半蔵門かきもの倶楽部コミュの第七十四回　みけねこ作　『桜の丘』

　東京では桜が咲き始めたというニュースが毎日のように流れている。コロナウイルスの感染を防ぐために、花見禁止令が出ている。桜の花の下で酔っぱらって騒いで何が楽しいんだろう。

　ぼくは、大学生のときに過ごした地方の町に来ていた。この町は、妻の故郷でもある。妻の母親が骨折して入院したというので、東京からお見舞いに来たのだが、思ったより元気そうだった。ぼくは、することがなくなったので、散歩でもしてこようと思った。
「お母さんが元気で良かった。ちょっと散歩してくるよ。本屋でも行こうかな」
「気を付けていってきてね」
　妻は、私の顔を心配そうに見た。
「大丈夫。暗くなる前に戻ってくるから」
　ぼくは、コートを羽織り、マフラーを巻いた。
　妻は大学の同級生で、学生のときからの付き合いだった。卒業して東京の会社に就職してすぐに結婚して、今は、五歳の娘がいる。

　三月の半ばになっていても、この地方にはまだ春は遠かった。残雪が残る山から冷えた風が下りてくる。それでも、青い空が広がり、太陽が雪の表面を輝かせ、季節を塗り替えようとしているのがわかる。ぼくは、この時期が好きだ。
　東京に暮らしているときには、こんなに春が待ち遠しいものだとは思わなかった。来月になれば、桜が満開になるだろう。
　ぼくは、散歩をしているうちに、小さな丘に向かっていた。隠れた桜の名所として地元では有名な場所だ。桜が満開になると、丘を埋め尽くすように桃色に覆われる。今は、まだ群生する桜の枝が寒そうに震えているだけだった。
　
　ぼくは、桜の木の下にある大きな石に座った。切り立った崖になっていて、後ろは、土の壁になっていた。ぼくは、土の壁にもたれた。背中がひんやりとした。
　軽く腕を伸ばして、深呼吸をしていると、足音が聞こえてきた。音がするほうを見ると、女性が一人で歩いているのが見えた。

（続く）