半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六十七回　みけねこ作『丘の上』

　月の綺麗な夜だった。蛙の声が響いている。寝返りを打つたびに、シーツが音を立てる。
なかなか寝付けなかった。それもそのはずだ。道に迷ってしまったぼくは、見ず知らずの家に泊めてもらうこととなったのだから。中学教師のぼくは、植物採集が趣味だった。都内から車で二時間ほどの距離のR県のK沼のほとりを歩いているうちに、道に迷ってしまい、この家に辿りついたのだった。

　K沼は、一級河川の支流に含まれる小さな沼だった。総面積は三キロ平方メートルあり、いくつかの川が集まっているので、形はいびつだった。ぼくは、水辺公園の駐車場に車を停め、沼の周りを歩いていた。いびつな形のため、観光地化されず、沼の周りは自然が残っていた。植物採集が目的だったぼくにとっては、宝の山のような場所だった。
　しかし、誤算があった。一周すれば元の場所に戻れると思っていたが、川が集まって、星のような形をしているこの沼は、小さな橋がたくさんあり、橋を渡っているうちに駐車場のある公園から離れていってしまった。迷っているうちに、スマホの充電もなくなり、ナビ機能が使えなくなったので、自分がどこにいるのか、まったくわからなくなってしまったのだ。
日が沈み、真っ暗な道を迷いながら歩いていると、少しレトロな雰囲気の洋館にたどり着いた。ぼくは、電話を借りようと思い、小田という表札のそばのインターフォンを鳴らした。この家に住んでいたのは、優しそうな老夫婦だった。
水辺公園までは歩いて戻れないから、泊まっていきなさいと言ってくれ、二階の部屋で休ませてもらうことになった。スマホの充電をさせてもらったおかげで、妻に、明日戻ることを伝えることができた。ほっとしたが、体は疲れているのというのに、どんどん目が冴えてきて眠れなかった。

　この部屋には、女の子が住んでいたのだろうか。古い学習机にはキャラクターシールが貼られ、電気スタンドは埃をかぶっていた。しばらく部屋を使っていないようで、少しカビ臭かった。もう、結婚して家を出ているのだろうか。陽に焼けたカーテンが年月を感じさせていた。窓からは、沼が一望できた。反対側の岸には、点々と車のヘッドライトが動いている。水辺公園へ続く道があるようだ。老夫婦に、今夜、歩き続けてもたどり着けないと言われた意味がわかった。
仰向けになると、ガラスの傘をかぶった照明があり、中に、小さな蜘蛛の巣があった。それを見ていると、催眠術にかかったように眠くなってきた。

　夢を見た。少女が小さな花束を持っている。湖に投げようとするが、葦が生えていて届かない。少女は、大きな目でぼくをじっと見た。ぼくは、体を低くして少女に手を差し出した。
『貸してごらん。ぼくが投げてあげるよ』
　花束を受け取ろうとしたとき、目が覚めた。

　腕がちくちくする。頬には、小さな枝が当たっていた。頭上の木の枝の隙間から太陽の光がさしこみ、蝉がじんじん鳴いている。ゆっくりと起き上がった。ぼくは、沼に迷い、そのまま林の中で一晩を明かしたようだ。小田さんの家だと思っていたが、夢だったのだろうか。
　体についた枯草をはらい、立ち上がった。坂道を下ると、老人が杖をつきながらこちらに向かって歩いている。ぼくは、一礼し、彼に尋ねた。
「すみません。この辺に小田さんという家はありますか？」
　彼は、怪訝そうな顔をした。
「小田？　ああ、あんたも見なさったか」
「見たと言いますと」
「あそこに、家はないんじゃ。というより、なくなった」
　ぼくは、驚きのあまり、体が小刻みに震えた。
「じゃあ、ぼくが泊まったのは……」
　彼は、その質問には答えなかった。
「あんた、花束を湖に投げたりしなかった？」
　ぼくは、身震いした。
「いえ。女の子が沼に花束を投げようとしている夢は見ましたが」
「投げなかったから無事だったんじゃな」
「投げてたら？」
「沼に浮かんどったじゃろうね。月が綺麗な夏の夜、何かの条件が重なると、あの場所に家が現れるらしい。そこに泊まって、花束を投げる夢を見て、何人かは溺れかけてるんじゃ」
「なんですって？　あの沼のほとりで何かあったんですか？」
　彼は杖を持ちながら、そばにあった石に腰かけた。
「あの場所は、沼の中で不思議な位置にあってな。岬のような形をしとるんじゃ」
「ここは、複雑な沼の形ですね」
「その昔、あの場所には、城があってな」
「あんなに狭い場所に？」
「東の川岸の山内氏、西の川岸の神崎氏が敵対していて、戦が止まらなかったそうじゃ。そのときに、この岬に、小田氏が小さなお城を立てたんじゃ。どちらの陣地も見渡せたから、両方にスパイになると言い寄ってな」
「たしかに、見晴らしがいい場所ですね」
「そればかりか、小田氏は、川を占領して、船で行き来していた、山内氏と神崎氏は、橋を渡って回り道をしないといけなくなった。それを不満に思った山内氏と神崎氏に弓矢で攻められ、あっけなく陥落した。そのとき、幼い娘だけが生き残ったんじゃけど……」
「でも。昨日泊まった小田家は、ちょっと古いけど、現代の家でしたよ」
　老人は、額の汗をタオルで拭いた。
「生き残った小田氏の娘の子孫が立派なお屋敷を建ててな。でも、何があったのか、その家に住んでいた夫婦が沼に身を投げてしまったんじゃ」
ぼくの足はがくがくと震えはじめた。
「娘さんがいたんでしょうか」
「そう。一人娘が、生き残ったんじゃ。そして、あの場所は忌まわしいからと家を解体して更地にしてしもうた。娘さんは、もう亡くなったらしいが、毎年命日に沼にお花を投げていたらしい……」
　これ以上、話を聞くのが怖くなった。ぼくは深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます」

　老人と別れ、アスファルトの道を歩く。昨日、ぼくは、疲れて葦の群生する土の上で寝てしまい、夢を見ただけなんだ。怖くなんかない。
　それより、早く車に戻ってスマホを充電しないと。妻が心配しているだろう。ぼくは、ポケットからスマホを取り出した。

　空になっていたはずのスマホは充電されていて、通話履歴には、昨夜、妻に連絡をした形跡が残っていた。