半蔵門かきもの倶楽部コミュの第七十三回　あつし作「節分の白い兎」（手袋・雪・投票）

「シャバーサナ屍のポーズ」
ヨガ講師である余儀の声が響く。ここは東京中野にあるヨガスタジオ《パレスサイド》だ。

「足を自然に投げ出し、手は楽なところに置きます。頭も顔もリラックスして脱力し、マットに沈み込んでいくような感触を感じてください。すべての努力を手放し、屍のように横たわります」

（ああ、本当に死にたいくらい…。でも死んでるどころじゃないよぉ）

都には、週明けの月曜日にあるプレゼンの出来が気になって仕方なかった。この1ヶ月残業を重ね、チームで練り上げ作り上げてきた内容だから、負けるわけにはいかない。都は広告会社のマーケティング部門に所属している。クライアントに向けたこの夏の販促プランの提案だ。大きな予算が動く得意先への提案ということで、社内2チームで競合プレゼンをすることになっていた。社内投票の結果、良かった方が採用される。都は一方のチームのリーダーに指名されたのだ。

（プレッシャーだぁ）

強張った身体を横たえながら、都は少しでも楽しいことを考えようと、思い出したのは昨日のことだった。

昨日は、東京では珍しく朝から雪が降り、夕方には一面真っ白になるほど積もっていた。残業続きで溜まったストレスを発散しようと、学生時代からの親友・友香里と順子を声をかけ食事に誘った。今日はお昼だからお酒は無しにしようねと始めたのだけれど、気づいたら3人でワインのボトルを2本も空けていた。まだ3時だよ、またやっちゃったねえなんて言いながらふらつく足で神社の前を通りかかった時だ。いきなり何かが飛んできた。

「鬼は外、福は内」

足元に投げられた豆を見ながら、3人は思わず声を揃えて叫ぶ。
「イヤー、そんなの節分じゃない！」

「恵方巻食べてる時はしゃべったらあかん」「投げるのは落花生ずら」「たわけ、鬼は外なんて言っちゃいかんがや」
3人とも普段は出ない方言が飛び出す。

京都出身の都は、豆まきをしてる男の子が食べかけの恵方巻を手にしているのが我慢できない。恵方巻は食べ始めたら、しゃべったりせず一気に食べきる習わしだ。関西から全国に広がった風習だけに、絶対に守らせたい。

雪深い長野では、雪の上でも拾いやすいように大豆ではなく落花生を用いる。食べ物を無駄にするなんてもったいない。順子は許せない気持ちで、豆を拾おうとするも雪に埋まって上手く拾えず地団太踏む。

子どもの頃、節分は名古屋・大須観音にお参りしていた友香里に「鬼は外」は禁句だ。大須観音は名古屋を代表するお寺で、寺宝は伊勢神宮から送られた鬼面だからだ。節分には、「福は内」のみをひたすら繰り返す。

「さあ、今年の恵方を向いて」「みんなも拾ってください」「本当に鬼は悪くないのよ」
口々に言い合っていた3人の視線が、か細い少女の後ろ姿に引き寄せられる。

社殿に向い頭を下げ、ぶつぶつと何かを必死に祈る。永遠に続くかと思われた祈りのが終わると、雪に足を取られながらふらふら参道を歩いてくる。長い手足を黒いロングコートとブーツに包み温かそうにしているが、手だけが雪のように白く寒そうにのぞいている。
「あら、あの子じゃない」3人で顔を見合わせる。
先日困っていたところを、無理やりヨガ教室に参加させ助けた少女だった。美少女と言える端正な顔立ちを、困り顔で固めている。
どうしたのと3人で駆け寄ると、大切な手袋を無くしてしまったのだと声を震わせる。うさぎを模して親指以外の4本指が一つになったもので、地元の友達にプレゼントされ大切にしていたのだと涙を落とす。この神社に来るまでは確実に手袋をしていて、豆まきをして帰ろうとしたら無いことに気づいたのだ。この神社のどこかに落としたのは間違いなく、一生懸命に何度も探したのだが見つからない。見つかりますようにと神様に祈ってもみたのだが…。
その後、3人も加わってもう一度探したのだけれど、やはり見つからない。少女は肩を落として、帰って行った。

少女は今日もヨガ教室に参加している。今回も無理やり誘ったのだ。友香里も都ももちろん参加している。というか、余儀のクラスに参加しているのはいつも3人だけだ。少女をいれれば、生徒は4人ということになる。クラスが始まる前のだべり時間、余儀には落ち込んでいる少女の事情を離した。
「それは大変ですね。でも必ず見つかりますよ」
いつものごとく、だらしのない笑顔で余儀が根拠の無いことを言う。

（あぁ、いけない。ヨガ中だった）　都は現実に意識を戻される。

「ゆっくり指を握ったり広げたりして、力を取り戻してください。身体の右側が下になるように横になり、膝を抱くようにして小さくなってください」
赤ちゃんに戻ったような気がして、都はこのポーズが好きだった。

「目を瞑ったまま、ゆっくり胡坐をかいて坐りましょう」
余儀の低い声が心地よい。

「少しの時間ですが、瞑想しましょう」
都は気づいていなかったが、束の間、仕事のことをすっかり忘れていた。

「嫌なことがあると、つい遠ざけよう見ないようにとしてしまいます。すると却って気になってしまうことがあります。ヨガではすべては根っこでは繋がっていて、一つだと考えます。嫌なこともがあっても、あえて自分の内に取り込む、同一化するようなイメージを持ってみてください。不思議と気にならなくなります」

（同一化する…）
都の中で何かピンと来るものがある。でも、それが何だかはっきりと分からない。

「自分の内側に視線を向けてみましょう」

余儀の声が遠のく。そうか！都の中ではっきり映像が浮かぶ。
「分かったわ、もう一度探しに行きましょう。あなたの手袋って、白色でしょ」
都は瞑想をやめて胡坐を解くと、少女に近づく。
「そうですが…」
「雪と同化してるのよ。境内に雪で真っ白になっている所があったでしょ。あそこに落としたのよ。さあ、行きましょう！」
都は少女の手を取ると、スタジオの外に出ていった。

「ありました！」
ヨガスタジオの1階にあるカフェ《パレスサイド》に入るなり、満面の笑みで少女が言う。都も自分のことのように嬉しい。少女の笑顔を見たのは初めてかもしれない。
手袋は本当に雪の中にあった。うさぎの目と口はついているものの、それ以外は真っ白だ。手袋を見つけよう見つけようとした時には見えていなかったものが、同化しているかもと思いながら探すと不思議と見えてきた。余儀が言ったこととは逆なのかもしれないが、ヒントになった。

「ヨギーって、実はすごいのかもね」都はおっとり言う。
「だろ、だから言ったじゃん」余儀びいきの友香里が乗っかる。
「そうかなぁ、考え過ぎでは…」順子は常識派だ。

「あのぉ」矢継ぎ早の3人の会話に思いつめた顔で、少女が切り出す。
私…と言いかけたその時、カフェの前を余儀が大きなリュックを背にして横切る。
都は両手を合わせ、小さく頭を下げる。クラスを途中で抜け出した謝罪のつもりだが、表情は朗らかだ。友香里は振り返って頭の上で両手を大きくクロスさせる。順子は手に持っていたコーヒーカップを置くと、体の前で右手を小さく振る。
余儀はにっこり笑い、さ・よ・う・な・らと口を大きく動かして応える。みんなが笑顔の中、少女だけが恨めしそうにしていた。