ちなみに弁護士になっての最初の地方出張は地方での破産事件でした。
当時は弁護士の数が少ないので破産事件でもわざわざ地方に出張しました。
無事、破産手続きが終了した後、借金を帳消しにできた破産者が何もできないけど、御礼に一杯おごりたいと、何もない小さい海岸沿いの国道にあるバーに連れて行ってくれました。
そのバーは、岸壁に張り出すような構造で、しかも足元から波が岸壁に打ち付ける音が響いてきました。
そのバーの海側のカウンターで、夕日が落ちる海を見ながら、破産者と飲んだビールの味が今も忘れることができません。
バッジを付けてから、初めて自分で全部処理した事件でした。

[3] mixiユーザー 01月16日 12:53

素敵なお話ですね…

マスターは女に対して、お店に入れてあげて、車で送ってくれて、ビジネスホテルに一人では可哀想だと思ってくれる。端的に言えば優しいんですよね。

でも、マスターは感情的には寄り添わない。
ひとり語りは自立を促すようなものだし、ラストはじっと動かない。
わたしはその姿勢がすごくいいなと思いました。

女の飛び込み理由が男かどうかわかりませんが、何らかの賭けに出たのは確かなんでしょうね。賭け、という表現もいいなーと感じました。
最初のセリフ「お堀に落ちちゃって」が、どんな言い方だったのかなあ…と想像が膨らみます。

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