半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八十七回　JONY作「One　Night」（テーマ選択『紅葉』）

　その晩、俺は、自分の店のカウンターで、40代の女性客（A子とする）と『ワンナイト・ラブ』問題について、シングルモルトのウイスキー片手に話していた。

　一晩だけの関係。一回きりの関係というものは、無かったも同然のことになるのだろうか。
　Einmal ist keinmal（一度しか起こらなかったことは、一度も起こらなかったと同然）　これは、ある小説（ミラン・クンデラ著　「存在の耐えられない軽さ」）の中の言葉だが、自分の身に起こった偶然の一回だけのアクシデントは自分の本質には影響しないというのは、確かに真実だろう。つまり、たまたま偶然一度きり出来た難しいフレーズの完璧な演奏は、出来た内には入らない。しかし、それと、オフ会の帰りの道でたまたまお互いの気持ちがその場だけ高まってしまって、電柱の影に隠れてしたキスは、同じなのだろうか？それは偶然のアクシデントであって、恋では無いのか？

　店にほかに客はなかった。A子は近くのホテルの宿泊客でコインランドリーの洗濯乾燥が終わるまでの時間に寄った初めての客だった。乾燥はとっくに終わって洗濯物を回収して、帰れる状態なのに、なぜか、彼女はカウンターに腰を落ち着けて、自分に起こるのは「ワンナイト・ラブ」みたいなものばかりで、男と長続きした試しがないと力説していた。
　「昔の映画で『グッバイガール』というのがあったのよ。知ってる？ダンサーの女性がいつも気付くと男が去って一人、てか、映画ではシングルマザーなんで、子供と二人、残されるので、いつしかついた名前が『グッバイガール』。悲しいじゃない。まるで私だって思ったわ。ちぇっ、グッバイガールか」
「でも、映画では、グッバイしない男に巡り会うんじゃなかったっけ？」
「それは、映画だからよ。私って重い女なのかな？男はそれを感じ取ると、逃げちゃうのかな？」
「君が重い女とは思わないけど、『軽い女』と『重い女』とどっちが良いかなんて、簡単には言えないと思うな」

　俺は店の中に流れていたオスカー・ピーターソンを、ビリー・ジョエルに変えた。『グッバイ・ガール』にビリー・ジョエルは流れてこないと思うが、何となくである。俺の中で何かが繋がっているらしい。
　A子は懐かしそうに耳を傾けていたが、突然、話を蒸し返した。
　「結局、ワンナイト・ラブなんて無いのよ。あるのはワンナイト・セックス。だってさ、LINEの交換もしないなんて『恋』のうちに入らないじゃない」
　「それって、結婚に結びつかない関係は『恋』のうちに入らないって言っているように聞こえるよ。俺は、千年の恋があるなら、一晩の恋もあっても良いと思うけどね」
　A子は、グラスをカウンターに置くと俺の顔を見つめた。
　「マスターも女の味方じゃないのね。そんなの詭弁よ。私をその気にさせたら責任を持ちなさいよって事よ」
　「ははは、責任って何さ。五年は付き合えってこと？」
　「そうよ。いつでも連絡できるようになるってことよ」
　
　連絡が途絶えることの辛さは、俺も経験がある、その昔、美樹（仮名）という子と連絡が取れなくなったショックは、何十年たっても忘れない。
　高校の卒業式の翌日だった。突然連絡の取れなくなった相手は同じクラスの女子生徒だった。
　俺の通っていた高校は二流の都立で、高校受験に失敗した俺は1年生の夏休みに編入試験でこの進学校ではない凡庸な高校に編入したのだった（進学校の都立は欠員を前提にする編入募集がそもそもなかった）。学年で360人の生徒がいたが、半数は女子で、その高校の楽しさを物語っていた。数名の編入生はすぐに学業ではトップになった。急に心を入れ替えて勉強するようになったのではない。この高校のレベルが低すぎて相対的に成績が良くなったのだった。しかし、この高校では学業ができることはモテには通じず、皆の価値観は、おしゃれか、スポーツか、音楽に限られていた。俺は小中と男子校だったので、女子と机を並べるのは初めての経験だった。編入したばかりで友達のまるでいない俺に初めて話しかけてくれた女子が美樹だった。その年の秋には、『紅葉』散る公園で美樹と初めてのキスをし、それが二人の交際のスタートになった。二年に進級したときも美樹と同じクラスになった。その頃には美樹が上手く自分の親を説得して、俺は同級生ながら美樹の家庭教師として美樹の家に遊びに行くようになっていた。その頃の俺は要領が良く大人に気に入られる優等生を演じられるようになっていたのだ。高校2年の夏休み、俺と美樹は、彼女の勉強部屋で、彼女の親の目を盗み、指や口で、お互いに快楽を与える事に夢中になっていた。その遊戯に執着し、中毒することを、愛のように思っていた。しかし、最後の一線は超えなかった。美樹が意外の抵抗を示したからである。何も知らなかった俺は美樹は処女を大切にしたいのだと思って、それなら協力してやろうと思っていた。三年生になり自分の受験勉強も美樹の部屋でも楽しく一緒にやった。そして二人は無事大学進学を決めた。
　卒業式の夜、自分らの経済力の許すぎりぎりのシティホテルをとった。高校を卒業したとは言え、未成年だった俺たちは歓楽街にあるラブホに行くことで補導される危険を恐れたのだった。そして、俺と美樹は、そのホテルで卒業式の夜についに最後の一線を越えたのだった。
　そして、翌日から、美樹と連絡が取れなくなった。俺ばかりではない。美樹の親も娘との連絡が取れなくなった。何年か後で、美樹と会う機会があり、そのときに秘密を告白された。美樹は若いママになっていた。美樹が卒業式の翌日出奔した相手は２５歳年上の俺たちに高校で地学を教えていたイケオジの教師だった。美樹は、俺と知り合ったころ、すでにその教師に処女を捧げていて結婚を申し込まれていたのだった。クラスメイト皆の知るところの俺との交際はその教師との関係の隠れ蓑だった。俺とつきあっていた美樹が浮気をしたのではなかった。俺が最初から単なるセカンドの浮気相手だったのだった。そして大事なことを何一つ知らされなかったのに、俺は美樹との交際で能天気に幸福感に浸っていたのだ。
「それなら、なぜ、卒業式の夜に、ホテルを取ったんだ？」と訊く俺に、美樹は「K君（俺のこと）と、もう会えないと思ったから」と答えた。

「どうしたの、ぼんやりしちゃって」
というA子の言葉に、大昔の回想から我に返った。
「『さよならだけが人生さ』と言う言葉を考えていた」
「何？それ？」
「井伏鱒二が『花開けば風雨多し　人生に別離はつきものだ』という唐の詩を、『花に嵐の例えもあるぞ　さよならだけが人生さ』って訳したんだよ。寺山修司は、『さよならだけが人生ならば　人生なんか　いりません』と続きみたいのを書いているんだけどね」
「ふーん」
「出会いがあれば別離もあるっていうけど、むしろ、別離があるから、出会いがあるんじゃないかな」
「出会いなんて、どこにあるのよ」
「どこにだってあるさ。スポーツクラブのバーベキューパーティーとか、歯医者の待合室とか」
「そうかしら」
A子は、少し、呆れたように、軽蔑した目で俺を見た。
俺は、話を続けた。
「表参道ヒルズってあるじゃない」
「それが？」
「ここは結構好きな場所なんだけどさ、表参道ヒルズが建つ前って何が建っていたか覚えている？」
「同潤会アパートでしょ」
「そうなんだよね。同潤会アパートもすごく好きで。でさ、同潤会アパートが無くなるときはすごく寂しい気持ちになったけど、そのおかげで、表参道ヒルズに出会えたわけじゃないか」
「何？それ？」
「じゃあ、17歳の頃の君ってめちゃ可愛かったと思うけど、17歳の君は今、どこにいる？」
「いるわけないじゃない」
「それは残念だ。でも、そのいなくなったおかげで、ここに素敵な君がいる」
「何が言いたいの」
「別れは出会いの芽ってことさ」
「ぜんぜんわかんなあい」
「そうだよな」
　俺も、それ以上言い続けるのを止めて、シングルモルトのウイスキーのグラスを傾けた。A子もウイスキーを傾けながら、黙ってビリージョエルを聞いていたが、気のせいか、その表情は明るくなっていた。
　俺は再び、美樹と連絡が取れなくなった高校卒業直後の絶望の気持ちを思い出していた。すごく悲しい別れだったが、数年後には、美樹と容姿も性格も違うタイプの最初の妻と同棲に続き学生結婚をすることになるのだった。
　それが俺や最初の妻にとって良いことだったのか判らないが、美樹とのあの悲しい別れがなければ、起こりえないことだったのは確かだ。
　そして、美樹も俺を捨てなければ子供を産むことにはならなかっただろう。美樹とイケオジの地学の教師との間にできた子ももう成人している勘定だ。どんな子なのか、一目見てみたい気もする。
（終わり）