半蔵門かきもの倶楽部コミュの第81回　hirojk 作「岩」（テーマ選択『春の海』『桜』『勇気』）

　沖合いに陽炎（かげろう）でも浮かびそうな海辺を歩いていたが、柔らかな陽射しの下、急に歩みを止める。
　強く風が吹くと目を細めながら、じっと遠くの岩を見つめたまま彼女は言った。

「あそこまで行ったのよ。」

「あの先に見える、小さな岩のことですか？」

　突然の言葉に戸惑いつつ、僕は聞き返した。
　岩までの距離は沖合い数キロほどだろうか、今は潮が引いているから先端が少し見え、大きさは人が一人登れる程度か、潮が満ちると沈んでしまいそうに思える。
　彼女は今でも引き締まった体躯（たいく）をしてはいるが、泳いで辿り着くには少々遠く思える。
　僕の言葉に彼女は振り返えらず、誰かに話すでもなく呟いた。

「今日は見えると思ってなかった、これも巡り合わせかもしれないわ。」

　今回の旅程は余裕があり、前乗りして現地でゆったりしましょうよ、の提案をしたのだが。
　新幹線のターミナルから急行に乗り換え向かうところを、途中下車をして少し歩きたいと彼女に相談を持ち掛けられ、立場的に異議を申し立てられない。
　多少落胆の気持ちを抱いたのは尾首（おくび）にも出さず、切符を手配した。東京駅から二時間ほど、乗り換えて幾つか過ぎた先の海沿いの駅に下り立つ。二人とも旅慣れているのと彼女は化粧っけが無いので、互いに手荷物は小振りなショルダーバッグひとつだけ。

　気まぐれな彼女が、ふとした思い付きをすることは稀ではない、今回も何かあるのだろうとは思いつつ。立寄りの相談を受けてから新幹線の中でも、普段のような対話のやり取りだけで彼女に立寄りの理由を尋ねることはしなかった。
　ターミナルの駅で地方の路線に乗り換えて座席に着き、暫くして彼女が急に語りだす。

「三十年よりも昔の話、私が学生だった頃。まだ酸いも甘いも判らないような、若さだけが取り柄で興味だけを頼りに世間に立ち向かえると過信していた時期に、これから向かう先へ歩いていけるぐらいの所で過ごしていたの。」

「それは、初めて耳にする話です。」

「そうね。学生時代の間をずっとでもなく、ほんの一時期だけだった。その頃のことは今でもハッキリと覚えていて昨日にあったことの様に語れるけれども、あまり人に話したことも無いから。」

「郷愁、という訳でも無さそうです。」

「私の中で懐かしい気持ちよりは、人生の中で忘れ物をしてきたと言うのが適当かも。日々の中では忘れているのに、ふと思い出してタイミングが合うから拾いに行くような、そんな感じ。」

　そこで彼女は、にっこりと笑顔になった。これをされると話題は一旦休止のサイン。有無をいわさず話は終了で、詮索しても受け流されるばかりだ。
　仕方なく目的地の途中下車の駅まで、残り僅かな時間だけれども沈黙を守ることにした。

　改札を抜けて下りた駅の外には、自動車教習所の看板がやたらデカデカと目立つ。
　送迎の後で客待ちだろうか、一台のタクシーがロータリーともつかない駅前の広いスペース端に停車している以外に、車どころか徒歩の人影も見当たらない。
　そんな様子には頓着もなく、駅前の周辺地図も見ずに彼女は歩きだす。

「大学生になった一年目が過ぎて終わる前、冬の終わりに自動車の運転免許を取ろうと思ったの。学校の年次過程が終わってから次の年が始まる、春に花弁が散る時期までの空くだろう時間を使って。」
「東京で教習所に通うのは日々の行動に何かを追加するだけで面白味に掛ける、そんな風に私は考えた。それで雑誌に広告が出ていた合宿免許取得に申し込んで、この離れた町を訪れることになったの。」

「なるほど、それで土地勘があるのですね。」

「日程は三週間ほどで、一週間目は初めての車の運転に興奮と発見を覚えて、同時期に入校した人達とも仲良くなった。若気の至りもあってスポンジが水を吸い込むように、自然に愉しく過ごせた。」
「仲良くなった人達の中に、地元で通いの人も居たの。年齢は私と同じで変に意識するでもなく、町のことなど教えて貰って快適に過ごせればと多分思っていたのね。乗車待ちの時に何度が目にした後、直ぐに打ち解けて。」

　線路沿いの道路の脇に踏切が見えてくる、反対側の民家に挟まれた道の先には海岸への入り口が開けていた。立ち止まることなく、彼女は海岸を進み始める。

「彼はバイクの免許を持っていて通所は運転して来ていたから、後ろに乗せて貰い何もないように思える町の見所を教えてくれ。教習所以外の時間も充実したものになって、本当にありがたかった。」
「若気の至りと言っても恋愛とも付かない、黄色い嘴の小鳥が羽繕いし合うような淡い感情で一時一緒に居るような。まさに飛び立つまでの巣立ちの前に、首を揃えて外を見やる。そんな気持ちで、二週間ほどを過ごした。」

「そろそろ戻りましょう。」

　岩を見終え無言のまま浜辺を歩く、思い出したかのように彼女は続きを話しだした。

「三週間目のある晩のこと、この浜辺に行こうと約束して待ち合わせ、バイクで彼が迎えに来てくれ。当たりを付けていたのか海岸に有った小舟で、こっそりと私たちは二人で海に漕ぎだした。」
「夜の海でも月が出ていたから沖に小岩は見えていて、そこまで行こうと誘われ。好奇心もあり同意して、静かに打ち寄せる波を掻き分け、ほどなくして小舟は岩まで辿り着いた。月明かりで海面が光っていたわ。」
「ヒョイとロープを小岩に回し、もやいで小舟を繋ぎ止めた。海面は煌めいていても覗き込むと水の中は黒く鈍（にび）て。底も見えず引き込まれてしまいそうだった。やけに波の音だけが耳に響くのに、胸の鼓動が聴こえるかと思う程。」

　立ち止まることなく、海岸を後にして駅に向かう。

「ロマンチックとも恐怖ともつかない気持ちの中、突然に大きな水音が立ち。小舟が揺れて、振り向くと誰の姿もなかった。突然の事態に、驚いた私は小舟の縁（へり）を強く握り締めることしかできず。」
「静まった水面（みなも）には泡も浮かんで来ずに、時だけが過ぎる。操船はできないけれど、もやいを解いて。小舟は寄せる波のお陰で流され、無事に岸辺まで戻れ、でも停めていた場所にバイクは無くて。」
「夢ともつかない出来事に、私は動転した気持ちを抱えたまま、徒歩で合宿所まで戻った。何処に助けを求めてよいかも判らない心持ちで、警察に届け出をするのも憚られ。何も存在しなかったのでは、と自分を疑った。」
「二週間もの間に起きたことは、本当にあったことなのか。いま自分が立っている床ごと崩れ落ち、居る場所が無くなってしまう不安感に囚われながら、布団に潜り込み夜が早く明けると良いのにと震えていたわ。」

　そこまで話して、彼女は口を噤（つぐ）んだ。

　平日の午前中、寂れた駅の周辺には喫茶店などもなく、昼餉（ひるげ）という刻限でもないので定食屋ふうな店も開けている気配もない。本来の目的地までは此処から三駅程だが、鈍行の列車が来るまでには時刻表で十九分の時間がある。少し歩き疲れたので、ホームのベンチではなく風を避けて駅の待合室でやり過ごすことに。室内には人の気配が無く、電車を待っているのは彼女と僕の二人きり。
　先ほどの会話の続きを彼女に尋ねたくもあるが、急かすように矢継早の質問を投げ掛けるのも性に合わない。

　ひとしきり歩いた後で、彼女も座れて一息をつき落ち着いた様子。僕らは煙草を吸わないので、代わりに自動販売機で飲み物を買い求めて冷えた紅茶を彼女に渡す。微糖で甘さのない紅茶を美味しそうに二口飲んで、彼女は何も話さない。僕は温かな珈琲の蓋を開け、一口飲み込んだ。
　流石に痺れを切らし、遮られるかもしれないという畏れの気持ちを抑え、僕は尋ねた。

「その、後はどうなったのですか。」

　僕の方へ端正な顔立ちを向け、いたずらっぽい表情を浮かべながら、おもむろに彼女は話しだす。

「その後は、もうそれっきり。会う時には教習所の講習が終わった後に待ち合わせていたから、連絡先電話番号も聞いていなかった。名前は教えて貰っていたけれども、それだからと言って教習所が私に連絡先を教えてくれる筈もなく。」
「気にはなっても、まだ世慣れていない当時の私には探す手だても無い。教習所での生活も免許取得試験を受けて終わりを告げ、後ろ髪を引かれるような気持ちのまま東京に戻り、免許証は後日郵送で手元に届いた。」
「それから日常に戻り、また大学生活が再開して、日々新しいことが押し寄せて。私の中での謎の一夜のことは、忘れはしないけれど思い出すことも無いまま、そっと記憶の奥に仕舞い込み。」

　彼女は言葉を止めて紅茶を一口飲む、僕はといえば手に持った珈琲のことを忘れてしまったかのようにゴクリと唾を飲んだ。

「それだけですか、消息は判らぬまま。」

　したり顔で、彼女は話を続け始めた。

「勿論、後日譚（ごじつたん）はあるのよ。」

「私は大学を卒業して普通に働き始め、新たな環境で仕事に打ち込み忙殺されるが如く数年を過ごしていた。今から思うと嘘のようだけれど、自宅から駅へ会社に始業で勤務して終業したら駅に向かい帰宅。」
「自分を失うかと思う程の生活の日々、突然に駅で声を掛けられた。誰かに呼び止められるなんて思いもよらないから、驚いたし身構えたほど。恐る恐る振り返ると、目の前に見覚えのある顔。自分の中の時計が凄い勢いで巻き戻る。」
「もう言葉も発せずに抱きついて、問い質した。昔にあったことは本当の事か、何故姿を消してしまったのか、今はどうしているのか。悪びれもせずに、立ち話もなのでと場所を改められ喫茶店へ。」

「実在して、無事でいらっしゃったのですね。」

「始めは幽霊にでも会った気持ち、でも目の前の快活な笑顔にホッともしてた。それで話された事は、あの時には急に気恥ずかしくなってしまい海に飛び込んで、そのまま岸まで泳ぎ帰ってしまったそう。」
「その後は罰が悪く、教習所に通うのを一時止めていたそう。でも、私の出身は話していたので、地方から出てくるときに当ては無かったから、行く先を聞いて覚えていた街に決めたのですって。」
「あの時に抱いていたのは恋心だったと思うと告白されたのだけれど、既に他に好きな人と結ばれたと聞かされ。子供も産まれそうと話されたら、苦笑いしか出なかったわ。通信先を交換して、それから今でも連絡は途絶えてない。」

「奇妙だけれど、良い話じゃないですか。」

「そう思うでしょ、私の人生の中でも逸話ですもの。謎は氷解して、忘れかけていた心の支えも取れた。年賀状で届くお子さんの姿には癒されたし、幸せそうな様子が伺え成長も見守った。」

「もう成人されていらっしゃるんですか。」

「そうね、立派な社会人。」

　その言葉を聞いた刹那、駅アナウンスが待っていた列車の到着予定を告げる。彼女は僕に向けて微笑みを投げ掛け、飲み残しの紅茶を収めた荷物を手に取って椅子から立ち上がり、待合室の出口へ颯爽と歩み始めた。
　そして、急に振り向いて一言。

「それが貴方なの。」

　突然の告白で呆気に取られつつ、ふと我に返った僕は冷めた珈琲を飲み干して、荷物を小脇に抱え慌てて後を追う。

　彼女は推理小説家、僕は担当になって二年程になる。煙に巻かれたような気持ちのまま、列車は動き出した。
　まだ今回の取材の旅は始まったばかりだ。

コメント(1)

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[1] mixiユーザー 03月07日 05:41

今回81回は提出作品数が多いので、自分の作品について説明する時間を省くべく、紹介がてら事前に思うところを書いておきます。

スタイル、算用数字は縦書きも意識して使わず漢字表記に
台詞は初話者毎で段落変え、頁変えは改行3つ
ルビを入れるかは要検討
文章長さは、10～15分程で読めることを考え、4500字を目安に
頁レイアウトは14行39文字の新書、16頁分文字数に頁変え4回で総頁は20頁、割付5枚

普段から文章は書く方ですが、実は小説は初めて？（フォトストーリーを昔に書いてたか…）4600字超えなんてのは今まで書いたこと無く、執筆には2日間ほど。
提示されたテーマ3つで何れかに限定でも良かったのですが"直接に言葉を使うこと無くニュアンスで感じさせる"を縛りとして、まずは春の海の様子と海に突き出す岩をイメージ。裏話を明かすと、登場人物の書き始めは「彼」と「僕」でした。物語の流れからキャラクター設定は基本変えずに、彼の性別を変更して関係性は維持。海がある場所と移動手段（経過時間）をGoogleMapとストリートビューでロケハン、ハッピーエンドを意識したのと終わりの書き方は決めていたので、後は登場人物に語らせる手法で書き進めています。導入部分のミステリー感から謎解き風になりました。

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