半蔵門かきもの倶楽部コミュの第九十回　文芸部A　みけねこ作『スープがこぼれたから』

「あああっつ！」
　リビングから夫が叫ぶ声がした。
　サラダを小皿に取り分けていた私は驚いてレタスを床に落としてしまった。
「なによ、そんなに大きな声を出して。びっくりするじゃない」
「スープ、熱すぎるんだよ」
　見ると、テーブルの上にスープ皿が転がり、カーペットの上にぽたぽたと流れていた。
「あのさあ、じっとしてないで、拭いたらどう？」
「だって、手が熱くて動かせないんだ。こんな熱いスープで火傷させる気か？」
　私は、タオルを夫に投げた。
「いいから、急いで拭いて」
　夫は、乱暴にタオルを受け取るとイラっとしたように言った。
「人に向かって物を投げんなよ」
「緊急事態でしょ。カーペットなんとかしてよ」
「なんとかしてよって、カーペットなんて消耗品だから捨てればいいじゃないか」
　私は、頭に血が上った。
「そのカーペット、あなたが良いっていうから、わざわざ買いに行って一人で運んだのよ。家に戻ると寝転んでテレビ見てたくせに」
「だから、手伝おうかって言ったのに、一人で行くって言ったのはそっちじゃないか」
「だって、手伝ってもらおうとすると余計めんどくさいんだもん」
「はあ？　じゃあ一人で運んだとか被害妄想みたいなこというなよ」
　私は、怒りで胸の動悸が激しくなってきたが、気持ちを押さえて言った。
「きのこのスープ、作るのたいへんだったのよ」
「たいへんかどうだか知らないけど、もう少し冷ましてから持って来いよ」
「たくさんの種類のきのこと玉ねぎをミキサーにかけてエキスを作って、仕事が忙しい中、ずっと煮込んでおいたのに」
「いちいち仕事が忙しいとか言うなよ。だったら、簡単なものを作ればいいじゃないか。レトルトでも美味しいし」
「人が一生懸命やったことに感謝の言葉もないのね」
「だから、簡単なものでいいって言ってるじゃん」
「あ、そうですか。あなたは、お外で良いものを食べてるもんね。私、知ってるのよ」
「は？　何言ってるの？」
「ほら、賢太が大学合格したってライン送ったとき、全然違うメッセージ送ってきたじゃない。待ち合わせがどうとか」
「そんなこと覚えてないよ」
「何はぐらかしてるのよ。息子の大学合格の連絡してるのに、新宿駅で待ってます、寒いから気をつけてきてねとか。私にはそんなこと言ったことないのに」
「会社の同僚だよ、ほら、おまえもよく知ってる高木」
「嘘ばっかり。高木さんに気をつけてね、なんて言うはずない」
「うるさいな。高木だから、高木なんだよ、もういいじゃないか。賢太も三年生だよ。何年前の話してるんだ」
「あのときのクリスマスもおかしかった」
「はあ？」
「カードの請求書にクリスタルネックレスがあって」
「そんなことあったっけ？　てか、人の請求書勝手に見るなよ」
「間違えたのよ。その時、ちょうどＪＡＬカードの家族会員になったばかりだったから」
「別に怪しいことなんてないよ。あれは、取引先に頼まれて試作品を買って、すぐに返品したんだ」
「ふーん、そんなことあるわけない」
「あるんだからしょうがないだろ。おまえだって、去年、職場の忘年会に行くってべろべろになって帰ってきたとき怪しかったぞ」
「忘年会？　そんなことあったっけ」
「ほら、やっぱり。いつもと違って化粧も濃くて、やたら上機嫌で帰ってきたじゃないか。男と会ってたんじゃないか」
「職場の忘年会だから、男の人いるに決まってるじゃない」
「あ、そう。家には水っぽいカレーを作ってあって。心ここにあらずってよくわかったよ」
「忙しい中、作っていくだけでもたいへんなのよ」
「忙しいって外にばかり出てるくせに。なんなら家の中、もっと片付けろよ」
「何、急に言い出すのよ」
「もう、前から我慢してたんだ」
「じゃあ、手伝ってよ」
「じゃあ、手伝ってって言えよ」
「どうせ、手伝ってくれないくせに」
　玄関を開ける音がして、賢太が大きな声で言った。
「ちょっと、鍋が真っ黒だよ」
　キッチンに戻ると、きのこスープが真っ黒になって鍋の底にこびりついていた。
「こんなに煙が出てたのに気づかなかったの？」
　私は肩の力が抜けた。
「きのこスープが……」
　賢太は、箱をテーブルに置いた。
「今日は、お父さんの誕生日だから、かあさんに頼まれてせっかくケーキ買ってきたのに」
　夫はへなへなと座り込んだ。
「そうか。それでスープとか作ってくれてたんだ」
「早くテーブル片付けようよ。バイト先の女の子に美味しいケーキ屋さんおしえてもらったんだ」
「ありがとう。その前に指を冷やしてくるよ。火傷したみたいだ」
「ざまあ……」
夫は私を見た。
「なに？」
「ううん、なんでもない」
　賢太は、テーブルを拭いて、サラダとチキンを運んできた。
「腹減ったから、早くたべようよ」
　スープで汚れたカーペットは、お気に入りの柄をネットで注文しようと心に決めた。