半蔵門かきもの倶楽部コミュの第七十五回　みけねこ作　『無題』

　寝苦しい夜だった。寝返りをうって、時計を見る。午前一時を回っていた。隣のベッドには、掛け布団が綺麗にかけられている。まだ夫は帰宅していないようだ。枕元で気持ちよさそうに寝ている猫に顔をうずめた。猫は、きゅうと鳴いて、ごろごろと喉を鳴らし始めた。今夜も、どこかでお酒を飲んでいるに違いない。

　夫は、酒好きだった。普段は、おとなしく控えめな性格なのだが、飲むと気持ちが大きくなるのか、お酒にまつわる失敗談は、数知れずあった。スマホを落としたり、財布をなくしたりすると、そのたびに私が引き取りに行っていた。

　私は、体質的にお酒を飲むことができないので、夫がお酒に酔うことが信じられなかった。結婚して二十年、ずっと我慢してきたが、もう限界だ。今日、帰ってきたら、お酒をやめてもらいたいと話し合おう。離婚を切り出しても良い。
　いつもなら、酔いつぶれて玄関に倒れ込む彼に水を渡して、毛布をかけてあげたりしたのだが、今日はしないと決めていた。

　門を開ける音がした。夫が戻ってきたのだ。鍵を乱暴に開け、夫が玄関に倒れ込んだ。どこかで転んだのか、ズボンは泥だらけだ。家について安心したのか、高らかにいびきをかいている。毛布をかける気も起きず、そのままにすることにした。
　私は、冷めた気持ちで彼をみおろしながら、先日、友人に言われた言葉を思い出していた。
「離婚は簡単だけど、彼の良いところもあるから。一度、ふたりで楽しかったこと、いい思い出だけを語ってみては？　私も、それで彼を見直したよ」
　明日は土曜日だし、酔いが醒めたときに、試してみようかと思った。

　翌朝、玄関で目が覚め、驚いた声で彼が起きてきた。
「あれ？　こんなところで寝てたんだ」
「そうよ。全然覚えてない？　私は、もう寝ていたけど」
　彼は、ズボンの泥を手ではらいながら言った。
「どこで転んだんだろう？」
　私は、少しいらだった声で言った。
「早く、洗濯物のところに置いてきて。泥が、部屋にあがってしまう」
「ごめん、すぐに洗うよ」
　酔いが醒めた彼は、穏やかで優しい。私は勇気を出して切り出した。
「もう、お酒を飲むのをやめてくれない？」
　彼は、ふいをつかれたように黙ったが、静かに私を見て言った。
「迷惑をかけてごめん」
「もう、疲れたの。私が家を出て行ってもいいのよ」
「いや、待って。そんなこと言わないで。必ずやめるから」
　私は、少し優位に立った気持ちになった。悪くない感情だ。
「今まで、二人でいて、楽しかった思い出を一緒に考ない？」
「たとえば？」
「ふたりでユニバーサル・スタジオにいったよね」
「楽しかったな。帰りは人が多くて、地下鉄に乗ってたらスリにあったよなあ」
「そうよ、警察に行って、二時間待たされたよね」
「ユニバーサルの乗り物より、待たされたね」
　この話題は、やめよう。ネガティブな方向に会話が進む。沈黙が流れた。
「ほら、うちの黒猫飼い始めたときのことを覚えてる？」
「子猫だったよね。可愛かったなあ、あんまり小さくて、一度踏んでしまったことがあったな」
「何ですって？」
「もちろん大丈夫だったよ」
「当たり前でしょう。どこをふんじゃったの？」
「しっぽかな。ぎゃ、と鳴いて一メートルくらい飛び上がったよ」
「かわいそうに」
　また、話は途切れた。駄目だ、話題を変えよう。
「そういえば、こないだ、テレビで、お蕎麦屋特集しててね、私たちが行った青梅のお店が出てたよ」
「あそこは、静かでいいところだったよな」
「店長、素敵な人だったよね。この前の山火事の被害がなければいいけど」
「わあ、今、スマホで調べてたら、店長は行方不明でお店も全焼したみたい」
「それは、哀しいな」
　沈黙が続く。どんな楽しいことを思い出しても、悲しいできごとになってしまう。
力が抜けて、笑えてきた。お酒を飲んだことくらいで目くじらを立てているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。それどころか、何のことで怒っていたのかすら忘れてしまった。

「泥だらけの体を洗ってきたら？　あったかいお茶をいれとくから」
　
　

コメント(2)

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[1] mixiユーザー 05月05日 22:28

なんてリアルな！と思いました。身内に、酔っ払っていろいろやらかしちゃった人います。誰かに心配をかけるのは罪だなと思いました。共感を呼びやすい設定だなと思いました。状況や程度は違えど、こういう配偶者への不満は、結婚あるあると言ってもいいかもしれない？
そして、どんな話をしても残念な方向にいってしまう展開。これがなんとも言えない哀愁とかおかしさを醸し出していて、好きです。
私だったらここで、ずーんと沈むだけだと思うんですが、そこで笑える主人公の女性は根が明るくて朗らかな人なんだなと思いました。そういうラストに温かさを感じました。短い文章の間に、いろんな感情を綺麗に引き出す展開で、すごいなぁと思いました。

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