半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六十九回　　JONY作　「掌から砂が」　（テーマ選択『せんたく』）

　異世界転生。俺にとって興味も読書経験もない分野だが、それが、ある日、自分の身に起こった。異世界といっても、ほぼ全てが、現実世界通り。ただ一つ、村上春樹が存在しないということを除いては。
　始まりは、俺が自分の店でやっている読書会で、
「まるでノルウェーの森のミドリだね」
と言ったら、そこにいる全員がポカンとしてしまい、一人の若い男が、
「Jさん。それは、北欧の作家の小説ですか」
と訊いてきた。世代ギャップもここまできたかと思い、
「村上春樹だよ」
と言えば、全員が再び、顔を見合わせる。
　皆で示しあわせて俺をからかっているのか。俺は、スマホをデニムパンツのポケットからだして、ウィキで『ノルウェーの森』を検索すれば「ビートルズの楽曲」としてしか、でてこない。慌てて、『村上春樹』を検索すれば、「村上龍」「村上虹郎」「村上隆」「村上信五」と出てきても肝心のハルキは出てこない。どうなっているんだ。俺の頭がどうかしてしまったのだろうか。その日の読書会は、村上春樹のことが気になり、集中できずに上の空で終わった。
　翌朝、目が覚めて、昨日の記憶が蘇ると、俺はベッドサイドテーブルの上を探ってスマホを引き寄せ、ベッドに横になったまま、自分のクラウドの『自炊』のPDFファイルのフォルダーを開いて、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」のファイルを開き「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。」で始まる小説が無事に保管されているのを、確認し、やはり、昨日の出来事は夢だったんだ。または、皆にからかわれたのかと思い、自分の部屋の本棚にあるまだ自炊していない「騎士団長殺し」などの数冊のハルキ本を探したが、それらを置いておいたはずの場所には、外の本が並び、隅々まで探しても村上春樹の小説は１冊も見つからなかった。俺は慌てて、再びスマホを取り出すと、「村上春樹」を検索してみた。結果は昨日と同じく全くヒットしなかった。では対談集はどうかと調べても、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』や柴田元幸との『本当の翻訳の話をしよう』を含めて、やはり１冊も出てこなかった。ナカムラクニオや６次元を検索しても村上春樹に関することだけが抜けていた。手の込んだイタズラでないとすれば（どうやってこんなイタズラができるのか考えもつかないが）、俺の頭がどうかしてしまったのか、村上春樹のいない世界に紛れ込んでしまったかだ。
　俺はベッドから出て、服を着替えて、千代田図書館の開館時間を待ち、実際に図書館に行ってみた。ネットでの千代田図書館のサイトの蔵書検索では作者欄「村上春樹」は「該当なし」だったが、それだけでは諦めきれず、図書館のあの棚にぎっしりと詰まっていた村上春樹の本はどうなったのか、この目で確かめたい衝動が抑えられなかったのだ。行ってみて驚いた。村上春樹の棚そのものが無くなっていた。ついでに、過去の新聞を閲覧したが、村上春樹のノーベル文学賞候補になった話題や、新刊が本屋に山積みになり徹夜で読む会などの現象もきれいに消えていた。
　こういうのをパラレルワールドと言うのだろうか。この世には、何億もの平行世界が存在し、それぞれが少しだけ異なっているという話を聞いたことがある。俺は村上春樹のいないパラレルワールドに迷い込んだのだ。
　俺は千代田図書館の地下駐車場から車で外にでると皇居前を日比谷方向に走り、この村上春樹のいないパラレルワールドが、俺の記憶にある世界とどこか違うところがないか、観察した。いつの間にか銀座４丁目の交差点を築地に向けて走らせていた。晴海通り沿いのどの店も見覚えのあるままだった。どこも違いはない。だが、俺以外のすべての人の記憶には村上春樹はいない。この世界の村上春樹氏に会ってみたいと一瞬強く思ったが、彼がどこに住んでいるのか知らなかった。俺は豊洲を超えて湾岸を右折し、お台場海浜公園のわきに車を停めて人工の浜に出た。もう時間は昼近かったが砂浜に人影はまばらだった。俺は砂の上に腰を下ろした。誰かと話したくて、ポケットからスマホを取り出し、Lineの友達欄をスクロールする。この中の誰一人として、村上春樹を知った人間はいないんだと思うと、この世界で自分一人だけが孤立した寂しさを感じざるを得なかった。水上バスがレインボーブリッジの下を行き来するのをぼんやりと眺め、掌からサラサラと落ちる砂の様子を見ているうちに、ある考えが俺の脳内で形になってきていた。俺は、立ち上がると、急いで車に戻った。
　部屋に帰ると、パソコンを立ち上げ、自分のクラウドから、『風の歌を聴け』を探し出して開いた。「『完璧な文章といったものは存在しない。完璧な絶望が絶望が存在しないようにね』僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。」で始まるこのステキな小説は、ちゃんと最初から最後までそこにあった。作者自身が作品の一部として描いた変なTシャツの絵も含めて。これは村上春樹が群像新人文学賞を取ったデビュー作だ。賞の応募枚数制限は当時も現在も同じなので、この作品をコピペして送れば、群像新人賞が取れる。ただ1979年と2020年では４０年のタイムラグがあるので、あまりにアナクロなところだけ修正すればいい。いきなり、『海辺のカフカ』を送っても読んでももらえないだろうし、作品に現れる前の作品の影響というものを考えれば、やはり最初に、『風の歌を聴け』でデビューしないとダメなのだ。俺は、今年の10/15の締め切りに間に合うようにWordにコピペし、最小限の修正を加えてWebで、応募した。
　村上春樹なきこの世界で、俺が村上春樹になってやる。

　下読みの〇山

男氏は、１０年前に新人賞を取り、その受賞作のほかには、１作だけ１００部買取を条件に本を出してもらったことのある「作家」である。新人賞を取った当時は有頂天になり、中学の国語教師の仕事もやめて創作に集中しようとしたが、妻に涙ながらに止められて退職を断念した。今では彼も、退職を止めてくれた妻の世間知に内心感謝している。彼は休日は１６時間、平日も職場から帰ってから夜中の１時まで毎日創作を続けているが、最近は出版社の受付に持込原稿を届けに行く間隔も間遠くなっている。担当編集がいるにはいるが、１作ごとに〇山の才能の無さが明らかになるようで、厳しく叱咤してくれていた最初のころとは違い最近は優しく気を使ってくれるようになってしまったのが、辛い。
そんな彼に、今年も講談社から、群像新人文学賞の１次選考の依頼が来た。彼に割り当てられた５０作のうちから、５作程度を残して二次選考に回す仕事だ。〇山は、自分に課された使命は、大衆読者を満足させられる面白い作品を書ける才能を発見することと思っている。逆に一人よがりの芸術めいただけの作品はどんなに新たな試みでも「大衆を満足させるプロとして通用するか」を峻別するこの審査では落とすべきと思っていた。何作か読んだ後、『風の歌を聴け』という原稿を読んだ。その感想は、彼の選考記録ノートにメモされていた。「『風の歌を聴け』: 所々引き込まれる箇所はあるが、小説としてまとまっていない。作者の描きたい事を羅列したものに過ぎないという印象。第一、このデレク・ハートフィールドというのは、一体だれだ？知られていない作家を作品中に登場させるのは読者に不親切なこと極まりない。」
最後までボツにするのは躊躇われたが、〇山の『せんたく』基準では、起承転結のハッキリした、セオリーどおりの、泣かせ笑わせハラハラさせる解りやすいドラマのような作品が勝ち、結局、『風の歌を聴け』は、二次審査に回ることはなかった。
（終わり）